「日給十円でも構いません。どうかこの会社で私を雇ってはくれませんか?」
十円。目の前に座る老人からの申し出に、俺は間の抜けた声を出してしまった。履歴書に七十八歳と明記された、砂川と名乗る老人は、深い皺の刻まれた顔で穏やかに微笑んでいる。だがその微笑みの奥で俺たちを見つめる目は、真剣そのものだった。その視線を受け、社長であるみおさんが苦しそうな表情を隠さずに返事をする。
「何かご事情があるのは分かりました。ですが、お恥ずかしい話、私たちの会社もギリギリなのです」
「ええ、もちろん分かっておりますとも。何はともあれ、見てもらうのが一番早いでしょうから、少しお借りしますよ」
そう言うと、老人は慣れた手つきで作業を始めた。鮮やかなその手つきと美しい布地の仕上がりに、その場にいた全員が言葉を失うのも忘れていた。これはすごい。この老人との出会いが俺の人生を大きく変えることになるなんて、この時は思いもしなかった。
俺の名前は山村直。全国各地の工芸品を取り扱う会社・篠山に務めて十年。三年前から開発部に席を置き、今では課長という立場にある。やりがいは感じているが、元々俺はこの会社に入るのを躊躇していた。この会社が伝統工芸品を扱っているからだ。
俺の父親は、伝統工芸品の一つである桜川ナセンの職人だった。ナセンというのは、紙に型を押し当てて布地に美しい柄をプリントしていく技術のことで、桜川町という地域で大きく発展した。しかし桜川町は時代の流れの中で消えていき、職人もその数を減らしていった。父は若い頃に師事していた工房から独立し、桜川町と環境が似ていた土地に染め物工房を一人で立ち上げた。師匠とは別の土地で桜川センの技術を残すことに尽力したのだ。
まだ立ち上げたばかりの工房で己の技術を磨くため、毎日のように作業に没頭している後ろ姿は、今でも俺の記憶に残っている。貴重な技術で伝統工芸としても認められていた桜川センだったが、その知名度は全国的に低く、立ち上げたばかりの工房では注文数もそこまで多くなかった。ある程度の年数が経過して、町全体で桜川センを取り上げてくれるようになってからはなんとかなったものの、それまでの数年間の生活は大変だった。
元々金銭感覚に疎い職人気質の父は、悪徳業者に安く買い叩かれたり、人に請われて激安で譲ってしまったりと、貧乏になるべくしてなったとも言える経営状況だった。一番の煽りを食らうのは家族である母と俺だった。毎日食べるものにも苦労して、母は土地だけはある山の中に畑を作って野菜や米を自給自足で賄うという方法にたどり着くまでになった。
俺たちが苦労していることを知って、父は申し訳なさそうにはしていたが、家のことは母に任せきりで、父は工房に一日中こもっていた。それは工房が大きくなり、人手が増えた後も変わらなかった。
「お父さんのお仕事は大切なものだから、一緒にいられなくて寂しいけど我慢しようね」
まだ幼く、父が恋しいと泣く俺に、母はそう言って優しく抱きしめてくれた。周りの友達と同じように家族で遊園地に行きたいと駄々をこねる俺の頭を撫でながら、「ごめんな」と言って工房へと向かう父を見送ったことは何度もあった。そのくせ、勉強になるからと他の工芸品が展示された展覧会などには足を何度も運んでいて、その時は俺や母のことも一緒に連れて行ってくれた。父の職業から仕方ないことかもしれないが、生活も娯楽も何もかもが工芸と紐づいていた。
思春期に差しかかる頃には、俺の父への感情はすっかり変わってしまった。衣食住にも困る生活の中、父と遊んだ記憶もほとんどない幼少期を送ってきた俺からすれば、父のことが、桜川センが憎らしく思えたのは言うまでもない。俺にとっての救いは、母がいつも俺に寄り添ってくれたこと。そして大きくなった工房で働く職人たちが、父の代わりに俺のことを気にかけ可愛がってくれたことだった。
会話らしい会話もした記憶がない期間が長く過ぎ、実家を出て一人暮らしをしていた大学生の頃、父が亡くなった。その時初めて父が病気だったことを知った。俺には伏せておいて欲しいと父が願ったのだと母から聞いた。治療に専念すればまだ長く生きられたかもしれないのに、父は仕事を優先した。母も納得した上で、というが、俺はそれでも父の判断を受け入れたくなかった。家族よりも命よりも、仕事、職人としての使命の方が上回ったというのか。
父の葬儀には工房の職人仲間や仕事の関係者、それから町の関係者と、父の師匠という人も来ていた。みんな父が亡くなったことを悲しみ、涙を流していた。父が眠る棺には、父が生前染め上げた桜川センが入れられた。多くの人から慕われ、地元に貢献し、伝統工芸・桜川センを未来につなげた父は、きっとみんなからしたら偉大な人だったのかもしれない。でも俺には消化しきれない気持ちと、伝統工芸へのわだかまりが残ってしまった。父が亡くなったことも、伝統工芸への苦手意識を刺激する材料になってしまったのだ。
そういった経緯があって、俺は伝統工芸というものに対して複雑な感情を持っていた。そんな俺がどうして工芸品を扱う会社にいるのかと言うと、皮肉なことではあるが、小さい頃から多くの工芸品や父の作る桜川センを見てきた俺には、工芸品を見る目や知識が自然と備わっていたらしい。就職に困って苦労するのと、苦手な世界に身を置くのとを天秤にかけた結果、現実的な道を選んだ俺は、こうして篠山にいるというわけだ。
そしてこの業界で過ごすうちに、父のことを考えることも増えていった。いや、正確に言えば、父のような職人のことを考える機会が増えた。罪滅ぼしという大それたものではないが、職人としての苦労の一端を知っている自分だからできる仕事があるのではないかと、入社してからの十年間ずっと模索しながらやってきた。先代社長の頃は、お客様への還元だけでなく職人や工房も守っていくという方針があった。そんな会社の方針も、俺のやりたい仕事を模索するのに背中を押してくれた。職人や工房との打ち合わせを重ね、そこから会社と作り手との最適解を見つけることに注力して仕事に打ち込んだ。ありがたいことに、手掛けた商品はお客様からも好評だった上に、職人からは指名をもらうこともあった。最初は営業部で全国の工房を回っていた俺の経験と信頼が買われて、その後開発部へと移動した。残念ながら染め物は俺の管轄外だったので手掛けることはなかったが、焼き物や漆器などいくつかの伝統工芸を現代の暮らしに合った形で長く使ってもらえる商品を開発するプロジェクトを立ち上げることに成功した。お客様からの評判も良かったが、何より商品開発に協力してくれた職人や工房からの「私たちの工芸品を理解し、新しい形を提案してくれてありがとう」という感謝の言葉が嬉しかった。一つの形ではあるが、俺が目指していたことが実現できた気がして、これから先の仕事への意欲も高まっていた。
