「おい、中卒。今日は俺の誕生日会だぞ。お前と違って大学をちゃんと卒業した俺のな。中卒のお前には、こんな風に誕生日を祝ってもらえるような地位に着くなんて無理だろうけどな。」
部長は汚い笑い声をあげて、俺を見下すようにニヤニヤと笑っている。10年ぶりに本社へ戻ってきた俺を待っていたのは、部長の強烈な嫌がらせだった。10年経っても、この人は相変わらずだ。俺は拳を握りしめ、席を立とうとした。
その時、カツンとヒールが床を叩く音が響き、一人の美人同僚が現れた。
「部長、彼の正体ご存知ないんですか?」
彼女はその端正な顔に勝ち誇った笑みを浮かべて言い放った。そして、10年越しの俺の逆襲が幕を開けるのだった。
本社に戻ったのは、実に10年ぶりだった。変わらない本社の外観、部屋の配置、動かすときしんだ音を立てる机や椅子、置かれた観葉植物、採光用に大きく作られた窓。その一つ一つに懐かしさを覚える。社員の顔ぶれは、当たり前のように変わっていた。同期はとっくに昇進して別の部署で働いているし、俺が配属された営業部第二課には、ここ数年で新しく入ってきた若い社員が多い。俺が挨拶をして今日からこの部署で働くことを伝えると、みんな初めましての笑顔で拍手をくれた。
ただ、見知った顔があるのも事実で、
「よく戻って来れたわね。中卒なのに。」
ゆっくりとヒールの音を鳴らしながら、一人の女性が近づいてきた。まるで「美貌」という言葉は彼女のためにあるのではないかと思ってしまうほどの美しさだった。彼女は俺と目が合うと、嘲笑うかのような笑顔を浮かべて見下ろしてきた。
「中島君、久しぶり。私のこと覚えてる?」
「もちろん。円田さんだろ?」
「課長なんで。」
「あ、すみません。課長。」
俺が言い直すと、円田は大げさにため息をついて見せた。
「全く、これだから中卒は困るわねえ。みんな。」
円田は口の端を釣り上げて、ぐるりと部署全体を見回した。「中卒」という単語に戸惑ったらしい社員たちは、円田と俺のどちらとも目を合わせないようにしている。
「円田君の言う通りだな。」
声の聞こえた方を見れば、ニヤニヤと笑う部長がいた。無駄に大きい彼の顔も、10年ぶりとあっては懐かしいと感じた。
「部長、お疲れ様です。」
先ほど俺に向けたものとは全く違う、猫撫で声で円田は部長にすり寄る。あの美貌の女性にそんな風に近づかれた部長は、あからさまに目じりを下げた。
「おお。そういえば中島君は、確か円田君よりも先に入社していたな。しかも君の教育係じゃなかったかな。」
「おっしゃる通りです。」
円田は媚びるような笑顔を部長に向ける。おかげで部長はますます調子に乗ったようだった。
「どうだ中島? 後から入ってきた社員、しかも教育していた女に抜かされる気分は? まあ、中卒だから仕方がないよな。」
そう言って部長は思いっきり俺の背中を叩く。思わずふらついてしまった俺に、円田の冷たい視線が突き刺さった。
「大学を卒業できた俺や円田と、高校にすら入学できなかったお前とでは、頭の出来が違うんだよ。頼むから、本社に戻れたからって俺や円田のようなポストに着けるかもなんて希望を持ってくれるなよ。」
部長は哀れみを大いに含んだ顔を作って、大げさに肩をすくめた。それからぐるりと部屋を見回し、俺たちのやり取りを固唾を飲んで見守っていた社員に向かって、仕事に戻れと指示を出す。社員たちは雲の子を散らしたように、そそくさと自分の席に戻っていった。円田を見ると、もう自分の席に戻って仕事を始めていた。その横顔は昔と変わらず綺麗だった。そっとため息をついた後、俺は用意された自分の席に向かった。
本社に戻ってから一ヶ月が経った。仕事の合間、そろそろ戻ってきたかななどと考えながら休憩室のソファーに座ってコーヒーを飲んでいると、美奈が入ってきた。美奈は同じ営業部第二課で、あの円田の中卒発言の後も俺に気軽に話しかけてくれている。円田とは違った美人で、どちらかと言うと可愛い部類に入る。美奈は俺を見つけると、人懐っこい笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「中島先輩、成績トップおめでとうございます!」
突然そんなことを言うもんだから、首をかしげた。すると美奈も同じように首をかしげる。
「何の話?」
「先輩、もしかして見てません? 毎月5日に営業部全体の成績が発表されるんですよ。」
そういえばそうだったと思い出した。10年前も確か毎月5日に成績が張り出されていた。そこも変わらないんだな。懐かしい。
「移動したばっかりでお得意が一つもないはずなのに、一月で。しかも第二課の中だけじゃなくて、営業部全体ですよ。この一ヶ月ずっと思ってましたけど、先輩って仕事すごくできますよね。」
