「暇でしょ。孫お願い。」
あみは私の返事も聞かずに仕事へ出かけた。彼女を見送った後、残されたのは春ねと私。リビングでソファーに並んで座り、バラエティ番組を流した。春ねはぼんやりテレビを見ている。さっきのあみの言動を気にしている様子はない。小学生にしては大人びて見えるのは、きっと家庭環境のせいだろう。
そんな時、ふとある考えが頭に浮かんだ。急いでスマホを取り出し、スケジュールを確認する。いいことを思いついた。私はすぐに、ある人物にメッセージを送った。あみがどんな顔をするのか、楽しみで仕方ない。
約10時間後、家のチャイムが鳴り、玄関へ向かう。ドアを開けると、あみが不敵な笑みを浮かべて立っていた。だが、私の後ろにいる人物に気づいた瞬間、彼女の表情は一変した。
「そ、そんな…」
果たして、彼女はこの状況をどう切り抜けるのか。私は笑みを浮かべながら、あみを見続けた。
私の名前は井さえ、66歳。在宅で仕事をしながら、一人で暮らしている。本当は同い年の夫・ミきおと幸せに過ごしているはずだった。しかし、彼は数年前に心臓発作で亡くなってしまった。
ミきおとの出会いは高校生の頃。クラスは別だったが、バイト先が同じで、話す機会が多く、自然と親しくなった。少なからず彼に好意を抱いていた。結局、交際に発展しないまま卒業式を迎えることに。全てが終わり、帰る準備をしていると、数日後には新しい生活が始まるのだという寂しさや不安が一気に押し寄せた。
そんな中、私の名前を呼ぶ男性の声が聞こえた。振り向くと、そこにはミきおが立っていた。
「ちょっといいかな。」
そう言われて手招きされる。彼の元へ行くと、話があると告げられた。私は友達に「用事ができたから少し待っていて」とメッセージを送り、ミきおの後についていく。
着いた場所は屋上への階段。滅多に誰かが来ることはない。階段を登り切り、彼は立ち止まる。
「どうしたの?」
ミきおはこちらを振り返り、言った。
「実はずっと好きだったんだ。勇気が出なくてタイミングを測ってたら、卒業式になっちゃった。」
彼も私に好意を抱いていたとは思いもせず、言葉がうまく出ない。私も好きだったこと、このまま縁が切れてしまうのだろうと思っていたこと、自分の気持ちをはっきり伝えた。目の前の彼は目を細めて笑う。同じ気持ちで安心したのだと分かった。こうして私たちは交際を始めることに。
進路は別々だったものの、時間を見つけては会っていた。お互いに社会人になり、6年後に結婚。さらに1年経った頃、息子のたが生まれた。私は妊娠を機に退職していたので、家事や育児に専念できた。家族3人で近くに建てた一軒家での静かな生活が始まった。毎日が幸せで仕方なかった。この先もこの生活が続けばいいと願うばかりだった。
しかし、20年後、悲劇が私たちを襲った。ミきおが亡くなったのだ。原因は心臓発作。彼の職場から救急車で搬送されたという電話をもらい、たまたま家にいた大学生のたと共に急いで病院へ向かった。だが、案内された病室にいたのは、すでに息を引き取ったミきおだった。
数日後、現実を受け止められないまま葬式が終わり、お骨や遺影などを持って帰宅する。簡易的な祭壇にそれらを置き、たと2人で小さくなった彼に手を合わせた。何とも言えない気持ちに襲われ、隣にいるたにも声をかけられなかった。しかし、彼が沈黙を破ってくれた。
「俺、ここから大学に通っててよかったよ。もし飛行機の距離とかに住んでたら、大変なことになってた。」
「そうね。」そうつぶやく。
「俺、立派な大人になるね。」たは決意のこもった目でこちらを見る。その覚悟を感じ、私は頷いた。
それから私は在宅できる事務仕事を始めた。仕事を増やし、学費や生活費を稼いでいる。たは学生な上、就活の準備中だ。「無理しないで」と何回か言ったものの、彼には「大丈夫」と返される。しつこいのも嫌がられるだろう。最終的にはたの気持ちを受け入れようと思った。
2年後、たは大学を卒業し、就職をきっかけに一人暮らしを始めた。私の住まいとは車で10分ほどの距離だが、なるべく職場に近い方に住みたいと彼が言ったからだ。新しい環境で過ごしていく上で、たには困った時には頼りなさいと伝えた。最初の方は彼は頻繁に電話や帰省をしてきた。しかし、だんだん慣れたのか、帰ってくる回数は減った。ただ、電話やメッセージを問わず連絡はよくあったので、嬉しく感じる。
そんな生活を送り、気づけばたは26歳になっていた。仕事も順調だという連絡をもらえて安心する。だが、ある日、彼から衝撃的な告白を受けた。
それはいつも通りたと電話をした時のことだ。お互いの近況などを教え合った後、彼がどこか普段とは違う様子で話し出す。
「あのさ、結構真面目な話してもいいかな。」
途切れ途切れに話す彼に緊張感を覚える。
「何?」
「俺、結婚する。」
「え?」
意図せず大きな声が出た。今までたに対して恋人の有無や結婚の意思について聞いてこなかった。結婚するという流れになったのだから、たが報告するのは通常の流れ。しかし、あまりにも突然だ。
「おめでとう。相手は?」
「大学の時にやってたバイト先の子だよ。社会人になってからたまたま会って、付き合い始めたんだ。」
彼女も現在正社員として働いているらしい。他にも尋ねたいことはあったものの、今度結婚の挨拶で連れてきてくれるらしいので、その際に聞こうと考えた。
「じゃあ、2人で来るの楽しみに待っておくわね。」
「ああ。」
そして電話を切る。結婚の挨拶は1ヶ月後の日曜日に設定した。たがどんな女性を連れてくるのか、仲良くなれるのかなど不安はあったが、悩んでも仕方がない。私は気持ちを入れ替えた。
1ヶ月後、綺麗に掃除したリビングにたと婚約者がやってきた。ソファーに座ってもらい、お茶やお菓子を出す。私も彼らの前にある椅子に腰を下ろした。たたちの表情は固く、明らかに落ち着かない様子だ。私は普段通りに声をかける。
「そうだ。さっき聞いたけど、一応もう1度自己紹介していただいてもいいかしら。」
「あ、ああ。えっと、この子は…」
婚約者の名前は、あみと言うらしい。彼女はたからの紹介を終えた後、口を開いた。
「よ、よろしくお願いします。」
声が震えており、気を張っているのが分かる。そんな気持ちを少しでも柔らげようと、何気ない話をした。30分もすれば彼女はすっかり空気に馴染んだらしく、笑顔が増えた。その後、私は話を徐々に結婚はどうするのかなどの現実的なことを聞く。
「結婚式はしない。互いが住んでいる場所の近くに一軒家を建てる。子供は考えている。」
などのしっかりした回答が聞けて嬉しく感じた。勢いで結婚していないと分かったからだ。
「子供ができたら頼るのよ。それなりに近い場所に住むんだし、私はずっと家にいるから。」
「ありがとう。近くに母さんがいるっていう時点で安心できるしなあ。あみ。」
「うん。本当に嬉しいです。色々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、これからよろしくお願いします。」あみは深く頭を下げる。その姿を見て、しっかりしている子だと改めて認識できた。
気づけば2人が家に来て2時間が経っていた。「話しすぎたね」などと笑いつつ帰る彼らを玄関で見送る。たはこちらへ手を振り、あみを車まで送ろうとする。そして2人が家の前からいなくなった後、私は家に入った。先ほどまで賑やかだったリビングが静かで寂しい。お茶などの片付けや着替えなどを終わらせてソファーに座る。
「あの子も結婚か。」
つい声が漏れる。もしまだミきおが生きていれば、飛び切りの笑顔で結婚を祝福していただろう。私が今できるのは、彼の分までたたちをサポートすること。あまり現実味がないのが正直なところだが、新しい生活を始める彼らを応援したいと思った。
たたちは1年後に正式に入籍し、同時に以前伝えていた場所に家を建てた。さらに1年が経った頃、2人の娘である春ねが生まれた。初めて彼女に会ったのは出産から半月後である。家に連れてきてくれたのだ。あみの腕の中に収まっている小さな春ねを見て、幼い頃のたを思い出す。
「お母さん、抱っこしてみます?」
「え、でも…」
