午前1時を過ぎた物流倉庫の第3通路は、蛍光灯が1列だけ点灯し、残りは薄暗かった。長谷川大輔は69歳。夜間警備員として2年間、この夜の世界に静かに溶け込んでいた。7年前に妻を亡くし、息子とは金をめぐるいさかい以来、口を利いていない。昼間の明るい世界に自分の居場所を見いだせず、音が少なく、要求が少ない夜の仕事を選んだ。
10月の第2週木曜日、近隣町内会の合同防災訓練が公民館の駐車場で行われた。大輔は参加者にお茶を配る1人の女性に目を留めた。60代半ば、黒髪を後ろで1つにまとめ、白いカーディガンを羽織っている。動作に無駄がなく、紙コップを差し出す角度が長年の癖として体に染み込んでいた。
「よかったらどうぞ」
緑茶の湯気が立つ紙コップを受け取り、大輔は「どうも」とだけ答えた。女性は軽く頭を下げ、立ち去りかけたが、数歩歩いてから振り返った。
「この辺りにお住まいですか」
「3丁目です」
「まあ、うちも同じです」
そう言って、今度は正面から大輔の顔を見た。目が細く、笑う時の目尻のしわが深い。悲しみを長く抱えてきた人間の顔だった。名前は倉川さゆり。65歳で、近くの集合住宅に1人暮らし。夫とは10年前に離別し、弟は3年前に病気で亡くなったという。
「暗い話をしてしまってすみません」
大輔は首を振った。「自分も似たようなものです」
さゆりは何かを察したように静かにうなずいた。それ以上は聞かなかった。
訓練が始まり、2人は同じ班で自然と隣り合った。消火器の実演で大輔がホースを構えると、さゆりが呟いた。
「慣れていらっしゃるんですね」
「仕事柄です。昔はバスの運転士でした」
さゆりの表情が少し変わった。「バスの運転士さんって、路線を全部覚えているんですか」
「自分の路線はだいたい」
「すごいですね。バスってなんだか好きなんです。昔から乗っていると、少しのんびりした気持ちになれて」
退職してから、自分の仕事について誰かに話す機会はほとんどなかった。息子ともしていない。大輔は少しだけ口を動かし、路線番号や走行距離の話をした。大した話ではなかったが、さゆりは笑顔を崩さずに聞いてくれた。相づちを打つタイミングが絶妙で、言葉の途中で間を置いても、先をせかさずに待ってくれた。
訓練が終わり、参加者が散り始めた後も、2人は駐車場の片隅に立っていた。気づいた時には40分が過ぎていた。大輔にとって、他人と40分話し続けたのはいつ以来だったか、自分でも思い出せなかった。
帰り際、さゆりが「また機会があれば」と言った。社交辞令に近い言葉だったが、その声の質感には、もう少し話していたかったという気持ちがかすかに混じっていた。
翌週の月曜日、大輔は出勤前に鏡を見た。タンスの引き出しをいつもより長い時間眺め、最終的に選んだのはいつもとさほど変わらないシャツだったが、襟を直す動作が少しだけ丁寧だった。
3日後の木曜日の夕方、コンビニエンスストアでさゆりと再会した。冷凍食品の棚の前に彼女がいた。大輔はインスタントコーヒーを買いに来ていた。通路を曲がったところで目が合い、一瞬2人とも立ち止まった。
「あら、こんにちは」
「どうも」
明るいコンビニの中で、2人はしばらく立ったまま話した。気温が下がってきたこと、燃えるゴミの収集日が変わること、豆腐屋が閉まったこと。どれも他愛のない話だったが、さゆりは少しも退屈そうにしない。相手の顔を見て話す。話す間、視線が動かない。大輔はそのことが不思議だった。
別れ際、さゆりが「もしよかったら、今度お茶でも」と言った。大輔は「そうですね」と答えた。確かな約束にはならなかったが、帰り道、大輔の歩調はいつもよりほんの少しだけ早かった。
翌日の夜、出勤前の身支度をしている時、大輔はタンスの奥に手を伸ばした。小さな瓶があった。妻が退職祝いに贈ってくれた香水だった。7年間、一度も使っていなかった。蓋を開けると、甘い香りがした。手首に一吹きすると、妻の顔が浮かんだ。病院のベッドの顔ではなく、台所で炒め物をしながら振り返った時の顔だった。
倉庫に着くと、同期の佐藤が詰所の椅子に座ってスマートフォンを触っていた。大輔が入ってくると、顔を上げて「なんか匂うな」とだけ言った。
「虫除けスプレーです」
佐藤はそれ以上聞かなかった。
その夜の巡回は、いつもより思考が穏やかだった。ダンボールの壁の間を歩きながら、頭の中が妙に静かだった。誰かと話した記憶が体の中に残っているだけで、この感覚が変わる。7年間、そういうことを知らなかった。
午前2時20分、詰所の固定電話が鳴った。内線番号だった。この時間に内線が来ることは滅多にない。大輔は巡回から戻ったばかりで、コーヒーを口に運びかけていた。カップを机に戻し、立ち上がって電話を取った。
「はい、第3倉庫警備室です」
沈黙があった。次に、息を詰めたような音が聞こえた。泣き声だった。
「もしもし」
「大輔さん」
名前を呼ばれた瞬間、大輔の体が固まった。この声を知っている。
「倉川さん?」
「来てください。助けてください。あの人たちが来て、うちのドアを」
声の背後で、激しいノック音が聞こえた。叩くというより、殴りつけるような音だった。さゆりの呼吸が乱れている。
「今すぐ行きます。鍵をかけて、声を出さないでいてください」
電話を置いた。大輔はジャケットを掴んだ。施設の管理規定には、勤務時間中の無断外出は厳禁と明記されている。監視カメラが全域をカバーしており、詰所の出入りも記録される。それを知った上で、足が動いていた。
駐輪場に止めてある原付にまたがり、エンジンを回した。雨が降り始めていた。細かく冷たい雨粒が頬を打った。防災訓練の時の名簿で確認していた住所を頭の中でなぞりながら走った。3丁目の集合住宅、4階。倉庫からなら10分もかからない。
集合住宅の外廊下には非常灯がついていた。エントランスに原付を乗り捨て、階段を上がる。4階の廊下を奥へ歩いていくと、人の気配があった。部屋番号は403。その前の廊下に男が1人立っていた。40代半ば、安価なスーツを着て、Yシャツの首元が緩んでいる。頬と顎にいくつかの古い傷跡があり、目の色が平板だった。
大輔が近づいても、男は特に表情を変えなかった。ドアを叩く手を止め、ただ大輔を見た。
「何の用だ、じいさん」
声に感情がなかった。脅しているのでも怒っているのでもなく、事務的に聞こえた。
「話を聞かせてもらえますか」
「関係ない人間は引っ込んでろ。これは借金の話だ」
ドアの向こうから気配がした。さゆりがドアに近づいている。
男は続けた。「この部屋の女の弟が、うちの会社から400万借りた。弟は死んだ。姉が連帯保証人だったから、姉が払う義務がある。俺は柴田という。合法的に取り立てに来てるだけだ」
そう言いながら、男はポケットから折りたたんだ書類を取り出し、廊下の床に投げた。「証拠もある。自分で確認しろ」
書類が床に落ちた。大輔は視線を下げたが、拾わなかった。柴田と名乗った男の話し方には、慣れた人間の滑らかさがあった。声を荒げない、脅さない。ただ事実を事実として並べる。その方が確実に相手を追い詰めることを、体で知っている人間の話し方だった。
ドアの内側から、さゆりの声が漏れてきた。
「大輔さん、関係ないですから帰ってください。お願い」
声が震えていた。泣いているというより、声を出すことに必死になっているような震え方だった。
大輔はその声を聞きながら、胸の中で何かが固まっていくのを感じた。怒りでも焦りでもない。静かで根のある何かだった。35年間、路線バスを運転してきた。深夜の終点で終電を逃した老婆を次の便まで待たせることができず、無線で本部に掛け合ったこともある。車内で急に倒れた男性の隣で、乗客に応援を頼んだこともある。理不尽な要求を突きつける客に、静かに正面から向き合ったこともある。どの場合も、その場を離れなかった。それが長谷川大輔という人間の体の芯に刻まれた何かだった。
柴田に向かって、大輔はゆっくりと口を開いた。
「2日待ってもらえますか。400万、私が代わりに払います」
廊下の空気が一瞬変わった。柴田が大輔を見た。初めてまともに相手を見る目つきだった。本気かどうかを測るように、静かに探っていた。大輔は視線を外さなかった。
男は10秒ほど黙っていた。それから短く言った。「本気なら、連絡先を教えろ」
声から、わずかに嘲りが消えていた。大輔は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出し、自分の携帯電話の番号を書いて渡した。男はそれを見てポケットに入れた。それだけだった。何も言わず、書類を床から拾い上げ、廊下を歩いて階段に向かった。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
大輔はドアの前に立ち、声をかけた。
「倉川さん、行きましたよ」
しばらく間があった。ドアが細く開いた。さゆりが顔を出した。目が赤く腫れており、唇がかすかに震えている。
「大輔さん……」
声が出なかった。ただそれだけ言って、縁を閉じた。
大輔は特に何も言わなかった。ただそこに立っていた。雨が遠くで低い音を立てている。
しばらくして、さゆりがもう一度口を開いた。
「中で少し話せますか」
大輔は短く考えた。深夜で、見知らぬ女性の部屋で、自分はすでに職場を無断で抜け出してきている。考えるべき問題はいくつもあった。
「ええ」
部屋の中は質素だった。6畳ほどの間にこたつが1つ、その脇に古い本棚。テレビは小さく、壁際に食器棚が1つ。生活しているが、あまり多くのものを持っていない人間の部屋だった。さゆりがこたつの電源を入れ、湯を沸かし始めた。
「弟が死んだのは3年前のことです」
さゆりは背を向けたまま湯を注ぎながら言った。「弟は生前にいろんな人から金を借りていたみたいで、死んでから1年ほどは何も来なかったんですけど、去年頃からぽつぽつ請求が来るようになって」
「連帯保証人になっていたんですか」
「弟にそう言われた記憶はないんですが、死んだ後に私の名前が書いてあって」