美奈はまるで我が事のように喜んでいた。目がキラキラと輝いている。思わず可愛いなと思ってしまった。こういう他人のことを素直に喜べるところが、営業に向いているのだろう。
「ありがとう。でも、実はまだまだ本調子じゃないんだよね。」
「本調子じゃなくてこれですか? 恐ろしい人。」
美奈は口に手を当ててショックを受けたと言わんばかりの表情を作った後、くすくすと笑った。釣られて俺も笑う。
いつもなら人の目をまっすぐに見て話をする美奈だが、珍しくこの時は違った。手に持っているコーヒーをじっと見ている。ちょっとの間そうしていた美奈だが、やがて意を決したような顔で俺を見上げた。
「こんなことを頼むのは図々しいと承知の上ですけど、私に先輩の営業の技を教えていただけませんか?」
そう言って頭を下げた美奈に、俺は目を丸くしてしまった。
「そんな頭なんて下げなくてもいい。いつだって教えてあげるよ。」
「私のその言葉でよければ、先輩に教えてもらいたいんです。」
美奈は照れながら上目遣いで俺を見てきた。
「私、短大卒なんですけど、そのことで部長に馬鹿にされてて。私が営業でちょっといい成績を取ったら、『短大卒なんだからこれぐらいでいい気になるなよ』だとか、『短大卒なら雑用が精一杯だろう』って、私の仕事と関係ないファイルの整理をさせられたりとか。そんなだから、課長とか部長に取り入ってる人たちも、私のことを雑用係みたいに扱うんです。でも先輩はそんな私に優しくしてくれて、それがすごく嬉しいんです。」
美奈は顔をほころばせた。そんな美奈に一瞬心臓が高鳴ったが、慌ててそれを抑える。
「中卒の俺からしたら、大卒だって立派なエリートだよ。」
「そうですか。あ、でも先輩、これからは私と先輩の間では学歴の話はなしにしましょう。私は中卒の先輩じゃなくて、先輩が先輩だから尊敬してるんですから。」
その提案に、一も二もなく頷いた。俺だって学歴の話はできればしたくない。コーヒーを飲み終え部署に戻る途中、美奈が「そういえば」と切り出した。
「子会社にすっごい成績のいい営業マンがいるって聞いたことがあったんですけど、それ先輩のことですよね。」
頷くべきか一瞬躊躇していると、その沈黙を肯定と取ったのか、美奈は「やっぱり」と言ってにんまりと笑った。照れ臭くて思わず視線をそらしてしまった。
数日後、営業に使う資料をまとめるためパソコンと睨めっこしていた俺に、課長の円田が手のひらを差し出してきた。何の意味があるのやら分からず、思わずその手入れの行き届いた綺麗な手と、少々不機嫌そうな表情を浮かべる円田とを見比べてしまった。すると円田は「信じられない」とでも言いたげに眉間にしわを寄せた。
「社内メール見てないの? 部長の誕生日会を今週末にするって、先週連絡したわよ。その会費の提出期限が今日よ。中卒君も強制的に出席だから。」
淡々と言葉を放ち、円田はじいっと手のひらを俺に突きつけてくる。慌てて財布からお札を抜き出し、その手に置いた。円田はふんと鼻を鳴らして踵を返し去っていく。
「大丈夫ですか?」
そこに美奈がひょっこり現れた。心底心配そうな顔をするから、「全然平気」と答える。
「課長、美人ですけど。」
「いや、美人だからですよね。怖いんですよ。それに部長に媚びへつらってますし。」
美奈は口をへの字に曲げた。
「それよりもさ、部長の誕生日会なんてやるんだな。」
「毎年恒例ですよ。全員強制参加で会費。」
「へえ。」
肩をすくめる美奈をよそに、思わず感心したような声が出てしまった。俺がまだ本社にいた頃は、こんなことはしてなかった。
「まあ、あの頃の部長は全然違う人だったし、今の部長は当時課長だったしな。」
「本当は出たくないんですけどね。でも出ないと何されるかわからないんで。部長、気に入らない人をどんどん左遷させるので有名なんですよ。」
「らしいな。」
俺は相槌を打って見せた。
「あ、でも今年は先輩も来るんですよね。先輩が行くなら楽しくなりそうです。いっぱいお喋りしましょうね。」
「お喋りならいつもしてるだろう。」
そう言うと美奈は頬を膨らませる。そんな彼女に口元を緩ませていると、美奈はそっと俺の耳に口を寄せてきた。
「お酒の席でしか喋れないこともあるじゃないですか。」
耳にかかる吐息に、自然と鼓動が早くなる。
「お前なあ。」
「中島君、美奈さん、喋っている暇があるの?」
円田の冷たい視線と声が飛んできた。美奈は慌てて自分の席に戻っていった。