「いいんです。ほら。」
一度断ったものの、彼女のお言葉に甘える。しっかり重みを感じて、命を抱いていると実感できた。
「本当に可愛いわね。」
「あみが可愛く産んでくれたんだよ。すごい頑張ってくれてさ。」
「あなたのサポートがなければ出産は無理だったわよ。」
恥ずかしそうに笑う2人を見て、微笑ましく感じる。その後の話の流れであみは育児休暇を取得済みなこと、期間が終わり次第幼稚園へ入れることを教えてくれた。
「もしかしたらお母さんにお迎えとか頼んじゃうかもしれません。」
「任せて。私は車を持ってるし、送迎は無問題よ。」
こちらの返事にたたちはお礼を言い、安心した表情を見せた。たのために頼れるおばあちゃんになりたいと思った。
だが、春ねが3歳になった頃、私たちの生活は大きく変わった。まず、たが出張が多い部署へ移動となったらしい。上層部の言うことだからと断れず、泣く泣く配属を受け入れたそうだ。それに伴い、今日まで平気だった春ねの幼稚園へのお迎えが厳しい日ができてしまい、私が協力する流れになった。元々たたちの生活をサポートする気でいたので、彼らからお願いされた際は2つ返事で受け入れた。
しかし、彼の部署移動を機に、あみの言動が怪しくなり始め、不審感を抱くように。最初の違和感は、私が10回ほど春ねを迎えに行った時だ。彼女と共に家に帰り、春ねの帰りを待つ。たは飛行機の距離への出張らしい。
「お父さん、お土産買ってきてくれるかな?」
「いつも買ってきてくれるんでしょ?大丈夫よ。」
春ねは彼のお土産を毎回楽しみにしているようだ。ふと時計に視線を向ける。針は19時を差している。
「今日は遅いわね、お母さん。」
「うん。」
普段は18時頃には家に来て、遅くなる場合も必ず連絡をくれていた。心配だったが、スマホを触れないほど忙しいのだろうと思い、春ねの帰りを待った。結局彼女が来たのは20時過ぎた頃。
「すみません。遅くなっちゃって。」
「私たちは大丈夫だけど、どうかしたの?」
「仕事でトラブルが発生してしまって…」あみは眠そうな春ねを抱き抱えて言う。
「そう。まあ大変だったけど、事件に巻き込まれてないなら良かったわ。」
彼女は再び静かに謝った。気にしないで欲しいと伝えると、あみは春ねと帰っていく。私が食事やお風呂、寝る準備などを済ませたら、普段はすでに寝ている時間になっていた。幸い仕事はお迎えに行く前に全て終わらせてあるので、特に業務に関しての心配事などはなく眠りにつけた。
だが、その日を境に、あみは連絡もないまま夜遅くまで春ねを迎えに来ないことが増えた。さすがに私も落ち着かず、春ねも不安になる機会が多くなり、彼女にとっても悪影響だろう。たに話した方がいいとも感じたものの、私が春ねを迎えに行くのは彼が出張中だけだ。遠く離れた場所にいる中、相談しても無意味だと結論を出した。
彼女が連絡をしなくなって5回が経った頃、あみに面と向かって注意しようと決めた。普段通り春ねと共に迎えを待つ。20時を過ぎた辺りでインターホンが鳴った。モニターにはあみの姿が映っている。あみには春ねに迎えの話は聞かせたくなかったため、彼女にはリビングで待っていて欲しいと伝え、1人で玄関へ向かった。ドアを開け、外で待っているあみに声をかける。
「お疲れ様。今日も残業?」
「ええ、最近ずっと任せきりで申し訳ないです。」
小柄な彼女は浅く頭を下げる。そしてすぐに私の後ろを見た。
「あれ?春ねってどこにいますか?」
「リビングよ。あなたに話したいことがあるから、待ってもらってるの。」
あみは首をかしげ、視線を移す。
「何ですか?」
ここまで来ても私が何を言いたいのか分かっていないらしい。私はこれからのためと思いながら彼女に話した。
「最近、連絡がないまま遅く帰ってくることがあるでしょう。私も春ねも落ち着かなくて。明日からはメッセージの1つでも入れて欲しいのよ。」
以前はしてくれていたので、難しくはないはずだ。しかし、あみは面倒そうに頭をかく。
「ああ、それはすみません。」
「あなただって、たが何の連絡もなしに遅く帰ってくるのは嫌じゃない。少なくとも私はあまりいい気はしないのよ。」
気持ちを押し付けてしまっている感じがしたものの、思ったことをはっきり言った。けれど、彼女の反応は先ほどと変わらず、腑に落ちないように見えた。
「それとも、連絡が無理なくらい忙しいとか?」
彼女は何かを考えた後に口を開く。
「いえ、そういうわけじゃありません。すみませんでした。明日以降はしっかり連絡します。」
「ありがとう。お願いね。」
最終的にはこちらのお願いを聞き入れてくれて安心する。その後、私は春ねをリビングまで迎えに行き、あみと共に帰らせた。2人を見送った後、あみの反応を思い出す。明らかに納得していない様子の彼女に、正直不審感を抱いた。ただ、私とあみでは考え方が全く違うのかもしれない。結局どれだけ思考を巡らせても答えは出ず、モヤモヤしたままだった。
2ヶ月後、相変わらずたは出張が多く、私が春ねの面倒をよく見ていた。彼女が幼稚園へ行っている時間帯に仕事は終わっていたため、負担だとはあまり感じていない。むしろ春ねと過ごす時間が多く、嬉しいとさえ思う。あみは帰りが遅くなる際は連絡をくれるようになった。とても平凡で幸せな日々を送っていたが、そんな生活に終止符が打たれてしまった。
再びあみが連絡をしなくなったのだ。1回目は忘れているだけだろうと何も言わなかった。しかし、3回目にもなれば、もう一度話すべき。私は以前と同様に春ねを迎えに来た彼女にお願いした。
「ということで、お願いできる?」
黙って反応を伺っていると、あみは衝撃的な話をし始めた。
「その連絡って、何の意味があるんですか?」
「え、言ってるでしょう。あなたが遅くなるって伝えてくれたら、私も春ねも安心できるし。」
「お母さんたちにはメリットがあるけど、私にはありませんよね。」
時が止まった気がした。まさかそのようなことを言われるとは思っていなかったからだ。
「たかがメッセージ、電話1本なくても、私の迎えが遅かったら残業だなって普通分かりません?」
「前にも言ったけど、もしあなたが事件や事故に巻き込まれていたら、その考えは?」
彼女は普段は正している姿勢を崩して腕を組む。それだけではなく、大きなため息をつき、こう言った。
「私には連絡をする義務はないです。」
「たかがメッセージ1本が無理なの?できるはずだと思うけど。」
「そんな暇ありませんし。家で仕事できるお母さんとは忙しさが断違いなんですよ。」
どう返事をすべきか考えているうちに、あみは勝手に家の中に入った。
「ちょっと…」
彼女は私を無視してリビングに足を運ぶ。そして帰る準備を済ませた春ねの手を引いて玄関までやってきた。
「今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします。」
先ほどまでの不機嫌そうな表情とは全く違う、満面の笑顔で言われて戸惑う。
「おばあちゃん、またね。」
「うん。」
春ねに悟られてしまうのは困ると感じ、慌てて笑顔を作り、2人を見送った。かなりぎこちなかったはずだが、今はそこまで気にしていられない。玄関のドアが閉まる音が部屋に響き、虚しくなる。リビングに戻ってソファーに座り込んだ。先ほどのあみの顔や発言が忘れられず、頭を抱える。一瞬たに連絡するべきかと思ったが、遠くで仕事に集中している彼に話したところで、余計な心配を抱えてしまうかもしれない。様子を見るに、あみは春ねには一般的な母として接しているようだ。私は明日以降の彼女の言動を見て、今後の付き合い方を考えることを決めた。
しかし、現実はそこまでうまくいかない。翌日もそのまた翌日も、あみは当たり前に連絡をしないまま夜遅くに春ねを迎えに来た。再び連絡について話しても、彼女は聞く耳を持たず。挙句の果てには逆切れをする始末だ。春ねの前では母として冷静でいたが、私と2人きりの際はひどいものだった。
ある日、あみが連絡もなしに22時に迎えに来た時は、さすがに声を荒げた。当然、春ねはまだリビングにいる。
