通訳が来ない。10億円の契約はどうなるんだ。旅館の女将、立花カナが悲痛な声をあげる。山合の温泉旅館・立花屋は代々受け継がれてきた温もりある宿。しかし時代の波に押され、客足は年々落ち込み、このままでは経営が危ぶまれていた。そんな中、海外VIPから10億円規模の投資話が持ち上がり、一気に再生へと踏み出すチャンスを掴んだのだ。ところが、その大事な日に通訳が来ない。投資家はすでにこちらへ向かっているというのに、館内には緊張と絶望感が入り混じった沈黙が広がる。誰かが口を開くたびに、ガラガラと崩れていく未来が見えてならない。
「この契約がなければ、うちは終わりよ」
まるで糸が切れたかのように、カナがうなだれる。周りも「終わった」という表情だ。旅館が潰れれば、従業員は食を失い、数百年かけて培われてきた伝統も一瞬で消え去る。
「だったら、俺がやります。通訳」
その沈鬱な空気を、俺の声が鋭く貫いた。驚いたように振り返るスタッフたち。だが、運転手の俺を誰も真剣に見ようとしない。
「なんだと? お前、高が運転手のくせに通訳なんてできるわけないだろう。いいから大人しく車でも磨いてろよ」
旅館の社員が嘲笑うように吐き捨てる。周囲も「そりゃ無理だろ」という空気だ。しかし、俺の姿を見た海外VIPは、然とするのだった。
「あなたが、なぜこんなところに?」
それもそのはず。運転手は仮の姿。本当の俺の正体は?
俺の名前は相川健人。30代半ば、山合にひっそりと佇む温泉旅館・立花屋で専属運転手を務めている。聞こえは地味かもしれないが、この仕事には不思議なやりがいがあるんだ。朝、まだ霧の残る山道を滑るように車を走らせる時の静寂感。夜、疲れきった客を安全に宿へ送り届ける時に感じる安堵。運転席から見える風景や、ハンドルを握る手に伝わる車の振動、一つ一つが俺にとっては大切な仕事の手応えと言っていい。
この旅館には毎日様々な客が訪れる。家族連れ、夫婦、気ままな一人旅。中には高齢の方も多いから、俺の運転で不安な思いをさせないよう、いつも万全の心構えでハンドルを握っている。無事にお客さんを送り迎えするたびに、女将の立花カナさんから「いつもありがとう」と言われると、少し胸が温かくなる。古い木造建築と情緒ある露天風呂が売りの立花屋。俺はここには、掛け替えのない温かさや、どこか懐かしい日本の原風景が残っていると思っている。そんな場所で働けるなら、仕事の役割が運転手であろうと、俺はそれだけで十分だ。経験や肩書きよりもしみじみと手応えを得られる暮らしを、今は大事にしたい。
とはいえ、このところ「駅から旅館までのアクセスが大変」という高齢のお客様の声を耳にする機会が増えた。俺は運転手として日々送り迎えをしているからこそ、交通の不便さに悩む方の多さを肌で感じる。どうにかして旅館の魅力を生かし、もっとスムーズに来てもらえないか。そんな風に思い、先日こんな軽い気持ちでカナさんに提案してみたのだ。
「女将、もしよかったら平日限定でもいいので、無料送迎バスとか送迎付き日帰りプランを検討されてはどうでしょう? 駅からの直通なら、荷物の多いお客様やご年配の方もより来やすくなるんじゃないかと」
カナさんは「へえ、そんなやり方もあるのね」と言いながら、少し興味を示してくれた。いつも微笑みを絶やさない彼女だが、旅館の資金繰りに苦労しているという話は小耳に挟んでいる。俺のような運転手が口を挟むのはどうかと思いつつ、少しでもこの宿のためになればと思ってのことだ。
「ただ、実際に運行となると人手や経費の問題もあるし、簡単じゃないわよね。でも、何か新しいアイデアが出るのはありがたいわ」
カナさんはそう言って微笑んだ後、「とりあえず手が空いた時に一度試算してみるわ」と前向きに受け止めてくれた。
午後の日差しが中庭に差し込み、俺はワゴン車のタイヤを点検していた。すると、誰かがこっそり裏手に回り込んできた気配がした。嫌な胸騒ぎを感じながら振り返ると、案の定、営業企画を担当するスタッフの追川俊が立っていた。
追川はこの旅館の経理係からスタートし、旅館の経営に役立てようとファイナンシャルプランナーの資格まで取得した人物だ。女将や他のスタッフからは頼れる男として重宝されているが、なぜか俺にだけはいつも底意地の悪い態度を取る。
「へえ、真面目に整備なんかしてるんだな。ま、運転手が車を動かせなきゃ意味ないからな。だけどさ、お前さ、ただ運転して給料もらえると思ってないよな」
含みのある口調に、胸がちくりと痛む。俺は「どういう意味ですか」と聞き返すのをこらえ、黙ったままタイヤの空気圧を確認する。すると追川は待ってましたとばかりに肩をすくめて言い放った。
「そもそもここは慢性的に人手不足なんだ。雑用ぐらいは進んでやってもらわないと困るんだよ。俺ら企画営業班は日々走り回ってるし、中井さんたちだって休む暇もない。お前、車に乗ってる時は大半が待機時間だろ」
確かに、お客さんの送り迎えがない時間帯は手が空くこともある。それでも運転手には何かと準備や確認作業があるのだが、追川はそんな事情を全く理解しようとしない。彼は辺りを見回して他に誰もいないことを確認すると、さらに声を潜めてくる。
「まあいい。ちょうど手の開いてるお前に押し付けたい仕事が山ほどあるんだよ。ほら、やっておけよ」
そう言うが早いか、追川は汚れた雑巾やら掃除道具やらを突きつけてくる。内廊下の床拭きだの、倉庫に山積みになった段ボールの整理だの。本来は清掃担当や他のスタッフが分担してやるような仕事ばかりだ。
「運転手の仕事が暇なら、こういうところで稼いでくれよう。少しは役に立つところ見せないとな。大体、お前さ、女将に直接提案なんかしてるんだろう。高が運転手が一丁前に、笑わせるぜ。運転するしか脳がない奴は、黙って言われたことだけやっておけよ。無駄口叩かないで手を動かせ。お前の価値を示すには、それしかないんだから」
悔しさが込み上げるが、周囲に波風を立てたくない俺は押し黙ったまま雑巾と掃除道具を受け取る。
「承知しました」
そう言うと、追川は唇の端を吊り上げてニヤリと笑い、「きっちり働けよ」と捨て台詞を残して去っていく。その足音が遠ざかっても、胸の奥には嫌な重みだけが残った。俺は雑用道具を抱えながらワゴン車に目をやる。どれだけ見下されようと、俺は自分の仕事を誇りに思っている。いつかこの宿にとって運転手であることがどれほど大切かを、行動で示すしかないと心に決めた。
数日後、女将のカナさんが疲れた表情で廊下を歩いているのを見かけた。ちょうど早朝の送迎から戻り、俺は荷物を整理していたところだ。いつもは快活な笑みを絶やさない彼女が、どこか元気を失っている様子に胸がざわつく。顔を上げると、カナさんも俺に気づいてかすかに微笑んだ。
「お疲れ様。朝早くから大変ね。あの、ごめんなさいね。最近ちょっと暗い顔ばかりで」
弱々しいその声に、心が痛む。どうもここ最近の予約数や売上が伸びず、しかも施設の老朽化に伴うメンテナンス費用がかさんでいるらしい。詳しいことは俺も把握してはいないが、少し前からファイナンシャルプランナーの資格を持つ追川が色々と経営面の提案をしていると聞いていた。