部長の誕生日会当日。誕生日会は、営業所行きつけの焼肉屋の個室を借り切って行われた。机の上には、上カルビやハラミ、ロース、タン、ホルモン、それからキャベツや玉ねぎなどの野菜が並べてあった。俺と美奈は下座に座った。部長から距離を取ろうと思ったのだ。だが、部長に「中島君はここ」と、部長の斜め向かいの席を顎で示されてしまった。仕方なく指示された席に座る。美奈が隣に座ろうとしたが、「短大は下座」と部長に追い返されてしまった。
最初に頼んだドリンクが全員分揃ったところで、乾杯の音頭が取られた。近くの席の人とグラスを軽く当てて乾杯をする。一応部長にもグラスを差し出したのだが、無視された。
「営業の成績。あれはたまたまだろう。たまたま先月営業に成功して、たまたま周りが失敗したってだけだ。こういうのをビギナーズラックという。みんな覚えておくように。」
美味しそうにビールを一口飲んだ後、部長はそんなことを言った。いや、俺は営業を始めてもう22年なのだから、ビギナーではないだろう。そんなツッコミはお酒と一緒に飲み込んだ。部長はふと周りを見回す。
「そういえば太田君はどうした?」
「課長なら、仕事が残っているとかでまだ会社のはずです。多分、あの一件の後始末を。」
答えた社員は、伺うようにして部長の方に座る一人の男を見た。太田は部長が今抱えている、会社にとって重要な取引先とのやり取りのサポートをしていた。そこで商品の金額を間違えてしまうというミスをしたことが、昨日発覚したのだ。部長は太田を一瞥しただけで、ぐいっとビールを飲む。
「円田君は真面目だ。それに加えて大卒のエリート。出世街道まっしぐらだ。中卒のお前には、喉から手が出るほど欲しがっても手に入らない道だな。」
部長の下卑た笑い声に、思わず耳を抑えたくなったが我慢する。代わりに、俺は無理やり笑って返して見せた。その後も何かにつけて部長は「中卒」と俺をあげつらい、自分は優越感に浸っているようだった。さすがに辟易してきて、部長が追加のお酒を頼むべくメニュー表と睨めっこしている隙に、俺はそっと席を外した。周りには「ちょっとトイレ」と断りを入れておく。そうは言っても逃げ場はトイレぐらいしかないから、言葉通りにそちらに向かっていると、後ろから「先輩」という美奈の声が聞こえた。振り返ると、美奈は悔しそうに口を一文字に結んでいた。
「私、我慢できません。どうして先輩が、あんな風に言われなきゃいけないんですか?」
そう言った美奈の両目から、ぽろりと涙がこぼれた。慌てて拭く物を探したが、ハンカチは会場に置いてきた鞄の中だ。近くを通りかかった客や店員が、不思議そうに俺を見てきた。ますます焦って、俺はなだめるように彼女の肩をさする。すると美奈は俺に顔をうずめてきた。客や店員に見られた時とは違う、甘酸っぱい焦りに見舞われて、彼女の肩をさすっていた手を止めてしまった。困ったな。
その時、
「どうしたの?」
ヒールの音を響かせて、円田が現れた。俺と涙を流す美奈を見て、切れ長の目を吊り上げて、俺から美奈を引き剥がした。鞄からハンカチを取り出すと、それを優しく美奈の手に乗せる。それから俺を再び睨んだ。
「中島君、美奈さんに何をしたの?」
円田も、俺が美奈を泣かせたと勘違いしたようだ。いや、まあ、この状況はどう見てもそのようにしか見えないから仕方がないのだが。腕を組んでこちらを見下ろす円田から、ものすごい威圧感を感じる。
「違います課長。私が勝手に泣いてるだけです。先輩は何も。」
「むしろ、部長が俺と円田の間に立って、美奈がそうかばってくれた。」
「本当に?」
「はい。」
美奈が頷くと、円田は険しい顔のまま「そう」とだけ言い、ふと小さく息を吐いた。それからちらりと俺を見た。
「中島君、遅くなったけどOKよ。」
脈絡もなく放たれたその言葉に、間に立っていた美奈は困惑した。俺は円田に向かって頷いて見せた。それから視線を美奈に戻す。
「戻ろう、美奈。」
なるたけ優しい声が出るよう努力してそう言うと、美奈は袖口で強く涙を拭き取った後、不安げに俺と円田を見た。大丈夫だというように笑顔を作って見せると、美奈は小さく頷いた。
俺が席に戻ると、部長はすっかり出来上がっていた。真っ赤な顔で女性社員を両脇に侍らせて、鼻の下を伸ばしている。彼女たちも笑顔ではいるものの、それが作ったものだというのは一目瞭然だった。部長は俺に気がつくと、獲物を見つけた鷹のようにぎらりと目を光らせた。
「おい、中卒。どこに行ってたんだ? 今日は俺の誕生日会だぞ。お前と違って大学をちゃんと卒業した俺のな。中卒のお前には、こんな風に誕生会を祝ってもらえるような地位に着くなんて無理だろうけどな。」
ゲハハと汚い笑い声をあげて、部長は両隣の女性社員に同意を求める。彼女たちは引きつった笑顔で曖昧に頷く。俺の隣にいた美奈が、耐えきれないと言った様子で口を開きかけた。