しかし、去年の冬に先代社長が病気で倒れ療養が発表されると同時に、二代目として息子の篠山秀樹社長が就任してから、何もかもが変わっていったのだ。
「売上の悪い部門は閉鎖。その分の予算は好調な染め物や陶器の部門へ回すことにした」
会議室でどよめきが広がっていく中、社長はお構いなしに手元の資料を見ながら不調な部門を読み上げていく。その担当者は次々と呆然としていった。
「契約している工房などへの通達は君たちに一任する。以上だ」
そう言うと篠山社長は立ち上がって部屋を立ち去ろうとした。
「いきなり閉鎖だなんて無茶です。貴重な技術を持つ工房が潰れてしまいます」
閉鎖通告をされた担当者たちが社長に泣きついていたが、そんな彼らを面倒くさそうな表情で社長は一蹴した。
「いくら貴重でも売れないんじゃどうにもならない。残っていくものと消えていくものがあるのも当然だ。どうしてもというなら、今より予算は落とす」
この二代目社長に代わってからというもの、利益追求が第一となり、文化や技術の保全は二の次、三の次になっていた。正確に言えば、売上が立つ人気部門に対しては予算も手当ても大きく割り振られているので、その部門に該当する工房や職人たちの待遇は良くなっている。篠山が大手ということもあり、世間には伝統工芸に携わる人たちを救っているという風に見えなくもない。だがその裏で、人気のない工芸品を作っている工房や個人で制作しているような職人たちは冷遇されていた。今回の決定で一体どれくらいの工房や職人がダメージを受けるのか。最悪、廃業するところも出てくるかもしれない。
「待ってください」
俺は思わず声をあげていた。視線が俺に集中する。社長は忌々しげに俺のことを眺めていた。
「あの、いくらなんでもいきなり閉鎖は早急すぎるのではないでしょうか」
「君はどこの所属かね」
「開発部の山村です。その前は営業部にも席を置いていたので、先ほど名前が上がった部門の工房や職人たちとも面識があります。彼らが作る工芸品は目を引くような鮮やかさはありませんが、古来から人の手に馴染むようにと改良を重ねて作り上げられたものです」
「ほう。それで?」
「皆さんがおっしゃるように、彼らの工房は日本でも片手に数えるくらいしかないところも多いです。うちとの契約が切れてしまった場合、最悪なら工房を継ぐ者もいなくなります。そうなれば日本から貴重な技術や工芸品が永久に失われてしまうのです。いきなり閉鎖ではなく、まずは販路の拡大がどう測れるのかの検討や、新規商品の開発などの手を打つのが妥当ではないでしょうか」
会社として利益を出さなければ意味がないというのは重々分かっている。だがそれでも、俺は職人たちの側に立って考えて行動したかった。
「ただでさえ不振なところに労力と予算をかけるだと? そんな無駄なことをするなら、好調なところに予算をかけた方がよほど有益だろう。だが、そんなに気に入らないなら君はやめてもらって構わないよ。今すぐ出ていくといい」
「え?」
「聞こえなかったか? 山村君。今日までご苦労だったね」
話はこれでおしまいだと言わんばかりに、社長は俺にそう言い捨てると会議室を出て行ってしまった。先ほどまで社長に食い下がっていた彼らも、これ以上言えば俺と同じ顛末を辿ることになると悟り、みんなが口を閉ざした。呆然とする俺を、みんなが遠巻きに眺めている。たった数分の今のやり取りで、俺は首を言い渡された形になった。社長に盾突いたことは今でも後悔はしていない。でもその結果、社長の決定を覆すことができたわけでもない。ただ一社員である俺が首を言い渡され、それから数日後、篠山が大きな染め物工房と新たに業務提携を発表したというニュースが世間を賑わせただけだった。このニュースは大々的に報道され、篠山が染め物分野での影響力をさらに強めることになった。工芸品全般、特に染め物への注目が集まり、業界全体が活気づくきっかけにもなった。皮肉なことに、俺がやめさせられる原因となった工芸品保護の考えとは正反対の利益優先の大規模な業務提携が、工芸品への関心を高めることになったのだ。
会社を首になってから数日、俺は実家に帰っていた。母には詳しい経緯は話さず、会社を辞めたことだけを電話口で伝えたが、俺の雰囲気から何かを察したのだろう。穏やかな声で「少しこっちに帰ってきたら」と言ってくれた。その言葉に甘える形で戻ってきたのだ。
「あら、なおちゃん。久しぶりだね」
懐かしい声が聞こえてくる。小さい頃、工場に遊びに来た俺のことを一番可愛がってくれた、フルカブの職人・長野さんだ。
「ご無沙汰してます」
「直ちゃんの顔が見れて本当に嬉しいわ。さ、中に入って。他にもお客さん来てるけど、直ちゃんたらみんな大歓迎だから」
「お客さん?」
「そうなのよ。ちゃんが勤めてる会社みたいに工芸品を扱ってる会社さんなんだけど、これがまた綺麗なお嬢さんで気立てもいいし、私たちの話も真剣に聞いてくれてみんなメロメロなのよ」
「みんな、直ちゃんが来てくれたよ!」
大きな声で長野さんがみんなに声をかける。作業をしていた手を止め、振り返った懐かしい顔が俺を見てニコニコと微笑んでいた。
「おお、なおか。父ちゃんに似て、すっかり大きくなって」
「皆さん、お久しぶりです」
そんな風に挨拶を交わしていると、奥の方の作業場で工場長と話していた一人の女性と目があった。明るめのグレーのスーツをビシッと着こなした、きりっとした女性。きっと彼女が長野さんの言っていた来客なのだろう。整った顔立ちはさることながら、彼女が発する凛とした立ち姿に思わず目を奪われる。
「分かるわよ。あんなに美人さんなんだもの。思わず見とれちゃうわよね」
「な、何言ってるんだよ」
ぼんやりと彼女を見つめていた俺をみんなが冷やかしてきて、思わず大声を出してしまう。そんな俺たちのやり取りを眺めていたその女性が、ゆっくりとこちらへとやってきた。
「皆さん、とても嬉しそうですね」
「見えるかい? この子はね、ここを立ち上げた職人さんの息子さんなのよ。久しぶりに遊びに来てくれたから嬉しくって」
女性の言葉に長野さんがニコニコと言葉を返す。
「ああ、えっと、なおちゃん、この人がさっき言ってたお嬢さん、橋本みおさんよ」
「初めまして。橋本工芸という会社を経営しております。橋本です」
「え、橋本工芸さん?」
聞き覚えのある会社名に思わず声をあげてしまう。
「あら、ご存知なんですか? 小さな会社なのに知っていただけているなんて光栄です」
そう言って嬉しそうに微笑んでいる。笑うと少し幼い印象で、さっきの凛とした雰囲気とのギャップに心臓がドキドキとうるさく鳴り始める。
「二年前に共同開発で、竹内さんにはお世話になりましたから」