「やっぱり先立つものがなきゃ、旅館って回らないのね。設備を新しくしたいとは思うんだけど、お金は限りがあるし」
カナさんはそう嘆いて目線を落とす。俺は答えに詰まった。もちろん心の中では何か力になりたいという思いは強い。だけど、俺がどこまで踏み込んでいいのか。そんな中、タイミング悪く背後から軽やかな足音が聞こえてきた。追川だ。
「女将、こないだの書類読みましたか?」
いつもの平坦な態度を崩さず、追川はカナさんに向かって契約書類らしきものを掲げる。彼はFPの資格を持ち出して、旅館の資金繰りを改善するという名目で様々な金融商品や投資プランを提示しているらしい。その内容自体が悪いわけではなさそうだが、聞くところによると、どうやらかなり強引な提案も含まれているようだ。
「例えば、リースバックを利用して旅館の建物を一時的に売却し、運転資金を確保するって方法もあるんですよ」
「土地や建物の所有権を一度手放してもいいんですか?」
「女将が気にされてるみたいですけど、結局手元にキャッシュを増やさなきゃ始まらないでしょう」
追川の言葉は一見もっともらしく聞こえるが、俺の直感は警鐘を鳴らす。たとえ一時的に資金が手に入っても、旅館の所有権をよそへ渡してしまうのはあまりにも危険だ。カナさんもそれは承知のようで、困ったように眉をひそめた。
「うーん。一時しのぎの資金繰りができても、その後どうなるかが心配で。うちみたいにずっと昔から守られてきた場所を、簡単には手放したくないんです」
追川の提案があっても、カナさんはどうにも踏み切れずに悩み続けていた。彼女は社長という立場ではなく、女将だ。伝統を守りたい気持ちと、時代の流れに合わせて変化しなければならないという現実との板挟みに苦しんでいるようだった。
翌朝、俺は意を決して出勤前にカナさんに声をかけた。
「女将、ちょっとお話いいですか?」
彼女は忙しい朝の支度を手早く片付けながら、俺の方に顔を向ける。いつもと変わらずニコリと笑う彼女に、俺も少しだけ勇気をもらうようにして言った。
「うまく言えるか分かりませんが、インバウンド客、海外からのお客さんを増やすのはどうでしょう? 最近、外国人観光客が日本の文化を体験したいってことで、地方の旅館まで足を伸ばすケースが増えているみたいです。もし立花屋を海外向けにアピールできれば、新たな顧客を呼び込めるんじゃないかと」
一瞬、カナさんが驚いたように目を見開く。きっと俺がそんな提案をするなんて想像していなかったのだろう。運転手がしゃしゃり出て何を言っているんだと呆れられても仕方ない。でも彼女は違った。すぐに表情を柔らげて、「海外のお客様か」とつぶやき、まるで新しい扉を見つけたかのように微笑んだのだ。
「それ、素敵なアイデアかもしれないわ。確かに山合の温泉って、外国の方にはとても魅力的だと思うの。今までそういう方向でPRすることはあまり考えてこなかったけど。ありがとう」
その言葉に、俺も胸が温かくなる。追川のように金融テクニックを駆使するのも一つの方法だろう。でも、それだけでは大切な何かを失うような気がしてならない。だったら、旅館の良さを生かし、新しい可能性を模索することに意味があるはずだ。俺はほんの少しだけ、自分がここにいる理由を見出せた気がした。
「なるほど。女将と温泉。しかも海外。これ、面白いかも」
カナさんは俺がまとめた海外向けの簡単な案内資料を手にして、そう言った。と言っても、俺が作ったのは手書きの英語の説明書きや、海外旅行客が好みそうな体験プランのアイデアを箇条書きにしたものだ。例えば浴衣の着付け体験や、囲炉裏を囲んでの共同料理会など。この旅館ならではの日本情緒を売りにしたらどうかという提案だ。
「私、英語はあまり得意じゃないから、どこまでできるか分からないけど。でも、こういう具体的なイメージがあると助かるわ」
「少しでも役に立てれば嬉しいです。今、外国人観光客向けの情報サイトやSNSも色々あって、無料でPRできるツールもあるみたいですよ」
「すごいわね、健人さん。運転手なのに、こんなに詳しいんだ」
「ま、まあ、興味があってちょっと調べただけです。ネットで検索すれば、意外と出てきますし」
カナさんはふふっと可愛らしく笑って、俺の資料を大事そうに抱え込んだ。
「ありがとう。これ、しっかり参考にさせてもらうね。私にもできる範囲で英語の勉強を少しずつ始めてみようかな」
その時はまだ漠然としたアイデアの種だった。しかし、海外からの集客という方向性が見えたことで、カナさんも一歩前に踏み出す勇気を得たように見えた。そして何より、彼女の表情に以前よりも明るさが戻ったのが嬉しかった。
それからというもの、カナさんは積極的に海外への情報発信を始めるようになった。俺の作った資料をもとに、旅館のホームページを英語で簡単にリニューアルし、SNSにも英語の投稿を増やす。さらには外国人向けの旅行サイトと提携し、体験プランを掲げて予約を受け付ける仕組みを整え始めたのだ。
「すごい。こんなに早く反応があるなんて」
館内で喜びの声をあげるカナさんに、中井さんたちも笑顔を見せる。それから数週間が経つと、海外からの予約はじわじわと増えていき、旅館の売上も少しずつ伸びてきた。もちろん全てが順風満帆というわけではない。言葉や文化の違いに戸惑う場面もあるが、カナさんは「ありがとうございます。皆さんのアイデアがなければ踏み出せなかったわ」と深く頭を下げてくれる。
だが一方で、俺は背後に感じる不穏な視線に気づいていた。そう、追川だ。彼は最近あまり俺に絡んでくることはなくなったが、時折、廊下の影から俺をじっと見つめているような気配がする。まるで「どうしてあいつが女将の信頼を得ているんだ」と言わんばかりに。そして、そんな追川の態度を裏付けるような出来事が後に起こるのだった。
ある夕方、館内に用事があって足を運ぶと、カナさんがとても嬉しそうに話していた。どうやら今月の売上が昨年同期を大きく上回り、客室の稼働率も伸びてきているらしい。特に海外の伸びが顕著で、口コミやSNSでの評判が広がり、次のシーズンの予約も好調だという。
「健人さん、本当にありがとう。海外のお客様を誘致するなんて、最初は難しいと思ったけど、やっぱりやってみるもんね。すごく評判がいいのよ。思ったより早く効果が出てくれて、少しほっとしてるわ」
そう言ってカナさんがにこやかに笑った瞬間、背後から聞こえた足音に思わず振り返った。追川だ。スーツをきっちりと着こなし、切れ者らしさを漂わせる彼の表情には、皮肉そうな笑みが浮かんでいる。
「へえ。女将、ご機嫌ですね。海外客か。まあ、一時的にブームになっているだけかもしれませんよ。実際、日本観光に来る外国人は増えているけど、いつまでも続くとは限らない。そんな先の見えないものに期待をかけるなんて、リスクが高いと思いますけどね」