「こんな時間になるんだったら、なおさら連絡してちょうだい。私はいいけど、春ねはまだ幼稚園なのよ。春ねも普段通り過ごすのよね。あの子の負担が増えていくだけなの、分かってる?」
もう少し大きくなっていれば22時まで起きているのは普通だろう。しかし、やはり小さいうちは早く自分の家で寝かせてあげたい。
「私は残業してるんです。そういう勤務形態ではないお母さんには分かんないでしょうけど。」
「別に残業がダメとは言ってない。連絡して欲しいだけなの。」
何回言っても彼女は納得せず、反論するばかり。最初に「はい」と答えてくれたのは、おそらく私の話を早く終わらせたかったからだ。あみは玄関のドアに体を預け、姿勢を崩して言う。
「そもそもお母さんって、何の権限があって私に注意してきてるんですか?別にあなたに迷惑をかけてるわけじゃないのに。もしかして、春ねの面倒を見るの嫌なんですか?」
「そんなわけないでしょ。どうして悲観的な発想になるの?」
「純粋にお母さんの気持ちを聞きたかっただけですよ。反論するっていうことは、もしかして…」
春ねがいないのをいいことに、彼女はどんどん話を進める。
「それにお母さんって、同じ話しかしませんよね。楽しいんですか?」
「あなたが私のお願いを聞いてくれな…」
その時、大きなリュックを背負った春ねがリビングからやってきた。
「帰る準備終わった。お母さん、遅いよ。」
「ごめん、ごめん。忙しくてね。」あみは表情を柔らげて言う。そして彼女の小さな頭を撫でた。
「じゃあ、帰りましょうか。」今度は手を握り、玄関のドアに手をかけた。
「ではまた。とりあえず、一旦明日でたの出張も終わるので。」
「え、うん。じゃあね。」
あみは軽く、春ねは元気に手を振り、家を帰っていった。私はなんとか頷き、彼女たちを見送る。ドアが閉まった途端、何とも言えない気持ちに襲われる。あまりにもあみが自信満々に話すので、私は間違ったことを言っているのだろうかと不安になった。リビングに戻る気力もなく、しばらく玄関に立ち尽くす。
しかし、すぐにとある考えが頭の中に浮かんだ。たに相談しよう。最初は我慢できていたものの、もうあみと接するのは精神的に限界が近い。このままではいい関係を築けない。彼は明日には帰ってきているだろう。今から電話をかけるのは迷惑だと思い、「話がある」と、時間が空いた際に連絡をしてきて欲しいことをメッセージで送った。
翌日、12時頃にたが電話をかけてきたので対応する。
「ごめん。昼休みにしか時間がなくてさ。で、話って何?」
私は最近のあみの態度について話し、注意して欲しいとお願いした。
「手間をかけちゃって悪いけど、いいかしら?もう私が話しても聞いてくれなくて困ってるのよ。」
「分かった。今日家に帰ったら言っておくよ。迷惑かけて本当にごめん。でも、それって急に態度が変わったってことだよな。あみは何を考えてるんだ?」
「そうなの?私もびっくりしちゃって。春ねの前では汚い言葉は使わないから、そこは安心してね。」
「ああ、とりあえずあいつに話終わったらまた連絡するよ。」
そして簡単にお互いの近況を話し合って電話を切った。たが元気で良かったが、嫌な役回りを頼んでしまい、申し訳なく思う。
当日の夜、23時頃、スマホにメッセージが入った。相手を見れば、そこにはたの名前が表示されている。私は急いで内容を確認する。たは約束通りに注意してくれたらしい。彼女は不機嫌だったものの、なんとか納得したそうだ。文章の最後の方には「正直あまり反省は見られなかった」と書かれており、次にあみと会った際に何を言われるのかと考えたくなる。私はすぐに彼にお礼を返信し、スマホを伏せてテーブルに置いた。
すっかり落ち着いた生活を送るうちに、春ねは9歳になっていた。留守番ができるようになり、私の家に来る頻度は減ったが、あみが仕事の際は彼女を預かることはあった。春ねと過ごす時間は楽しいので、2つ返事で受け入れる。この頃にはあみの性格は結婚の挨拶の時のように柔らかいものに戻っており、なんなく話せていた。
しかし、春ねが9歳になって半年が経った頃、急にあみから預かって欲しいと言われる頻度が高くなった。仕事にも支障はない時間だったので、全て受け入れる。土日祝日も休日出勤だとあみが言うため、面倒を見続けた。
とある土曜日、私は春ねと共に町へ繰り出した。彼女の服を買ってあげたかったのだ。たたちにも了承を得ていた。ファミレスで昼食を済ませ、ショッピングセンターへ向かう。数多くの服屋を覗き、春ねが欲しいと言った服を数着買った。大きな紙袋を数個持って帰り道を歩く。彼女は笑顔で私に学校での出来事をたくさん話してくれた。幸せな時間だと思いながら、春ねの話を聞いていた。
だが、とある喫茶店でテラス席にいるあみを見つけたことで、私たちの気持ちは一気にどん底に陥ってしまった。最初は彼女の姿しか見えなかったため、話しかけようと近づく。数歩前に進んだ時、あみの前に彼女と同い年くらいの見知らぬ男性が座っているのに気づいた。影に隠れて様子を伺う。彼女たちはこちらに気づいておらず、周りを気にしない大きな声量で話し続けた。ふと春ねを見ると、少し悲しい表情をしている。先ほどの眩しい笑顔とは対照的だ。あみや男性が原因だと分かる。私はそのまま話を聞き続けた。
男性は彼女が既婚者だと知っているらしい。それを匂わせる発言をした後に「子供は?」と聞いた。あみはこう言った。
「あ、あいつ、無料託児所のところ。」
意味が分からず、その場に固まる。
「お母さんのところか。」
「そうそう。学童保育とか浮かせたいでしょ。すごい助かってるのよ。」
「今日は休日出勤って言ってきたんだっけ?騙され続けるのもすごいよな。」
「鈍感すぎる。でも、あなたとの間に子供ができたら、絶対に雑な扱いはしないから安心してね。」
吐き気を催し、春ねの手を引いてその場を立ち去った。小さな彼女に心配をかけないよう、普段通りに振る舞いたかったが無理だった。私はあみたちから離れるため、少し早歩きで近くの公園まで向かう。目的地に着き、ベンチに座る。春ねは若干息切れしており、謝りながら落ち着くように背中をさすった。
「ごめんね。急に歩き出しちゃって。」
首を横に振る彼女の呼吸は普段通りに戻っていた。先ほどの話の意味は春ねには分かっていないはずだと思いたかったが、寂しげな表情を浮かべている彼女は、全て理解しているに違いない。しかし、私があみと男性に関して聞くわけにはいかないだろう。その時、彼女が小さな声で言った。
「あのね、お話聞いてほしい。お母さんのこと。」
一応聞くとは、春ねは頷く。
「分かった。話してみて。」今度は彼女の頭に手を乗せ、優しく撫でた。
「…ということがあったの。」
私はあまりにも衝撃的な話を聞き、何を言えばいいのか分からなかった。春ねがあみと男性を見て悲しそうな表情をするのも納得だ。
「お、お父さんには言った?」
「うん。言えないよ。だってお母さんがやってるのってダメなことだよね。お父さんが悲しんじゃう。」
年齢の割にしっかりしているという感想を抱いたと同時に、まだ幼い子に気を使わせるのは申し訳ないと感じる。
「私からお父さんに言ってもいいかな。」
「え…」
「このままじゃお母さんはもっとひどいことをしちゃうかも。お父さんはなかなか家にいられないし、状況を知ってもらわなきゃ。」
すぐに頷いてくれるかと思ったが、春ねは黙る。
「だめかな?お父さんが嫌な思いしちゃう。」
どこまで人の気持ちを考えられる子なのか。
「あなたは何も気を使わなくていいの。私とお父さんに任せて欲しいわ。」
まっすぐ彼女を見ているうちに、決心してくれたようだ。春ねは頭を上げた。
「ありがとう。今日もお父さんはお仕事なのよね。」
「うん。まだ家にいないよ。」
「分かった。じゃあ、後で電話しておくわ。」
先ほどの2人の光景や春ねの様子を見る限り、早めに対処するべきだ。だが、急ぎすぎるのも良くない。まずはたと話してからだと思った。
当日の夜、あみは私が昼間の会話を聞いているとは知らずに家にやってきた。
「今日もありがとうございました。本当に助かりましたよ。」
「いいの、いいの。お仕事大変だったんでしょ?」
「ええ、実は最近後輩ができて、その関係で以前より仕事量が増えたんです。」