「あ、もしかして、篠山の山村さんですか?」
「こちらこそ。その節は大変お世話になりました」
「あれからも陶器の工房さんと縁が続いていて、うちの主力商品の一つなんです」
その嬉しそうな表情に、心臓を打ち抜かれたような衝撃が走った。すごく、すごく可愛い。
「もしかして今日、山村さんがこちらにいらしたということは、篠山さんも桜川センを……」
「あ、いえ、俺は仕事ではなくて。というか、もう篠山の社員でもなくて」
「え、それってまさか、直ちゃん仕事やめちゃったのかい?」
「そうなのか?」
驚く橋本さん以上に、周りで話を聞いていた職人たちの方が大きな声をあげている。こんなタイミングで会社を辞めたことをカミングアウトすることになるとは思っていなかった。俺もどう説明しようか考えあぐねていると、「立ち話もなんだから」と工場長が助け舟を出してくれた。まだざつくばらんにみんなに仕事に戻るように工場長が告げ、俺たちを奥の応接室へと案内してくれる。
「ごめんなさい。単刀直入に聞きます。山村さんは篠山を辞められたんですか?」
「え、ああ、はい」
あまりにも直球な質問に思わず笑ってしまう。すると恥ずかしそうに顔を伏せながら、もう一度橋本社長が「ごめんなさい」と口にした。
「もっと上手に切り出すこともできるのでしょうけど、私、そういうのが苦手で」
「いえ、俺もどう話せばいいのか悩んでいたので、むしろ助かりました」
俺の言葉に、安堵の表情を浮かべている。そんな彼女の顔を見ていたら、自然と俺の緊張もほぐれていた。
「おっしゃる通り、つい先日会社をやめたんです」
「そうなんですね」
「失礼を承知で伺いますが、退職の理由は?」
質問の内容がないようだけに、どう答えるか迷ったが、本当の面接ではないのだからと気持ちを切り替えて事実を伝えることにした。
「そんなに大きな会社で、社長から直接に首を言い渡されるなんて、現実でこんなことが起きるなんて驚きますよね。社長に盾突いたんですから仕方ないのかもしれません。でも、その時はそこまで深く考えず、半ば感情的だったのが良くなかったんでしょうね」
母と笑いを交えて話してみたが、橋本社長は神妙な面持ちで何やら考え込んでいる。
「山村さんの行動は、確かに会社に属する人間としては短絡的だったかもしれません。でも私は、あなたの勇気ある行動は素晴らしいものだと思いますよ」
「でも、なかなかうまくいきませんね。実は今、うちもうまくいっていないんです」
橋本社長は苦しそうな表情を浮かべた。話を聞けば、先日篠山が業務提携を発表した大手染め物工房と、元々橋本工芸が提携を結ぶ寸前だったという。社員総出で企画を練り、先方も気に入ってくれていたのに、篠山の参入であっさり話が流れてしまったそうだ。社長である彼女が「諦めましょう」と言い出したことで社員たちの心も離れ、あのプロジェクトに関わっていた社員が次々と退職。その後も経営不安から何人もの社員が辞めていき、工房や取引先からも契約を打ち切られたという。
「全部、社長としての力量不足が招いた結果です」
彼女はそう言って俯いた。創業六十年を超える老舗がそこまで窮地に追い込まれているとは。俺は驚きを隠せなかった。
「今日私がここに来たのも、会社に余裕がない状況というのもありますが、そもそも人手が足りていないので私が来る他なかったんです。でも、私ここに来てよかったって思ってます。山村さんに会えましたから」
「お、俺ですか?」
「はい」
戸惑っている俺とは正反対に、橋本社長はニコニコと笑っている。
「山村さん、私の会社に入ってはくださいませんか? 以前から山村さんの仕事ぶりをお伺いしていて、うちの会社にもあなたのような方がいてくださったらと思っていたんです。代々続いてきた会社を、会社を信じて大切な作品を預けてくださった工房や職人たちを守れるように、私も強い気持ちを持ってこの世界で生きていきたい。そのためには、山村さんの力が必要なんです」
そう言うと橋本社長は立ち上がり、勢いよく頭を下げた。
「どうか、どうかお願いします。私と一緒に会社を立て直してください」
どこまでも真っすぐなその言葉と姿勢に、俺は思わず黙り込む。正直、傾きかけている会社に就職するのはリスキーでしかない。でも、俺も彼女と一緒に働いてみたいと思っていた。
「俺でよければ。いや、俺の方こそ、よろしくお願いします」
こうして橋本工芸で働くようになった俺だが、俺一人が加入したからと言ってすぐにでも経営が上向きになるという奇跡まで起こせるはずもなく、一ヶ月二ヶ月と経っても赤字は続いていた。世間的には篠山のあのニュースのおかげで工芸品に注目が集まるようになっていたため、大きなチャンスでもあったが、橋本工芸のような小さな規模の会社では大手どころか中堅どころにも正面切って戦いを挑むこともできない。焦りはあったが、焦っても仕方ないと腹を括り、橋本社長と共に地道に営業活動を進めていった。
「橋本社長、見ていただきたいものがあるんです」
入社してから三ヶ月が経とうかという頃、俺はある企画書を差し出した。
「これは、狭山町の町おこし」
橋本工芸が昔から取引をしている狭山町にある焼き物工房。この三ヶ月間で通い詰めた工房の一つだ。そしてそこで働く人たちと話をしていく中で考えついた案を詰め込んだものになる。
「篠山で働いていた時も同じようなことをしてみたことはあったが、会社がやることじゃないと一蹴された。町おこしなんて一企業ができることじゃないのは分かっている。だが、工芸品をきっかけにしてその地域が話題になったり、豊かになれば、訪れる人も増えていく。その恩恵は他の特産品にも及んでいき、町のインフラなどにも還元できるようになれば、今度はその地域に住む人も増えていくだろう。人が増えれば雇用機会も増えていく。俺は、工芸品もそれを造る職人も、その全てを守りながら、彼らの技術の素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいんです。篠山ではそれは叶いませんでした。でも橋本社長が入社させてくれたおかげで、俺はまだこの業界に残ることができました。一度でいいんです。どうか俺にチャンスを与えてはくれませんか?」
訴えながら頭の片隅には父の姿が浮かんでいた。父は病に倒れるその時まで、ずっと職人であり続けた。父との思い出が少なかった、「寂しい」という記憶。貧乏に辟易した幼少期の記憶も消えはしない。だからこそ、今の職人たちの環境を少しずつでもいいから変えることができれば、俺のような思いをする家族を減らすことができる。ずっと燻っていたそんな思いが、この橋本工芸に来てからの俺を突き動かしていた。