その態度に、カナさんの眉がわずかに曇る。前ほど露骨に攻撃的な言い方はしなくなったが、その底意地の悪さは少しも変わっていない。俺も心の奥がざわめいたが、なるべく冷静を保つ。
「先のことは誰にも分からないですよ。ただ、何もしないよりはずっといい。リスクがあるからこそ、うまく対応すればチャンスにもなるんです」
そう言うと、追川はふっと鼻で笑った。
「ふん。まあ、お前も運転手の分際でよく口を出せるもんだな。いいよ、いいよ。どうせ女将はお前を頼りにしてるようだからな。だが、俺は俺でもっと実質的な方法を提示し続けますよ。いつまでもこんな小手先のやり方に頼ってるわけにはいかないんでね」
彼はそこで言葉を切り、わざとらしく背筋を伸ばすと、わずかに声のトーンを落として続けた。
「仮に今、旅館の経営が盛り上がってるように見えても、設備更新のための大きな資金が足りていない現実は変わりません。そろそろ決断するべきじゃないですか。僕の提案した投資プラン、真面目に検討した方がいいんじゃないかと。まとまった資金が入れば、施設の増設だって進むでしょう」
カナさんは言葉に詰まって視線を落とした。確かに海外客を呼び込んで売上が上がってきたと言っても、それだけで老朽化した設備を全て改善できるほど余裕が出たわけではない。投資を呼び込むという手段自体を完全否定することは難しいだろう。
「でも、それはこの旅館の形を変えちゃうような気がして」
「まあ、いずれ分かりますよ。ただの運転手よりは頼りになりますんで」
そう言い残し、追川は踵を返して立ち去った。その後ろ姿を見送りながら、カナさんは小さくため息をついた。
「どこからどこまでがいいのか、正直分からないわ。でも、やっぱり私は立花屋がずっと守り伝えてきた空気やぬくもりを壊したくないの」
ふと、カナさんが俯きかけていた顔をほんの少しだけ上げた。その目が夕暮れに染まる館内の明かりを受けて、かすかに揺れている。
「でも、健人さんがこうして気にかけてくれるから、私もまだ頑張れるの。最初はただ新しく雇った運転手さんって感じだったけど、あなたと出会って、私も一歩ずつ踏み出せてる気がする」
そうつぶやくカナさんの声は、弱さだけではなく決意をはらんでいた。彼女は続ける。
「実は私、元々経営とかお金の回し方とか、あまり得意じゃなかったの。代々受け継いできた旅館を守るっていうプレッシャーばかり大きくて。特に海外のことなんて、敷居が高いと思っていたから。でも、あなたにあんな風に『海外からのお客様を呼び込むのも手だよ』って言ってもらえて、見えない扉が開いた気がしたの。新しいことに挑戦するのって怖いけど、健人さんのアイデアやサポートがあるから踏み出せた。ちょっとずつだけど、私も女将として強くなれてる。そう思えるのよ」
心の内を明かすように紡がれる言葉に、俺の胸は熱くなった。カナさん自身も様々な苦労や葛藤を抱えながら、それでも一歩ずつ前に進もうとしている。
「いや、俺の方こそ何も大したことはしてないですよ。いつも迷惑かけてばかりで」
そう言いかけた瞬間、カナさんが柔らかく微笑みながら、ほんの少しだけ俺の腕に手を触れた。そのぬくもりが、まるで小さな火種のように心の奥で燃える。
「謙遜しすぎだわ。あなたがいなかったら、私は多分今もずっと閉じこもったままだったと思う。前を向くきっかけをくれて、ありがとう」
こんな風に面と向かって感謝されると、俺は不意に言葉を失った。ただ、一瞬でもカナさんが微笑んだ理由が自分の存在にあるのなら、それだけで十分に報われた気がする。
そんなある日の朝、俺はいつものようにワゴン車の点検を終え、館内へ向かっていた。すると、カナさんが興奮気味に言った。
「健人さん、ちょうどいいところに。実はね、海外からすごい話が来てるの。『グローバルツーリズムプロジェクト』ってところが、地方の温泉旅館や宿泊施設を対象に海外での宣伝や大規模な観光ルート作りをサポートするみたいで、なんとうちにも話が来たのよ。もし正式契約になったら、10億円単位の動きになるって」
10億円。にわかには現実味が湧かない額だが、それだけの大きな好機が立花屋に舞い込んだというわけだ。俺は「すごいですね」とつい、カナさんの興奮に同調したが、隣で腕を組んでいる追川の視線はどこか複雑そうだった。
「まだ話ははっきり固まってないし、正式な交渉はこれからですよ。それに舞い上がりすぎるのもどうかと」
相変わらず手厳しい。だが、彼が眉をひそめているのも無理はない。10億という巨額が動くとなれば、その分だけ条件や責任も重くなるはずだ。俺も含めて旅館のスタッフがこれをどう受け止めるか。そう簡単な話じゃないだろう。しかし、カナさんの瞳は期待に輝いていた。伝統ある旅館として長年培ってきた良さを守りたい。その一方で、目の前の大きな可能性を逃したくない。二つの思いが交錯しながらも、今はチャンスを掴みたいという気持ちが勝っているのだろう。
数日後、旅館内はざわついていた。例の海外案件を主導するVIPが、予想以上に早くこちらを訪問すると連絡が入ったのだ。予定では来月の頭に一度顔合わせがあるだけという話だったのだが、急遽らしい。「見たいと思ったらすぐに」というのは海外のビジネスパーソンにありがちなことだが、それでもこのスピード感は並ならぬ本気度を感じさせた。
「いいじゃないか。これは大チャンスだ。海外の偉い人がうちに来るんだって」
「10億円の話って本当なの?」
館内のスタッフたちも落ち着かない様子だ。普段は物静かなベテラン中井さんでさえ、「あら、やだ。こんな田舎の旅館にスーツ姿の偉いさんが来るなんて」と少しそわそわしている。カナさんは調理場で手早く資料を整理しながら、スタッフ一人一人に的確な指示を出していた。VIPを迎える部屋の準備、館内の清掃、そして食事の献立。普段以上に気を引き締めて挑むのは当然だろう。俺も送迎担当として空港への迎えを任される予定だったが、そこにはすでに通訳を含む数名のスタッフがつくと聞いていた。
「大掛かりになるからね。プロを呼ぶのが一番よ。それに、健人さんはいつも以上に旅館内のお客様の送迎があるでしょ。みんなが焦ってバタバタしてるから、通常の業務を念入りにお願いしたいの」
カナさんの言う通り、VIPの来訪が近づくにつれ、国内客の方も「何やら面白そうなことが起きるらしい」という噂を聞きつけてか、逆に宿泊の問い合わせが増えていた。俺は運転手としてさらに気合を入れてシフトをこなさなければならない。
そして訪問日。事前のスケジュールでは、海外VIPであるリチャード・ブラウンの到着が夕方、そして通訳として手配された青山さんが昼前に先に来るはずだった。リチャードの到着より早めに通訳が旅館に入ってくれれば、カナさんと直接打ち合わせをしてスムーズに商談を進められるはずだったのだ。ところが、昼が近づいても通訳の青山さんは一向に姿を見せない。電話やメールを何度送っても返事がない。
周りのスタッフはもちろん、カナさんも落ち着かない様子で館内を行ったり来たりしている。
「困ったわね。商談の時に事前に通訳さんと意思疎通を測っておきたかったのに」