カツンとヒールが床を叩く音が響いた。美奈も部長も女性社員も、その場にいたみんなが、俺ではなく俺の後ろにいる円田を見る。
「おお、円田君、遅かったじゃないか。さあさあ、こっちに座りなさい。」
部長は右隣に座っていた女性社員を下がらせるように指示してから、空いた座布団を叩いて彼女を手招きした。
「いいえ、結構です。」
円田の言葉に、周囲が水を打ったように静まり返った。部長の顔から笑顔が消える。
「なんだ、残業疲れか。だからと言って、部長の命令が聞けないのは良くないんじゃないか。」
それでも円田は動かなかった。部長の額に青筋が浮かぶ。
「おい、なんだその態度は? 俺にそんな態度を取っていいと思っているのか? ちょっと俺が可愛がってやってるからって調子に乗るんじゃないぞ。」
苛立ったらしい部長の怒鳴り声が部屋に響くが、それでも円田は部長の隣に座ろうとしなかった。俺の肩にそっと手が置かれた。俺は彼女を振り返る。
「部長、彼の正体知ってます?」
俺の後ろに立った円田は、その端正な顔に勝ち誇った笑みを浮かべて俺を見下ろした。
「正体? 何のことだ? 円田、何を言っている? こいつはただの中卒だろう。」
「中島君。」
円田は言葉を潜めた部長を無視してこちらを見る。俺は頷いて一歩前に出た。部長を見ると、怒りと困惑を混ぜたような顔をして俺を睨みつけている。それに構わず口を開いた。
「部長、あなたはずっと部下の手柄を自分のものにしたり、反対に自分のミスを部下に押し付けたりしていましたね。そうやって得たのが今の地位ですよね。」
「なんだ急に。何の話だ。中卒。お前、とうとう木でも触れたのか。証拠はあるのか?」
「もちろんありますよ。」
円田が部長の前に立ち、見せびらかすように自分のスマホを持ち上げる。録音を起動させ、音量を最大まで上げると再生ボタンを押した。
「先方との取引、失敗したのは太田君。君の責任だ。」
「え、僕は何も。僕は部長のサポートで、取引自体は部長が。」
「君には確か、出産を控えた奥さんがいたね。今ここで君が会社を首になったら大変だ。これから出費が重なっていくだろうに。それは君の責任だと上に報告する。いいね。」
「はい。」
静まり返っていた部屋に、その声はよく響いた。部長の声と、太田の声だった。太田をそっと見ると、彼は座敷の膝の上で拳を固く握りしめている。おそらく彼が録音したのだろう。円田に頼まれて。誰も何も言わなかった。部長の両脇にいた女性社員が、そっと席を離れた。
呆然としていた部長だったが、怒りがふつふつと込み上げてきたのか、徐々にその顔が赤く染まっていった。部長は拳を机の上に叩きつけた。大きな音が部屋に響き、机の上にあるグラスや皿が揺れた。
「円田。裏切ったな。裏切った。」
「私を落とし入れようとしたのは、あなたですよ。部長。」
唾を飛ばしながら叫ぶ部長に、円田は冷ややかな笑みを落とした。そんな円田を、部長は悔しそうに顔を歪めながらも、何も言えずにいるようだった。まるで10年前と立場が逆だ。
10年前、俺がまだ本社で働いていた頃、俺は新卒で入社した円田の教育係になった。入社祝いに買ったのであろう、ピカピカのスーツを身にまとった円田は、緊張で体をガチガチにしながら「よろしくお願いいたします」と俺に頭を下げた。その姿は、今のクールビューティという言葉がふさわしい今の円田と違って、まだあどけない可愛らしさが残っていた。
「そんなに緊張しないで。教育係って言っても、俺は君と同い年なんだから。」
そう言うと、円田はバネのように顔を跳ね上げて、その顔は驚きに満ちていた。目がまんまるだった。
「お、同い年ですか? 全然そんな風には見えませんでした。年上にしか。貫禄があって。」
「それって、俺がおじさんに見えるってこと?」
「いえ、そういう意味ではなくって。」
慌てふためく円田に、俺は笑いをこらえきれなかった。お腹を抱えていると、円田の顔が真っ赤になっていった。
「貫禄ついてるように見えるんなら、ありがたいね。12年働いている甲斐もあったってもんだよ。」
「え、12年? ってことは、えっと、その、高校には行ってないということですか?」
言いにくそうに円田が尋ねてきた。俺は小さく頷く。誰も使っていない席から椅子を拝借して、円田を座らせた。おっかなびっくり円田が座るのを見届けてから、俺は自分が中卒になってしまった理由を話した。