さゆりが振り返った。湯のみを2つ持ち、大輔の前に1つ置き、自分の前にもう1つ置いた。それからこたつに入り、膝の上で手を組んだ。
「信じてもらえないかもしれないけれど、私、あの書類見せてもらって、文字が細かくてよく読めなくて」
「今夜来た人は、今日が最後の交渉だって言っていて」
大輔は湯のみを両手で持ち、中の緑茶を一口飲んだ。熱かった。
「書類は今日の人が持っていきましたか」
「そうですね。向こうが全部持っていきました」
大輔はしばらく黙った。連帯保証人の話、書類、深夜の訪問。筋道として整合しているが、いくつか引っかかる部分もある。だが、今ここでそれを口にすることが何を意味するかを考えた。
「2日あれば、私が話をつけます。400万、準備できます」
さゆりが顔を上げた。「そんなことできません。大輔さんに迷惑を」
「迷惑ではありません」
「でも、なぜ」
大輔はすぐには答えなかった。湯のみを置き、手の甲を膝の上で重ねた。理由を聞かれると困る。言葉にすると、別のものになる気がする。だが、何か言わなければならない場面だった。
「バスの運転手をしていた時の癖ですが、困っている人を置いていけなかったことが、何度かあります」
さゆりは大輔の顔を見ていた。何も言わなかった。部屋の中でこたつのヒーターが静かに回っている音がした。雨が少し強くなっていた。
大輔は「もう遅いので」と言って立ち上がった。靴を履きながら、玄関の壁を見た。鍵かけに古びた傘が1本かかっていた。
「明後日の昼間にまた来ます。それまでドアは開けないように」
「はい」
さゆりは小さく答えた。廊下に出て、ドアが閉まった。
帰り道の原付の上で、大輔は自分が何をしてしまったのかをゆっくりと考えた。衝動で動いた。400万と口にした。自分の貯蓄がいくらあるかを思った。退職金の残りと7年分の節約で積み立ててきた金。葬儀の費用として手をつけずにいた分。通帳の残高はおよそ430万円だった。合わせれば出せなくはない。出せなくはないという事実と、出すべきかどうかという問いは、全く別のことだった。だが、大輔の頭の中に今あるのは、数字でも計算でもなかった。こたつの前で膝の上で手を組んでいたさゆりの姿だった。何かに必死に耐えている人間の、あの姿勢だった。
倉庫の駐輪場に戻った時、詰所の窓から佐藤の顔が見えた。大輔が中に入ると、佐藤は何も言わなかった。ただ一度だけこちらを見て、また手元のスマートフォンに目を落とした。大輔は椅子に座り、冷めたコーヒーを一口飲んだ。画面には監視カメラの映像が並んでいる。倉庫の各エリアが映し出されており、どこにも異常はない。この画面を、自分が今夜いなかった間もずっと映していたはずだった。大輔はそのことを思い、静かに目を閉じた。夜明けまでにはまだ3時間以上あった。
翌朝、大輔が自宅に戻ったのは午前7時を少し過ぎた頃だった。制服を脱ぎ、ハンガーにかける。シャツの肩の部分がまだ少し湿っていた。昨夜の雨の名残りだった。台所で湯を沸かし、卵を1個割って目玉焼きにした。火加減を調整しながら、昨夜のことを順番に頭の中で並べ直した。電話があった。倉庫を抜け出した。廊下で男と向き合い、400万と口にした。部屋の中に入り、緑茶を飲んだ。男の顔と、書類が床に落ちた音と、さゆりの震えていた声。
目玉焼きを半分食べたところで、大輔は箸を置いた。連帯保証人という話が引っかかっていた。昨夜の時点では口にしなかったが、さゆりの話にはいくつか不自然な点があった。弟が借りた金の連帯保証人に姉がなっている。その書類が存在する。だが、その書類をさゆりは自分で確認できていない。持っていったのは柴田という男の側だった。弁護士に相談するのが筋だと大輔は思った。消費者金融の相談窓口なら無料でやってくれる場合もある。自分が金を出すよりも先にやるべきことがある。そう頭の中で整理した。だが同時に、もし本当に書類が存在するなら、相談に行っている間に何かが起きるかもしれないという考えも浮かんだ。そしてもう1つ、もっと浮かびにくい考えが胸の底にあった。さゆりがあの夜泣いていたのは、本物だったか。
大輔はその考えを頭の隅に押し込んだ。疑うことは自由だが、疑いだけで動いても何も変わらない。35年間、バスの乗客を信用して走ってきた。信用しなければバスは走れない。
残りの目玉焼きを食べ、皿を洗った。布団を敷いて横になった。眠れるかどうかわからなかったが、目を閉じた。外から鳥の声がした。
目が覚めた時には午後を過ぎていた。大輔は起き上がり、顔を洗い、着替えた。それから机の引き出しを開け、通帳を取り出した。紺色の表紙で、角が少しすれている。開くと、最後の記帳の残高が印字されていた。432万8000円。しばらくそれを見ていた。それから通帳を閉じ、引き出しに戻した。
外へ出た。空気が昨夜より少しだけ温かかった。大輔は最寄りの銀行まで歩いた。12分ほどの道のりだった。銀行の窓口で、大輔は定期預金の解約手続きをするか一瞬止まった。窓口の女性が「いらっしゃいませ」と言いながら大輔を見ている。
「普通預金の確認をしたいのですが」
通帳記入の機械を使い、残高を確認した。数字に変わりはなかった。大輔はその画面を少しの間見て、通帳を鞄に入れて窓口を離れた。外に出ると風が少し出ていた。400万を出す。それを決めていた。だが、銀行の窓口で実際に手を動かそうとした時、体が一瞬止まった。意志の問題ではなかった。ただ体がそこで止まった。長谷川大輔という人間が70年近く生きてきて積み上げた何かが、そこで動きを緩めた。
帰り道、大輔は商店街を通った。アーケードの下に乾物屋と薬局と、閉まっている靴修理の店がある。靴修理の店は半年ほど前から休業中で、シャッターに張り紙がある。大輔は以前その店で革靴のかかとを直してもらったことがあった。職人の老人が無言で黙々と作業していた。あの人はどうしたのかということを大輔はふと思い、そして考えるのをやめた。
夜の出勤は午後10時だった。それまでの時間、大輔は部屋の中で過ごした。ラジオをつけたが、何を話しているのかほとんど頭に入らなかった。夕方5時頃、湯を沸かして緑茶を飲んだ。カップを両手で包みながら、昨夜さゆりが同じようにしていたことを思い出した。
午後8時に電話が鳴った。知らない番号だった。大輔は1秒迷い、受けた。
「長谷川さんですか」
男の声だった。昨夜の柴田だった。
「ええ」
「約束、覚えてますよね。明日の昼、話をつけましょう。場所を指定します」
声は昨夜と同じ調子だった。事務的で、感情がない。
「分かりました」
場所と時刻を告げられた。新宿3丁目に近い、名前を言われても知らない喫茶店だった。午後1時。メモを取り、電話を切った。
受話器を置いた後、大輔はしばらく動かなかった。明日の午後1時までに、400万を現金で用意しなければならない。銀行窓口での大口出金は翌日以降になる場合があるが、今晩中に手続きをすれば、明日の午前中には引き出せるかもしれない。時間が足りるかどうか、ぎりぎりだった。
大輔はコートを着て、再び外に出た。銀行はすでに閉まっていた。時刻は午後8時10分だった。ATMコーナーの引き出し限度額は1日50万円だった。それでは足りない。明日、窓口が開く9時に行き、手続きをする必要があった。大輔はATMの前に立ち、その日の限度額の50万円だけを引き出した。封筒に入れた現金をコートの内ポケットに入れ、アパートに戻った。
出勤の時刻まであと1時間半あった。大輔は制服に着替え、革靴を磨いた。いつも通りの動作で、いつも通りの時間をかけた。磨き終えた靴を玄関に揃えておいた。
その夜の倉庫はいつもと変わらなかった。ダンボールの山が積み上がり、フォークリフトが走り、蛍光灯が通路を照らしていた。大輔は巡回をこなした。懐中電灯の光を壁に当てながら、通路を端から端まで歩いた。何も変わっていなかった。だが、大輔の頭の中では数字が繰り返されていた。400万。明日の9時。午後1時。
午前2時の巡回を終えて詰所に戻った時、佐藤が「昨日はどこ行ってたんですか」と聞いた。
「近所で用事が」
佐藤は「カメラに映ってましたよ。出ていくところ」と言い、それ以上は何も言わなかった。咎めているのではなく、ただ事実として言っていた。大輔は「そうですか」と答えた。2人の間に、それきり会話はなかった。
翌朝、大輔は午前8時50分に銀行の前に立っていた。開店と同時に窓口に向かい、普通預金から350万円の出金を申請した。窓口の女性がいくつか確認事項を聞いた。
「用途は何ですか」
「個人的な支払いです」
本人確認書類を提示し、書類にサインをした。現金が用意されるまで、椅子に座って待った。銀行の中は静かで、他の客が1人、窓口の向こうで何か話している声が低く聞こえた。大輔は膝の上に両手を置き、正面の壁を見ていた。30分ほどして名前を呼ばれ、封筒を受け取った。分厚い封筒だった。前日に引き出しておいた50万円と合わせて、400万円になる。大輔はそれを内側のポケットに入れ、カウンターで頭を下げ、銀行を出た。
外の空気が冷たかった。大輔は駅の方向に向かって歩き出した。新宿3丁目の喫茶店まで、電車で30分ほどかかる。待ち合わせは午後1時だった。まだ2時間以上あった。駅への道を歩きながら、大輔はポケットの中の封筒の重みを感じていた。現金というものは、袋に入れると思ったより重い。一度だけ立ち止まった。商店街の外れのベンチに、老人が1人座っており、弁当を食べていた。60代か70代かよくわからない年齢の男だった。コートの袖がすれており、靴のかかとが減っている。1人で黙々と箸を動かしていた。周囲を見ていない。ただ食べている。大輔はその姿を一瞬見て、歩き続けた。
新宿3丁目に着いたのは、12時40分過ぎだった。指定された喫茶店は、大通りから路地を1本入った場所にあった。看板に小さな文字で店名が書かれており、入り口が狭い。引き戸を開けると、タバコの煙が薄く漂っていた。10席ほどの小さな店で、壁際のカウンターと4人掛けのテーブルが3つ。午後1時前で、先客が2人いた。柴田はすでに来ていた。奥のテーブルに1人で座り、コーヒーを飲んでいた。大輔が入ってきたのに気づき、顎で席を示した。大輔は向かいに座った。