カナさんの声は焦りを帯びていた。大きな契約の話が進むかもしれない場面で通訳不在という事態は、あまりにも痛い。資料の翻訳だってプロが監修してくれた方が安心できるし、当日の流れを一通りシミュレーションしておきたかったのだ。俺もまた、通訳と事前に少しやり取りができるなら、商談のポイントや旅館の強みをスムーズに伝えられると思っていたけれど、今の状況ではそれが叶わない。しかも、よりによってリチャードの到着時刻はもう迫っている。
「どうしよう。通訳が間に合わなかったら」
スタッフたちが口ぐちにそんな声を漏らし始める。すでに玄関やロビーはいつも以上に準備万端で、中井さんたちも着物姿での出迎え体制を整えている。カナさんも慌ててスマホを操作していたが、通訳の行方は依然分からずじまいだった。するとその時、リチャードの一行がもうすぐ旅館に到着すると連絡が入った。駅前から車で向かっているそうで、もはや時間の猶予はない。
すると、その静寂を破るように追川がわざとらしく肩をすくめながら口を開いた。
「だから言ったじゃないですか。俺は反対だったんですよ。運転手の提案で海外を呼び込むなんて無謀だって。ああ、それで結局どうするつもりなんです? 通訳が来なけりゃ、商談なんてまともにできないでしょう」
彼の声には明らかな嘲笑が混ざっていて、聞いているだけで胸の奥がざわつく。カナさんは少し俯いていたが、深呼吸して気を取り直したように顔を上げる。
「とにかく、このままじゃVIPを迎えられないわ。正式な通訳さんがいなければ、こんな大きな商談なんて無理よ。残念だけど」
この旅館にとって一世一代の大チャンスが、突然のトラブルで崩れ去るかもしれない。その危機感が館内に重くのしかかる。俺は決心するしかなかった。ぐっと奥歯を噛みながら、一歩前に出る。
「カナさん、俺がやります。通訳」
一瞬、空気が凍りついたように感じた。周囲のスタッフも「えっ」と驚いた顔をしている。カナさんが目を丸くしてこちらを見た。
「え、健人さんが? でも、そんな急に」
言葉に詰まるカナさんに、俺はなるべく落ち着いた声で返す。
「確かにプロみたいには行きません。でも、商談が頓挫してしまうのはもっと問題ですから」
覚悟を決めた俺の横で、追川が相変わらず嘲るように言う。
「はあ。お前、頭大丈夫? そもそも運転手が通訳なんて聞いたことがない。いきなり大事な商談を吹っ飛ばすリスクを抱えるつもりか?」
嫌みたっぷりな言葉に、カナさんの表情はさらに曇る。でも俺は構わず声に力を込めた。
「通訳が来ない以上、誰かがやるしかありません。俺にも足りないところはあるでしょうが、やるだけやってみます。少しでも失敗を減らせるように努力しますから」
追川は「ふうん。まあ、お前の無様な姿を高みの見物と行こうか」と薄笑いを浮かべたまま背を向ける。彼の姿が館内の奥に消えていくのを見送ると、カナさんと俺は深呼吸をして玄関へ向かった。大きく開け放たれた扉の外から、エンジン音が一際鮮明に聞こえてくる。VIPの到着だ。外は西日が少し傾きかけている。車のドアが開き、大柄な白人男性――そう、リチャード・ブラウンが現れた。その背後には数名のビジネスパートナーらしき人物も並んでいる。夕陽を背景にしたリチャードは、まさに海外の大物投資家というオーラを放っていた。
「立花屋へようこそ」
カナさんが緊張した面持ちで英語の挨拶をする。俺も隣で頭を下げつつ、必要があればすぐ補足できるよう構える。するとリチャードは笑顔で帽子を取って周囲を見回す。
「ここへ来られて嬉しいよ。温かい歓迎をありがとう」
カナさんとリチャードが軽くやり取りを交わした後、俺は通訳としてもう少し踏み込んだ案内をしようと声をかけた。ところが、リチャードが俺の顔をまじまじと見つめ、突如眉をひそめるようにして目を凝らした。
「待って。君には見覚えがあるな。以前どこかで会ったことはないか」
カナさんや中井さんたちが一斉に「え?」という表情を浮かべる。もちろん、俺がリチャードと直接会ったことなどあるはずがない。俺はとっさに曖昧な笑みを浮かべ、こう切り出す。
「ここの運転手の相川健人です。もしかすると、どこかで見かけただけかもしれませんが」
そう言いかけたところで、リチャードは大きく目を見開き、ポンと手を打った。
「いや、確信したぞ。君はオックスフォードの相川健人だ。MBAの学生たちとのセミナーかパーティーか何かで会った」
俺の胸がドキリと跳ねる。オックスフォード、MBA。まさかリチャードがそこまでしっかり覚えていたなんて。周囲のスタッフたちも「オックスフォード、MBA」と目を丸くしている。カナさんなどは「どういうこと?」という顔のまま固まっていた。
「一体どうして運転手なんかしてるんだ。マーケティングの専門家だって評判だったじゃないか」
リチャードの素直すぎる質問が容赦なく飛んでくる。俺は胸の奥に隠してきた過去が一気に暴かれたような気がして、返事に詰まってしまう。カナさんは困惑を深めながらも、俺の顔を見て頷いた。まるで「大丈夫。隠さなくていいわ」と言っているような。その眼差しに背中を押される。
「はい。オックスフォードで学んだことは事実です。MBAも取得しました。でも、色々あって日本に戻ってきて、今は運転手をしています」
そう告げると、周りが一層ざわつく。顔馴染みの中井さんや従業員たちは「相川さんがMBA? 本当に?」と驚きと戸惑いを隠せない。するとリチャードは「信じられない」とつぶやいた後、大らかに笑い声をあげた。
「しかし、最高だ。君がここにいるなら何の問題もない。ちゃんとした通訳がいなくても心配ないと思っていたが、まさか言葉だけでなくマーケティングのプロまで揃えているとは」
その言葉に、俺はまだ複雑な感情を拭いきれないまま「ええ、そんな大したものじゃ」と返す。だが、リチャードのビジネスパートナーも一様に興奮気味に頷いているのが分かった。
「確かにMBAのバックグラウンドがあるなら、この旅館の再建や拡大について是非意見を聞かせてもらいたい」
周囲の視線が一斉に俺へと注がれる。正直に言えば、こうして見知った従業員の前で自分の正体をさらけ出すのは気が引けた。何より、カナさんに隠していた後ろめたさがある。でも、リチャードが言うように、ここを助けたいのなら遠慮している場合じゃない。俺は深呼吸して顔を上げた。
「分かりました。少しでもお役に立てるなら、今まで考えてきたことをお話しさせていただきます。もちろん、今日の商談も全力で通訳を務めます」
そう告げると、リチャードも大きく頷き、「いいね。案内を頼むよ、相川さん」と促す。俺はカナさんを見つめ、彼女が「行きましょう」と小さく頷くのを聞き、玄関から大広間へと案内を始めた。心の奥で一つ、覚悟を決める。もう逃げない。ここで自分が培ってきたものを、立花屋のために使うんだ。
大広間は商談のスペースになっていた。長机が置かれ、その上には施設の資料や簡単な英語パンフレットが並んでいる。俺がリチャード一行を座席へ誘導すると、カナさんも隣に座り、早速ビジネスの話が始まった。