「私たちでどこまでやれるかは分からないけれど、今までお世話になってきた工房や職人たちに恩返しするつもりで、精一杯やってみましょう。会社の命運をかけるつもりで」
「はい、ありがとうございます」
それからは忙しい日々だった。狭山町に何度も足を運び、まずは工房の人たちへ俺たちの考えていることの説明をし、同意を得ることから始まった。俺たちと同年代の人たちは乗り気になってくれたが、長年携わってきたベテラン職人たちには難色を示された。そんなにうまくいくはずがない、と。だが、最後は橋本社長の熱意あるプレゼンを聞いて、彼らも首を縦に振った。その職人たちが後からこっそり俺に教えてくれたのだが、どうやらその熱弁ぶりが橋本社長の父や祖父、つまり先代、先々代の社長と瓜二つだったらしい。どこかあどけない感じの子だと思ってたが、やっぱりあの人らの血を引いとるんだな、なんてからからと笑っていた。そんな彼らの笑い声を聞きながら、そこには確かに橋本工芸と職人との絆が存在していたことを実感する。その絆は先代や先々代が築いたものになるが、これからは橋本社長との間にもきっと築かれていくはずだ。
そうやって少しずつだが狭山町での話が進展していく中、俺は再び父の工房を訪ねていた。橋本工芸も染め物という声があったからだ。そこで俺が一番に思い浮かべたのは、父が携わっていた桜川センだった。
「なお君なら、うちの職人たちを、私たちの桜川センを安心して任せられる」
「ありがとうございます」
無事に契約が成功したことに安堵していると、応接室のドアがコンと叩かれる。
「あの、工場長。橋本工芸の方に会いたいという人が来ているんですが」
工場長が立ち上がり、ドアの向こうへと顔を出し、驚いた顔をしたのが一瞬見えた。そして応接室の入り口から一人の老人が顔を出す。
「お話の最中に申し訳ありません。私は砂川光明と申します」
丁寧なお辞儀をして顔を上げたその老人は、柔和な笑みを浮かべていた。だが、その身なりはボロボロで、案内してきた職人も、俺たち二人も、みんなが戸惑いの表情を浮かべていた。
「偶然にも今日こちらの工房の見学をお願いしたところ、橋本工芸の方がいらしていると伺ったものですから」
「あ、そ、そうだったんですか」
「なお、お願いなのですが、私を雇ってはいただけませんか?」
「え、ここの工房ではなくて、うちの会社で働きたいということですか?」
「はい、そうです。是非お願いします」
そう言って深く頭を下げる。確かに人手不足ではあるが、現状人を増やせるほどの余裕がないのは、もう数ヶ月も続く赤字経営のおかげで俺ですら身に染みて分かっている。どう返事をするのかと橋本社長を見てみると、彼女もまた相当戸惑った表情を浮かべていた。
「話だけでも聞いてあげたらどうだい?」
工場長が朗らかな笑顔でそう言った。目の前の老人もニコニコと穏やかに笑っている。老人は手元にあったメモに自身の名前と年齢をさらさらと書いていく。
「砂川光明さんですね。年齢は七十八歳。はい」
「自己紹介が遅れました。橋本工芸を経営しております社長の橋本みおと申します。こちらは社員の山村直です。本日はよろしくお願いします」
「橋本社長に、山村直さんですね」
砂川老人が俺と橋本社長の顔をじっと見つめる。気のせいか、社長よりも俺の顔を長く見ているような気がする。そしてその真っすぐにこちらを見てくる瞳を見ていると、不思議な既視感を覚えた。
「それで、うちは工芸品を扱う会社なのですが。砂川さんはこれまでそういった仕事のご経験は?」
「販売はしていませんが、従事していました」
「それはどういった?」
「染め物を作っておりました」
「え、職人」
と聞いて、思わず俺は声を上げてしまった。そんな俺の反応に、砂川さんが苦笑する。
「最近まで働いていた工房をやめることになりまして、これからどうしていこうかと悩んでいた時に、橋本工芸さんのことを知ったのです。日給十円でも構いません。どうか働かせてはもらえませんか?」
十円。俺と橋本社長が同時に声をあげた。現代日本で十円で人を雇うことは当然できないが、それくらいでもいいから雇って欲しいということなのだろうか。失礼を承知で目の前に座る老人を改めて観察してみる。七十八歳という年齢の割には、受け答えを含めてしっかりしているように見える。だが着ているものは、長年愛用しているのだろうか、少しよれていた。真っ白な髪も髭も伸びるままに任せているような感じも相まって、正直「見すぼらしい」という表現が頭に浮かんでしまった。そんな俺の内心を感じ取ったのか、砂川さんは俺と視線を合わせると申し訳なさそうな表情で笑う。
「この身なりじゃ、信用してはもらえませんかな?」
「あ、いえ、すみません」
「橋本工芸さんの噂は耳にしたことがありました。何でも町おこしに協力しているとか」
「私たちの取り組みのことをご存知なのですか?」
「ええ、専門は違いますが、仲間の間でも狭山町の活性化にご尽力されている橋本さんのことは話題になっていましたよ。そんなあなた方と一緒に働きたいと思ったのです」
「百聞は一見にしかず、と言います。実際に私の腕を見ていただいてから判断してはもらえませんか?」
藁にもすがる思いなのか。砂川さんは俺たちに向かって深々と頭を下げた。彼の提案に、俺たちは顔を見合わせる。長年職人として働いてきた人の意見も取り込めば、今後の会社の活動にも好影響を及ぼす可能性はある。だが会社に余裕がないのも事実。彼を諦めさせる口実にもなると考え、俺たちは砂川さんからの提案を承諾した。
「では、少しお借りしますね」
作業場へ移動し、集まった工場長や職人たちにそう一言断りを入れると、砂川さんの表情が一変した。先ほどまでの柔和な笑みは消え、真剣そのものの鋭い目つきで型と生地を見つめている。
そして、すごい。その場にいた全員が感嘆の声を漏らした。七十八歳とは思えない力強い動きと素早い身のこなしで、正確に型を生地へと押し当てる。染料をへらで伸ばす手つきは柔らかく、まるで撫でているかのようだが、絶妙な力加減でしっかりと生地へと摺り込まれ、美しい色と柄を乗せていく。その後も見事な手つきと身のこなしで違う型で色を乗せていき、「これで完成です」。作業を終えた砂川さんの後ろには、素晴らしい染め物が出来上がっていた。
パチパチパチ。呆然と見ていた職人たちの間から拍手が聞こえてきた。砂川さんは照れたような笑顔を浮かべながらみんなに頭を下げている。
「ねえ、山村さん、あの人」
橋本社長の呼びかけに、俺は答えることもできないくらい呆然としていた。自分で作った型でもない。初めて見る型を正確に扱い、染色を手際よく行った。その出来は素晴らしいもので、下手したらここにいる職人たちよりも鮮やかかもしれない。
「月給五十万を出しても足りないかもしれません」