俺が中学3年の時、一家の大黒柱だった父が亡くなった。その頃母は、治すのが難しい病気にかかっていて、父はその治療費を払うためにせっせと働いていた。だからうちに十分な蓄えはなく、俺は高校進学を諦めて働くしかなかった。そんな時に声をかけてくれたのが社長だった。社長と俺の父は親友だった。俺の家庭の事情を父から聞いていたらしい社長は、自分の会社で働かないかと誘ってくれた。母の病気を治すために働きたかった。俺には渡りに船だった。だけどためらいもあった。社長が経営している会社は一流企業。さらに社長は、俺に営業職で働いてほしいと言ったのだ。中卒の俺が一流企業で営業なんて務められるのかという不安が重くのしかかった。断った方がいいのではと悩んだ。でも社長は、そんな不安を「私だって、会社の損失になるような人は雇わないさ」と笑い飛ばしてくれた。
「君のこと、お父さんから聞いているよ。お母さんが難病にかかったと知った時、君はめげることなく、お母さんの病気を治せる医者がいないか、学校中の人に聞き回ったそうだね。医者が見つかった後も、君はその医者を紹介してくれた人だけじゃなく、医者を探すのを手伝ってくれた人たち全員にきちんとお礼をして、今でも良好な仲を続けているそうじゃないか。お父さんは、そんな君を『どこに出しても恥ずかしくない自慢の息子だ』と言っていた。私も、そんな君なら営業で立派に働いてくれると信じるよ。」
思わずその場で泣いてしまった俺の頭を、社長は優しく撫でてくれた。その時、俺は社長の元で働いて必ずこの恩に報いると心に誓った。話し終わると、円田は両目に涙を溜めていた。
「その、お母様は?」
「ああ、母ならもうすっかり元気だよ。心配してくれてありがとう。」
「いえ、心配するしかできないのが悔しいです。」
そう言って円田は俯いた。いい子だなと思った。心がじんと温まった気がした。
「他人のことも、そうやって自分のことのように悲しめるなら、きっといい営業ができるよ。これから一緒に頑張っていこう。」
そう言って明るい声を出すと、円田はそっと涙を拭った後、顔を上げて「はい」と元気よく返してくれた。
円田が入社してから一ヶ月が経った日、俺は彼女を夕食に誘った。俺の隣で仕事に積極的に取り組む円田の横顔は、いつ見ても綺麗で、俺はもっと彼女と仲良くなりたいと思っていた。ただ、そんな気持ちを円田に打ち明けるのは恥ずかしいから、「円田の仕事ぶりをね」と言って誘った。円田はあっさりOKしてくれた。食事は会社近くのフレンチレストランを予約した。女子に人気で、予約がなかなか取れないところだと聞いている。
「よく予約取れましたね。」
席に着くと、円田は目を輝かせてきょろきょろと周りを見回した。嬉しそうな様子の円田を見て、俺はこっそり安堵の息をもらす。会話は思った以上に弾んだ。円田は会社では言えない上司、特に課長の愚痴を言ったり、実家で飼っているトイプードルの話をしたり、最近コーヒーを豆から引くのが趣味だと話してくれたりした。俺はそれを相槌を打ちながら楽しく聞いていた。
「あ、すみません。私ばっかり喋っちゃって。それに、自分のことばっかり。」
「いや、円田の話は楽しいから。」
「でも、もう。」
円田はなぜだか少し悔しそうに唇を噛んだ。
「それなら、俺のお願いを聞いてもらおうかな。」
「はい。何でも。」
ぱっと顔を上げる円田に、俺の方が緩む。
「敬語じゃなくて、ため口にしてくれない?」
「え、でも、中島先輩は先輩ですし。」
「だけど同い年じゃないか。周りの目が気になるんなら、俺と二人の時だけでいいからさ。お願い。」
両手を顔の前に合わせてお願いすると、円田は頬を薄く染めながら頷いてくれた。俺は内心でガッツポーズを決めた。
円田は、自分が違うと思ったことはとことんまで追求する人だった。俺はそんな彼女に好感を抱いていたが、そうではない人もいた。ある日、円田と同じ時期に入った社員が、アポイントメントの時間に遅れてしまい、先方の機嫌をひどく損ねるという失敗を犯してしまった。当時は係長だった今の部長は、そのことを叱った。叱るだけなら良かったのだが、その社員が今までにしたちょっとしたミスだとか、学歴だとか、性格だとか、その追求が及んでいた。叱られている本人は、可哀想なぐらい真っ青になっていた。
「係長、言いすぎです。」
そこに割って入ったのが円田だった。係長は円田をじろりと睨んだ。
「なんだ、新卒が偉そうに私に指図をするのか。」
「叱ると怒るのとは全然違います。ましてや、係長のは、自分が優越感に浸りたいだけのために彼を叱っているようにしか見えません。」
「円田、やめなさい。」
俺は円田を止めに入った。そんな俺を係長がじろりと睨みつけてくる。
「係長、すみませんでした。円田にはよく言って聞かせますので。」
俺が頭を下げると、ふんと係長が鼻で笑うのが聞こえた。
「中卒が教育だから、こう生意気なのができるんだ。」
「先輩が中卒なのは関係ありません。」