リチャードのパートナーたちが口々に提案を投げかける。
「この地域に最大10億円の投資を考えています。立花屋としては、何が最も必要ですか?」
俺はそれを日本語に通訳し、カナさんに視線で促す。彼女は少し緊張しながらも「施設の改修や、英語向けの宣伝体制が必要です」と答える。俺は再び英語に変換していく。続いて、リチャードが目を輝かせながら俺へ問いかける。
「健人君が考える、伝統を守りながらも国際的な魅力を高める再建策とは、具体的に何だい?」
ここからは、まさに俺が試される場面だった。カナさんやスタッフたちが手伝ってくれながら、俺は今まで温めてきた案を順を追って説明する。海外PR戦略はもちろんのこと、SNSの活用や外国語対応の強化、さらには周辺地域を巻き込んだ観光ルートの連携など、オックスフォード時代に学んだマーケティング理論と、ここで働きながら実感した現場の強みを融合させるイメージを伝えていく。
「結局、この旅館の最大の価値は、本物の温かさ、伝統、静かさにあると思います。それを失わずに、現代のツールやグローバル展開で上乗せしていくのが理想です」
通訳しながらも、自分の口から飛び出す言葉には熱がこもっていた。どうかこの思いがリチャードたちに伝わってほしい。彼らは真剣に耳を傾け、やがてリチャードが満足げに微笑んで席を立つ。
「素晴らしい。まさに私がイメージしていた方向性だ。健人君、そして女将の立花さん。これは最終的に決まりだ」
リチャードが差し出した握手の手を、カナさんと俺が同時に取る。目と目があった。一瞬、カナさんの瞳には涙が浮かんでいるように見えた。周りのリチャードのパートナーが満面の笑みで書類を広げる。
「では、10億円の投資提案について進めましょう。条件面を詰め次第、契約を結びたいと思います」
スタッフたちから、歓声にも似たため息が漏れる。こんな山合の旅館で、そんな巨額の話がまとまるなんて、誰が想像しただろう。実際、俺もまだ現実味が薄いくらいだ。だけど、確かに今、目の前で歴史的瞬間が生まれつつある。
「おめでとう、立花さん。それに健人、よくやったね」
リチャードの言葉を聞き、カナさんはこらえきれずに涙を一粒だけこぼしながら微笑んだ。俺も大きく息を吐く。これで、この旅館がもう一度息を吹き返すかもしれない。カナさんの震えるような声に、俺は深く頷いた。
リチャードたちは予定よりも長めの打ち合わせを経て、夕方には旅館を後にすることになった。ロビーに出てきた彼らを見送るため、俺とカナさん、そしてスタッフ一同が玄関に集まる。いつもの穏やかな空気に戻りつつある館内とは対照的に、俺の胸はまだ高鳴ったままだった。
「いやあ、いい時間だったよ。こんな山合いに、こんなに情熱的で真の通った人たちがいるとは思わなかった」
リチャードは満足げに言うと、帽子を軽く持ち上げて挨拶代わりに胸の前で振る。彼の横ではビジネスパートナーたちが日本の習慣に習って一様にお辞儀しながら笑みを浮かべていた。
「ケ、最後に確認しておきたいことがある。もしよかったら、今後は私たちの顧問になってくれないか? いや、冗談じゃなくて本気だよ」
俺は苦笑いを浮かべながら、どう返事をしていいものか迷う。
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは光栄です。でも、俺はまだまだやり残したことが多いんですよ」
「なるほど。やはり断られてしまうか。まあ、すぐに決める必要はない。私たちはずっと待っているから、いつでも連絡をくれ。いずれにせよ、この投資案件が正式にスタートしたら、またゆっくり話をしよう。次に来る時は、通訳も必要ないだろう」
そう言ってがははと笑うリチャードを見ていると、俺も少し肩の力が抜ける。周りでスタッフたちが「お気をつけて」「ありがとうございました」と口々に挨拶する中、彼らは大きな車に乗り込んで夕暮れの山道を走り去っていった。
辺りが再び静けさを取り戻す。今にも泣き出しそうなほど緊張していたカナさんは、肩の力を完全に抜いてその場にへたり込みそうになった。中井さんたちが「女将、お疲れ様」と手を貸して、ほっとした空気がロビーを包む。
それから数ヶ月が経ち、この旅館は海外投資家リチャードたちとの契約をきっかけに、今再び大きな活気に包まれている。俺が突然の通訳役を買って出てからの激動の日々を思えば、まるで夢のようだ。玄関の雰囲気が大きく変わり、カウンターには英語や中国語の案内カード。奥に設置されたモニター画面には海外向けの宣伝映像が流れている。以前は山合のひっそりとした温泉宿というイメージが強かったが、今は世界を迎える温泉旅館として、地方と海外を結ぶ拠点の一つとなりつつあった。
そんなある日、ちょうど駅からのお客様をワゴン車で送迎し、俺が館内へ戻ろうとした時のことだった。ロビーにどこか重苦しい空気が漂っているのを感じて足を止めると、そこにはスーツ姿で微笑みを浮かべる男――鏡が立っていた。何人かの部下らしき人物を引き連れている。
「鏡、どうしてここに?」
思わず息を飲む。
「相川さん、この方は?」
カナさんが少し警戒した様子で問いかける。
「それは俺が言いたい」
長い沈黙を破って、鏡が近づいてきた。
「ああ、随分つれないじゃないか。相川君、久しぶりだというのに」
その声は穏やかに静かだが、皮肉をはらんでいるのが分かる。
「ほら、せっかく昔の仕事仲間が尋ねてきてるのに、歓迎してくれないのか? 冷たいね。それとも、ここじゃ都合が悪いか? まあ、分かるよ。お前の過去の失敗を知られたくないもんな」
その一言で、抑えていた怒りが急激に競り上がってくる。
「ふざけるな」
絞り出すような声が、思わず漏れた。周囲のスタッフがはっと息を飲むのが分かった。鏡はそんな様子を面白がるように肩をすくめる。
「昔と違って随分強気じゃないか。運転手なんかに甘んじてるくせに。まあいい。俺としては久々に再会できて嬉しいね。だって、お前が頑張って築こうとしていたキャリアを踏みつぶしてやった時のお前の情けない顔が忘れられないからな」
鏡は、あの頃の出来事を勝利の思い出のように語る。頭の中で封じ込めてきた記憶が呼び戻される。
オックスフォードから日本に戻ったばかりの頃、俺は地方の小さな温泉街を再生するというテーマで事業プランを作り上げていた。海外の投資家を呼び込み、地元企業とも手を携えて地域を丸ごと活性化させる。当時はその可能性を誰もが期待してくれた。実際に俺の計画を後押ししてくれる人も多かった。例えば、大手旅行会社の役員や外資系ホテルチェーンの日本支社長。「相川さんの考え方は先見性があるね。一緒に頑張りましょう」と、彼らは積極的に協力を約束してくれていた。俺も日々奔走し、彼らとの絆を深めながら事業を軌道に載せる最終段階に差しかかっていた。