後半に関しては嘘か本当か分からないが、少なくとも今日は仕事はしていないはず。私はなんとか不快な気持ちを表情に出さないようにしながら、彼女と話をした。
「では、明日もお願いします。」
「ええ、任せてちょうだい。春ねもね。」
「うん。」
普段よりは春ねは元気がなかったが、あみは単純に疲れているだけだと感じているらしく、安心した。2人を見送った後、すぐにリビングへスマホを取りに行く。そしてたに電話をかけた。3コール目で出た彼に事情を伝える。
「…ということになっててね。」
電話の向こうでもたが息を飲むのが分かる。彼の反応は当然だ。何と話しかければいいのかが考えつかず、黙ってしまう。数秒ほど沈黙があったものの、たの低い声が聞こえて、気まずい雰囲気は消えた。
「俺が出張してるから浮気してるのか?あいつは…寂しいのか?今の家族には興味がなくなった可能性もあるよな。浮気相手と子供を作ろうとしているし、もうダメなのか。」
「落ち着いて。それに、春ねの前でひどいこと…」
「俺、父親としても夫としてもダメなんだな。頑張って仕事してるのになんで…」
急に現実を突きつけられてパニックになっている彼を落ち着かせるため、わざと声を荒げた。
「あ、ごめん。」
「あなたは何も悪くない。それはちゃんと理解して。自分を責めたらダメよ。」
たは静かに「ああ」と言う。返事は震えており、まだ動揺しているようだ。
「でも、俺は何をすればいいんだ。このまま放っておくのは春ねに負担がかかってしまうし、俺もあいつとどう接していけばいいのか分からない。」
「それについて相談があってね。」
私は昼間の光景を見て以降、ずっと思考を巡らせていた。その中で1つの案が思い浮かんだのだ。
「どうかな。」
「確かにそういうのもありだよな。何もプランを立てずに行動を起こしたら、俺たちに不利になりそうだし。」
「そうでしょ。だから、仕事の日程表を送ってくれないかしら。」
「ああ。」
その後、すぐに彼が会社のカレンダーを送ってくれて、話がスムーズに進む。
「春ねには私が話しておくわ。あなたは仕事の調整をお願い。」
「分かった。この日の出張はなんとか早く切り上げて帰ってくるよ。一緒に行くのも同期だし、事情を話せば分かってくれる。」
私たちは互いに励まし合い、電話を切った。この先、すでに破綻している1つの家族を壊しに行く。1人きりになり、冷静な気持ちを取り戻した途端、不安が湧き上がってきた。だが、現状維持はたと春ねの精神的なダメージが増すばかり。覚悟を決めるしかないと自分を奮い立たせるため、拳を強く握りしめた。
翌日、再び春ねと1日中2人で過ごした。外出はせず、彼女の宿題を見たり、お菓子を作ったり。仕事は休みだから、何も気がかりなことはない。そんな穏やかな時間の中、私は現実的な話をしなくてはと、春ねに呼びかける。
「少しいいかな?春ねのお母さんとお父さんの話をしたくて。」
春ねは察したのか、表情を曇らせる。
「うん。」
「ごめんね。」
私は彼女のためにと自分に言い聞かせつつ、前日の夜にたと話したことを伝えた。最初は眉を八の字にして明らかに不安そうだったが、徐々に表情が明るくなっていった。
「でね、私頑張れるよ。お父さんとおばあちゃんのためなら。」
まだ小学生の彼女には酷なお願いだと思っていたところ、彼女は私の頭の中を読んだかのごとく答えてくれる。
「本当?」
「もちろん。少しだけ我慢したら、もうお母さんと暮らさなくてもいいんだよね。」
「ええ、なんとかその流れに持っていくわ。」
私の言葉に春ねは眩しい笑顔を見せた。彼女を守らなくては。そんな気持ちが湧き上がってきて、春ねを抱きしめた。その後、私たちはテレビを見ながら過ごした。彼女の口数が増えたので、気分が明るくなったのだろう。早く春ねが心から笑える日がやってくれればいいと願うばかりだ。
半月後のある土曜日、1人でリビングにいた際、インターホンの音が部屋に響く。出ると、そこには春ねを連れたあみが立っていた。
「え、今日って何も言われてないけど…」
春ねと過ごすのは構わない。しかし、事前に話を通してもらう必要がある。
「別にいいでしょ。私だって急に会社に来てくれって言われたんです。」
ヘラヘラする彼女に腹が立つ。だが、すぐに聞こえてきた言葉でどうでも良くなった。
「暇でしょ。孫お願い。」
結局、あみは私の返答を聞かないまま出勤する。彼女を見送った後、残されたのは春ねとリビングへ向かう。2人でソファーに座り、バラエティ番組を流した。春ねはぼんやりテレビを見ている。先ほどのあみの言動は気にしていない様子だ。小学生にしては大人に感じられるのは、おそらく家庭環境のせいだろう。
そんな時、ふとある考えが頭の中に浮かんだ。急いでスマホを取り出し、スケジュールを確認する。いいこと思いついた。私はすぐに、ある人物にメッセージを入れた。あみはどのような顔を見せてくれるのか、楽しみだ。
約10時間後、家のチャイムが鳴り、玄関へ向かう。ドアを開ければ、あみが不敵な笑みを浮かべて立っていた。だが、私の後ろにいる人物に気づいた瞬間、表情を一変させた。
「そ、そんな…」
果たして、彼女はこの状況をどう乗り切るのか。私は笑みを浮かべながら、あみを見続けた。
「なんでたがここにいるのよ。明日じゃないの?帰ってくるのって。」
私が呼んだのはた。最初はあみを驚かせるために出張を早めに切り上げて帰ってきて、彼の家で彼女と春ねの帰宅を待ってもらう予定だった。しかし、春ねを預けに来た際のあみの態度があまりにもひどかったので、さらにギャフンと言わせたくなったのだ。自分でも年甲斐がないと感じたが、このくらいしても許されるはず。
「まるで俺がここにいるのは都合が悪いみたいだな。」
「そういうことじゃなくて、純粋な疑問よ。早く帰ってくるのなら、私に連絡して。」
「たにとってはここが実家になるの。あなたにとやかく言われる筋合いはないでしょう。」
また彼女の言動は矛盾している。
「あなた、今連絡してって言ったわよね。」
「まあ、それは当たり前じゃないですか。」
気づいていないらしく、つい笑ってしまう。
「何笑ってるんです?」
「私が前、ずっとあなたに遅くなるなら連絡をしてってお願いしたわよね。」
「ああ…」
ここまで言ってようやく分かったらしい。
「これで連絡の大事さを理解してくれた。たが連絡していたら、さっきあなたが戸惑って起こることはなかったの。」
「だけど、私は純粋に連絡をする暇がなくて無理だっただけで。」
「じゃあ、俺は暇だって言いたいのか。」
話に割って入ったたに一気に視線が集まる。春ねには聞かせたくない内容だったが、彼女は両親の真剣な話し合いを見たいと言ったのだ。
「違うけど。」
「じゃあ、連絡くらいしろよ。ここ数年はずっとしていただろうし、とかふざけた言い訳はするな。」
俯き黙り込んでしまったあみに向けて、わざと追い打ちをかけるように話をした。
「いい大人なんだし、もうちょっと人の気持ちを考えて欲しいわ。」
彼女はしぶしぶ頷く。全く納得していないのが丸分かりだ。
「私が全部悪いって言いたいんですか?」
「なんでそうなるんだ?とにかく今日はもう帰るぞ。ごめん、母さん。家でまた話しておく。」
「ええ、ありがとう。」
たはふてくされるあみの手を引き、玄関へ向かった。春ねも彼の後ろをついていく。
「ちょっと、話って何よ。私はまだお母さんに言いたいことがあるの。」
「どうせ、いつもの文句ばかりだろう。これ以上母さんを困らせるなよ。」
そんな会話をしながら、たたち3人は家を出た。最後に出た春ねの背中が少し寂しそうに見え、何とも言えない気持ちになる。私はリビングへ戻り、片付けをした。そして寝る準備などを済ませてソファーに座り込む。今日は望んでいたあみの表情を見られたので、いいだろう。この先の立ち回りが不安なものの、なるようになるはずだと思い、私は自分の時間を過ごし始めた。
翌日、家事を一通り終えて昼まで休憩しようとした時、たが電話をかけてきた。なんとなく内容は分かっていたため、すぐに応答する。私が声を出すより先に、彼が話し出す。
「母さん、昨日は本当にごめん。」