「そんな、入ったばかりの俺が言うのもおこがましいですが、言わせてください。彼を雇いましょう。間違いなく戦力になってくれると思います」
「そう、山村さんがそこまで言うなら、決定ね。砂川さん、あなたのその確かな技術を見せていただきました。是非、私たちと一緒に働いてください」
「どうぞ、これからよろしくお願いいたします」
「無理を言って申し訳ないですが、受け入れてくださりありがとうございます」
互いにお辞儀をし合う中、工場のみんなが拍手をしてくれた。
まずはということで、砂川さんの手を借りて染め物の体験会を開くことにした。あれだけの技術の持ち主だ。多くの人にその技術の素晴らしさと、染色という美しい工芸品を知ってもらうことは、この業界にとって重要だと思ったのだ。体験の場所は工場長に頼み込み、父の工場を貸してもらうことになった。初めてのことで工場長を始めみんなが戸惑っていたが、実際に体験会が始まると、参加者、特に子供たちの完成に顔をほころばせていた。そこで披露された砂川さんの見事な技術に、参加者だけでなく、体験を見学に来ていた業界の人たちからも感嘆の声が上がった。おかげで初回の体験会は大成功を収め、桜川センと共に工場や会社の名前も色々なところで話題になった。二回目以降の染色体験会もあっという間に完売した。話題性と大成功を収めたことで、他の工芸を扱う工房などからも体験を開きたいと申し出が押し寄せるようになり、その対応に忙しく動き回る日々が続いた。体験会の種類も広がったことで参加者も増え続け、テレビや雑誌、メディアの取材も入るようになり、正直三人だけで対応するのが難しくなってきたと感じていた頃、橋本社長が声をかけ続けていた元社員たちが戻ってきてくれたのだ。こうして橋本工芸は色々な成功を経て、一気に急成長したのだ。
そして毎日が忙しく過ぎていく中、この日は久しぶりに俺は橋本社長と話をする機会に恵まれていた。
「山村さん、お疲れ様」
「社長もお疲れ様です」
久しぶりの橋本社長との近距離での会話に、ドキドキとうるさい心臓の音をごまかすようにコーヒーを一気飲みすると、こちらを見ていた橋本社長と目が合う。
「山村さんの目はすごいわね」
不意にそんなことを言われた。
「俺の目ですか?」
「え、なんていうか、物事を見抜く力というか。今こうして会社が好調なのも、全部山村さんのおかげだなって改めて思って」
「俺は別に大したことは……」
「私もそう思います」
そう言って一人の人物が俺たちの会話に入ってきた。
「砂川さん」
「え、すみません。ちょうど通りかかったらお二人の会話が聞こえてきて、思わず横入りしてしまいました。お邪魔じゃなかったかな?」
砂川さんは俺と社長の顔を交互に見ながらニコニコと笑っている。
「お邪魔って、もしかしてそういう意味……」
「そんなことありません」
慌てて俺がそう言うと、砂川さんは「ほっほっほ」と愉快そうに笑っている。一方橋本社長は、よく分かっていないのか、慌てている俺を見て不思議そうに首をかしげていた。
「何をそんなに慌てているの?」
「別に慌ててませんよ」
「そう。話を戻しましょうかね。えっと、何の話してましたっけ?」
穏やかに微笑んでいる砂川さんの、皺が多く刻まれているその手を見た。砂川さんの技術があってこその成功だ。砂川さんの染色技術は超一流だ。父を、俺の父をはるかに超えた職人だ。
「砂川さんのお父様。あの工場を立ち上げた染色職人さんよね」
「はい。若い頃に教わった染色技術を、あの土地の豊かな水を使ってコツコツと磨き上げたんです」
「一時期は反発して、父からも工芸からも離れていましたけど、大人になってこの業界で十年以上過ごすようになって、初めて本当の意味で父の持つ技術と、職人としての誇りを理解できるようになりました」
母にも工場のみんなにも、父の話をしたことはなかった。今更話題にしにくいというのもある。でも、反発していた頃の俺を知っている母たちの前では、素直に父のことを話すのが気恥ずかしかったのだ。だから父のことを知らない二人の前では、自分でも驚くほど素直に父に対する思いを口にすることができていた。
「今更遅いんですけどね。もう叶わないけれど、一緒に仕事をしてみたかった。父が魂を込めて作った桜川センを、俺がお客さんの元へ届ける。それを見て母が嬉しそうに微笑む。叶うことのないそんな光景に思いを馳せ、目を閉じる。瞼の裏には工場で作業する父の後ろ姿が浮かんできた。鼻の奥がつんとして、涙が溢れそうになってくるのを一生懸命に抑える。
「私も、山村さんの気持ち少し分かる気がするわ。私も今の私や会社の姿を、父や祖父に見てもらいたいって考えるもの」
「橋本社長、もう叶わないからこそ、あの時言えば良かった、こうすれば良かったって後悔が押し寄せてくるけど、だからこそ、これから先は後悔しない選択をしなくちゃって、私はそう思えるようになったわ。山村さんのおかげでね」
橋本社長の優しい声が胸に染み込んでいくようで、涙腺が刺激される。思わず俯いた俺に、今度は砂川さんの声が聞こえてきた。
「山村さん、君はやはり彼の血を引いた息子だね。顔つきもそうだが、その真っすぐさも不器用さも、よく似ているよ」
その言葉に弾かれたように顔を上げる。砂川さんの穏やかな微笑みがそこにあった。
「砂川さん、父のことを知って?」
「ああ、よく知っているよ。彼に染色を教えたのは、この私だからね」
「え」
俺と橋本社長の声が重なった。その反応に砂川さんは笑みを深くした。
「まさか、砂川さんが父のお師匠さんってことですか?」
「高校を出たばかりの君のお父さんが、私の工房を尋ねてきたんだ。その頃私が発表した染色が賞を取って、少しばかり名が知られていてね。でも弟子を取るつもりはなくて断ったんだが、しつこいくらいに何度も何度も『弟子にしてください』と尋ねてくるもんだから、根負けしたんだよ」
あの父が、そんなことを。そんな情熱的な一面を持っていたなんて、知らなかった。無口で、不器用で、物静かな人だった。俺だけじゃない。きっと周りの人もみんなそう思っていたんじゃないだろうか。
「君にとっては意外な一面だったのかい? でも、君が生まれた時、お父さんは大泣きしながら喜んでいたよ」
「お子さんの誕生が、本当に嬉しかったのね」
「それだけじゃない。君の成長をまるで自分のことのように嬉しそうに、私たちに話してくれたよ。それこそ日常の些細なことまでね」
そんなことまで。父は俺になんて興味がないんじゃないかとまで思っていた。でも、そうじゃなかったんだ。
「家族にすら、自分の気持ちをうまく言えないと悩んでいたよ。君は知らなかったかもしれないが、できるなら自分の後を継いで欲しいと考えていたんだよ」
「初めて聞きました」