そんな矢先、鏡が紹介者を装って近づいてきたのだ。表向きは地方創生に興味があるという真摯な態度だった。だが、しばらくすると俺に協力を申し出ていた人々の反応が変わり始めた。「すみませんが、うちの方針が変わりまして。鏡という会社と組むことになりました」
聞けば、鏡は俺がまとめ上げたプランの肝である海外投資家ネットワークや事業構想さえも自分の手柄のように吹聴し、「より大きな資金と広いパイプを持っているのは自分だ」と彼らを抱き込んでいったらしい。気がつけば、俺が苦労して築いてきた関係先がごっそりと鏡の傘下へと流れていた。
「なぜ、こんなことを?」
詰め寄る俺に、鏡は鼻で笑った。
「お前のプラン? ふん。それはネタとしては悪くない。でも、資金力のないお前がやっても時間の無駄だ。結局、こういう大きな事業は強い者が掌握すべきなんだよ」
その時はまだ、鏡がただ奪っただけと思っていた。だが、実際には俺を社会的に消そうとする計画が同時進行していたのだ。後日、俺には詐欺まがいのビジネスをしているというデマが広がり始め、元の協力者たちや投資家が一斉に距離を置いていった。「事実かどうかは分からないが、リスクを負いたくない」と言われ、次々と手を引かれた。挙げ句の果てに、鏡は「噂が絶えない人物とは一緒にやりたくないよね」と同調を促し、企業や投資家たちに決定的な不信感を植えつけたのだ。そうして、俺の築いた人脈も事業の根幹も全てが彼の掌中に収まり、俺は信用も仕事も失う結果となった。
こうして鏡は、俺と全く同じ計画書や海外の投資先をあたかも自社の構想として使い、迅速に大規模リゾート開発を進めていった。一方、俺は「詐欺まがいの実態がある」という黒い噂が絶えず、どこへ行っても信用してもらえなくなっていった。最後に、鏡は冷たい笑みを浮かべて言い放った。
「悪いな、相川。お前が動いてくれたおかげで、いい材料を揃える手間が省けたよ。結果、お前の居場所もなくなったけどな」
俺はその言葉に怒りで震えながらも、どうすることもできなかった。そして今、あの鏡が再び俺の前に姿を現した。過去の苦しみが鮮烈に蘇る。あの日の嘲笑、あの日の絶望。絶対に、もう二度と同じ轍は踏まない。俺は心の底からそう誓った。
「あなた、一体何をしに来たんです?」
カナさんが静かに問いかけると、鏡はニヤリと笑う。
「端的に言えば、ここの土地と建物を買い取りに来た。大規模開発を仕掛ける予定だからね。立花屋には協力してもらうというか、立ち退いてもらうのが一番だけど」
館内やロビーにいたスタッフたちがどよめく。カナさんは唇をかすかに噛みしめながら、鏡を睨むように見返した。
「立ち退くなんて、冗談じゃないわ。ここは私たちが大切に守ってきた場所です。あなたがどれほど大きな計画を持っていようと、勝手に追い出されるつもりはありません」
その声は震えていたが、確かな意思が宿っていた。鏡は鼻で笑うと、カナさんにわざとらしく近づき、低くささやく。
「おやおや、そんなに強気でいられるのかな? でもね、女将さん、あなたのことは気に入ったよ。仕事ができそうだし、見た目も悪くない。もし立花屋がなくなったら、俺の新しいホテルで働けばいい。いや、いっそ専属秘書になってくれるとありがたいな。どうせこの先、居場所がなくなるなら、手を差し伸べてあげてもいい」
カナさんは思わず後ずさりし、俺とぶつかる。鏡の言葉は表面こそ余裕を装っているが、明らかな侮辱と支配欲が透けて見える。俺は胸の奥から燃え上がるような怒りを感じた。
「ふざけるな、鏡。ここは俺たちの、カナさんやスタッフたちの大切な場所なんだ。あんたに勝手なことをさせるわけにはいかない」
鏡の視線が一瞬、鋭く俺を射る。周囲のスタッフたちが息を飲むほどの重苦しい空気が流れる。だが、鏡はすぐにありと唇を歪めると、踵を返した。
「いいだろう。勝手に吠えていろ。その強気がいつまでも続くとは思わないことだ。俺はいずれ、ここを強制的に買収させてもらう。あんたたちが泣きついてくるまで、そう時間はかからないだろうさ」
最後にちらりとカナさんを振り返り、「申し出はいつでも有効だ。賢い選択を期待してるよ。まあ、君が私の元に来るんだったら、ここは残してやってもいいかもなあ」と不敵な笑みを残すと、鏡は部下たちを連れて悠々と旅館を後にした。ドアが閉まってからも、あの冷たい笑い声が耳の奥に残っているようで、スタッフたちは一様に硬い表情を崩せない。カナさんは息を詰めていたことに気づいたのか、小さく深呼吸をして静かに俯いた。俺は彼女の肩にそっと手を置いて、「大丈夫だ」と言い聞かせる。鏡がどう出ようとも、俺たちがこの旅館を守り抜く。その決意だけは、曇ることなどありえない。
その夜、俺は胸の奥に残るざわつきを抑えようと外に出た。そんな時、背後からけだるげな声がした。
「ざまあねえな、相川」
声の主は追川だ。いつもは少し離れたところから嫌みを言う程度だが、今日はそれが一段と辛辣だ。
「結局、お前のせいでここが潰れるんじゃねえのか。大風呂敷広げやがって、どうにもならずに大金持ちの連中に飲み込まれるだけなんだろう」
思わず言葉につまる。確かに、俺のせいかもしれないな。情けない言葉が口をついて出ると、追川は呆れたように鼻で笑う。
「そうだろ。ああ。だったら、最初から俺が通訳に手を入れるなんて必要もなかったってわけだ」
「え? それは、どういう?」
思わず問い返す俺に、追川はわざとらしく肩をすくめて見せる。
「言葉のまんまさ。お前が海外VIPとの商談をぶち壊されるように、あえて通訳が来られないように指示してやったんだよ。通訳には『人手が足りてる』って連絡を入れただけだけどな」
その言葉に、俺は息を飲む。
「どうして、そんな真似を?」
「けど、お前はそれを乗り越えて契約を勝ち取ったじゃねえか。海外VIPが来ても通訳不在って窮地を、自分の足で何とかしたんだろう。だったら、今回だって同じさ。お前なら、なんとかしちまうんじゃねえの?」
俺は複雑な気持ちを抱えながら言った。
「最初は契約を潰そうとしたくせに。どうして、今になってそんな?」
追川は口を曲げながら、少しだけ目を伏せるようにして言う。
「そりゃ、俺だって最初は気に食わなかったさ。運転手のくせにしゃしゃり出てきて、やたら偉そうに企画立案や通訳までこなして。そっちの方がよっぽど目立つじゃねえか。俺のやり方と合わねえし、むかつく面もあったけど。あの時のお前は、勝手に通訳やって大きな契約を物にしやがった。ほんのちょっとだけ、見直したよ。いや、正直悔しかったし、次元が違うって思った」
追川の顔には複雑な感情が浮かんでいた。だが、その目は一瞬だけまっすぐこちらを見つめる。
「その通訳の件は、本当に済まなかった。そんな俺が頼む権利なんてないけどさ、この旅館を助けてほしい。カナさん、女将さんだって、お前を信じてるんだからよ。俺もできる限りの協力はするから、頼む」
その言葉に、わずかに胸が熱くなる。口調は乱暴だが、追川は「お前ならまだやれる」と励ましてくれているのだ。何か、俺にしかできないこと。確かに、それをやらなければ鏡には勝てない。俺は眉間に刻まれた苦悩をふっと振り払い、心の奥で決意を固めた。ここで逃げたら、もう二度と自分を取り戻せない。