円田。叱り付けると円田は黙ったが、その拳はかすかに震えていた。そんな円田を連れて廊下に出る。肩だけではなく、肩も悔しさに震えている。壊れ物を扱うような手つきで、俺は円田を営業部から離れたところにある会議室へと誘導する。会議室に入ってドアを閉めた瞬間、円田は不満を爆発させた。
「どうして止めるの? 絶対あれは係長が悪いのに。」
「そうだな。でも、あそこで食ってかかっても、係長の目の敵にされるだけだ。」
「だからって、あんな侮辱を黙って見てろと?」
円田はとても怒っていた。俺がなだめても、聞く耳を持ってくれなかった。その後も円田はちょくちょく係長に苦言を呈していた。俺以外の人は、円田の言うことが正しく、かつ自分たちも思っていたことだったから、止めようとしなかった。俺は何度も係長に頭を下げたり、機嫌を直すべく係長お気に入りのお菓子を買ってきたりした。係長は「彼女は美人だからって調子に乗っているんじゃないかね」などと愚痴をこぼしながらも、その場では機嫌を直したかのように振る舞っていたから、俺は大丈夫だと安心しきっていた。だから、あんなことが起きてしまうなんて、思っても見なかった。
数週間後、取引先が注文した商品の数を円田が間違えたという報告が上がった。それは取引先が急ぎで頼んだもので、数が全く足りなかったから、ひどく怒られ、取引をやめるところにまで行ってしまった。その取引先は、うちの売上の4割を占めるほどのお得意様だったから、取引を辞められては多大な損失を被ることになってしまったのだ。その取引は係長が担当だったが、係長はよく「忙しい」を理由に円田に仕事を押し付けていた。その発注も円田がやったから、円田の責任だと係長は言い、円田は「私はその商品は発注してません」と反論したが、円田のパソコンに発注が残っていたことが決定的な証拠となってしまった。
「円田、何これ? 私、知らない。」
円田は慌てた叫びをあげていた。円田は子会社に移動を命じられた。要は左遷だ。その辞令を言い渡す時のか係長の冷たい笑顔と、円田の悔しそうに歪んだ顔は、10年経った今でもはっきりと覚えている。これは俺の責任だと感じた。俺自身、円田が係長に言うことは最もだと思って、円田が係長に苦言を呈することを強く止めることはしなかったのだから。俺は社長に直接掛け合って、円田のミスは教育係である自分の責任だから、円田ではなく俺を子会社に移動させてくれるよう頼んだ。社長は「いいのか」とだけ俺に問うた。俺はそれにはっきりと頷いた。こうして円田の移動は取りやめになり、代わりに俺が移動することになった。
その辞令を聞いた円田は、人事部に向かったらしい。内線で人事部から呼び出された俺が急いで向かうと、円田が髪を乱して人事部に食ってかかっているところだった。
「どうして中島先輩が! 悪いのは全部係長なんですよ!」
「え、だ、そんなことを人事部に言ったってしょうがないだろう。」
必死に冷静に円田を抑えると、彼女はひどく傷ついた顔をした。
「本当なら、円田のミスは教育係の俺が気づくべきだったんだ。だから、俺の責任なんだよ。」
肩にそっと手を置くと、円田が膝から崩れ落ちそうになった。慌てて支えて、方針する円田に合わせてゆっくりと人事部を離れた。営業部に戻る廊下ですれ違った社員たちは、円田の様子を見ると、まるで見てはいけないものを見てしまったかのようにすぐに目をそらす。このまま営業部に戻るわけにもいかないので、円田を休憩室に連れて行った。あと少しで終業の時間だから、誰もいない。円田をソファーに座らせた。すると円田は、大粒の涙をスカートの上に落とし始めた。
「私のせいだよね。中島君が移動するの。私があんな正義感ぶって係長に食ってかかってたから。係長が出してきた嘘の証拠に反論できなかったから。」
嗚咽を漏らす円田が苦しそうで、隣に座ってその背中を撫でた。すると円田は俺に抱きついてきた。俺の背中に回されたその手は、まるでしがみついているかのように強かった。
「私が行く。私の責任だから。私がいいんだよ。」
「円田。俺は中卒だから、将来なんて約束されてない。でも、お前は違う。お前は大卒のエリートだ。だから、こんなところでつまずいちゃいけないんだ。」
「そんなの。そんなの関係ないのに。」
そう言って円田はまた泣いた。俺はそっと彼女を抱きしめた。
「中島君が左遷されてから、私はあなたの不正の証拠を掴むために、あなたにすり寄ることにしたの。もちろん、中島君を本社に戻すために。悔しいことに、あなたは証拠隠滅が上手で、最初は私に警戒していたから、10年もかかってしまったけど。」
円田はスマホをぐっと握りしめた。部長はわなわなと唇を震わせていたかと思うと、ぱっと身を乗り出して円田の手からスマホを奪い取った。