「早いですね」
「約束ですから」
ウェイトレスがやってきてメニューを出した。大輔はコーヒーを頼んだ。柴田はテーブルの上に書類を1枚置いた。
「確認用に1枚だけ見せます。その後は回収しますが」
書類には、倉川という名前と金額と署名の欄があった。欄の後があり、日付が印刷されていた。大輔は眼鏡を出してかけ、書類を読んだ。文面は法的な用語を使って整えられていたが、何かが不自然だった。印字の仕方がどこか機械的に見えた。だが、大輔はその観察を口にしなかった。
「分かりました」
柴田が書類を引き取った。「では、お約束通り」
テーブルの下で、バッグを少し持ち上げる仕草をした。大輔は内ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。柴田は封筒を手に取り、重さを確かめた。素早く慣れた動作だった。指で厚みを測るように押さえ、帯封を確認する。それだけで、数えなかった。
「結構です」
封筒がバッグの中に消えた。コーヒーが来た。大輔はそれを飲んだ。熱かった。柴田はすでに自分のコーヒーを飲み干しており、立ち上がる気配を見せていた。
「これで、倉川さんへの請求はなくなりますか」
「そういう約束ですから」
「書面はありますか」
柴田はわずかに間を置いた。「今日のところは口頭で。後で連絡します」
大輔はそれ以上聞かなかった。柴田が立ち上がり、コートを着た。「では」とだけ言って、引き戸を開けて出て行った。ドアが閉まる音がした。
大輔はコーヒーカップを持ったまま、しばらく動かなかった。周囲で他の客が話していた。隣のテーブルの女性2人が何か仕事の話をしていた。窓の外を人が通り過ぎる。喫茶店の中は普通の昼下がりで、特別なことは何も起きていなかった。大輔はコーヒーを最後まで飲んだ。金を払い、立ち上がった。
外に出ると、風が強くなっていた。コートの前を合わせながら歩く。駅の方向に向かいながら、大輔は自分が今日何をしたのかを頭の中で静かに確認した。7年かけて積み上げた金のほぼ全てを出した。400万円。残りは32万円と少しになった。それを使って何を買ったのか。倉川さゆりへの負債の消滅。それが1つ。もう1つは、言葉にしにくい何かだった。誰かの役に立てたという感覚かもしれなかった。あるいは、誰かのそばにいることができたという感覚かもしれなかった。7年間誰のそばにもいなかった人間が、初めてそれをしたという感覚。それが400万に値するかどうかは、大輔には分からなかった。
地下鉄の駅に入り、ホームに降りた。電車が来るまで少し時間があった。ベンチに座り、足元を見た。今日も黒い革靴はきれいに磨いてある。
翌日の夕方、大輔はさゆりの部屋を尋ねた。403の前に立ち、インターフォンを押した。少し間があって、さゆりの声がした。
「はい」
「長谷川です」
ドアが開いた。さゆりは昨夜と違い、落ち着いた様子だった。薄いグレーのカーディガンを着ており、部屋の中からご飯の炊ける匂いがした。
「話はつけてきました」
さゆりがドアの前で固まった。「本当に?」
「ええ」
しばらく沈黙があった。さゆりが「中に入ってもらえますか」と言った。
部屋に入ると、こたつの上に湯のみが2つ並んでいた。用意してあったのか、あるいは偶然か、大輔には分からなかった。
「いくらかかりましたか」
「400万です」
さゆりの顔が歪んだ。泣きそうなのを必死にこらえているように見えた。
「返せません。すぐには。でも、絶対に返します」
「返さなくて構いません」
「そんなこと」
「言い切れます」
静かな言い方だった。怒っているのでも強がっているのでもなく、ただ事実を言っているような口調だった。さゆりはそれを聞いて、何か言葉を失って止まった。
その夜、さゆりは夕食を作った。ご飯と豆腐の味噌汁と鶏の照り焼きとほうれん草のおひたし。品数は多くないが、手をかけた料理だった。テーブルに並べながら、「大したものではないんですが」とさゆりは言った。
「十分です」
2人で向かい合って食べた。会話は多くなかった。だが、それが不自然ではなかった。食事の途中、さゆりが「バスの運転士って、食事はいつするんですか」と聞いた。
「路線によって違いますが、終点の折り返し時間に」
「そうか。だから運転手さんはお弁当を持ってることが多いんですね」
「気づきましたか」
「昔からよく見てたんです。バスが好きだから」
さゆりは少し笑った。その笑い方が防災訓練の時と同じだった。目尻のしわが深くなる、静かな笑い方だった。
食後、さゆりがお茶を入れた。2人はこたつを挟んで座り、湯のみを持った。外では風が出ており、窓ガラスを叩く音がした。
「弟のことをずっと引きずってきたんです」
さゆりは言った。「あの子、昔から要領が悪くて。でも、悪い子じゃなくて。私も助けてあげられることが少なくて」
「そうですか」
「だから、あの書類を見た時、本当に弟が迷惑をかけたんだって」
大輔は湯のみを置いた。何かを言おうとして止まった。書類の不自然さのことがまた頭をよぎった。だが、今ここでそれを言うことが何をもたらすか、大輔には分かっていた。
「弟さんは、どんな仕事をしていましたか」
代わりに聞いた。
「建設の現場です。ずっと体が丈夫な人だったんですけど、去年の冬に急に」
さゆりは言葉を止めた。手の中の湯のみを少し傾けてから、戻した。
「大輔さんって、奥様は」
さゆりが聞いた。話を変えようとしているのが分かった。
「7年前に亡くなりました」
「そうでしたか」
「病気でした。長くはかかりませんでした」
さゆりがうなずいた。何か言おうとして、また止まった。2人とも、相手の喪失に対して何を言えばいいか、言葉を持っていなかった。だが、その沈黙は気まずいものではなかった。
「息子さんは」
「1人。ただ、付き合いはほとんどない」
「そうですか」
「まあ、色々あって」
「そうですね。色々ありますよね」
さゆりの言い方は、追求でも慰めでもなかった。ただ「そうですね」と言った。それだけだった。大輔はそのことが不思議と楽だった。詳しく聞かない。説明を求めない。ただ「そうですね」と言って、次へ進む。
その夜遅く、帰り際にさゆりが「来週の週末、草津に日帰り温泉に行きませんか」と言った。唐突だった。
「どうして」
「お礼がしたいんです。それだけの気持ちで。温泉、好きじゃないですか」
大輔は特に好きでも嫌いでもなかった。7年間、一度も行っていなかった。妻と最後に行ったのは退職前の年だった。
「考えておきます」
「是非」
さゆりは小さく頭を下げた。アパートの外廊下で、大輔はコートのボタンを上まで止め、マフラーを整えた。「また来ます」というつもりはなかった。だが、気づくとそう言っていた。
さゆりが「はい」と答えた。声が少し穏やかだった。廊下を歩き、階段を降りた。外に出ると、風が体を包んだ。アパートのエントランスを抜けて道路に出た時、大輔は一度だけ後ろを振り返った。403の窓は暗かった。もう電気を消したようだった。
帰り道、大輔は財布の中身を確認した。今月の残りの生活費は10万円を少し超える程度だった。来月の家賃は払えるが、その先は分からない。仕事の給与が入るまでの計算は、厳密にすればできる。ただ、今夜はその計算をする気が起きなかった。
原付を走らせながら、大輔は夜の住宅街を通り抜けた。街灯が等間隔に並び、その下を影が伸びながら通り過ぎていく。胸の中に何か温かいものがあった。正確には、温かいとも言いきれない何かだった。充実しているとも安心しているとも少し違う。人間が誰かのために何かをした後に残る、言葉になりにくい感覚に近かった。大輔は前を見て走り続けた。来週の日曜日。その言葉が頭の隅に残っていた。
翌週の月曜日の昼過ぎ、大輔の携帯電話が鳴った。仕事の前の仮眠中だった。画面を見ると、知らない番号だった。柴田ではない。大輔は受けた。
「長谷川大輔さんですか」
女性の声だった。事務的な声だった。
「そうですが」
「丸物流管理部です。先週の夜勤務中に無断外出された件についてお話がありまして」
大輔は目が覚めた。「はい」とだけ答えた。
翌日の午後、大輔は倉庫の事務所に呼ばれた。管理部の担当者は30代前半の男性だった。書類が2枚、テーブルの上に置かれていた。
「確認させてください。10月第3週木曜日の深夜2時10分前後に、詰所を離れ、施設外に出られましたね」
「そうです」
「理由を聞いても構いませんか」
大輔は少し考えた。「近所で用事が生じました」
「どんな用事ですか」
「個人的なことです」
担当者は書類に何か書き込んだ。「当施設の規定では、勤務中の無断外出は服務規律に該当します。セキュリティの観点からも、警備員が持ち場を離れることは重大な問題です」
「はい」
「1度目の場合は始末書と口頭警告が一般的ですが、今回はカメラの映像が残っており、佐藤さんからの報告も上がっています」
大輔はそれを聞いて、佐藤が報告したのかと思った。咎めるのではなく、ただそう思った。あの夜、佐藤は何も言わなかったが、黙っていたことと報告しなかったことは別の話だった。
担当者がまた書類に何かを書き、顔を上げた。「長谷川さん、勤続期間はもうすぐ2年ですね」
「そうです」
「69歳で夜間勤務というのも、会社としてはいくつか懸念があります。今回の件を踏まえまして」
大輔は静かに前を見ていた。次に来る言葉が分かった。35年間バスを運転していれば、こういう話の流れは読める。
「退職という形でご対応をいただけると、双方にとって」
「解雇ですか」
大輔はそのまま聞いた。担当者は少しだけ間を置いた。「退職勧奨という形です。退職金は就業規則に則り、今回の件を考慮した形になります」
「今回の件が服務規律違反であることを踏まえ、支給はないということです」
大輔は書類を眺めた。退職合意書と服務規律違反に関する確認書だった。退職日は月末になっていた。大輔は一度だけ書類から目を上げて、担当者の顔を見た。担当者はまっすぐこちらを見ていた。悪意があるのではなく、ただ役割を果たしている顔だった。