「気にしないでよ。それで、要件は昨晩のことよね。」
「ああ、一応報告したくて。」
たは帰宅して春ねが寝た後、あみを怒ったらしい。しかし、どれだけ私への態度を改めろと伝えても、聞く耳を持たなかった。挙句の果てには逆切れし、実家にこもったそうだ。
「なんでああなっちゃったかな。心境の変化を聞きたくても、全く教えてくれないしさ。」
「やっぱり、あれが原因よ。」
「だよな。」
彼の声色がかすかに変わった。落ち込んでいるのが分かり、悲しい。だけど、もうちょっと頑張ったら生活は変わるわよ。私が言い出したし、あなたより自由に動ける。よければ色々と私に任せて欲しいわ。
「ありがとう。今度、直接会って話がしたいんだ。」
「あみも春ねも出かける日があるはずだし、分かったら連絡する。」
私は承諾し、通話を終わらせた。少し気が抜けると、頭の中にあみと男性が話していた姿が思い浮かぶ。2人の楽しそうな表情や、私を無料託児所と見る発言。大切であるはずの娘の扱いなどがどんどん溢れてきて、辛くなった。どんな気持ちで彼女は家族に接しているのか、本心を知りたくなるばかりだ。
1ヶ月ほど期間が空いた日曜日の朝、再びあみが春ねを連れてやってきた。この時たが出張中だというのは知っており、預けに来るだろうとは思っていた。相変わらず彼女の態度はひどい。
「じゃあ、よろしくお願いします。」
「今日も連絡がなかったわね。ま、いいけど。」
「いいなら、わざわざ余計なこと言わないでくださいよ。ほら、春ね。早く靴履いて、おばあちゃんに遊んでもらって。」
そう言い残し、あみは家を出た。約1ヶ月ぶりに顔を合わせたというのに、謝罪も何もない。
「今日、大丈夫なの?」
「もちろん。実は今日は春ねが来るかもって準備してたのよ。」
そんな話をしつつ、2人でリビングへ足を運ぶ。その後、本当はたから出張の日程などを全て教えてもらっているということを教えた。
「これはお母さんには内緒ね。」
彼女の口は軽くないはずだが、念を押す。
「分かった。」
春ねは飛び切りの笑顔で頷いてくれた。私が毎回彼女を預かることを受け入れているのは、春ねに警戒心を抱かせないためだ。もしいきなり拒否してしまえば、怪しまれるだろう。
その後、穏やかな時間は過ぎていき、あっという間に夜になった。19時を回った頃、インターホンが鳴る。モニターを確認し、あみだと分かったので出た。ドアを開ければ、そこには腕を組んだ彼女が立っている。私にはどんな態度を取っても許されるとでも思っているのだろうか。春ねを迎えに来たあみは、普段とは違う匂いをまとっていた。思わず眉を潜めてしまった。そんな私の様子を見逃すわけがなく、指摘される。
「今の顔、何ですか?明らかに嫌そうな感じでしたけど、私のことが嫌いなんですか?」
「そういうわけじゃないわよ。」
正直、あみの反応は面倒だ。はっきりと嫌いだと言えば悲観的になり、違うと伝えてもさらに話を展開してくる。私を困らせたいようにしか見えない。
「お母さんが私のこと嫌いなら、春ねにも同じ感情を抱いてますよね。」
「どうして?」
「私の血が流れてるんですもん。」
なぜそのような発想に至るのかが全く理解できなかった。戸惑う私に、彼女は不敵な笑みを浮かべて言う。
「やっぱり、私も春ねも嫌いなんですね。」
「違うって。」
「あの子には言っておきますので。」
私はつい大きなため息をついてしまった。
「私の相手も面倒だと思ってます。そうやってすぐ態度に出すと、どんどん人が離れていきますよ。だけど、お母さんに寄ってくる人はいないか。」
そして目の前で手を叩いて大笑いをした。何が面白いのか全く理解できずに、彼女を見続ける。
「そうだ。春ねはどこですか?」
「今出てくるわよ。」
すると、会話を聞いていたかのように春ねがやってきた。
「春ね、帰るよ。」
あみが普段よりぶっきらぼうに言い、春ねの手を強引に引っ張った。
「待って。まだ靴が履けてないの。」
「いちいち動きが遅いのよ。どうして私を困らせるのかしら。」
黙っていられず、口を挟む。
「何があったのか知らないけど、この子に当たるのはやめなさい。」
「春ねは、あなたにとやかく言われる筋合いはありませんけど。説教もだるいです。私は自分の子供を叱ってただけですよ。」
「自分の気分で振り回してるだけでしょ。」
「年を取れば口うるさくなるんですか?鬱陶しいので口閉じてください。私に説教するのも2度とやめて欲しいです。」
呆然とした。はっきり「鬱陶しい」と言われたのは初めてだ。
「お母さん、やめてよ。おばあちゃんが悲しむでしょ。」
「あんたは黙ってなさい。靴が履けたなら行くわよ。」
そう言って、あみは再び春ねの手を無理やり引っ張って外へ出る。追いかけるためにサンダルを履こうとしたものの、焦ってしまい、外に出た頃にはすでに彼女の車は消えていた。おそらく明日もまた来るはずだ。私は一応、たに先ほどの話についてメッセージを送る。すぐに電話をしてみるという返事が来て、安心した。
翌日、家にやってきたあみは反省の色を見せず、不機嫌だった。春ねは私が玄関のドアを開けるのと同時に家の中に入る。相当先日の夜が怖かったのだろう。
「昨日のこと、たに言ったのは知ってるわね。」
あみに問いかけた。
「まあ、急に電話がかかってきてびっくりしましたよ。お母さんのせいだったんですね。最低。」
最後の言葉に腹が立つ。すると、彼女は大きなため息をつき、車へ向かった。私はすぐ玄関に鍵をかけ、春ねの元へ行く。
「春ね。昨日は大丈夫だった?あの後、怒られたりひどいことされたりしてない?」
もし怒りに任せて手を上げていた場合は、どう対処すべきなのか。彼女の答えを待つ時間が長く感じる。しかし、春ねは予想とは反してケロッと答えた。
「平気。ずっと物には当たってたけど、私は何もなかった。」
子供にとって悪い環境だが、過ぎてしまったことだ。むしろ彼女に怪我がなくて良かったと前向きに捉えた。
「それは良かったわ。あ、そうだ。今日はね。」
春ねは自分の鞄の中から1冊のドリルを取り出し、リビングのテーブルに置く。
「宿題を見て欲しいの。」
「任せなさい。」
私たちは普段通りの時間を過ごし始めた。早くこの子には心から安心できる日がやってきて欲しいと願った。
翌日、私は春ねとたの3人で公園に遊びに行った。2人で無邪気に遊ぶ春ねをベンチから見守る。しかし、彼女の様子がおかしいことに気づいた。
「春ね、どうしたの?」
春ねはとぼとぼと私たちの元へやってきて、たの膝の上に座った。顔が強張っており、手も震えている。
「何があったんだ?」
彼が尋ねても、無言のまま。私は嫌な予感がし、理由を聞いた。
「昨日、お母さんになんか言われたの?」
「え?」たは知らないらしい。ごまかすのは無理だと悟ったのか、彼女は口を開く。
「おばあちゃんって、私のことが嫌いなの?」
やはり、あみは私が春ねを嫌いだという根拠のない話をしたようだ。驚くたは口をパクパクさせている。
「そんなわけないでしょ。私はあなたが大好きよ。」
「本当?」
「もちろん。嫌だったら、あなたの面倒は見ないわよ。信じてほしい。」
春ねは少し考えた後、いつもの可愛らしい笑顔を浮かべて言う。
「分かった。あのね、不安になっちゃったの。お母さんに、おばあちゃんはあなたが嫌いだって言われたから。」
「え、いつそんなこと?」
「お父さんがお風呂に入ってる間。」
そんな短時間に吹き込んだのか。どれだけひどい扱いをされていても、実の母の話を信じてしまうのは納得できる。私は彼女の頭を撫で、安心させるように「大丈夫だよ」と声をかけた。春ねは大きく頷き、私に抱きつく。まだ小さな体に負担を負わせているのを改めて感じ、胸が痛くなった。
その後もあみの態度は変わらない。1度は怒られたはずだが、なぜ平気で高圧的に接することができるのだろうか。思考を巡らせ、彼女はたに自分の行動がバレていないと思い込んでいるという結論に至った。私は週に数回、出張中ではないたと電話をし、家族と一緒にいる際のあみの様子やこちらの家での態度について教え合っていた。どうやらあみはたに対しては無関心になってきているが、なんとか春ねとはうまく接しているらしい。なぜ自分の行いが全てバレている可能性があると思わないのか、不思議だ。また、私の家での話を聞くたびにたは毎回ため息をつき、精神的に参っているのが分かり、苦しかった。
