義母が亡くなった日の午後、私は港と葬儀の準備を進めていた。り介からの電話に出ると、信じられない言葉が飛び込んできた。「今お姉ちゃんと旅行中。義母の葬式行けなくなった」「関わり薄かったしね。別に私たちが行かなくてもいいでしょ」。私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。亡くなったのは、あんたたちの母よ。そうメールを打つと、「またお前、冗談うまいな。姉ちゃんも笑ってるぞ」と返ってきた。そ…

義母が亡くなった日の午後、私は港と葬儀の準備を進めていた。り介からの電話に出ると、信じられない言葉が飛び込んできた。「今お姉ちゃんと旅行中。義母の葬式行けなくなった」「関わり薄かったしね。別に私たちが行かなくてもいいでしょ」。私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。亡くなったのは、あんたたちの母よ。そうメールを打つと、「またお前、冗談うまいな。姉ちゃんも笑ってるぞ」と返ってきた。そ...

お姉ちゃんと旅行中だって?義母の葬式に行けないだと?

私はスマホの画面を呆然と見つめた。メールの文面が目に入っても、すぐには意味が呑み込めなかった。関わり薄かったしね。別に私たちが行かなくてもいいでしょ。頑張ってお葬式の準備してね。

私の中に、マグマのように熱い怒りが湧き上がった。仮に私の母親が本当に亡くなっていたとしても、この態度はどういうつもりなのか。あまりにもふざけた言い方だった。

感情のままにメールを打つ。

亡くなったのはあんたたちの母よ。

すぐに夫のり介から返事が届いた。

またお前、冗談うまいな。姉ちゃんも笑ってるぞ。

もう返信しなくていいよ、母さん。

私のスマホを覗き込んでいた息子の港が、静かに言った。怒りは一気にしぼみ、私はスマホをそっと鞄に戻した。

そうね。今は何を言っても無駄ね。それよりも、やるべきことがたくさんあるわ。

うん。まずは葬儀の手配をしなきゃ。

私は腹をくくり、肩を軽く叩いて気合いを入れた。大変だけど、やるしかないわね。

私の名前は渡辺か。五十二歳のパート主婦だ。パート先は海外の輸入雑貨を扱う会社で、事務として働いている。時には海外の取引先と英語でやり取りすることもある。

かさんがいてくれるおかげでだいぶ助かってるよ。さすが元キャリアウーマンだね。

お役に立ててるなら嬉しいです。

笑顔で返しながら、心の中でため息をつく。できるなら今もバリバリ働いていたかった。でも、過去に戻ることはできない。

私は大学卒業後、運良く一部上場企業で総合職として採用された。毎日とても忙しかったが、やりがいがあって、二十六歳になるまで仕事漬けの日々を送っていた。

しかし、誕生日を迎えた直後、私はふと疑問を抱いた。

私、いつまでこんな生活を送るんだろう。

残業を終えて帰宅しても、誰も待っていない。就職先は都心で、実家は新幹線で二時間の距離だ。一人ぼっちの暗い部屋を見た瞬間、無意識のうちに独り言が漏れていた。

このままだと、生き遅れちゃうかも。

私ははっと我に返り、片手で口を抑えた。職場は出張や残業が多く、男女関係なく仕事を割り振られるので、いつも目が回りそうなほど忙しい。将来誰かと結婚して子供を設けるのであれば、この仕事のままではいられない。

仕事を取るか、家族と一緒に暮らす毎日を選ぶか。散々悩んだ末、私は婚活に舵を切った。結婚と出産で時間を取られる分、キャリアは周りと比べて遅れるだろう。けれど、自分のできる範囲で仕事も家庭も両立すればいい。まだ若かった私は、そんな甘い考えを持っていた。

り介との出会いは、知り合いからの紹介だった。駅前にあるおしゃれな喫茶店で向かい合って座り、自己紹介をする。

初めまして。渡辺り介と申します。

どうも、今日はよろしくお願いします。

ちょっと二人とも硬いわよ。

からかうような知人の言い方に、私は苦笑いを浮かべた。り介も困ったように眉を寄せている。

じゃ、あとは二人でごゆっくり。

知人が去った後、私たちは徐々に距離を縮めていった。同じ年齢で共通の話題も多かったので、会話のネタには困らない。いつの間にか緊張感もなくなり、自然体で話せるようになっていた。