「分かりました」
大輔はサインをした。
事務所を出ると、廊下に佐藤が立っていた。自分の担当エリアに向かう途中だったようで、大輔と目があった。佐藤は何も言わなかった。視線を少し外した。大輔も何も言わなかった。
施設の外に出た。秋の陽光が地面に伸びていた。原付のエンジンをかけ、駐輪場を出た。仕事がなくなった。退職金はない。通帳の残高は32万円と少し。来月の家賃が7万8000円、光熱費が1万5000円ほど。食費を切り詰めれば、2ヶ月は暮らせるかもしれない。その後のことは、今日は考えられなかった。
帰り道、大輔はいつもの商店街を通り抜けた。乾物屋の前のベンチに、誰かが座っていた。見知らぬ老人で、目を閉じていた。眠っているのか、ただ目を閉じているのか分からなかった。コートの前が開いており、革靴のかかとが片方だけすり減っていた。大輔はそのまま通り過ぎた。
アパートに戻り、コートを脱いだ。台所で湯を沸かした。緑茶をいっぱい飲んだ。窓の外に夕方の空が広がっていた。来週の日曜日まで、あと5日あった。
日曜日の朝、大輔は午前8時に目を覚ました。いつもより1時間早かった。カーテンの隙間から光が細く入っており、天井のしみが白んでいた。大輔は仰向けのまま少しの間天井を見た。それから起き上がり、顔を洗い、着替えた。今日のためにクローゼットの奥にしまっておいたスーツを出した。紺色の膝までのコートと合わせることにしていた。スーツは7年前の葬儀の時に着たもので、その後は一度も出していなかった。箱から取り出すと、樟脳の匂いがした。ハンガーにかけて少し広げ、しわになっている部分を手で撫でた。アイロンをかけるほどではなかった。ネクタイをどうするか、しばらく考えた。日帰りで温泉に行くのに、ネクタイは必要ない。だが、何もなしでスーツを着るのも少し座りが悪かった。結局、薄い灰色のネクタイを選んで、なるべく軽く結んだ。鏡を見た。7年前より顔が細くなった気がした。
玄関で革靴を履いた。昨夜磨いてあった。黒く光っている。
上野の駅に着いたのは、待ち合わせの30分前だった。改札を出たところに広い吹き抜けのコンコースがあり、朝の光が天窓から落ちていた。日曜日の上野は人出が多かった。家族連れ、カップル、大きな荷物を持った旅行者。大輔はその流れの中に立ち、改札の前で立ち止まった。待ち合わせは9時半だった。さゆりからそう言われた。草津の特急は上野発だから、と。大輔は改札の柱に背を向けて立ち、人の流れを眺めた。スーツ姿の自分が周囲から少し浮いている気がしたが、気にしなかった。
9時半になった。さゆりは来なかった。9時45分になった。大輔は携帯電話を取り出し、さゆりの番号を押した。呼び出し音が続いた。10回鳴って、繋がらなかった。10時になった。もう一度かけた。今度は呼び出し音が3回鳴ったところで、電子的なアナウンスが流れた。「おかけになった電話は、現在使われておりません」
大輔は携帯を下ろした。コンコースの人の流れが続いていた。家族が笑いながら通り過ぎ、子供が走り、アナウンスが電車の発着を告げた。その全てがいつも通りの朝だった。大輔は柱のそばに立ったまま、もう一度番号を確認した。間違いはなかった。
10時30分、大輔はコンコースを出て、シーサイド3丁目の集合住宅に向かった。電車の中で、何も考えないようにしていた。運転手が車内で音楽をかけていた。知らない曲だった。
建物に着き、エレベーターで4階に上がった。廊下を歩き、403の前に立った。ドアが薄く開いていた。鍵がかかっておらず、5cmほど隙間が開いていた。大輔はそれを見て、胸の中で何かが動いた。インターフォンを押した。反応がなかった。
「倉川さん」
声をかけた。静寂が返ってきた。大輔はドアを押した。
部屋の中に入った瞬間、分かった。こたつがなくなっていた。本棚がなくなっていた。壁際の食器棚がなくなっていた。テレビがなくなっていた。何もなかった。6畳の間に、カーペットの圧迫跡だけが残っていた。家具を置いていた場所の床の色が少しだけ薄い部分が、四角く浮き出ていた。ジャスミンの香りもなかった。台所に入ると、流し台の下の収納が開いていた。中には何もなかった。窓を開けると、冷たい風が入ってきた。ベランダには何もなかった。
大輔は部屋の真ん中に立った。スーツ姿のまま、空っぽになった部屋の真ん中に立っていた。どれくらいそうしていたか分からなかった。5分だったかもしれないし、20分だったかもしれない。
大輔は部屋を出た。廊下で隣室の呼び出しボタンを押した。403ではなく、402だった。しばらくして、老齢の女性が出てきた。
「倉川さんという方を知っていますか」
「ああ、あの人なら、昨日の夜に出て行きましたよ。引っ越しみたいな人が来て、夜中のうちに」
「昨夜」
「ええ、夜の10時か11時頃でした。随分急いでいましたね」
大輔は「そうですか」と言い、頭を下げて廊下を歩き出した。階段を降りながら、大輔は何も考えていなかった。考えることができなかったのではなく、考えが始まる前に体が動いていた。エントランスを出て、道路に立った。秋の風が吹いており、大輔のコートの前を揺らした。スーツの下に着込んでいたシャツが、わずかに湿っていた。
次に動くまで、しばらくかかった。最初に向かったのは、近くの交番だった。若い警察官が1人、窓口にいた。大輔は手書きの領収書を持っていた。400万円の領収書だった。柴田から受け取ったもので、文面は簡潔で、支払い先の住所も電話番号も書いていなかった。
警察官は書類を見た。大輔の話を聞いた。相づちを打ちながら、何かをメモした。
「ご自身で現金を渡されたんですね」
「そうです」
「脅されたり、強制されたりした形跡はありますか」
「ありません。自分の意思で渡しました」
警察官は少し間を置いた。「落ち着いている状況は、ロマンス詐欺あるいはそれに類する手口の可能性があります。2026年現在、高齢の独居男性を標的にした詐欺は増加しています。ただ、ご本人が任意で現金を渡した場合、強制性がないため、被害届の受理が難しいケースが多いのが実情です」
「難しいとは」
「捜査に着手するためには、詐欺の要件を満たす必要があります。相手が虚偽の事実を用いて錯誤に陥らせたという証明が必要で、任意の現金授受の場合、その立証が困難です」
大輔は領収書を見た。柴田という名前が書いてあった。名前だけだった。
「相手の住所も本名も分からない場合は、捜査の端緒にはなり得ますが、時間がかかります。今の段階では、相談記録を残すことはできます」
「つまり、取り合ってもらえないということですか」
警察官は少し言葉を選んだ。「今すぐ動ける根拠がない、ということです。申し訳ありません」
大輔は「分かりました」と言い、領収書を畳んでポケットに入れた。交番を出た。外の光が変わっていた。昼近くになっており、影が短くなっていた。大輔はしばらく交番の前に立ち、それから歩き出した。どこへ行くつもりもなかった。ただ歩いた。駅前の商店街を通り、公園の横を通り、見知らぬ路地を歩いた。スーツ姿で、平日でもない昼間に1人で歩いている老人は、周囲から見れば異様だったかもしれない。だが、大輔は気にしなかった。気にする気力が残っていなかった。
歩きながら、頭の中で何かが整理されていった。最初の防災訓練。お茶を持ってきたさゆり。コンビニでの再会。夜中の電話と鳴き声。廊下に立っていた柴田。こたつを挟んで向かい合った夜。鶏の照り焼き。日曜日の待ち合わせ。一つ一つを並べると、見えてくるものがあった。最初から計画されていた。防災訓練の名簿は誰でも閲覧できる。名前と住所と連絡先が載っている。独居の高齢男性を選ぶのは難しくない。その後の接触も自然に見えたが、作られた自然さだった。コンビニでの出会いも、偶然ではなかったかもしれない。書類の不自然さに、最初から気づいていた。それでも、金を出した。
大輔は足を止めた。公園のベンチが前にあった。座った。日当たりが良く、スーツの膝が少しだけ温まった。鳩が足元のコンクリートをついばんでいた。気づいていた。それでも出した。なぜかと自分に聞いた。答えは1つではなかった。さゆりの鳴き声が本物に聞こえたから、というのが1つ。7年間の孤独が緩んだ感覚を手放したくなかったから、というのがもう1つ。そして3つ目は、言葉にしにくかった。誰かに必要とされているという感覚が、正しいかどうかより先に、体を動かしたから。
これは誰のせいでもない、と大輔は思った。自分が渡した。自分の判断で渡した。相手がどういう人間であったとしても、大輔が動いたのは大輔自身の意志だった。そう思うと、少し楽になった。怒りがなかったわけではない。だが、怒りよりも先に、それがあった。
ベンチに座ったまま、大輔は携帯電話を見た。息子の番号があった。7年間、かけたことがない番号だった。かけられない。かける理由がない。金の話をするつもりはない。ただ、今この瞬間、誰かの声を聞きたいという気持ちが胸の底にあった。大輔は携帯を閉じた。鳩がベンチの下まで近づいてきた。大輔は動かなかった。鳩はしばらくうろうろして、また歩いていった。
翌日から、大輔は仕事を探し始めた。ハローワークの窓口で、69歳という年齢を告げると、担当者の表情がわずかに変わった。変わったのは一瞬だけですぐに元の事務的な表情に戻った。
「どのような仕事をご希望ですか」
「警備か清掃か、夜間でも可能な仕事」
求人票を数枚もらった。警備会社が3件、清掃が2件、マンションの管理人が1件。時給はいずれも1000円前後だった。帰り道、大輔はコンビニエンスストアにより、カップ麺を1つ買った。家に戻り、湯を沸かしてカップ麺に注いだ。待つ間、通帳を出して残高を確認した。32万円と少し。今月の家賃と光熱費を引くと、23万ほどになる。次の仕事が決まるまで、どう切り詰めるかを計算した。食費を1日600円以内に抑えれば、3ヶ月は持つ計算だった。カップ麺が食べ頃になった。大輔は箸を手に取り、蓋を開けた。湯気が上がった。食べながら求人票を眺めた。警備会社の1つは、かつての職場と同じ系列だった。大輔は少し考えてから、その票を脇に置いた。