「そうか。親の職業を強制的に継がせるみたいな形は取りたくないとも言っていたから、どう伝えればいいのか悩んでいるうちに、君と距離ができてしまったんだろうね。だからね、見ていても不器用な男だったから」
呆れたように笑いながら、砂川さんは上を見上げた。そこには会社の天井しかないのだけれど、空の上にいる父に何かを思っているのかもしれない。
「ずっと君の話を聞いていたからね。葬儀の時、涙一つ見せなかった君の姿が、ずっと気になっていたんだ」
「あ、あの時、来てくださっていたんですね」
「あの頃は父との突然の別れと、過去のことで感情がぐちゃぐちゃになっていて、正直今でも参列してくれた人たちの顔を思い出すこともできない。ただ確かに、父の師匠に当たる人が来ていたということだけは、周囲の人たちの会話から知っていた。それが砂川さんだったのか。初めて見た時に覚えた既視感は、もしかしたら葬儀の時の記憶がもたらしたものだったのかもしれない」
「とはいえ、苦手な父親の師匠だった私に会いに来られても、迷惑だろうと思ってね。なかなか会いに行く勇気が出なかった。でも、あの日ふらっと父さんの工場を久しぶりに訪ねてみたら、君が来ていると聞いてね。チャンスだと思ったんだ」
「それじゃあ、あの時から砂川さんは山村さんのことを知っていたんですね」
「言うべきかとも思ったが、見極めたくて黙っていたんだ。すまなかったね」
そう言って砂川さんが頭を下げた。
「見極める? 一体何を?」
「私の技術を継承してもらえるかどうかをね。私もすっかり年を取った。採った弟子は一人。その弟子も私より早く行ってしまった。だからね、弟子の息子である君に会ってみたかったんだ。君には直之とはまた違う誠実さと粘り強さ。そしていいものを見る目と、工芸への強い思いがある。何せ、あんなにボロボロで怪しげなじいさんにしか見えなかった私の腕を、他の情報に惑わされずにしっかりと見抜いたのだからね」
そう言ってからからと笑っている。
「もしかして、あの時の格好はわざとだったんですか?」
橋本社長の指摘に、顎の下まで伸びた真っ白な髭を撫でながら笑顔を浮かべた。
「すべてわざとだよ。まあ、少しばかり見すぼらしく見えるように細工はしたがね。そ、そんな。騙した形になって申し訳ないとは思っているが、君はちゃんと私の技術に目を向け、その真価を見極めた。そんな君なら、私の技術を受け継いでもらえるんじゃないかと。私の勝手だが、そう思っている」
「で、でも、砂川さんのご家族で継ぎたいと思っている人がいるんじゃないですか」
「いやあ、私の家族はみんな職人とは別の道を歩んでいるよ」
「そうなんですか」
「君にもここでの仕事があることは重々承知している。それでもどうだろう。考えてはくれないか?」
俺は彼の言葉にどう答を返せばいいのか考えていた。今まで生きてきた中で出会った人たち、出会ってきた工芸品、そして両親の姿が最後に浮かんでくる。俺は覚悟を決めて口を開いた。
「俺は、父のことが嫌いでした。俺から父を奪っていった桜川センも、伝統工芸というものを憎らしいと思っていました。でも大人になって、職人という形ではないですが、工芸品の世界に生きていく中で、たくさんの工房や職人、そして工芸品を愛する人たちと関わって、父の生き方みたいなものが、ほんの少しだけ理解できた気がしたんです」
俺の瞳に自然と涙が滲んでくる。頬を伝う涙がこぼれるたびに、俺の心の迷いが一つ一つ消えていくような気がした。
「父の師匠であり、超一流の技術を持つ砂川さんにそう言ってもらえたのは嬉しいです。それに、俺自身あんなにすごい技術を目の当たりにしているんです。砂川さんの技術は、このまま失うわけにはいかないものだと思っています。それじゃあ、はい。始めるには遅すぎたかもしれませんが、あなたの元で学ばせてください。よろしくお願いします」
椅子から立ち上がり、砂川さんに向かって深々と頭を下げた。彼の皺だらけだが力強いその手が、俺の肩に優しく乗せられた。
「ありがとう、直君。私の方こそよろしく頼むよ」
「はい」
そう言って二人で握手を交わす。橋本社長も涙ぐみながら「よかった」と頷いていた。俺たちよりも涙を流している彼女に、二人で思わず笑みがこぼれた。俺はポケットに入っていたハンカチを取り出して、橋本社長に手渡した。
「これ、父の作品を母がハンカチにしてくれたんです。大学に通うために家を出る時、母から渡されたんですが、ずっと使えないままタンスの肥やしになっていたのを、この前引っ張り出してきました」
「すごく素敵ね。ありがとうございます」
俺たちのやり取りを見ていた砂川さんが、穏やかに微笑む。俺と橋本社長も涙を浮かべながら笑い合った。俺の心はすっきりと晴れ渡っていた。窓の外に見える空も青くどこまでも澄んでいて、俺にとって忘れられない一日になったのだった。
砂川さんの後を継ぐ宣言をしたのはいいものの、俺にも砂川さんにもまだ橋本工芸に残している仕事がある。それらを片付け、他の社員に引き継ぐまで、弟子入りすることは待ってもらう形になった。毎日忙しく業務に取り組むうち、俺が橋本工芸に入社してから約一年の月日が流れようとしていた。会社に戻ってきてくれた社員たちの努力もあって、販路拡大を計画するほど事業は好調だった。特に今は各地に伝わる伝統工芸品を集めた企画展が進行中で、大事な時期だ。今回は染め物がテーマになっている。そしてこれが、橋本工芸での俺の最後の仕事でもあった。この展示会には篠山を始めとした他の工芸メーカーも共催として名を連ねている。その時から少しだけ嫌な予感はしていた。まさかそれが現実になるとは思ってもいなかった。
この日も打ち合わせのために会議室へと大急ぎで向かっていた。廊下の角を曲がろうかというところで、男の大きな声が聞こえてきて思わず足を止めた。驚いたのが理由じゃない。その声に聞き覚えがあったからだ。
「橋本さんも随分と立ち直りましたな。一時期はあんなに落ち目でしたのに」
篠山社長。
「そうですね。おかげ様で、優秀な社員たちに助けられました」
明らかな嫌味に対して言葉を返す橋本社長の声にも、苛立ちが隠せていない。俺は彼らから見えない位置まで近づき、様子を観察した。
「うちとも取引のある工房が、そちらとも契約したそうですな。全くもって腹立たしい限りだ。何か手を回したんじゃないですか」
「ご冗談を。私たちがそんなことをするはずがないじゃないですか」
「はは。口では何とでも言える」
ひと笑いすると、篠山社長は橋本社長に凄みを利かせた声で静かに言った。
「こっちは業界トップも目前なんだぞ。力の衰えた古臭いだけの会社が、少しくらいちやほやされただけで、いい気になるなよ」
「いい気になんて」