かさんって、あの上場企業で働いているんですか?すごいな。俺なんて中小企業なのに。

運が良かっただけですよ。

いやいや、かさんの実力ですって。

彼と過ごす時間はとても穏やかで心地よかった。最後は連絡先を交換し、また近いうちに会おうと約束して別れた。

初めて会って一ヶ月後には、り介から告白され交際を開始。そして私が二十七歳の誕生日を迎える直前にプロポーズを受けた。交際期間は一年未満とかなり短かったが、当時の私は結婚するなら彼以外いないと思い、迷わず承諾した。

しかし、一つ気になることがあった。

ねえ、今度の休みに式場見学に行かない?

り介に電話をすると、申し訳なさそうな声が返ってくる。

ごめん。その日はお姉ちゃんの買い物に付き合う約束をしてて。

ああ、そうなの?ならいいわ。別の日にしましょう。

電話を切った瞬間、思わずため息が漏れた。り介には二歳年上の義姉、知恵がいる。交際していくうちに分かったのだが、彼は若干シスコンの毛があった。いい年をして「お姉ちゃん」と呼ぶ彼に、最初は少々驚いたのを覚えている。

式場探しより、自分の姉とお出かけする方が大切なのかしら。

小さく呟き、再びため息をついた。けれど、家族仲が良好なのはいいことだ。自分にそう言い聞かせて、半ば無理やり気持ちを切り替えた。

忙しい合間を縫ってなんとか式場を決めた後、お互いの両親に挨拶をする。よく晴れた秋の日、私は義実家へ向かい、義母と義姉に初めて対面した。

ふうん。あなたがり介の結婚相手。

玄関で私を出迎えた義姉は、じろじろと不遠慮な視線を向けてくる。り介に聞いた話によると、彼女は近所のスーパーでパートとして働いているらしい。婚活中だがなかなか相手が見つからず、義母と同居している。義父はり介が高校二年生の時に亡くなったそうだ。それ以来、家族三人で支え合って生きてきたと彼は語っていた。

立ち話もなんだし、上がってちょうだい。

ありがとうございます。

義姉の態度には少々引っかかる部分があったが、義母は優しそうな人だと安堵する。柔らかい笑顔で私を招き入れてくれた。

リビングに案内され、椅子に座る。しばらく雑談をしていると、義姉がこんなことを口にした。

かさんって上場企業で働いているんでしょ?すごいわよね。

え、そうなの?あんまり仕事ができるようには見えないけど。

お姉ちゃん、失礼だよ。

り介が義姉を窘める。しかし、彼女はなぜか不服そうだ。

でも結婚したらどうするつもり?仕事にかまけてばかりで、家のことをおろそかにしちゃだめよ。

義母の物言いに引っかかるものを感じ、何気ない風を装って彼女の顔を見る。どこか私を試しているような視線だった。

まあ、結婚した後のことはおいおい決めていくよ。

り介の言葉にはっと我に返る。

そうですね。彼とよく話し合います。

そう。ま、二人の生活だものね。私が口出しすることじゃないわ。

義母は穏やかな笑みを浮かべていた。先ほど感じた違和感はきっと気のせいだろう。この時、私は自分にそう言い聞かせて、生まれた疑惑を打ち消した。

色々ありつつ、結婚式当日を迎える。いい天気で、参列者は全員私たちを祝福してくれた。彼となら幸せな家庭を築ける。何の根拠もなく、私はそう思い込んでいた。

結婚後、私は仕事をやめた。り介から、家のことを全部やってもらいたいと頼まれたのだ。それに、すぐ子供も欲しいし、私も同じ意見で、できれば三十歳を迎える前に出産したいと思っていた。今まで積み上げたキャリアを手放すのはかなり迷ったが、先のことを考え、職場を去る決意をする。

そして結婚して半年後には、子供を授かった。

こうなると、仕事をやめておいて良かったわね。

トイレから出ながら呟く。妊娠後、私を襲ったのはひどいつわりだった。働くどころか、普通に生活するのも難しいレベルだ。

確か、妊娠四ヶ月くらいで落ち着くのよね。

あまりにもつわりがひどかったので、母に電話で相談したところ、希望の持てる情報を教えてもらえた。もうすぐ妊娠四ヶ月を迎える。早くこの気持ち悪さから解放されたいと思いながら、また込み上げてくる吐き気に慌ててトイレに駆け込んだ。

その後、つわりは無事になくなり、お腹はどんどん大きくなっていく。ところが、今度は別の問題が起こった。

かさん、もう少し丁寧に掃除した方がいいんじゃないかしら。

あ、すみません。汚れてましたか?