それから数日後、夕暮れ時、旅館の正面玄関に再び鏡が姿を現した。背後には屈強な部下らしき男たち。今回はいつにも増して威圧的で、まるで仕上げに来たかのように見える。
「よう、相川。準備はできたか?」
鏡はロビーに踏み込み、こちらを値やかに見下ろす。
「それとも、女将を差し出して命でも助けるか。あれはいい女将だ。俺が専属で雇ってやると言ってるんだ。悪い話じゃないだろう」
すぐ隣にいるカナさんの肩がわずかに震えている。彼女を守るように一歩前へ出た俺は、落ち着いた声を作って鏡に向かって言った。
「悪いが、お前の要求は受け入れられない。ここは俺たちが大切にしている場所だ。勝手に乗り込んできて、女将を差し出せなんて話になるわけがない」
鏡は「はっ」と呆れた様子で鼻を鳴らす。
「この後に及んで、まだそんな強がりを。お前らがどうあがこうが、俺の計画は止められないんだよ」
その時、鏡のスマホが着信を告げる軽い振動音を立てた。
「なんだよ、こんな時に」
鏡は不満げに画面を覗き込む。だが、そこに表示された名前を見た瞬間、その表情がさっと変わった。どうやら絶対に逆らえない相手のようだ。
「鏡、手を引け」
短く切り捨てる一喝に、鏡は思わず唇を噛みしめる。
「え、手を引く?」
「そうだ。私たちは相川と顧問契約を結ぶことにしたのだ」
鏡はまるで耳を疑うようにスマホを握ったまま目を見開く。
「はあ?」
「彼はあのリチャードが欲しがるほどの逸材だ。断られたリチャードは悔しがっていたと聞くぞ。そんな人材をみすみす逃してなるものか」
「ですが、相川は――」
「黙れ、鏡。お前、今まで私に嘘を吹き込んでいたな。相川は危険人物だ、詐欺まがいのことをしていると。それが全部、出鱈目だと分かった。人材を潰して地域を牛耳る。貴様のやり方は許されん。お前は首だ、鏡。今後一切、私との取引に関わるな。いいか、もう会う必要もない。それで終わりだ」
そう言い放つと同時に、通話は一方的に切れた。ツーという音が広いロビーに残響のように漂い、鏡は呆然とスマホを見つめる。部下たちも顔を見合わせ、すっかり意気消沈している。
「俺を切るって……う、そんなどうして」
鏡は力なくつぶやきながら、やっとの思いで顔を上げると、まるで何かにすがるように俺を睨みつける。だが、もう脅し文句も出てこない。鏡の威圧感は完全に消え去り、その姿はただの男になり下がっていた。
「これで分かっただろう、鏡。お前がどれだけ裏で工作しても、必ず真実は表に出る。俺はもう、あんたに潰されるわけにはいかないし、ここ立花屋も踏みにじらせない」
そう告げる俺の声が、ロビーに静かに響く。鏡は拳を握りしめたまま、苦々しい表情を浮かべてこちらを睨みつけていた。数秒の沈黙の後、彼は低く唸るように口を開く。
「お前、いつから気づいてた? 俺がただの独断で動いていたんじゃないってこと」
その問いに、俺はちらりと周囲を見渡す。カナさんやスタッフたちが息を飲んで見つめているのを感じながら、静かに口を開いた。
「いつからというより、追川さんがヒントをくれたんだ。『お前にしかできないことがあるだろう』ってね。あの人は口は悪いけど、冷静に見ていたんだよ。鏡、お前がこんな小さな温泉旅館をわざわざ狙うには、不自然な部分が多いってな。追川さんと一緒に、お前の会社の背景を徹底的に調べてみた。すると、意外にも鏡ホールディングスが今回の計画の表看板というだけで、裏にはもっと大きな存在がいることが分かったんだ」
そう、俺と追川さんはまず、鏡ホールディングスが過去に関わった大規模開発案件を時系列で追ってみた。すると、どの事業にも海外資本が大量に流入しているという共通点が見つかったのだ。小さな案件でもやたらと潤沢な資金が投入されている。それは鏡一人の手腕を超えた規模だった。そうして掘り下げた結果、俺たちの前に浮かび上がったのが、ルーカス・ワイズマンって男だ。世界的な投資ファンドの総帥で、海外の大物資本家だそうじゃないか。どうやら、ここと周辺地域の買収を画策していたのは、そのワイズマンだった。
その名を聞いた瞬間、鏡の顔がさらに曇る。明らかに動揺しているのが見て取れた。
「最初は、俺もこんな手段を使うつもりはなかったんだ。だけど、会社を守らなきゃならなかった。鏡ホールディングスは大きく見えて、実はワイズマンの資金がなければ維持できない脆い企業なんだよ。大口の融資を打ち切られたら、あっという間に倒産する。だから、どうしても早く実績を出して、奴の関心を買う必要があった」
鏡はうなだれながら、ぽつぽつと思い出すように言葉をこぼした。
「学生時代、お前と同じ日本人として、お前の出来の良さには本当に驚かされたよ。あの時はどんな難題が来ても、お前は当たり前のように解いて、周囲からも一目置かれていた。正直、羨ましかった。それを嫉妬だと認めるのは恥ずかしかったが、いつからか、奪ってでも自分のものにすればって思うようになってしまったんだ」
その声には、自嘲する苦みが滲んでいる。そう、鏡もまたオックスフォードを卒業していた優秀な生徒だったのだ。かつての学友として、鏡も俺を認めていた時期があったのだろう。しかし、その羨望は歪んだ方向へ突き進んでいった。
「今思えば、短絡的だったよ。相川の能力や知識をそっくり手に入れりゃ、自分のビジネスは一気に飛躍するなんて考えた。だけど、俺は常に会社をどうやって存続させるかに追われていて、余裕なんてなかった。上にはワイズマンがいて、彼の出資なしでは俺の鏡ホールディングスは成り立たない。もし気に入られなかったら、資金を引き上げられる。そうなると、一巻の終わりだ。だから、手段を選べなくなったんだよ」
最後の言葉は、もう完全に声が震えていた。鏡は正面を見据えられないまま、薄暗いロビーの床に目を落とす。まるで全てを吐き出してしまったように、肩が小刻みに上下していた。
「だけど、だからと言って、人を落とし入れてまでやるのは間違っていた。そうでしょ」
唐突にそう語りかけたのは、カナさんだった。
「会社を守らなきゃいけない事情は分かりました。それはきっと、とても大変なことなのでしょう。でも、だからと言って、あなたが相川さんの努力を奪う理由にはなりません。全ては取り返しのつかない間違いだったって、あなた自身が一番分かってるはずです」
カナさんの言葉に、鏡は居心地悪そうな顔でじっと耳を傾け、やがて短く息を吐く。そして、気まずそうに視線をそらすと、まるで自分から逃げるように足早に玄関へ向かう。ロビーに立ち込めた重たい空気を引きずるようにしながら、鏡はドアに手をかけ、そこにいた部下たちを促すように軽く振り返った。
「やっぱり、お前はすごいよ。学生時代に見てきたお前の才能が色あせるどころか、さらに磨かれているなんてな。あのワイズマンに使われるんじゃなく、顧問契約を結ぶなんて。俺には、真似できなかった」
鏡は悔しさや後悔、そしてどこか晴れやかな諦念を混ぜ合わせた表情で、そうつぶやく。