「は、お前の用意した証拠はこれだけだろ。これさえ取り上げれば、証拠は揉み消せる。お前と。あ、それから中島。お前たちは左遷だ。いや、左遷なんてぬるい。首だ。首。部長の私が言えば、そんなことはどうとでもなる。」
鬼の首を取ったように部長は大声を張り上げる。周囲の社員たちの息を飲む音が聞こえるほどに、空気は張り詰めていた。
「部長、俺たちは首にも左遷にもなりません。」
「何を言ってるんだ、お前は。俺とお前の力の差は歴然としているだろう。それとも、お前はそんなことも分からないほどバカだったのか。中卒でも、それぐらいは分かると思っていたんだがな。」
「さすがに俺でも、部長と平社員だったら部長の方が上だということは知っていますよ。でも、部長よりも上の人がいますよね。」
「それは、そりゃ役員や社長は俺より上だが。」
部長が軽減層に言葉を潜めた。俺は一呼吸を置いて部長に告げる。
「部長? 社長はもう全て知ってます。」
「はあ? 男に及んで何を言うかと思えば、そんな嘘が俺に通用するとでも。」
部長は言いたいことを最後まで言いきらなかった。呆然とした様子で俺の後ろを見ている。その視線の先を追うと、社長がいた。
「来ていただくよう頼んでおいたの。」
円田が社長を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。社長は片手を上げただけでそれを制する。
「し、社長、いつから?」
「ちょうど中島君が席に戻った時だね。証拠の音声はしっかりと聞かせてもらったよ。」
「ち、違うんです。社長。あれは私の声じゃない。でっち上げられたんです。」
「まあ、そうだろう。太田。」
社長に大きな声を向けられた太田は、びっくりと怯えた様子を見せたものの、首を横に振った。味方だと思っていた人たちを失い、呆然とする部長の手から、社長が円田のスマホをそっと取り戻す。
「君が不正を行っているかもしれないという話は聞いていたんだよ。それが理由で中島君が子会社に移動になるということも。彼は私の親友の息子だからね。」
社長は円田にスマホを返すと、冷汗を流す部長と対峙する。
「だけど、君が不正をしているという決定的な証拠がなかった。それに、君はこうなるまではとても優秀な社員だったから、私としても信じたくないという思いがあったんだ。だから、中島君の移動は一時的なもので、すぐに戻そうと思っていたんだ。だけど、彼がね、『そんなにすぐに戻っては負けたことになる。自分を戻すなら、子会社で目を見張るほどの成績を取ってからにしてほしい』と頼んできたんだ。その目は本気だったから、私は彼に賭けたんだ。そして、見事にその通りにした。あの子会社で、本社の営業部たちを超える成績を上げて見せたんだ。」
そう言って社長は俺に誇らしげな目を向けた。
「よく頑張ったな。」
その言葉に胸から熱いものが競り上がってきて、俺の涙腺を刺激したけど、今は泣く時じゃないと思い、なんとかそれを飲み込む。
「それで、中島君を本社に戻すのに合わせて、彼に君の不正が本当なのか調査してもらうことにしたんだ。円田さんが証拠を集めてるということも聞いたからね。円田さん、そのスマホの音声証拠以外にも、まだあるんだったね。」
「はい。部長のせいで会社を辞めざるを得なくなってしまった元社員も、いつでも証言すると言ってくれています。それに、私的と不明の交際費や交通費を、実際の金額より余分に請求していた証拠もあります。10年分。」
部長がその場に崩れ落ちた。その顔は真っ青を通り越して、白くなっていた。社長はスマホを円田の手に優しく載せた。それから再び俺に向き直る。
「円田さんの言う通り、証拠を掴むのに10年もかかってしまった。10年も君の貴重な時間を奪ってしまったこと、本当に申し訳なかった。」
社長が頭を下げた。隣にいた円田も、スマホを胸に持って社長と同じようにした。「頭を上げてください」と言おうとしたのに、漏れ出たのは嗚咽だった。この日、この瞬間を何度夢見ただろう。ついに。俺は人前で泣くなんて恥ずかしいと思いながらも、溢れる涙を止めることができなかった。
社長が部長を連れ出してすぐに、誕生日会はお開きとなった。主役がいなくなったのだから当然だろう。それに、宴はすっかり覚め切っていた。
帰り道、俺は円田と美奈と並んで歩いていた。円田のヒールの音が、静かな夜の街に響いていた。その音が、わけもなく心地よく感じる。
「良かったです。無事に終わって。私、中島先輩と課長が首になっちゃうかと思って、すごく怖かったです。」
そうこぼしたのは美奈だった。心なしか声が震えている。
「ごめん。」
謝ると、美奈は泣くのを我慢しているような笑顔を浮かべて首を横に振った。