ほら、ここよ。

私たちの住むマンションに訪れていた義母が指差したのは、リビングの隅。よく見ると小さな埃が残っているけれど、気にするほどではなかった。首をかしげつつ埃を取り、ゴミ箱に捨てる。

義母が綺麗好きな人なら、この程度の汚れでも気になるだろう。しかし、何度か訪れている義実家は、隅々まで掃除されているわけではない。たまたま目についただけだろうかと思ったが、義母の口調は徐々に厳しいものになっていった。

り介はこういう味付けあまり好きじゃないのよ。もう少し効かせないと。

そうですか。わかりました。

こっちの汁物はどうかしら。ちゃんと味、してるの。

料理を出せば細かな指摘ばかり。り介が好きではないと言ったが、当の本人は何も気にせず食べている。

あなたのためを思って言ってるのよ。

本人は善意のアドバイスだと主張しているけれど、文句を言う時の顔はどこか楽しそうだ。義母は私の実家のことについても触れてくる。

あなたの実家ってしっかりしたお家だものね。家事には慣れてないのかしら。お手伝いさんがやってくれてたんでしょ。

私の父は四十代で独立し、会社を設立した。家はそこそこうまくいっていたので、家計は多少の余裕があったらしい。しかし、お金持ちというわけではなかった。家事は母が全てやっており、私も手伝っていた。そう伝えても、義母は私の話を全く聞かない。

家事ができないのはお嬢様だから仕方ないわね。

義母は意地悪く笑い、会うたびに私を馬鹿にした。義姉も義母に便乗し、私を家事のできない役立たず扱いしてくる。

恵まれた家庭の人はいいわね。家事ができなくても結婚できるんだもの。

義姉は義母より嫌みが露骨だった。最初からあまりいい感情を持たれていないのは分かっていたけれど、妊娠後は態度がさらにひどくなる。り介は二人を止めることなく、ただ笑っているだけ。彼にとって、私たちのやり取りは冗談に見えるのだろうか。

全く困った人たちね。

自宅へ戻り、お風呂に入りながら呟く。これがいわゆる嫁いびりというやつだ。普通の人なら傷ついて気分が落ち込むだろう。ただ、私はあまり気にしていなかった。

会社員時代にはもっとひどい人がいたしね。

過去に出会った人たちと比べれば、義姉と義母の言動は可愛いものだ。多少気持ちは憂鬱になるが、二人と顔を合わせなければ平和な日々を送れる。そう思っていたけれど、妊娠八ヶ月に入ると、り介のまとう空気が暗いものになっていった。

ねえ、最近どうしたの?元気ないみたいだけど。

マタニティブルーは男性にも起こるのだろうか。そんなことを考えながらり介に声をかけると、彼は少し迷った後、責めるような目で私を見てきた。

お前さ、お姉ちゃんや母さんのこと、あんまり好きじゃないよな。

え、どうしたのよ、いきなり。

確かに私は二人に好感情を抱いていない。むしろ嫌いな部類に入るだろう。しかしながら、り介に自分の感情を素直に打ち明けたことはない。嫁いびりをするような人たちだが、彼にとっては大切な家族だ。だから黙って耐えていたのに、突然何を言い出すのだろう。

お姉ちゃんが言ってたんだよ。かさんに嫌われてるみたいだわって。

すぐに義姉の嫌がらせだと悟る。彼女はり介も巻き込んで、さらに私をいびろうとしているのだ。

そんなことない。私は二人と仲良くしたいと思ってる。

必死になって否定したけれど、彼は私より義姉の言うことを信じた。

とにかく、あの二人にはもっと優しくしてくれよな。

違う。優しくすべきなのは、義姉と義母の方だ。私は理不尽ないびりに耐えているだけ。しかし、り介は話はこれで終わりだと言わんばかりに背を向ける。

その背中を見つめながら、私は静かに息を吐いた。彼は私の話をちゃんと聞く気がない。そう理解した瞬間、悲しいはずなのに涙は出なかった。大きくなったお腹をそっと撫でる。胸の奥に、小さな冷たい石が落ちてきたような感覚があった。