翌朝から1週間、大輔は規則正しく動いた。午前7時に起きる。朝食は白飯と味噌汁、あるいは卵1個。午前中に求人の電話をかけ、午後は近隣を歩いて直接窓口に出向いた。夕方に帰宅し、夕食を作る。白飯と安い豆腐に醤油をかけたもの、あるいは納豆を1パック。夜は早めに眠る。電話をかけた会社のうち3箇所から折り返しが来た。いずれも面接まで進んだが、2箇所は「採用枠が埋まりました」という連絡があり、1箇所は年齢を理由にやんわりと断られた。言い方は丁寧だったが、意味するところは同じだった。
収入のない日々が続いた。大輔は食費をさらに絞った。近所のスーパーの夕方の値引き時間を覚え、半額になった弁当や総菜を買った。これまで当然のように飲んでいたインスタントコーヒーも、1日1杯にした。ある日、大輔は自分の靴を磨きながらふと思った。この靴を、今日は誰にも見られなかった。昨日も見られなかった。おそらく明日も、誰にも見られない。それでも磨く。なぜ磨くのか、答えは出なかった。だが、磨き続けた。
その週の木曜日の夕方、大輔は記憶をたどりながら歩いていた。さゆりが以前何気なく話していたことを思い出していた。夕食の席だった。弟の話から始まり、新宿の話になり、歌舞伎町の近くに昔通ったバーがあると言っていた。路地裏の地下に降りていく小さな店だと。柴田と会った時、その辺りをたまり場にしている様子があった、ということも手がかりと言えるようなものではなかった。ただの話だった。だが、手がかりがそれしかない以上、大輔に歩く行き場がなかった。
夜の歌舞伎町は、昼間とは全く異なる空気を持っていた。ネオンの光が地面を照らし、呼び込みの声が飛び交い、路地ごとに異なる匂いが漂っていた。大輔は場違いな格好でその中を歩いた。スーツではなく普通の作業着のような服装にしていたが、それでも周囲から浮いている感覚があった。1本目の路地に入り、地下に降りる階段のある店を探した。飲み屋が3軒あり、どれも明らかに違った。2本目の路地、3本目、4本目の路地の入り口で、大輔は立ち止まった。先を見ると、左手に古びた看板があり、その下に地下への階段が続いていた。看板には何も書かれておらず、ただ1本の蛍光灯が入り口を照らしていた。
降りた。扉を開けると、タバコの煙と安い酒の匂いが混ざった空気が広がった。カウンターが10席ほどで、奥に4人掛けのテーブルが3つ。薄暗い照明で、壁に古いビールのポスターが貼ってある。大輔は入り口に立ち、奥を見た。奥のテーブルの1番暗い角に、影があった。最初に見えたのは、派手な色のブラウスだった。オレンジ色に近い赤で、その席の周囲だけがやけに明るく見えた。笑い声が聞こえた。砕けた。遠慮のない笑い声だった。
その人物が顔を上げた瞬間、大輔は腹の底が落ちる感覚を覚えた。さゆりだった。ただし、大輔の知っているさゆりではなかった。髪はほどかれており、口紅の色が濃く、目元に濃い化粧が施されていた。静かで大人しい女性の面影は、そこにはなかった。笑い方が違った。声の質が違った。体全体の空間への広がり方が違った。そして、その隣に柴田がいた。柴田は上着を脱いでシャツ姿になっており、グラスを片手に持ちながら、さゆりの肩に手を回していた。何か言いながら笑っており、さゆりがそれに答えて笑い返していた。2人の間に、親しさを超えた長年の慣れ合いのような空気があった。さゆりが柴田の箸から食べ物を口に受けた。
大輔は入り口に立ったまま、動かなかった。周囲の音が遠くなった気がした。カウンターの会話も、テレビの音声も、グラスの触れる音も、全てが薄くなり、奥のテーブルだけが妙に鮮明だった。さゆりが笑いながら何か言い、柴田が手を叩いて笑った。大輔の手が、ズボンの縫い目のところで静かに握られた。7年間、誰かと食事をした回数は両手で足りた。誰かの笑い声を隣で聞いた夜は、もっと少なかった。こたつの前に向かい合って座り、ご飯の匂いがする部屋で他愛のない話をした時間。あの全てが、用意されたものだった。笑い方も、震えていた声も、緑茶を差し出した動作も。
大輔は一歩奥へ進んだ。2歩、3歩。さゆりが視線を上げた瞬間、目があった。1秒間、さゆりの表情が止まった。笑いの形のまま固まった。大輔はその表情を見た。見て、テーブルの前に立った。柴田も気づいていた。上半身をわずかに起こし、大輔を見た。既視感のある相手を確認するような目つきだった。
沈黙が3秒ほど続いた。さゆりが先に口を開いた。
「何ですか」
声が変わっていた。大輔の知っている声ではなかった。低く、乾いていた。驚きや動揺の色がなく、ただ事務的に、何の用かと言っていた。大輔は何も言わなかった。さゆりはグラスを一口飲み、それからまっすぐ大輔を見た。
「分かっておかしいと思わなかったの。あんたが自分で渡してきたんでしょう。誰かに頼んだわけでも、脅したわけでもない」
声に温度がなかった。
「ご老人がよく引っかかるのよ。こういうの。孤独だから、少し話しかけてもらうだけで信用する。私たちが悪いわけじゃない。あなたが勝手に惚れたんでしょう」
柴田は横で何も言わなかった。グラスを持ったまま、表情を変えずに聞いていた。大輔はその言葉を正面で受けた。反論しなかった。怒鳴らなかった。体の内側で何かが冷えていくのを感じた。熱が下がるのではなく、最初からそこにあった何かが形を失って沈んでいくような感覚だった。
さゆりが「もう来ないで」と言い、視線を外して柴田の方に向き直った。それで終わりだった。
大輔は背を返した。店の扉を開け、階段を登り、外に出た。夜の歌舞伎町は変わっていなかった。ネオンが光り、声が飛び交い、人が流れていた。大輔はその中に立ち、しばらく動かなかった。コートの前が風で揺れた。大輔は歩き出した。駅の方向へ、人の流れに逆らわずに歩いた。
帰りの電車の中、大輔は吊り革を持って立っていた。隣に若い男が立っており、イヤホンをして目を閉じていた。向かいの席に老婆が座っており、膝の上に布の買い物袋を置いていた。車窓の外、夜の景色が流れた。大輔は自分の靴を見た。今日も磨いてある。黒く光っている。電車が揺れた。何かを考えようとしたが、うまく考えがまとまらなかった。感情の名前が分からなかった。怒り、悲しみ、恥。そのどれもが混ざり合い、どれか1つに決まらなかった。ただ1つだけはっきりしていることがあった。あの店の中で見た2人の様子。長年の慣れ合いのあの空気は、1日や2日で作れるものではなかった。つまり、今回の件は、大輔が最初に目をつけられた時から、全てが決まっていた。防災訓練から、コンビニから、電話から、金を渡すことまで。全部、予定通りだった。
電車が駅に止まり、扉が開いた。大輔は降りた。ホームを歩き、改札を出た。夜の住宅街を1人で歩いた。アパートに戻り、コートを脱いだ。玄関の鍵を閉めた。台所に入り、湯を沸かした。緑茶をいっぱい入れた。椅子に座り、両手でカップを包んだ。湯気が上がった。さゆりが最初に渡してくれた緑茶も、こうして湯気が立っていた。公民館の駐車場で、夜の中で受け取ったあの紙コップ。あの時の温かさは本物だったと思っていた。今でも、温かさの感触だけは本物だったと思う。だが、それを利用されたのだった。
大輔は緑茶を一口飲んだ。熱かった。
翌日の昼、大輔はかつて務めていた物流倉庫の近くを通りかかった。用事があったのではなく、ハローワークへの道の途中だった。敷地の外から、施設のフェンス越しに倉庫の列を眺めた。変わっていなかった。A棟、B棟、C。夜になると蛍光灯が列をなして、フォークリフトの音が響く。大輔はその中で2年間、ダンボールの壁の間を歩き続けた。フェンスの向こうにコンテナが並んでいた。大輔はその列を目で追いながら歩いた。番号がついていた。401、402、403。402のところで足が止まった。
記憶にあることだった。以前この倉庫で夜番をしていた時、402番のコンテナについて何度か不思議に思ったことがあった。入荷と出荷の記録が定期的にあるにも関わらず、表向きの登録名義が常に変わっていた。一般的な利用者であれば、名義はそう頻繁には変わらない。だが、402には月に1度か2度、別の名前で登録されていた。大輔は当時、管理部の問題だろうと思い、誰にも言わなかった。今になって思えば、柴田という男の名前が頭に浮かぶ。根拠はなかった。ただの連想だった。だが、連想のまま頭の隅に引っかかった。
大輔はフェンスから離れ、ハローワークへの道を歩き続けた。
その夜、大輔は夕食に白飯と醤油だけを食べた。冷蔵庫に豆腐があったが、今日は開けなかった。白飯を茶碗に盛り、醤油を少しかけて食べた。味はしなかった。舌が感じていないのではなく、感じる必要性を忘れているような食べ方だった。食べ終えて茶碗を洗った。台所の窓の外に夜があった。街灯の光が道路を照らしている。誰かが自転車で通り過ぎた。その後は、誰も来なかった。大輔は台所に立ったまま、フェンスの向こうのコンテナのことを考えた。ただの連想が、少しずつ具体的な形を帯び始めていた。
あの夜以来、大輔は眠りが浅くなっていた。午前2時頃に目が覚め、天井を見て、また眠ろうとする。眠れない時は起き上がり、台所で水をいっぱい飲む。それだけをして、また布団に戻る。眠れることもあれば、眠れないまま夜明けを迎えることもあった。食事は続けていた。白飯と味噌汁、あるいは白飯と醤油だけ、あるいは豆腐に醤油をかけたもの。量は少なかったが、食べないわけにはいかない。食べないと動けない。動かないと、何も変わらない。
仕事の返事はまだ来ていなかった。ハローワークで登録したうち3箇所は「連絡します」と言ったきり、沙汰がなかった。1箇所は「採用は難しい」という短い連絡が来た。残りの2箇所は、まだ審査中だという。69歳という数字が、どこかで常に引っかかっているのが分かった。担当者の口調に出るのではなく、返事の遅さに出ていた。