そんな生活を送り、半月が経った頃、やっとたと話し合いができる日が決まった。彼は遅くなって済まないと謝ってきたものの、気にしなくていいと伝える。私は日程を承諾し、電話を切った。急に緊張感に襲われて手が震える。しかし、もう後戻りはできない。春ねの大きな負担も、早く何とかしてあげたかった。手元にあったスケジュール帳を手に取り、ページをめくる。そして、たと会う日に大きな丸をつけた。
2週間後、家にたがやってきた。彼は私の目の前に座り、姿勢を正す。
「緊張してるの?」
「そりゃ、もちろん。」
私もたと同じ気持ちだが、今日は話し合いだけだ。
「私たちだけだし、肩の力を抜きなさいよ。その方がいい案が出るかもしれないわよ。」
「それもそうか。」
すると、たはすっと立ち上がり、軽くストレッチをした。だいぶ心が落ち着いてきたのか、ソファーに深く腰を下ろす。
「よし、もう大丈夫だ。」
先ほどより表情が生き生きとしており、安心する。
「今日は春ねは何時くらいに帰ってくるの?」
「それまでに終わらせたいわね。16時頃かな。友達の家で宿題やったり公園で遊んだりするんだってさ。帰りはその子の家まで迎えに行くんだ。15時には終わらせたいな。」
時刻は12時半だ。そこまで時間はかからないはず。私は承諾し、話を始めた。
「あなたは今後、あみさんとどうなりたいの?再構築か、離婚か?」
たは即答した。
「そりゃ、離婚だよ。」
「まあ、分かってたけど。今までのあみの態度、母さんへの暴言、春ねの扱いを考えれば、それしかない。それに、俺はもうあいつへの愛は消えたよ。」
もしここで彼が悩んでいたとすれば、私はたに離婚を進めていただろう。あみのあの性格は今後治るとは思えないからだ。たが建設的な考えを持っており、安心した。
「だけど、簡単には無理なことは分かってる。今回は春ねが親権で、離婚って形で進めていきたいんだ。」
「ええ、ならまずは証拠集めをしないといけないわよね。やっぱりプロに頼った方がいいのか。」
その後もどんどん話は進んでいき、1時間後にはまとまった。あみの外での行動は探偵事務所に依頼して、しっかりとした証拠を掴んでもらう。彼女が相手に会うのは大体たの出張の時なので、日付を狙って頼めば費用もそこまでかからないはずだ。彼にとって痛い出費になるものの、慰謝料で帰ってくるという結論に至った。家での様子はたにカメラを仕掛けてもらい、言い訳できないような場面を撮る。当然、春ねへの配慮も忘れずにする。そして、他に何か思いつけば随時行動に移すことに。
「他には何かある?」
「大丈夫かな?」
「あと、ドライブレコーダーも見てみる。」
たたちは仕事の関係で1台ずつ車を所持しており、それぞれにドライブレコーダーがつけられている。車内であまり良くないことをやっている可能性は十分考えられる。
「別々の車で良かったわね。」
「本当だよ。最悪な事態になっていなければいいけど。」
その後、少しの沈黙が続く中、たが口を開いた。
「相談乗ってもらっていいかな?」
「改めて?」
彼は膝の上で拳を握りしめた後、私をまっすぐ見る。
「俺、転職しようと思ってるんだ。」
「あら。」
まさかの話に驚く。
「今回、母さんや春ねに苦労させてるのは、俺の仕事のせいなのかなって。出張が多い部署に移動になって、生活が変わっただろう。でも、あなたがそこまで気に病む必要はないのよ。今はいいさ。母さんも元気だし、春ねも小学生。給料で暮らせているし、この環境に甘え続けるっていう選択肢もある。」
たの発言の1つ1つに責任を感じた。一家の大黒柱として自覚があるのだと分かり、考え深くなる。
「でも、もし母さんが病気になったり、春ねが受験生や思春期になったりしたらどうする?俺が今の部署のまま定年までいることになれば、周りの大切な人たちに迷惑がかかると思ったんだ。」
「他の業界を目指してるの?」
「いや、同じ業界でいいところがないかなって。」
「なるほど。あまり遠すぎるのも転職の意味がなさそうね。」
「ま、それも悩んでる理由の1つなんだ。」
彼のために必死に支援する。
「やっぱりこのままの方がいいのかな?」
「他に不安はある?」
少し沈黙し、たは口を開いた。
「金銭かな?もし俺が会社を辞めた後に転職活動するとなれば、その間の生活費とかがなんだよ。本当は転職先が決まった後に退職って形が理想だけど…」
なら、私は1つの提案をする。
「たたちの生活が苦しくなったら、私がなんとかする。1人暮らしだし、趣味も特にないから、貯金は結構あるのよ。」
「それは申し訳ないよ。いいの?」
「さっきあなたが言っていたように、私が病気だったりすればフォローは無理だった。だけど、違うでしょ。」
彼は1人の親でもあり、私の大切な息子でもある。何でもかんでも抱え込む必要はないのだ。
「あなたが良ければだけど、頼って欲しいな。あみさんとの離婚が成立すれば、私がたの家で少しの間生活してもいいのよ。どこでも仕事はできるし、その方が都合がいいと思うわ。」
「本当にいいのか?」
「ダメなことは言わないわよ。た次第だ。」
私は静かに決断を待つ。
「じゃあ、母さんに甘えようかな。」
「そうしなさい。できる限り、あなたのお願いは何でも聞くわ。」
「本当にありがとう。俺、母さんの子供でよかったよ。」
つい涙が出そうになるのをぐっとこらえた。
「じゃあ、早速探偵事務所を探しましょうか。」
ごまかすために少し大きな声を出す。たは春ねに似た飛び切りの笑顔で頷いた。
2時間後、予定時刻を過ぎてしまったものの、無事にこれからの動きや探偵事務所が決まった。手続きなどは後日、彼が全て行うことに。また、慰謝料を請求する際に頼れる弁護士にも目星をつけた。この時点で依頼しないのは、まだ早いと感じたからだ。弁護士を挟めば、あみと直接は話せなくなる可能性が高い。専門家に伝言などをお願いするのが確かなのは分かっているが、やはりすぐに彼女の返事がもらえないのはもどかしい。人づてより、直接の方があみの言いたいこともはっきり伝わってくるはずだ。
「じゃあ、俺帰るわ。今日は相談に乗ってくれてありがとう。色々迷惑をかけるかもしれないけどな。」
私はたが春ねを迎えに行くのを見届けた。1人で家の中に入り、部屋へ向かう。そして、普段愛用しているサイトを開き、1つの商品を買う。届くのは明日だそうだ。たを驚かせたくて、私は成功するかどうか分からないことに挑戦しようとした。うまくいってもいかなくても、何かしら役に立てばいい。そういう気持ちだった。
1週間後、春ねと共に土曜日の昼間を過ごしていた。彼女は私が作った肉じゃがが好きなので、多めに作って出した。
「すごい美味しい。私ね、世界最後の日に食べたいものは、おばあちゃんの肉じゃがなの。」
「あら、嬉しいわ。」
微笑ましい時間を過ごせて、日々の疲れを忘れられそうだ。そんな中、春ねが言ってきた。
「あのね、お父さんが家の中にカメラを仕掛けたんだ。ドラマみたいで面白い。」
負担になっていそうで正直とても不安だったが、春ね自身は前向きに考えているようで、何よりだ。私は笑いながらご飯を食べる彼女に、1つの質問をしてみた。
「春ね、お父さんとお母さんが離れちゃうのは嫌?」
実はまだ彼女の意見を聞いていない。尋ねるつもりだったものの、たとの話し合いと順番を間違えてしまったのだ。春ねは少し考えた後、答えてくれる。
「うん。私、そうなっても寂しくない。お父さんと一緒に生活できるなら、それでいいと思ってる。」
「やっぱり、あの人のせい?」
すると、彼女は悲しげに頷く。
「それに、お母さんについて言ったら、絶対に楽しくないって分かるもん。おばあちゃんとも離れちゃうし。」
あみの両親は飛行機の距離にいる。数えるほどしか会ったことないが、彼女に似て性格がきつく、本音を言えばあまり関わりたくないタイプだ。
「春ねの気持ちが知れて嬉しいわ。私とお父さん、頑張るわね。」
「うん。ありがとう。」