妊娠九ヶ月を過ぎた頃、私に対するり介の態度は微妙なものだった。義姉のせいで生まれた疑惑は、私の言葉だけでは消すことはできない。さらに嫌なことは重なる。この時期、義母の訪問頻度がさらに増えたのだ。お腹の子が心配だからという理由だが、口を開けば上から目線の発言ばかりだった。

出産したら休んでいる暇はないわよ。家の中はちゃんと整えておかないと、赤ちゃんに悪い気が入るからね。ああ、それと、そんなに甘いものを食べちゃだめでしょ。赤ちゃんに悪影響よ。

私の目の前にある小さなチョコレートを指差され、言葉を失う。主治医には血糖値や体重に問題はないと言われていた。口を開きかけて、閉じる。義母に何を言っても無駄だともう分かっていたからだ。

落ち込んだ気分のまま臨月に入り、予定日ぴったりに元気な男の子が生まれた。最愛の息子に、港と名付ける。り介は名前を考えてくれなかったので、私が一人で頭を悩ませて決めた。

港、これからよろしくね。

生まれたばかりの息子に優しく声をかける。小さな我が子が、今の私には唯一の希望だ。この子は命に変えても守ろうと、心の中で静かに誓った。

出産後は母子共に健康に問題はなく、予定通りに退院。帰宅して一週間後、義姉と義母が我が家を訪れた。

ミルクって体に悪いんですって。かさん、母乳だけにしなさいよ。

抱っこしすぎると甘やかしになるわ。泣いても少しは放っておきなさい。私の時代はそうやって育てたのよ。

二人はアドバイスという名で、私にあれこれ命令してくる。出産経験がある義母はともかく、どうして義姉は自信満々に私に指示してくるのか。出産で疲弊した体に、二人の言葉はまるで毒のようだ。しかし、文句を言う気力もなく、黙って受け止め続ける。り介は興味がなさそうにテレビを見ているだけだ。

その日の夜中、港がようやく眠った後、私の目から自然と涙がこぼれた。十年前なら、この程度の嫁いびりで泣くことはなかっただろう。ホルモンバランスのせいかしら。やけに気分が落ち込んでいる。港が生まれて嬉しいはずなのに、時間が過ぎるほど私の精神は後ろ向きになっていった。

耐えきれず、り介に打ち明けたこともある。

ねえ、お母さんとお姉さんの言い方が少し気になってるんだけど。

二人とも心配してくれてるんだよ。ありがたく思わないと。

返ってきた言葉はそれだけ。当時の私は彼の発言に怒りを覚える余裕すらなく、ただ「そうね」と呟いて口を閉ざした。

私の気持ちを受け取ってくれる人はどこにもいない。その確信は、時間をかけてじわじわと、しかし確実に根を張っていった。以来、私は外に感情を出すことをやめる。笑顔は作れるし、愛想も打てるけれど、本当のことは誰にも言わない。感情を内側に畳み込む習慣が、この頃から始まった。

そして同時に、もう一つの習慣も身につく。ある夜、港がようやく眠ると、私は台所のテーブルに座ってノートを開いた。日付を書き、義母と義姉に言われたことを思い出しながら記録する。深く考えての行動ではない。ただ、どこかに吐き出さないと私の中がいっぱいになってしまう気がしたのだ。

ノートに記録していくうちに、自身の置かれた状況を客観視できるようになった。おかげで一つ気づいたことがあった。義姉が私をいびる理由だ。

義姉は私より整った顔立ちをしている。スタイルもいいし、同性の私から見ても羨ましいと思える外見だ。ところが、男性と付き合っても長くは続かないようだ。本人が明言したわけではないが、言葉や態度の端々から、結婚して子供を授かった私を羨ましがっているのではと感じた。

私からすれば、生まれ持った美しさのある義姉が羨ましく見える。お世辞にも綺麗とは言えない容姿で、小さい頃からコンプレックスを抱いていたのだ。小学生の時には、強い男子に見た目をからかわれた経験もある。

お互い劣等感ってことね。

義姉の暴言を書き連ねながら、苦笑いを浮かべた。

ある日、り介と雑談をしている中で、今まで知らなかった事実が判明した。

お姉ちゃんが前に、かさんの会社の採用試験を受けたことがあるんだって。

え、そうだったの?