ある朝、大輔は郵便受けを開けた。チラシが3枚と、封筒が1通入っていた。差出人の欄に管理会社の名前が書いてあった。封を開けると、家賃の振り込み確認と来月分の通知が入っていた。それだけだった。大輔はその封筒を台所のテーブルに置いた。来月の家賃は7万8000円だった。今月すでに払っている。来月分を払えば、残高は14万円ほどになる。その後の収入の目途が立っていなかった。通帳を出して数字を確認した。32万4000円。家賃を払い、光熱費を払い、食費を絞れば、3ヶ月は持つかもしれない。3ヶ月のうちに仕事が決まれば問題ない。だが、今の状況では、3ヶ月が確実とも言えなかった。
大輔はテーブルの封筒を片付け、靴を磨いた。磨き終えた靴を玄関に揃えた。出かける予定は特になかった。だが、磨いた。
その日の午後、大輔は主任だった男に電話をかけた。物流倉庫で夜番を組んでいた頃の同期の古社員だった。名前は村田と言い、大輔より3歳若く、定年まであと2年ある人間だった。退職の挨拶もろくにできなかったことが気になっていた。電話は6回鳴って、繋がった。村田は少し驚いた様子で「長谷川さんですか」と言った。
「急に失礼します」
大輔は退職のことを簡単に話した。村田は「そうでしたか」と言い、少し沈黙した。「佐藤から聞いた話が」と言いかけて、止まった。
「佐藤さんには迷惑をかけました」
「いや、迷惑というか」
「また何かあれば」
大輔は続けた。「いえ、特に用事があったわけではないです。退職の挨拶が言えなかったので」
「そうですか。お体に気をつけて」
村田は言った。電話を切った後、大輔は少しの間、携帯を手に持ったままでいた。電話をかけて何かが変わるわけではなかった。変わらないと分かっていたが、かけた。
翌週の月曜日、大輔は再びハローワークへ行った。担当者が変わっていた。前回と違う若い女性で、大輔の登録情報を画面で確認しながら話を聞いた。
「前回から1週間、いくつかお問い合わせいただいていますね」
「現状を確認したくて。週に4回は連絡を入れています」
「そうですね。ただ、現在の登録求人ですと、応募から採用までに時間がかかるものが多くて」
「急いでいます」
大輔は言った。担当者が少し困った顔をした。
「急いでいるというのは、生活費の問題です」
担当者は何か書き込み、別のリストを出した。「日払いや週払いの短期案件もありますが、警備や清掃の1日単位のものになります。体力的に問題なければ」
「問題ありません」
その日の夕方、大輔は短期の清掃の仕事の登録を済ませた。翌日から入れると言われた場所は、新宿の商業施設で、午前5時から午前9時までの4時間。時給は1100円だった。帰り道、大輔は夕暮れの住宅街を歩いた。4時間で4400円。月に20日入れば、8万8000円になる。家賃と光熱費を払って食費を切り詰めれば、なんとかなる計算だった。「なんとかなる」という言葉が頭の中で繰り返された。7年間で初めて、その言葉が軽く感じなかった。
清掃の初日、大輔は午前4時半に家を出た。まだ暗い道を原付で走り、商業施設の従業員入り口に入った。ロッカーでつなぎ服に着替え、担当者から道具の説明を受けた。担当者は40代の女性で、手順を淡々と説明した。モップの絞り方、床材によって使う洗剤が違うこと、ガラスの拭き方、トイレの清掃順序。大輔は黙って聞いた。仕事が始まると、黙々と動いた。モップを動かし、ガラスを拭き、トイレを磨いた。4時間動き続けた。体は問題なかった。汗が出た。それだけだった。休憩なしで4時間を終え、着替えて施設を出た。外はすでに明るくなっており、通勤の人々が歩いていた。大輔はその流れの中を逆方向に歩いた。疲れはあったが、嫌ではなかった。体を動かしていると、頭が空になる。その空になる感覚を、大輔は必要としていた。
翌日も、その翌日も、大輔は同じ時刻に起き、同じ場所へ行き、同じ仕事をした。週が変わった。仕事は続いていたが、仕事以外の時間は空洞だった。帰宅してからすることがなかった。食事を作り、食べ、片付ける。ラジオを点けるが、内容が入らない。ハローワークで次の登録をする。それだけだった。歌舞伎町の夜のことは、日中は遠ざけていた。夜中に目が覚めた時、壁のしみを見ている時、不意に蘇ってくることがあった。さゆりの声の話し方が変わった瞬間を、何度も反芻した。あの声は作られたものだったのか。それとも、本来の声があれだったのか。どちらが本物で、どちらが偽物だったのかを、大輔はうまく整理できなかった。おそらく、そういう問い方自体が正確ではないのだろう、とだけ思った。
ある夜、息子に当てていた電話から少し経った後の夜のことだった。眠れずに起きて、台所で水を飲んでいた。息子の番号が頭の中にあった。それは珍しいことではなかった。だが、今夜は頭の中に浮かんだ番号が指まで降りてきた。携帯を手に取り、着信履歴を開いた。息子の番号はそこにはなかった。連絡先に保存してある。大輔は連絡先を開き、「安一」という名前を見た。かけた。呼び出し音が4回鳴った。繋がった。
「はい」
声を聞いた瞬間、大輔は何も言えなかった。7年間聞いていなかった声で、低くなっていた。少年のような声の記憶があったが、今は違っていた。
「誰ですか」
安一が言った。
「大輔です」
大輔は言った。「父親だ」
沈黙が3秒あった。
「何の用ですか」
温度のない声だった。怒りとも驚きとも違った。ただ事務的に、何の用かと聞いていた。大輔は少し言葉を探した。謝ろうとしているのではなかった。要件を伝えようとしていたが、要件が何なのかを自分でもうまく把握していなかった。
「少し困ったことがあって」
大輔は言った。「仕事を変えることになった。金が少し足りない時期があるかもしれない。来月の家賃が」
言いながら、これは言うべきではなかったという感覚が同時に来た。だが、言葉は出てしまっていた。安一の息が聞こえた。短く鼻から出る音だった。
「仕事を変えたというのは、また女に貢いだんですか」
大輔は返事をしなかった。
「知ってますよ。佐藤さんという方から聞きました。深夜に職場を抜け出して、女に金を渡したって」
大輔は佐藤が問い詰めて止まった。話が早くて助かります、と安一は続けた。
「はっきり聞きますが、老人をそんなに引っかかって、退職金も貯金も全部使ったんですか。それで、息子に泣きついてきた」
「そういうつもりで電話したのではない」
「じゃあ、どういうつもりですか」
「10万あれば、来月を乗り切れる。1ヶ月後に必ず返す」
「返せる根拠は何ですか。無職なんでしょう」
大輔は黙った。
「お父さん」
安一が言った。声が少し変わった。静かになったが、冷たさは変わらなかった。
「お母さんが具合が悪い時、一度でも電話してきましたか。俺が援助を申し出た時、どう言いましたか。『必要ない。俺の家族のことは俺が見る』。そう言ったのは、あなたですよ」
大輔は「そうだ」と言った。
「なのに、今は息子に頼るんですか。自分で選んで、自分で仕事をなくして、そうなったら息子に。俺はあなたの貯金箱じゃないんです」
「分かった」
「分かったじゃなくて、考えて欲しいんです。あなたがしてきたことを」
「考えている」
「考えていたら、こんな電話はしてこない」
沈黙があった。
「お母さんのこと」
大輔は言った。言おうとして、続かなかった。言いたいことがあったはずだが、言葉にならなかった。
「母はなくなりました」
安一が言った。「もう7年です。今更、何ですか」
大輔は何も言えなかった。
「もう、かけてこないでください」
安一は言い、電話を切った。ツーツーという音が聞こえ、それが止まり、無音になった。大輔は携帯を耳から下ろした。台所の蛍光灯がついていた。テーブルの上に水のコップがあった。外から車の音が遠く聞こえた。大輔は椅子に座った。膝の上に手を置き、テーブルを見た。特に何も考えていなかった。考えることができなかったのではなく、今この瞬間に考える必要のあることが何もなかった。しばらくして、大輔は立ち上がり、布団に戻った。眠れなかった。天井を見ていた。しみが見えた。安一の声が残っていた。低くなっていた。知らないうちに、低くなっていた。
翌日、大輔は清掃の仕事を終えて帰り、着替えをして近くの公園に行った。理由はなかった。ただ、部屋の中にいられなかった。ベンチに座った。風が少しあった。落ち葉が1枚、大輔の足元まで飛んできて止まった。隣のベンチに老人が1人いた。大輔より年上に見えた。コートを着て、両手をコートのポケットに入れていた。ただ座っていた。何も見ておらず、何も考えていなさそうで、ただそこにいた。大輔はその老人を見て、視線を戻した。鳩が出てきた。落ち葉がまた動いた。
あと何ヶ月、清掃の仕事が続くかは分からない。仕事が続いても、次の仕事につながるかわからない。安一から金は借りられない。借りようとも思わない。電話はもうかけない。大輔は自分の今の状況を頭の中で一度だけ整理した。仕事はある。清掃の短期だが、続いている。家賃は来月まで払える。今月は厳しくなる。体は問題ない。安一の援助はない。誰かに頼れるものもない。それだけだった。絶望という言葉が浮かんだが、それは違うと思った。絶望というのは、何かを強く望んでいた先にある感情だった。大輔が今感じているのは、それとは少し違い、もっと単純なものだった。静かにそこにある。そういう感覚だった。
公園を出て、駅の方向に歩いた。何か考えがあったわけではなかった。ただ歩いていたら、電車のホームに降りていた。ホームは夕方の混雑が始まる前で、まだ人が少なかった。大輔はホームの端のベンチに腰を下ろした。電車が来て止まり、扉が開き、人が乗り降りして、また発車した。次の電車が来るまで、数分あった。大輔はホームに並ぶ人間の背中を見ていた。スーツの背中、ダウンジャケットの背中、鞄を持った背中。それぞれが前を向いており、それぞれが別々の場所に行こうとしていた。次の電車が来た。扉が開いた。大輔はベンチから立ち上がらなかった。扉が閉まり、電車が発車した。その風圧がホームを走り抜けた。大輔の髪とコートの裾を揺らした。大輔はその風の感触の中で、目を閉じた。どれほどそうしていたか分からなかった。目を開けた時、ホームはまた静かになっていた。向かいのホームに電光掲示板があった。次の電車まで6分と表示されている。大輔はその数字を見ながら、ぼんやりと思った。6分後に電車が来る。その次も来る。その次も来る。毎日何本も来る。止まり、扉を開け、人を運び、また走る。35年間、自分もそれをやっていた。終点に着いたら折り返す。どんな夜でも、どんな雨でも、折り返して戻ってくる。それがバスだった。