「今度の展示会もそうだ。よりによって染め物だと。この分野は私たちの会社のものだと知らないのか? うちの顧客は、馬鹿みたいに高い金を払ってでも買いたいという客ばかりなんだ。そこまで価値を高めたのは私たちだというのに、それを横から盗み取るような真似をしやがって」
めちゃくちゃな理論だが、篠山社長の顔を見ると本気でそう思っているようだった。怒りに満ちた表情で橋本社長を睨みつけている。だが橋本社長も負けてはいなかった。
「染め物だろうと何であろうと、一つの会社が独占するようなものではありません。そもそも伝統工芸品は、多くの人の生活に寄り添う中で磨かれていったものです。値段を吊り上げて高く売る。そんな金のなる木みたいな扱いをしないでください」
「小娘が私に盾突くということは、篠山に、いや、この業界に喧嘩を売るということだぞ。ふん。身の程知らずにもほどがある。今度の展示会、無事に開催できると思うなよ」
「な、何を?」
「橋本工芸が手を使ってうちから取引先を奪ったと、噂でも流してやろうか。美人の三代目社長が色仕掛けでも使ったといえば、マスコミはすぐに飛びつくだろうさ」
篠山社長の下品な笑い声が廊下に響き渡った。その下品な笑い声と、青ざめ固まった橋本社長の姿に、俺はいても立ってもいられなくなり飛び出した。
「社長、いい加減にしてください」
社長は突然現れた男の顔をまじまじと見て、嫌な表情になる。
「お前は、山村か」
あの首切りの一件から約一年ぶりの再会となる。正直言えば、会いたくない人物ナンバーワンだ。しかし数々の暴言への怒りの方が、それを上回った。
「ふん、そうか。そういうことか。お前が橋本工芸に流れ込んでいたのか。合点がいった」
そう言うと、俺の顔を指差した。
「お前がやめてから、いくつかの工房との契約も商品開発も打ち切りになったんだ。お前が何かしたんだろう」
「今度は俺に言いがかりですか?」
呆れてため息が出るが、篠山社長は俺たちのことを睨んでいる。
「調べてもらって結構ですが、俺は何も関与していません。もし俺がやめたことが関係しているとすれば、それは俺のやり方を気に入ってくれていた人たちがいたということじゃないですか? あなたが利益にならないと頭から否定した、そのやり方を」
俺の言葉に、背中側にいた橋本社長も出てきて俺の隣に並び立った。
「山村さんは、工芸品をただの商品として扱うのではなく、それを作る工房や職人も含めて真摯に対応する、素晴らしい方です。その姿勢に心を打たれて、うちで取引をしてくださる工房や職人が増えたんです。うちが成功した理由が、山村さんが来てくれたからというのは、間違っていません」
そこまで言うと、橋本社長は一度目を閉じた。拳をぎゅっと握ったのが見えた。
「だから、篠山が彼を手放してくれたことは、本当に感謝しております」
そう言って、鮮やかに笑って見せた。俺たちが反論してきたことが相当気に食わないのだろう。篠山社長の顔は怒りに染まって真っ赤になっていた。
「綺麗事ばかり並べやがって。山村、覚えているか? 私がお前を首にした時、言った言葉を。利益が出なければ意味がないんだよ。今はうちのおかげで、工芸品の中でも染め物が一番の売れ筋だ。客が求めているものは、高くて価値があるものだ。それが世間の出した答えだ。つまり、他の工芸なんて無価値なんだよ。それをまとめて守るだと? お前らはこの世界のことを何も分かっていない。そんなお前らも、同じく無価値だ。この私が、綺麗さっぱりこの業界から消してやる」
工芸メーカーのトップが口にしていいとは思えない、工芸への暴言に、俺も橋本社長もわなわなと震えた。「ふざけるな」という叫び声が喉元まで出かかった。その時だった。
「いいえ。私から言わせれば、お前の方が無価値だ」
厳しく威厳のある声が、背後から飛んできた。その大きな凄みと迫力に、思わず三人ともそちらへと目を向ける。そこにいたのは、厳しい表情で篠山社長を睨みつける砂川さんだった。
「どうしてここに?」
「この私も、橋本工芸の一員だからだよ。秀樹、お前には酷く失望したぞ。恥を知りなさい」
いつもは温厚な砂川さんからは想像もできないほどの、厳しい厳しい声に、俺たちも震え上がった。篠山社長は先ほどまでの表情から一変し、ひどく青ざめている。事情が分からない俺たちは、二人のやり取りを見ていることしかできない。そんな俺たちの様子を察して、砂川さんが困った表情を浮かべながら俺たちの方を見た。
「今更だが、もう一つ黙っていたことがあったんだ。この子は、私の孫なんだよ。そして、先代社長は息子なんだ」
「そ、それじゃあ、砂川さんは……」
「いや、私は会社には何も関与していない。ただの染色職人だ。確かに篠山とも取引はあったが、会社を興した工房の主でも何でもない。だが、気がつけば篠山が私たちの作品を独占する形になっていたがね」
そう言って、篠山社長を睨みつける。篠山社長は身を震わせたが、自分を奮い立たせるように首をひと振りすると、砂川さんの顔を見据えた。
「な、なんで工房をやめて、こんな会社にいるんだよ。金なら余るくらい出していただろう。じいさんがいなくなって、どれだけ迷惑がかかったか分かってるのか?」
篠山社長の叫びが響き渡る。孫である彼も、砂川さんが橋本工芸に来ていたことは知らなかったのか。
「迷惑か。確かに工房のみんなには迷惑をかけたかもしれないな。だが、今お前が彼らにしていること、これからやろうとしていることに比べたら、可愛いもんだろう。私が工房を離れたのは、お前が山村さんを辞めさせた理由と同じだよ。秀樹のやり方では、私が守りたいものが守れないと思ったんだ」
砂川さんは静かにそう言った。その顔には、どこか寂しさや悲しみが浮かんでいるように見えた。
「何言ってるんだよ。工房は潤っただろう。それに、爺さんが作る染め物をたくさんの人に知ってもらうこともできた。父さんのやり方を、俺がもっと進化させただけだ。それなのに、なんで」
「秀樹君や秀樹の気持ちは、嬉しいと思っているよ。実際、工房は大きくなって、私たちが作る染め物もたくさんの人たちの元に届くようになった。価値を高めてくれたこともそうだ。そこには、とても感謝している。でもなあ、私が望んだのは、それだけじゃないんだ」
「他に、他に何があるって言うんだよ」
篠山社長の叫びに、砂川さんの顔は再び厳しいものになった。
「お前は本当に、何も分かっていないのか。私の持つ染色の技術だって、師匠から教わったもの。その師匠も、誰かを師事してきたのだ。分かるだろう。この技術は、私だけのものではない。だからこそ、私も誰かにこの技術を継承してもらいたいんだ。この技術を未来に残していきたい、守りたいんだよ。秀彦君は、そんな私の気持ちを昔から分かってくれていたよ。だから篠山を立ち上げたんだ。工芸という文化そのものを守るために。工芸に生きる人たちへ、と誓ってくれた。そのおかげで、失われかけたいくつもの工芸がこの世に復活したんだ。秀樹も、それを間近で見ていただろう。秀樹にもしっかりと伝わっていると思っていたが、いつしかお前は、他のものを見なくなった。私たちがいるあの工房だけが、染め物というものだけが、残ればいい。そう考えているのが透けて見えたよ」