かさんが辞めた直後の話なんだけどさ、もしかさんが働き続けてたら、うちでお姉ちゃんも雇ってもらえたのかな?

私にそんな権力はないが、仮にあったとしても義姉があの会社で働くのは無理だと思う。彼女はあまり仕事熱心なタイプではない。激務の会社では一ヶ月も耐えられないだろう。同時に、私の学歴も義姉のいびりの原因では、という考えが浮かんだ。

義姉は現在パートで働いている。何かしらうまくいかないことが起こると、すぐに仕事をやめてしまうという悪癖を持っていた。そんな自分と、私を比べているのか。

かさんは幸せそうで羨ましいわ。

義姉が嫌味な声で私によく言うセリフだ。おそらく、本音も混じっているのだと推測する。彼女には天生の美しさがある。嫁いびりなどやめて内面を磨けば、私なんて足元にも及ばない存在になるだろう。けれど、義姉は幸せそうな私を攻撃し、日々の鬱憤と劣等感を晴らしているらしい。

最近はこれ見よがしに、私の目の前でり介と仲睦まじくするようになった。

やだ、り介。

義姉がり介の肩に手を置く。ちらりと私の方を見て、口の端を歪めて笑うまでがワンセットだ。あなたの夫は、妻の私の方が好きなのだと、彼女の目が語っていた。

義姉の攻撃をひしひしと感じつつ、私は特に何もしない。嫁いびりに付き合う暇がなかったのだ。家族の不仲をよそに、港は日々大きくなっていく。目を離す余裕がなく、いびられて落ち込んでも、すぐ忘れてしまう毎日を送っていった。さらに家事と子育ては、私が全部になっている。義姉に構う時間があるなら、山のように積もった日々のタスクを片付ける方がよほど建設的だ。

目まぐるしい日々の中、港は元気に育つ。そしていつの間にか、小学校に上がる時期になった。

行ってきます。

車に気をつけるのよ。

元気に玄関から飛び出す港に、慌てて声をかける。港が幼稚園の頃、思い切って一軒家を購入した。少し辺な場所にある売り物だったので、安く手に入れることができたのだ。

行ってくる。

え、行ってらっしゃい。

り介は私と目を合わせず、足早に家を出ていった。彼の態度はいつものことなので、あまり気にしない。

家の中に戻ると、私は自分の机の中にしまっていた就職情報誌を取り出した。

ここがいいわね。応募してみようかしら。

子育てが一段落したこともあり、パートに出ようと考えている。り介の給料はそこまで高くない。家のローンや今後の生活を考え、家計を少しでも助けたいという思いがあった。それと同じくらい、社会との繋がりを取り戻したいという気持ちもある。外に出て誰かと言葉を交わし、仕事でやりがいを感じたい。

それに、外に出てれば、あの二人と顔を合わせる時間も少なくなるしね。

義姉と義母の嫁いびりは、未だに続いていた。もはや日常の一部だ。とはいえ、嫌な思いをするのはできるだけ避けたい。

良さそうな職場を見つけた私は、応募前にり介に相談する。

パートはいいけど、家のことはちゃんとやってくれよな。

不満そうだが、私が働くのを止めるつもりはないようだ。彼の趣味にプラモデル集めがある。ただ、彼の給料だけでは趣味を続けるのが難しい。けれど、家計に余裕が出れば、趣味にお金を使うこともできるだろう。り介の考えは手に取るようにわかる。仲のいい夫婦とは言えないけれど、付き合いは長いのだ。

分かってる。ちゃんとやるわよ。

そう答えながら、私は心の中でため息をつく。私が働きに出ても、り介は今まで通り家事も子育ても一切やらないだろう。今更文句を言うつもりはない。しかし、仮に私が病気になって倒れたら、一体どうするのか。

自分の母親に泣きつくんでしょうね。

実家が近い彼が羨ましい。私は例え何があっても、誰かに頼ることはできない。両親は遠くに住んでいる。万が一のことが起こらないために、健康にだけは気をつけようと決意した。

り介は説得できたけれど、義母と義姉からは反発される。義実家にお邪魔した際、パートの件を伝えると、すぐに顔をしかめて文句を言ってきた。

かさんが外に出るなんて、家事はどうするの?