「それにしても、私てっきり課長は部長の味方だと思ってました。中島先輩のこと、嫌ってるのかと。」
「演技よ。部長を欺くための。他の人にすら悟られないようにしないと、部長にすぐにバレていたわ。」
美奈の言葉に、円田は苦笑した。
「本当は中島君のこと、すっごく尊敬してるのに。中卒のことをあげらっちゃって、悪かったと思ってる。」
「大丈夫だよ。俺は円田のこと、信じてたから。」
そう言うと、俯いていた円田がぱっと顔を上げた。気のせいか、頬が赤い気がする。なんとなく俺も顔が熱くなってきた。
「ところで、中島先輩、課長。お二人って、本当に先輩と後輩っていうだけの関係なんですか?」
そんなことを美奈が尋ねてきたから、ますます顔に熱が集まってきた。
「お、俺が円田みたいな美人と付き合うだなんて。そんな。」
「違うんですね。じゃあ、私、別に遠慮しなくていいってことですね。」
美奈が俺に体を寄せてきた。その体温にどぎまぎしていると、不意に俺の手を円田が取った。
「ごめんなさい。私たち、これから二次会だから。二人でね。」
そう言うと、円田は俺の手を握ったまま駆け出した。
「ああ、ずるいです!」
そう叫びながらも、美奈が俺たちを追いかけてくることはなかった。ヒールが激しく地面を叩いていく。転ぶんじゃないかとひやひやしていたら、案の定、円田は足を滑らせてしまった。抱き止めると、円田はとても軽かった。走ったことによって少し荒くなっている息、肌の上からでも分かるほてった体、少し乱れた髪、じわりと額に浮かぶ汗、潤んでこっちを見上げる目。その全てに心を揺さぶられる。
「中島君、好き。」
円田はそう言って俺に身を預けた。胸に耳を寄せられたから、俺の鼓動が早鐘を打っていることには気づいているだろう。
「教育係になってくれた時から。あなたが左遷されてからも。10年間、ずっとずっと、あなただけが好き。」
「円田。」
円田は上目遣いでこちらを見た。無防備にさらされた彼女の唇に、俺は自分の唇を近づけた。その時、背後でけたたましく自転車のベルが鳴り響いた。慌てて円田と一緒に道の端に寄る。自転車はそのまま猛スピードで横を通り過ぎていった。俺と円田は顔を見合わせた。そして、どちらからともなく笑う。
「今日はもう帰りましょう。」
円田の言葉に素直に頷いた。そっと繋がれた円田の手に指を絡ませて、俺たちは歩き出した。
あの騒動からしばらくして、部長は懲戒解雇となった。部下にミスを押し付けたり手柄を横取りしたりするだけでなく、会社のお金を横領するようなことを10年も続けていたのだから、当然だと思う。そのことは他の企業にも伝わっているらしく、なかなか再就職ができないらしい。家族も家を出て行ってしまったらしく、今は指をくわえて見ているといったところだろうか。
部長のポストに着いたのは、俺だった。
「先輩の営業成績と、これまでの会社への貢献度を考えれば、当然です。」
美奈がまるで我が事のようにふんぞり返る。照れ臭くなって書類を眺めていると、ノートパソコンを抱えた円田が現れた。その仏頂面を見て「まずい」と思い美奈と距離を取るが、時すでに遅し。
「ちょっと、美奈さん。サボっていないで仕事してくれる?」
円田は剣のある声で美奈に注意するが、美奈には暖簾に腕押しのようだ。
「今は休憩中です。私は仕事で中島君に用があるの。中島君、部長権限で追い出してちょうだい。」
「中島先輩はそんなことしません。そんな意地悪をおっしゃってたら、中島先輩に愛想尽かされちゃいますよ。私としては願ったりですけど。」
二人は俺を間に置いて、バチバチと火花を散らす。剣な空気に冷汗が止まらない。周囲の社員に助けを求める視線を送るも、誰もが「両手に花とはこのことですね」と言わんばかりの生暖かい笑みを返すばかりだ。
「アポの時間だから。」
円田と美奈の「中島君」「中島先輩」という怒った声を知らん顔で、俺は一番得意な仕事に逃げることにした。エレベーターホールでふとため息をついていると、円田が追いかけてきた。そして、俺の耳元で「今夜、行ってもいい?」と囁いた。そう、俺と彼女はあの日の夜から交際を始めた。まだ会社では秘密にしているが、俺は目をそらしながら小さく頷くと、彼女はにっこりと笑い、「よろしい」と言って去っていった。
まさか、こんな日が来るなんて。外に出て青空を仰ぐ。雲一つない晴天が、とても眩しい。部長に勝てたことは嬉しかった。正直なところ、中卒だからという理由で、俺は出世を諦めていたのだ。だけど、学歴なんて関係ない。俺自身を見てくれて、評価してくれる人が必ずいるのだと実感し、胸が熱くなる。これからも、これからも、俺自身が成長できるよう頑張っていこうと思う。