「そんなの当たり前じゃないか。じいさんが作るものが一番なんだ。他の工芸なんて霞むくらい、じいさんの作り出すものは美しいんだから。会社経営は綺麗事じゃできないんだよ。文化を守るだの技術継承だの、結局金にならないものは世の中から消えていくんだ。食っていけないんだ。それなのに、なんで」
「だから私は、工房を抜けたんだよ。秀樹が作ろうとしている世界では、続けられないと。そこで出会ったのが、この二人だ」
砂川さんが俺たちを見て、柔らかく微笑んだ。その顔は、俺たちが知っているいつもの砂川さんの笑顔だった。
「彼らは、工芸という文化そのものを大切に扱ってくれた。後継者のことや技術継承についても考えを巡らせてくれて、実際に町おこしや展覧会、体験などを通じて、様々な工芸品の認知を広めてくれた。秀樹のように、染め物だけじゃなく。私が思い描いていた未来が、彼らの元ではちゃんと描かれていたよ」
篠山社長は、祖父の言葉に衝撃を受け、その場に膝をついてしまった。篠山社長自身は、自身の祖父である砂川さんの染め物の素晴らしさを広め、残すことに注力していたということなのだろう。でも、その視点が狭すぎたがゆえに、砂川さんやお父さんである先代社長の意図を酌むことができず、ただ利益を彼らの工房に還元することだけが正解だと思ってしまった。下手に利益を上げる才能があり、それを実現できてしまうほどの会社規模があったからこその、すれ違いだったのかもしれない。
「秀樹のやり方で救われた工房は、確かにあった。それは事実だ。だが、もう少し広い視野で物事を捉えなさい。せっかく秀彦君が大きくした会社を継いだんだ。大企業だからこそできる、支援の形や保護活動もあるだろう。社長である秀樹を支えてくれる、たくさんの人たちもいるんだ。彼らと共に、今からでもできることをしていくといい」
砂川さんは、打ちひしがれている篠山社長の肩に優しく手を置いた。そして俺たちに頭を下げると、孫と共に静かに会社を後にした。
その後、砂川さんと共に篠山社長が橋本工芸を訪れ、橋本社長と俺に直接謝罪の場を設けた。
「本当に申し訳なかった。山村君を突然解雇したこと、その後の橋本工芸への嫌がらせめいた行為。そして何より、工芸品を単なる商品としか見ていなかったことを、深く反省しています」
篠山社長は深々と頭を下げた。
「私は、祖父の作品を特別なものにしたいという思いだけで、暴走していた。でもそれは、結果として工芸品という文化そのものを歪めることになってしまった。父が築き、祖父が夢見た、工芸品を未来に残していくという理念を、私は見失っていた」
声を震わせながら話す篠山社長の横で、砂川さんは静かに頷いていた。数々の暴言は許せないものではあったが、あの時砂川さんが止めてくれたおかげで実害が出ることはなかったこともあり、私たちはその謝罪を受け入れることにした。
翌月、染め物の展覧会は無事に開催された。罪滅ぼしの意味もあったのかもしれないが、大手の篠山が今回の展覧会の大々的なプロモーションを打ってくれたおかげで、想定以上に多くのお客さんが集まり、大盛況のうちに幕を閉じた。こうして大成功を収めた展示会を持って、俺の橋本工芸での仕事は全て完了したのだった。それから数ヶ月後のこと。篠山秀樹社長率いる篠山は経営方針を大きく変え、先代社長時代のように、職人や工房、ひいては工芸品を守る活動にも力を入れるようになった。無茶な予算も逼迫した予算も組まれることはなく、染め物以外の工芸を扱う職人たちも篠山との仕事を受けるようになってきたという。橋本工芸はと言うと、橋本社長が陣頭指揮を切って以前よりも精力的に活動し、つい先日も町おこしに成功している。業界内でもすっかり有名になった橋本工芸は、今もまだその規模を拡大中だ。だから橋本社長はとても忙しく、なかなか会えていない。
「どうした、そんな浮かない顔して」
「ああ、師匠」
この展覧会を最後に橋本工芸を辞め、砂川さんの弟子となった俺は、砂川さんの工房で日々染色の技術を勉強しているのだが、想像以上にハードな現場で、体も心もヘトヘトだった。
「橋本社長から連絡がないのかい?」
「何でもお見通しですね」
「なお君は分かりやすいからね」
師匠は快活にそう笑うと、俺の肩に手を置いた。
「似合いの二人の晴れ姿を見るまで、あっちで直之に会うのはお預けだな」
「な、何言ってるんですか? 俺と橋本社長はそんなんじゃ」
「隠せてると思ってるのは、なお君だけじゃないかなあ」
師匠はそう言うと、周りにいたみんなを見回した。作業に集中しているはずの先輩職人たちが、それぞれの持ち場で「うんうん」と頷いている。
「え、嘘ですよね」
「ここにいる全員、応援してるからな」
そう言って師匠はニコニコと笑っていた。
「砂川さん、秀樹さんがいらっしゃいましたよ」
「ああ、もうそんな時間だったか」
「今日は食事に行かれるんですよね」
「ああ、秀樹も千絵子も忙しいのに、私を気遣って色々と誘ってくれるんだよ」
嬉しそうに微笑みながら、息子と孫夫婦の元へ向かう師匠を見送りながら、俺はもう一度手にしたスマホを眺めた。師匠とのやり取りの最中に届いた通知を見て、慌ててメッセージアプリを開く。
「山村さん、お返事遅くなってごめんなさい。それと、誘ってくださってありがとうございます。今度のお食事、楽しみにしてます」
可愛らしいスタンプと共に、彼女からのメッセージが届いていた。よし、やるぞ。現金なもので、さっきまで落ち込んでいた気持ちが嘘のように、体にやる気がみなぎってくる。分けてもらったやる気を目の前の作品にぶつけるように、俺は今日もこうして師匠の技術を継承するために頑張っている。長く続いているものを守り、継承していくという作業は、生半可な覚悟では到底できるものでもないし、思いさえあれば実現できるようなことでもない。きっと父も、俺たち家族への思いと仕事への思いに揺れ、辛い思いをしながら走り続けてきたのだろう。俺も、いつか家庭を持って子供を持つことになった時、どう向き合っていくのか。両親や、師匠の姿を思い浮かべながら、自分なりの答えを出したいと思う。そしていつか、父の墓に俺の最高傑作を備えられたら。最初で最後の親孝行になるのかもしれない。その時を実現するため、俺はこれからも一人の職人として、修行の日々を乗り越えていこうと思う。