大人しく家で家事と子育てだけやってればいいのに。

いつもなら二人の味方をするり介だが、今回ばかりは違う。

家に余裕が欲しいんだよ。まあ、家事と子育ては今まで通りやってもらうけどね。

念を押すように、り介が私を見た。やはり協力するつもりは一切ないようだ。

パートは週三日ですし、そこまで負担にはなりませんよ。ご心配ありがとうございます。

義母と義姉は不満だったけれど、それ以上は何も言わなかった。半月後、無事にパート先から採用の連絡をもらい、私は社会復帰を果たす。初めて給料をもらった時は、踊り出しそうなほど嬉しかった。

そしてこの時期から、家計を厳格に管理するようになる。り介が家計に無頓着だったため、以前から私が家計簿を担当していたが、今まではあまり細かく記録していなかったのだ。

収入が増えたからと言って、油断しちゃだめよね。むしろ出費は厳しく管理しないと。

節約できるところは頑張って削る。すると、毎月少額の自由にできるお金が生まれた。何に使おうかと考えた結果、自分名義の口座への積み立てに使うことに。毎月の生活費の範囲で、無理なくコツコツと続けた。

将来何かあった時のためにね。

自宅のリビングで、増えていく通帳を見ながら小さく呟く。り介に口座のことは明かしていない。なぜか、言おうと勇気になれなかったのだ。

時間はどんどん過ぎていく。港はすくすくと育ち、明るく真っすぐな子になった。時々私が疲れた顔をしていると、心配そうに声をかけてくる。

母さん、大丈夫?

え、大丈夫よ。ありがとうね、港。

何かあったら、俺に言ってね。

まだ小学三年生なのに、大人のようなことを言う子だ。あまり急いで成長しなくていいとは思うが、同時に頼もしさも感じる。

り介は時が経つにつれ、私への関心をなくしていった。最近は義実家に入り浸りだ。特に義姉に対してべったりで、見ていて気分のいいものではない。義姉も調子に乗り、私に対する攻撃を悪化させていた。義母は年齢的なこともあり、昔ほど精神的な嫁いびりはしてこないけれど、意地悪な態度は相変わらずだ。

港だけが私の味方だった。離婚の二文字が頭に浮かばなかったわけではない。しかし、港のことを思うと、なかなか踏み切れなかった。

忙しくしている間に時間が経ち、私は日常的な嫁いびりにすっかり慣れてしまう。離婚という選択肢はいつの間にか頭の中から消え、惰性でり介との夫婦関係を続けていった。

あっという間に日々が過ぎ、私は五十歳の誕生日を迎える。同年のり介も五十歳という節目の年齢になった。

秋も深まったある日のこと、私とり介は自宅のリビングで少々揉めていた。

退職まであと十年くらいでさ、ちょっと色々考えたんだけど、退職金の一部をお姉ちゃんに渡したいんだ。

え、何それ?冗談よね。

り介の信じられない発言に、私は目を丸くして問いかける。むっとした表情を浮かべながら、彼は少し声を荒げた。

お姉ちゃんはずっとパートで貯蓄が少ないし、独身で頼れる人もいない。俺が助けてやらないと。

それはそうだけど、老後の生活費は家族で計画的に使うべきでしょ。家のローンもまだ残ってるし。

義姉は結局結婚できず、現在も自分の実家で暮らしている。パートも転々としているためキャリア形成ができず、給料は低いまま。うちは共働きで余裕があるだろう。誰かを助けられるほどの余裕はないわよ。それにお姉さんは子供じゃないのよ。あなたが面倒を見てあげる必要はないと思うんだけど。

白いなつもりか。

彼の一言が刃のように飛んできた。私が白いなら、あなたたちは何なのだと言いそうになった。しかし、ぐっと我慢して言葉を飲み込む。言い返したところで何も変わらないと分かっていたからだ。

もうええ。お前と話しても拉致があかない。

そう言い捨てると、り介は玄関へ向かった。

ちょっと、こんな時間にどこに行くのよ。

すでに時刻は午後五時を指している。

家に帰るんだよ。

彼の言う「家」というのは、私たちが住んでいる一軒家ではない。義母と義姉がいる実家のことだ。扉が閉まった後、私は大きくため息をついた。

ただいま。

あれ、父さんもおばあちゃんたちのところに行ったの?