「いや、お前だって十分にすごいやつだった。俺はどんなに頑張っても勝てないんじゃないかって思った時期もあるくらいだからな。お前は追い詰められた末に、間違った選択をしただけだ。だけど、そのガムシャラさが向きさえ違えば、違う結果になったんじゃないか。そう思うよ」
思いがけない言葉に、鏡の瞳がほんの少し潤んだようにも見える。
「今更、お前に褒められてもな。けど、こうして最後に言ってもらえただけでも、俺はまだ救われる気がする。ありがとう、相川。二度と戻れないかもしれないけど、お前はお前のまま進めよ。いつかもし道が交わることがあったら、今度は堂々と同じ土俵に立ってみたいもんだ」
最後の一言には、鏡の素直な思いが滲んでいた。互いを憎んでいたはずなのに、今は不思議な静けさがそこにある。
「ああ。またいつか、違う形で会えたら。その時は、お前もワイズマンなんて奴の影じゃなく、自分の力で堂々とな」
鏡は唇を引き結ぶと、顔をそらし、今度こそ一気に玄関を押し開けた。背後からは、部下たちが気まずそうに彼を追う。扉が閉まる瞬間、鏡は小さく手を振るようにして挨拶を返し、そして光の中に消えていった。
「健人さん」
カナさんが、声にならないほど込み上げる感情を抑えるように瞳を潤ませる。
「もう大丈夫です。ワイズマンのことも含めて、これから先、俺たちはこの旅館を守っていけばいい。みんなで一緒に、ここをもっと魅力ある場所にしていきましょう」
カナさんは深く頷き、ロビーに集まったスタッフたちも、まるで緊張の糸が解けたように笑顔を取り戻す。外の空には優しい夕日の名残りが差し込み、館内に温かい光が落ちていた。
それから数ヶ月。風の噂によれば、鏡は鏡ホールディングスの規模を縮小しながらも、地道に立て直しを図っているという。以前ほどの大きな口は叩けなくなったものの、少なくとも裏工作には頼らず、正道で会社を維持しているらしい。スタッフ仲間を経由して耳にしたところによると、「今回は失敗したが、いずれ何らかの形で相川と勝負してみたい」とつぶやいているとか。鏡なりに再出発を誓ったのだろう。誰かを踏み台にせずとも、彼が本来の切れ者ぶりを発揮できれば、いつか真っ向勝負で相まみえる日が来るかもしれない。
そして、鏡の妨害がなくなったことで、立花屋はさらに海外からの宿泊客を呼び込むことに成功していた。リチャードの投資ネットワークを活用してインバウンド観光客向けのプランを拡充し、SNSによる海外向けも強化。気がつけば、平日でも客室が8割以上埋まるようになり、週末ともなれば満室が珍しくなくなった。
一方の俺はと言うと、ワイズマンと契約をしたことを知ったリチャードが「ワイズマンだけずるいじゃないか。僕とも契約してくれないとフェアじゃない」と声を上げ、二人の大物投資家と顧問契約をすることとなった。ワイズマンとリチャード。この二人はどうやら因縁深いライバルのようでありながら、時折り協力もする不思議な間柄らしい。ただ、今回の一件でワイズマン自身が「鏡の報告はほとんど誤解や出鱈目に満ちていた」と理解したこともあり、俺に対して不必要な敵対心を持つことはなくなった。むしろ「一度ゆっくり意見を聞かせてくれ」と声をかけられ、リチャードを交えて三者会談のような場が何度か開かれたほどだ。
結果、ワイズマンは「忖度だけで地域を潰すのではなく、長期的な視点で投資を育てる方が利が大きい」と悟ったらしく、いくつかの地方のプロジェクトでは住民や事業者と連携を試みる姿勢を見せるようになった。リチャードも「いいね、建設的だ」とお互いに理解を示す場面があり、二人はライバル同士というより、今は世界規模の好機をどう作るか、名将のようにも見える。しかし、偉大な二人でも性格は案外子供っぽい。気づけばお互いの出方を牽制したり、妙に張り合ったりするものだから、なだめ役としての労力もかなり大きい。
「リチャードさんが拗ねてますよ。『ワイズマンとばかり話してるじゃないか』って」
「ワイズマンはワイズマンで、『リチャードは派手好きだから油断できないぞ』とやたらぼやいている。おかげで、一日に何度も電話が鳴りやまない」
「すっかり運転手業務じゃなくなったな」
旅館の事務所で書類を整えていると、追川がニヤニヤと近づいてくる。
「そりゃそうだろう。お前、世界の二大投資家相手にスケジュールがパンパンなんだろ。運転手やるんだよ」
「もう、ほとんどやってませんよ。たまには送り迎えしてあげたいんだけどな。今じゃ顧問業と翻訳業務で手一杯で」
そう言って苦笑すると、追川はふっと笑う。
「だけどさ、相川。お前がちっとも旅館にいない時は、カナさん結構寂しそうだぜ。隠そうとはしてるけどな」
追川がそんなことを耳打ちするもんだから、俺はつい顔を赤らめてしまう。
「そうですか。ま、俺ももっとここに腰を下ろしていたいとは思ってるんだけど。ワイズマンとリチャードのやり取りが絶えなくて」
俺がそうぼやくと、事務所のすぐ脇にいた追川が待ってましたと言わんばかりに肩をすくめて口を開いた。
「へえ。そんなに忙しいんなら、仕方ねえよな。あ、でもよ、相川。お前がぼやぼやしてると、俺が女将さんをもらっちまうからな」
一瞬、何を言われたのか理解できず、俺は目を丸くする。
「な、なんですか、それ? 困りますよ。そういう冗談は」
慌てて言い返すと、追川はニヤリと唇を吊り上げて楽しそうに言う。
「冗談かどうかは、お前の動き次第ってとこかな。まあ、女将さんにも選ぶ権利はあるしな」
その瞬間、向こうの事務所で書類を整理していたカナさんが、小さく肩を震わせながら耳まで赤く染めて顔を伏せるのが見えた。どうやら会話の一部始終がちゃんと聞こえていたらしい。彼女は恥ずかしそうに書類を握りしめていた。そんなカナさんの反応を横目に、追川はわざとらしく口笛を吹きながら仕事の続きへ向かう。明らかにわざと口にした言葉だと分かっていても、俺の方がじわりと熱くなっていくのをどうにも抑えられない。
「本当、困りますよ」
俺が小声でそうつぶやいてカナさんの方へ視線をやると、彼女もちらりと目を合わせ、顔を赤らめながら微笑んだ。周りのスタッフもニヤニヤしている。追川の不意打ちな一言は照れくさいけれど、どこかそれが背中を押してくれたような気もして、胸の奥が少しだけ温かくなるのだった。
ワイズマンとリチャードが「彼は僕らの顧問だ」と張り合うのも、まるで微笑ましいコメディのように思えてくる。追川のちょっかいも、中井さんたちの冷やかしも、全部ひっくるめて俺は大切に感じている。明日はまた、新しいお客様が海を超えて訪れるという。カナさんと顔を見合わせれば、「よし、頑張ろうか」と気合いを入れ合う。旅館は夜を深めながら、次の朝の準備を着々と進めているところだった。
こうして、運転手から顧問へと立場を変えながら、俺は今もこの場所を支えている。そして、この先もずっと、ここが俺の帰る場所であり続けるのだと確信している。どれほど世界が広がっても、最終的にたどり着く場所はやはりここ。カナさんたちが守る、温かな旅館・立花屋だ。