そのことを考えていた時、別のものが頭に来た。唐突だった。倉庫のフェンス越しに見た、あの数字だった。402。大輔は目を細めた。深夜の倉庫で夜番をしていた2年間、あのコンテナについて何度か疑問を持ったことがあった。入出庫の記録の書類が、管理台の他のコンテナと少し違っていた。名義の欄の書き方が不自然だったこと。月に1度か2度だけ、別の仮名のような表記で登録されていたこと。当時は管理部の問題だと思っていた。今は違う。柴田という男は、あの倉庫と繋がりがあるかもしれない。大輔はその可能性を、根拠なく感じていた。根拠がないのは分かっている。夜間警備員として2年間、あの施設の全ての隅を歩いてきた人間の体に染み込んだ直感だった。あのコンテナの中に何があるのか、あるいは何があったのか。もし柴田があそこを使っているなら、記録が残っているかもしれない。
大輔自身は退職した。カードキーは返却したが、緊急時の副系統の番号を大輔はまだ覚えていた。夜番の2年間で頭に入ってしまったものだった。それを使うことがどういう意味を持つかは分かっていた。不法侵入にあたる。以前の職場に無断で入る行為だ。発覚すれば、残っているわずかな信用も消える。だが、それ以外に自分に何ができるか。警察は動かない。証拠がない。金は戻らない。仕事はない。安一は電話に出ない。
大輔は立ち上がった。ベンチから立ち上がり、ホームに立った。向かいの電光掲示板を見た。次の電車まで2分。大輔は前を向き、電車を待った。まだ何かが残っていた。怒りとも呼べないが、収まっていない何かが胸の底にあった。7年間孤独に生きてきた人間が、たった数週間でその感覚の根を全部抜かれた。金も、仕事も、息子との関係も、全部が一度に崩れた。だが、崩れた時、人間はどうするか。35年間、バスの運転手をしていた。折り返し地点で向きを変え、また同じ道を走る。同じ道でも、行きと帰りでは景色が違う。同じ停留所でも、朝と夜では顔が違う。終点は、折り返しの場所でもある。
電車が来た。大輔は乗った。決めたのは、その夜だった。電車に乗り、自宅の最寄り駅で降り、アパートに戻った。コートを脱ぎ、台所で湯を沸かした。緑茶をいっぱい飲んだ。それから机の引き出しを開け、退職前に書きためていた夜番の記録ノートを取り出した。2年分の走り書きだった。大輔は几帳面な性格で、勤務中に気になったことを小さなノートに書き留める癖があった。異常がないことを確認した時刻、施設の各エリアの状況、備品の消耗具合。そういった事務的な記録がほとんどだった。だが、その中に402番コンテナについての記述が何箇所かあった。
1年7ヶ月前のページを開いた。「11月14日、午前3時過ぎ、402コンテナ名義確認。今月3度目の名義変更。前回は上田物産。今回はKSトレーディング。管理部に確認用」。その下に、また別の日付。「12月2日、402、深夜1時半頃、外部業者らしき人物が荷物を搬入。施設側の担当者は確認できず。翌朝管理部に問い合わせたが、正規の入庫手続きはあるとのこと」。
大輔はノートを閉じた。問い合わせたが、正規の手続きはあると言われて、そこで終わらせた。当時の自分は、それ以上掘り下げなかった。夜番の警備員が踏み込むべき領域ではないと判断したのだ。だが、今の自分は何も失うものがない。もし402の中に何かがあれば、柴田という男の実態につながるものがあるかもしれない。名義変更の記録、個人情報の書類、何らかの痕跡。警察が動かないのは、証拠がないからだった。証拠があれば、話は変わる。
大輔は翌日の清掃の仕事を終えてから、計画を考え始めた。施設に侵入するためには、いくつかの壁があった。まず入り口だった。正面ゲートには警備員が常駐している。大輔は退職後も同じ警備会社が担当しているはずで、顔を知っている者もいるが、夜中に正面から入ることはできない。次に裏口だった。搬入の裏口が敷地の北側にある。フェンスに接しており、非常時には外部からの解除が可能な副系統のパネルがある。大輔はそのパネルの番号を頭の中にまだ持っていた。2年間の夜番で、緊急時の対応訓練として叩き込まれたものだった。ただし、その番号が退職後も変わっていないかどうかは分からない。3つ目の壁はカメラだった。施設内には監視カメラが設置されており、2026年に新しいものに更新されていた。大輔は更新前の配置を知っていたが、新しいカメラの位置は完全には把握していなかった。頭の中で通路の地図を描いた。AからBへ抜ける通路。フォークリフトの動線。非常口の位置。電灯のスイッチの場所。2年間歩き続けた道筋が、体の中に残っていた。問題は、夜番の人間が何人いるかだった。大輔が勤めていた時は、夜番2人体制だった。1人が詰所に常駐し、もう1人が巡回する。交代で回すため、巡回が戻ってくるタイミングが読める。だが、自分が退職した後、体制が変わっていないとも限らない。
3日間、大輔はこれを考え続けた。清掃の仕事をしながら、帰り道を歩きながら、眠れない夜中に天井を見ながら。実行するとすれば、今週の金曜日の深夜だと決めた。理由は単純だった。清掃の仕事の給与が入るのが木曜日で、来週月曜日が家賃の引き落とし日だった。金曜日の深夜なら、週末にかけて施設の動きが落ち着いている時間帯にあたる。大輔が夜番をしていた時、金曜日の深夜は1週間で最も静かな時間帯だった。副系統の番号が変わっていれば、それで終わりだった。変わっていなければ、中に入る。それだけだった。
金曜日まで4日あった。大輔はその4日間を普通に過ごした。清掃の仕事に行き、帰り、食事を作り、眠った。特別なことは何もしなかった。ただ1つだけ、道具を用意した。物置きの奥にある工具箱から、小さな懐中電灯と薄い金属の棒を取り出した。原付のチェーンを切った時に残った道具だった。鍵穴に使えるかどうかは分からなかったが、何もないよりはましだった。それをズボンのポケットに入れて、感触を確かめた。
金曜日の夜、大輔は午後11時まで部屋にいた。コーヒーをいっぱい飲んだ。黒い、砂糖なし。靴を磨いた。今夜の靴は倉庫に入るための靴ではなかった。だが、磨いた。磨かないと、気持ちが整わない。午前0時を少し過ぎた頃、コートを着て外に出た。原付で施設の近くまで行き、1本手前の路地に止めた。後は徒歩だった。施設の外周を歩き、北側のフェンスに沿って進んだ。街灯が届かない場所を選んで歩いた。フェンスの外から施設の倉庫の列を見た。Aの蛍光灯が1列だけついていた。詰所の窓に明かりがある。それだけだった。駐車場に車が2台。1台は管理部の車で、もう1台はおそらく夜番の警備員の車だった。2台だった。大輔は立ち止まり、少し考えた。夜番が2人体制のままであれば、1人が詰所にいて、もう1人が巡回している。巡回の周期は約40分だった。今から入るとすれば、巡回員が詰所に戻るタイミングを見計らう必要がある。
施設の外周を一周するのに15分かかった。詰所の窓の中で人影が動くのが見えた。立ち上がり、何かを取り、また座った。1人だった。ということは、もう1人が今巡回中だった。大輔は時計を見た。午前0時40分。巡回が出発してからどのくらい経つかは分からないが、40分サイクルであれば、あと20分から30分のうちに詰所に戻る。その直後、詰所にいた人間が次の巡回に出る。その交代の数分だけ、施設内に誰もいない時間帯ができる。
大輔は北側のフェンス沿いに移動した。裏口のパネルはフェンスの内側にある。フェンスと倉庫の間の幅3mほどの空間に設置された小さなボックスだった。フェンスの外側からは操作できないが、非常用として外部から見える位置に番号入力パッドが取り付けられていた。その構造は、緊急時に外から消防隊員が入れるようにするためのものだった。大輔はフェンスの網目の隙間から手を伸ばし、パネルのボックスに触れた。7桁の番号を入力した。カチッという音がした。番号は変わっていなかった。裏口のラッチが外れ、フェンスの一部が内側に開いた。大輔は体を横にして中に入り、ラッチを元に戻した。
敷地内に入った。背中を倉庫の壁に当て、周囲の音を聞いた。フォークリフトの音はない。遠くから国道の車の音が聞こえるだけだった。懐中電灯は使わなかった。街灯の光だけで足元は見えた。コンテナ置き場は、A棟とB棟の間にある。番号順に並んでいるはずで、402は中ほどにある。大輔は壁伝いに歩き、倉庫の角を曲がった。コンテナが並んでいた。薄暗い中で番号を確認しながら進んだ。401。その隣が402だった。
402のコンテナは、他のものと外見上の違いはなかった。鉄の扉に南京錠がかかっていた。大輔は錠を確かめた。安価なものではなかった。だが、ダイヤル式ではなく鍵穴式だった。工具箱から持ってきた金属棒では無理だった。大輔は少しの間、扉の前に立った。ここまで来て、鍵が開かない。周囲を見回した。コンテナ置き場の端に、道具の置き場がある。フォークリフトのアタッチメントやパレットや修理用の部品が積んである場所だった。大輔はそちらに歩いた。道具棚の下に、錆びた金属の棒があった。長さ50cmほどで、一端が曲がっている。バールに近い形状だった。大輔はそれを持ち、402に戻った。錠の耳金部分に金属棒を当て、体重をかけた。1度では動かなかった。位置を変えて、もう1度かけた。3度目に、金属音と共に耳金が外れた。扉を引いた。