私の返事が嬉しかったのか、春ねは食事を再開した。食後には2人でデザートを食べ、昼寝をする彼女を横で見守る。完全に寝入ったタイミングを見計らい、そっと立ち上がった。そして、春ねの鞄の奥底へ、1週間前に頼んだものを入れる。それには念のため、メッセージで「触らないでね」という文章を書いたテープを貼った。結果が楽しみだと思いつつ、私は彼女の元に戻った。
そんな生活を送り、半月が経った頃、ようやくあみに現実を突きつける日がやってきた。とある日曜日、私が家にいるとインターホンが鳴った。モニターを確認して出る。そこには緊張気味のたと、文句を言い続けるあみがいた。
「ねえ、お母さんの家に行くって言われてないんだけど。ショッピングセンターで新しい服を買ってくれるって言うからついてきてやったのに。」
「ママと騙されてくれて助かったよ。ということで、お邪魔するよ。」
「ええ、適当に座ってちょうだい。」
私は2人をリビングに促し、玄関のドアに鍵をかける。彼らの元に行けば、すでにソファーに揃って座っていた。急いでたの前の椅子に座る。春ねは友達と遊んでおり、夕方まで帰ってこない。現在の時刻は10時だ。時間はあるものの、なるべく早く決着をつけたい。
「どういう状況?このままお母さんの家にい続けるつもりなら、帰るわよ。」
「春ねもうるさいし、と話を終わらせるが。」
「そうね。先日とは違う、たは覚悟を決めた顔つきになっている。」
「は?話って何よ?そもそも人に向かって『うるさい』って失礼ね。」
「あなたも私に向かって言ってたけどね。自分の発言に責任を持ちなさい。」
たの表情を見て、私の気も引き締まる。必ず彼女に自らの悪事について反省してもらおうと、改めて思った。
「私、忙しかったし、早く終わらせて休みたいのよね。なので、端的に話すわ。」
「何のこと?」
「はっきり聞くわ。あみさん、あなた浮気してるでしょう。」
分かりやすく。あみの動きが止まる。だが、すぐに反論を始めた。
「どこ情報ですか?まさか私が気に入らなくて言ってます?残念ですけど、そんなことはないです。浮気なんてしてません。たの前で変な話はやめてもらっていいですか?」
「たがいるからしてるんだけど。はい。」
この後に及んで、なぜ彼女はここに連れて来られたのか理解できていないようだ。呆れてしまう。
「それに、証拠がないのに私が適当な話してると思ってるの?お母さんって私が嫌いでしょ。なので、勝手にあみの脳内で設定が作られており、ため息が出る。」
「だけど、探偵事務所の証拠は持ってきてくれたわよね。」
「探偵事務所?」
たは自分の鞄の中から封筒を取り出す。そして、その中に入っている数枚の書類と写真を取り出し、テーブルの上に並べた。
「実は母さんと相談の上で、探偵事務所に依頼してたんだよ。お前が外で誰とどこで遊んでるのか調べてもらった。今の技術ってすごいんだな。遠くでもはっきり2人の顔が見える。」
たは1枚の写真を指さした。そこには、私が以前喫茶店のテラス席で見た男性と、あみが腕を組んでホテルへ入っていく様子が映っている。
「え、これ、どこで?」
「あみさんは、たが出張の時を狙って私には春ねを預けに来たでしょう。実は裏で、この子に仕事のスケジュールをもらってね。そこを目がけて、探偵事務所の人につけて欲しいって依頼したのよ。」
あみは動揺しつつも、反論をやめない。
「でも、この写真だけじゃ、私が浮気したっていう証拠にはならないはず。ほら、こっちはただ並んで歩いてるだけだし。一緒に映ってる男性は誰?」
「友達ですけど。」
彼女より身長はかなり高く、体格もしっかりしている。このような女性もいるにはいるだろうが、写真の人物は男性にしか見えなかった。必死なのは分かるけれど、苦しい言い訳だ。
「え、異性の友達同士って、ホテルって入るんだ。」
「これは、その男性っぽい女性の友達。一緒に女子会したいって言って、2人で入ったのよ。腕を組んでるのだって、同性同士は距離が近くなるし。そういうこと。」
私とたは吹き出してしまった。
「何よ、2人でどこに面白い要素があるわけ?」
「全部よ。だって、そんなわけないからね。」
「た。」
「ああ、じゃあ、こっちの映像はどんな言い訳が聞けるんだろうな。」
そう言って、彼は自らのスマホを操作し始めた。数秒後、音声が聞こえて、すぐにたが私たちにも見やすい位置に端末を置く。そこには、あみと男性がリビングのソファーでくっついたり、行為をしたりしている様子が映されていた。
「へ、やだ。こんなの…どうやって…カメラがあったの?」
「言い逃れができない証拠はいくつかあってもいいでしょう。これも、たと話し合って設置すると決めたの。」
「そんな…でも、えっと、これも女性で…」
絶望の表情を浮かべるあみ。どうにかしてこの場を切り抜けようとしているが、もはや無理でしかない。
「きついって。いい加減認めてくれないと困るんだよ。それなら、なんで俺に対しての当たりがきつくなったんだ。喫茶店で会話をしていた男性は誰なんだよ。」
「そうそう。説明してもらう必要があるからね。あなたがここで必死に取り繕ったって、いつかはボロが出る。それなら、今の時点で素直に話しておくべきじゃないかしら。」
私たちの言葉を聞き、彼女は俯き黙り込んでしまう。無言を貫けば許されるとでも思っているのだろうか。私はそれほど優しくないし、たや春ねのためにも、あみを逃すわけにはいかない。そう思い、彼女にまだ言っていなかったことを伝えた。
「ちなみに、カメラの件は春ねにも言ってあるわ。あの子がいじったら大変だしね。」
春ねという名前が出た瞬間、あみは顔を上げて表情が曇った。やはり実の娘となれば、話は変わってくるらしい。
「春ねにも?」
「ええ、どうしたの?なんでそんなに怖がってるのかしら?」
私には心当たりがあったものの、彼女の口から真実を聞くまで泳がせたい。しかし、あみはなかなか口を開かなかった。流れ続ける自分のあられもない声を止めもせず、何かを考えている。しびれを切らした私は、答え合わせをするつもりで尋ねた。
「あみさんって、春ねの前でこの男性と会っていたわよね。しかも、行為まで見せつけたって聞いたけど。」
以前、あみの浮気現場を見た後に逃げ込んだ公園で、春ねが家での彼女と男性について話してくれた。衝撃的で、一刻も早く対処しなければと思ったのだ。しかし、何回説得しても春ねは「頑張るから」というばかり。辛い環境で過ごす大変さを伝えたが、やはり同じ言葉が返ってくる。理由を聞けば、彼女は早くあみと離れたいとのこと。春ねの心情を聞き、胸が痛む。まだまだ親の愛情が必要な時期だろうに、こんな辛い思いをさせるはめになり、改めてことの重大さを認識した。
「いや、あの、それに、浮気相手は子供が嫌い。あの子をよく罵倒していたって聞いたわ。」
大人の男性に暴言を吐かれるのは、どれだけ苦しかっただろう。考えるだけで胸が痛くなる。
「親なのに、子供に嫌な思いをさせて、恥ずかしくないの?あ、浮気してるし、そういう考えはないのか。」
彼女は取り繕う余裕をなくしたのか、浮気を認めたと捉えられる発言をした。
「こ、これってもしかして、春ねに聞いたんですか?」
「抽象的で分からないわ。はっきり言って。」
「う、浮気について…」顔を真っ赤にし、あみは叫んだ。ここがマンションであれば、部屋まで聞こえていただろう。
「もしだとしたら、あの子を叱るつもりなのよね。春ねが被害にあったら嫌だし、教えてあげる。」
「あなたが浮気をしていると知って、春ねに話したのは私よ。」
「お母さんが?どこで?あんた、ずっと家にこもってるでしょ?」
敬語が取れ、なりふり構っていられないのが分かった。
「春ねと一緒に買い物に行った時、あなたたちが喫茶店のテラス席で話してるのを見たの。」
「テラス席?あ…」
「周りの迷惑になるくらい大きな声だったわね。」
「あ、あれは冗談で…」
そこで、たも彼女を追い詰めるかのごとく話に入ってくる。
「冗談で、よく俺とか母さんを無料託児所って言えたな。俺は絶対に無理だ。」
「だ、だけど、証拠は…」
必ず聞かれると思っていた質問をされ、笑ってしまう。