中は暗かった。懐中電灯をつけた。光の輪がコンテナの内側を照らした。奥行き6mほどの空間に、ダンボール箱が積まれていた。配送のラベルが貼ってあったが、大輔には見覚えのないメーカー名だった。右手の壁際に、プラスチックのコンテナボックスがいくつか積んである。そして左手の壁際に、引き出し付きのキャビネットがあった。大輔はキャビネットに近づいた。引き出しを開けると、クリアファイルが何冊も立てて並んでいた。1冊を取り出して開いた。書類が入っていた。名前、年齢、住所、電話番号、家族構成、預貯金の推定額、勤務先または年金の種類。1人につき1枚。フォーマットが統一された用紙で記録されていた。大輔はページをめくった。別の人物の記録が出てきた。また別の人物、また別の。全て60代から80代の男性だった。独居、あるいは配偶者と死別という記録が共通していた。大輔は懐中電灯を持ち直し、数を数えた。1冊のファイルに30枚ほど。キャビネットに10冊以上ある。300人以上の記録が、ここにあった。
大輔は1枚を取り出した。自分の記録があるかもしれないと思ったが、すぐには見つからなかった。だが、探す時間はなかった。外から足音が聞こえた。大輔は懐中電灯を消した。コンテナの扉の隙間から外を見た。20mほど先に、懐中電灯の光が動いていた。巡回の警備員だった。光の向きから、こちらに向かっているのではなく、別の方向に向いているのが分かった。大輔は動かなかった。足音が少し遠ざかった。遠ざかり、止まり、また近づいた。大輔は背を壁に当てたまま、呼吸を整えた。足音がまた遠ざかった。今度はそのまま、詰所の方向に消えた。
大輔は3分待った。それからキャビネットに戻り、クリアファイルを3冊取り出した。厚みがあった。コートの内側に2冊、ポケットに1冊を入れた。残りはそのままにした。引き出しを元に戻した。コンテナを出て、扉を閉めた。耳金の跡が残っていたが、暗がりでは気づかないかもしれない。来た道を戻った。裏口まで歩き、フェンスを通り、外に出た。ラッチを元に戻した。路地に戻って原付に乗り、走り出した。
アパートに戻ったのは、午前2時を少し過ぎた頃だった。コートを脱ぎ、テーブルにクリアファイルを置いた。懐中電灯を台所に戻した。手を洗った。椅子に座り、ファイルを開いた。最初の1枚を読んだ。東京都内の72歳の男性。年金受給者。預貯金の推定額200万から300万。子1人で別居中。被害額欄に数字が書いてあった。150万円。次の1枚。68歳、元会社員。妻と死別、独居。推定預貯金額500万以上。被害額300万円。次、74歳、被害額200万円。66歳、被害額450万円。
大輔は読み続けた。用紙の体裁は丁寧に整えられており、氏名、住所、被害額、担当者のイニシャルらしき記号が書かれていた。担当者の欄に「S」という一文字が繰り返し出てきた。柴田という男の頭文字だった。別の欄には「K」というイニシャルが出てきた。倉川さゆりの頭文字だった。大輔はその一文字を見た。KとSが並んでいる記録が、30枚以上あった。大輔は読み続けた。途中で時計を見ると、午前3時を過ぎていた。最後のページまで読み終えた時、大輔はファイルを閉じた。3冊のファイルを重ねて、テーブルの端に置いた。外から夜の音がした。風が窓を揺らした。大輔は少しの間、何も考えなかった。それから立ち上がり、台所に行って湯を沸かした。緑茶をいっぱい入れた。椅子に戻り、緑茶を飲んだ。
翌朝、大輔は午前9時に近くの交番に向かった。今回は持ち物が違った。3冊のクリアファイルと、以前に渡された偽の領収書と、夜番時代のノートを抱えていた。窓口の警察官は、先日とは別の人物だった。40代の男性で、大輔の話を最初は前回と同じように聞いていた。だが、大輔がファイルを取り出した時、表情が変わった。
「これは詐欺グループの被害記録だと思います。被害者の名前と住所と金額が記載されています」
警察官はファイルを手に取り、最初のページを開いた。それから顔を上げた。
「これはどこで入手しましたか」
「施設に入って取ってきました」
大輔は答えた。「施設というのは、元の職場の倉庫施設です。退職後に無断で入りました。不法侵入に当たることは分かっています」
警察官は少し間を置いた。「少々お待ちください」と言い、奥に引っ込んだ。しばらくして、別の警察官が出てきた。年嵩の50代の男性だった。大輔を奥の部屋に通した。そこで大輔は1時間以上かけて話をした。柴田という男のこと、倉川さゆりのこと。防災訓練から始まった経緯、400万円の現金授受、倉庫のコンテナに記録があると気づいた経緯。警察官は書き留めながら聞いた。途中で何度か確認の質問をし、大輔はその都度答えた。ノートの記述を見せた。夜番時代に書き留めたコンテナの名義変更の記録。
面談が終わると、警察官が言った。「ご提供いただいた書類は、組織的詐欺事件の捜査資料として扱います。不法侵入の件については、捜査の進展次第で判断します」
「分かりました」
「当面、この件について外部に話さないようにしてください」
「はい」
「長谷川さん」
警察官は続けた。「被害に遭われた方が、ご自身で証拠を取りに行く必要はありませんでした。危険を犯さなくてよかった」
大輔は少し考えてから、「そうですね」と答えた。「他にできることがなかったので」
警察官は何も言わなかった。ただうなずいた。
交番を出ると、昼近くになっていた。空は曇っており、風が出ていた。大輔はしばらく交番の前に立った。それから歩き出した。家には帰らなかった。駅の方向に歩き、商店街を抜け、公園の前を通った。公園のベンチに座った。この前来た時に隣にいた老人は、今日はいなかった。大輔は1人でベンチに座り、風が吹くのを感じていた。
3週間後の木曜日の朝、大輔が清掃の仕事から帰ると、見知らぬ番号から着信が入っていた。折り返すと、先日の刑事だった。
「長谷川さんにご連絡したいことがあります。今週中にお越しいただけますか」
翌日、大輔は警察署に赴いた。刑事が2人いた。大輔を部屋に通し、茶を出した。
「柴田及び共犯者の倉川さゆりを、組織的詐欺の容疑で逮捕しました」
1人が言った。「ご提供いただいた資料が捜査の端緒になりました。他の被害者の証言も得られ、逮捕に至りました」
大輔は黙って聞いていた。
「被害金額の一部が押収できており、長谷川さんの被害分については、今後の裁判の進展によりますが、返還の可能性があります。400万円全額かどうかは、現時点では確約できません」
「分かりました」
「ご協力に感謝します。不法侵入の件については、今回の貢献を考慮した上で、起訴を見送る方針です」
大輔は「ありがとうございます」と言った。部屋を出る時、刑事の1人が「長谷川さん」と呼び止めた。
「あのファイルに記録されていた被害者の方々は、300人以上いました。その方たちにとっても、長谷川さんが持ち出してくださったことは大きかったです」
大輔はうなずいた。何か言おうとして、やめた。廊下を歩き、外に出た。空が明るかった。午前11時で、薄い雲がかかっていたが、光が透けていた。
数日後、400万円が振り込まれたという通知が届いた。大輔は通帳を持って銀行に行き、記帳した。残高が増えていた。数字を確認した。7年かけて積み上げ、あの夜に全部出した金額が、そのまま戻っていた。大輔はATMの前に立ち、通帳を見た。しばらく動かなかった。それから、振り込み操作を始めた。安一の口座番号を入力した。番号は頭の中に入っていた。7年間、一度も使わなかったが、忘れていなかった。400万円を入力した。確認画面が出た。大輔はそれを見て、少しの間止まった。送金の理由欄に文字を入力できる欄があった。大輔はそこに「ご家族のご健康をお祈りします」と入力した。確定ボタンを押した。ATMが処理をした。完了した通知が表示された。大輔は通帳を取り出し、記帳した。残高が32万円ほどになっていた。1ヶ月前と、ほぼ同じ数字だった。
銀行を出た。商店街を通り、公園の横を通り、アパートに向かって歩いた。風が冷たかった。11月に入り、朝晩の気温が下がっていた。アパートに戻り、コートを脱いだ。台所で湯を沸かした。緑茶をいっぱい入れた。椅子に座り、両手でカップを包んだ。湯気が上がった。外から風の音がした。大輔は緑茶を一口飲んだ。熱かった。
翌朝、大輔は午前4時半に目を覚ました。清掃の仕事の時間だった。起き上がり、顔を洗い、着替えた。玄関で革靴を履いた。昨夜磨いてあった。黒く光っていた。外に出ると、冬の朝の空気が体を包んだ。まだ暗く、街灯だけが道を照らしていた。大輔は原付に乗り、走り出した。商業施設に着き、着替えてモップを手に取った。朝の5時だった。他の清掃員が3人いたが、誰も話さなかった。それぞれが自分の担当区画に散っていく。大輔は自分の区画を担当した。通路の端から端までモップをかけた。床が濡れ、また乾いていく。同じ動作を繰り返す。4時間が過ぎた。着替えて施設を出た。外はすでに明るくなっており、通勤の人並みが始まっていた。大輔はその流れに逆らって歩いた。
帰り道の途中、公園の前を通った。ベンチに誰かが座っていた。70代くらいの男性だった。コートを着て、両手をポケットに入れ、何も見ずにただ座っていた。大輔はその前を通り過ぎた。少し歩いてから、足を止めた。ポケットを探ると、清掃の仕事帰りに買ったおにぎりが1つあった。昼食のつもりで買ったものだった。大輔は振り返った。公園の入り口まで戻り、ベンチの老人に近づいた。老人が顔を上げた。大輔はおにぎりを差し出した。
「よかったら」
とだけ言った。老人は少しの間、大輔を見た。それから黙って、おにぎりを受け取った。大輔はうなずき、公園を出た。
アパートへの道を歩きながら、大輔は空を見た。薄い雲が広がっており、その奥に青が見えた。冬の朝の淡い青だった。安一から連絡は来ていなかった。来るとも思っていなかった。振り込んだことに気づいたとしても、安一が電話してくることはないだろう。それでよかった。大輔は歩き続けた。アパートが見えてきた。玄関の鍵を開け、中に入った。コートを脱いだ。台所で湯を沸かした。今日の清掃で1500円の日当が出た。明後日も仕事が入っている。通帳の残高は32万円だった。大輔は湯が沸くのを待ちながら、窓の外を見た。向かいのアパートの壁が見えた。それだけだった。大輔はいつも通り、緑茶をいっぱい入れた。椅子に座り、飲んだ。靴は玄関に揃えてある。今夜また磨く。それだけのことだった。