「いきなりだったから、その場面の証拠はないわよ。」
「さあ、お母さんが嘘をついてるんじゃ…」
「だ、他の音声は残っているって言ったらどうする?」
あみの動きが止まる。まさか録音までされていたとは思っていなかったのだろう。同時に、たも驚きの声をあげた。
「え、いつ取ってたんだ?」
実は、春ねの鞄の中にこっそりボイスレコーダーを入れていたのだ。彼女とはほぼ毎日会うため、機械の様子は頻繁に確認できる。以前通販で購入したものはこれだ。小案を思いついたのは、春ねの鞄はいつもリビングの壁にかかっているという話を彼女に聞いたからだ。回収したのは昨日、春ねが昼寝をしていた時。そのことを伝えて反応を伺う。たは驚いたまま、あみは頭を抱えた。
「早く聞かせてくれ。」
「どいつもこいつも、人の言動を勝手に…プライバシーの侵害よ。」
「あなたが浮気をしなければよかっただけなの。まだ分からない?」
私の行動を止めるべく、彼女は身を乗り出したものの、すぐにたが座らせる。
「いい加減にしろ。大人しくしとけ。」
彼はあみを怒鳴った。しかし、彼女も負けじと言い返し、2人は喧嘩を始めてしまった。彼らのやり取りを止めるべく、ボイスレコーダーの再生ボタンを押す。あみと、聞いたことがない男性の声が聞こえる。会話の内容は悲惨なものだ。私、春ね、たの悪口や、次のデートの行き先、行為についてなど、耳を塞ぎたくなっても我慢して聞き続けた。
再生が終わり、停止ボタンを押す。
「これで、もう言い訳は無理になったでしょう。」
「て、でも…」
さすがに居心地が悪く、腹が立った。
「何?言いたいことがあるなら聞くわよ。」
尋ねたが、彼女は黙り込む。
「ないのね。じゃあ、たに本題を話してもらおうかしら。」
「まだあるんですか?」
「当たり前だろう。」
たはあみにはっきり言った。
「離婚してくれ。」
「え?」
なぜ浮気をしておいて驚くのだろう?私には彼女の気持ちが理解不能だ。
「いや、だって、離婚したら遊べなくなるって…」
再びあみは黙り込んだ。図星なのだろう。仕事はしてたけど、残業も休日出勤も全部嘘。夜遅くなったのは浮気相手と会うため。たに聞いたけど、家計の管理はあなたなんだってね。そりゃ、浮気もばれないわ。
「うん。俺と離婚したら、浮気相手と結婚するんだよな。嫌いな人とこのまま一緒にいても、みんなが苦しくなるだけだぞ。」
2人で追い込む。少しの沈黙の後、観念したのか、彼女が口を開いた。
「あ、分かった。離婚には同意する。」
でも、さらに彼女はあまりにも身勝手な主張を始めた。
「春ねの親権は私がもらう。」
「はあ?」
あんなに侮辱しておいて、よくそんな発言ができるな。
「あの言葉は本心じゃなくて、会話の流れで言っただけ。誘導されたの。」
人のせいにする癖がついているのか、思わず口を挟んでしまう。
「あなたが先導して話してた時もあったわよね。簡単な嘘に引っかかるほど、私たちはバカじゃないのよ。」
唇を噛みしめ、悔しそうな顔をする。そして、大きく息を吸い、本音を話し出した。
「お母さんは黙っててください。春ねを引き取ったら、児童手当が出るでしょ。それで、なるべくお金をかけないであいつを育てられるはずだから、余った分は彼氏との旅行に使う。」
児童手当という制度の意味を理解できていないらしい。あまりにも無知すぎて、頭を抱えた。
「浮気相手とは再婚するの?」
「彼氏って言って欲しいんですけど、まあ、しますよ。離婚したらすぐに。」
「手当っていうのは、再婚したら受け取れません。残念だったわね。」
目を見開く彼女は、呆然としていた。
「どうせお前は、春ねを金としか見てないんだろう。」
たの一言があみに刺さったらしい。急に立ち上がり、声を荒げた。
「ええ、そうよ。私は別にあいつを可愛いと感じたことはゼロ。そもそも、子供なんて欲しくなかったの。」
「子供欲しいって言っただろう。」
「嘘よ。だけど、あんたは信じきってたわよね。本当にできちゃって、まずいと思ったけど、それまでは気持ちよかったし、許してあげる。」
笑い出したあみは、もはや狂気的だ。しかし、すぐに怒りが湧き上がってきて、気づけば私は怒鳴った。
「いい加減にしなさいよ。命を何だと思ってるの?もうあなたの顔なんて見たくない。早く出ていって。」
私の発言を聞き、たはあみを連れて玄関へ向かった。彼女はされるがまま靴を履く。
「こんなところ、一生来ません。」
そう言われた後、ふとあることを思い出して伝えた。
「せいぜい、そのまま怒ってなさい。あなたと浮気相手には、たに慰謝料を払ってもらうので。」
「へ、嘘。」
急にその場に立ち尽くす様子を見て、笑ってしまう。気に入らない相手に大金を渡すのは、どういう気持ちなのかしらね。
「いや、そこまでお金がないのなら、仕事を増やすか、借金をするのね。」
たはあみを外に連れて行き、私は彼女たちが完全に外に出た瞬間に玄関のドアを閉めた。やっと一段落着いたと思い、力が抜ける。リビングに戻り、ソファーへ座った。いつの間にか眠っており、窓の外は暗くなっていた。時間を確認するため、スマホを見れば、たが帰宅後のあみの様子を書いたメッセージが入ってきている。あみは車内では騒いでいたものの、家に到着した頃には疲れたのか大人しくなったらしい。今は春ねも帰ってきて、家族3人が揃っているようだ。あみは自室にこもったきり出てこないとのこと。一応、彼女が出ていくまでは春ねと一緒に寝ると書いてあり、安心できた。頼もしい息子になったと嬉しくなる。私はたと春ねを全力でサポートしなければと、改めて決意した。
その後は弁護士を通してあみとの離婚が成立。また、彼女と浮気相手の男性に慰謝料を請求したところ、無事に一括で支払われたとも教えてくれた。親権は手続きを終えたたのものに。それに伴い、養育費の請求もあみにできて、慰謝料同様一括で払われた。
ようやく騒動が終わって2ヶ月後、春ねをたまに預かりつつ穏やかな日々を過ごしていた中、家で仕事をしているとインターホンが鳴った。確認すれば、そこには疲弊し切ったあみの姿があり、驚愕する。しかし、すぐに気持ちを切り替えて、モニター越しに対応した。わざわざ私の元にやってきたのは、お金を貸して欲しいからだった。浮気相手には捨てられた挙げ句、貯金は慰謝料を支払った際に使ってしまったので、ボロボロのアパートに住んでいるらしい。1人は寂しく、たとの復縁を許してくれとも言われた。当然だが、断る。
「あなたとはもう赤の他人なのよ。じゃあね。」
「待ってください。まだ話は終わってません。私、すごく反省してるんです。なんで気持ちを分かってくれないんですか?」
まるで私が悪者かのような言い分だ。つい腹が立ち、声を荒げる。
「しつこいわね。今後2度と、私たちに関わってこないで。」
一方的に怒鳴りつけ、会話を終わらせた。再びモニター越しに外を確認すると、誰もおらず、ほっと胸を撫で下ろした。一応、たにあみが家に来たことを報告する。日曜日だったためか、すぐに返事が来た。その内容に背筋が凍る。彼の元にも彼女が来ていたらしい。
「もちろん、追い返したよ。まさか母さんのところにも行くとは思わなかった。春ねにも被害はないし、安心してくれ。」
そう言われ、彼の頼もしさを改めて感じ、幸せな気持ちになった。
今、私は引っ越しはせず、様々な思い出で溢れる一軒家で1人で生活中だ。相変わらず仕事は続けており、働けなくなった際のために貯金をする日々である。たは出張も残業もない職場へ転職し、春ねとの時間を大切にできているらしい。少し収入は減ったものの、暮らしへの支障はそれほどないとのこと。彼の仕事は変わったが、私たち3人の交流が0になったわけではない。最低月1回は会い、食事やショッピングセンターなどへ行き、穏やかな時を過ごしている。春ねはあっという間に小学6年生に。子供の成長は早いものだと考え深くなる。たの結婚を機に、私の生活は大きく変わった。いいことも悪いこともあったものの、今が幸せなら、それで満足だ。
家事を終えてリビングに戻る際、亡き夫の遺影が視界に入る。彼は空の上から何を思っているのだろうか。私たちをずっと見守っていてほしいと、仏壇へ手を合わせに向かった。