またか。全く、どっちが自分の家か分かってないのかな、父さんは。

学校から帰ってきた港が、呆れたように言い放った。現在港は大学四年生。すでに大手企業から内定をもらっていて、最近は自宅にいる時間が増えていた。今日はゼミの教授に借りていた本を返すために大学へ行っていたのだ。

港、夕飯は少し多くてもいいわよ。お父さんの分、二人で分けて食べましょう。

大丈夫だよ。俺、今日はお腹ペコペコでさ。

それは良かった。

港と話していると、後ろ向きだった気持ちが一気に前向きになる。この子がいてくれるおかげで、私は今まで耐えられたのだ。

り介は結局この日は帰宅しなかった。そして翌日、戻ってきたかと思ったら、義姉と義母を連れてきた。

あなたり介の退職金を独り占めしようとしてるんですって。

彼は二人に嘘を吹き込んだらしい。それは違うと言い返す前に、義母が怒った声をあげた。

知恵に少し分けてあげなさいよ。あなたの実家は裕福なんだから、少しくらいいいじゃないの。

義母は未だに私がお金持ちのお嬢さんだと勘違いしている。私は姿勢を正し、はっきりと言った。

私の実家は関係ありません。老後の資金は夫婦で使うべきでは?なぜ我が家がお姉さんの面倒を見る必要があるのでしょう?

義母の顔が険しくなるけれど、私は視線をそらさなかった。もし折れたら、次は何を要求されるか分からなかったからだ。

ところが、この一件以降、三人は私に対してある共通認識を持つようになる。冷たい嫁で金にがめつい、という一方的な思い込みだ。私はお金に執着しているわけではない。退職金の件も、ごく一般的な意見を述べただけだ。しかし、私たちの間に流れる空気はどんどん重くなっていく。

不穏な空気の中、港は無事に大学を卒業し社会人になった。

お金を貯めたいから、もう少し実家に住んでもいい?

もちろんよ。

港の就職先の大企業は、新入社員にも高い給料を与えている。一人暮らしに必要なお金はすぐに貯まるだろう。けれど、港は社会人二年目になっても実家に留まり続けた。私のことが心配で、家から出られないのだ。

これ以上、港に負担をかけられないわ。でも、どうしたらいいのかしら?

私はもう大丈夫だから、一人暮らしをしてもいいと言ったところで、港は信じてくれるだろうか?昔から私は嘘が苦手なのだ。いい方法が思い浮かばないまま、日々が過ぎていく。

この頃から、義母の持病が悪化し始めた。港が中学生になった時、胸の苦しさを訴えて病院に運ばれた。その時から心臓の疾患と付き合っていたのだ。

病院は遠いから、かさんが連れてってね。

ある日、義母から突然電話がかかってきたと思ったら、通院のため車を出せと言われた。そうするのが当たり前という態度だ。断るわけにもいかないので、仕事の時間を調整して義母に付き添う。さらに義母は私に薬の管理まで押し付けてきた。実の子供であるり介や義姉は何もしない。黙っていても私が全部やるから、別にいいと考えているのだろうか。

あの人たち、私がいなかったらどうしてたのかしら。

義実家へ義母を送り届けた後、車内でため息混じりに呟く。家に戻ったら、保険の手続きもしないと。義母が入っている保険は通院も適用範囲内らしい。

こういうのよくわからないから、あなたがやっておいて。

面倒くさそうに書類の束を押し付けられた。お礼の一つでも言ってくれれば、気持ちよく対応するのに。心の中で文句をつぶやきつつ自宅へ戻る。一休みする間もなく、鞄から書類を取り出した。義母の通帳もテーブルの上に置く。保険の請求に通帳番号の記載とコピーが必要なので、預かってきたのだ。

あら、何かしら、この引き落とし。

何気なく通帳を眺めていると、定期的に引き出されていることに気づく。金額は小さいけれど、頻度が妙だ。義母自身が下ろしているのかと考えたが、彼女はクレジットカードで支払いをしている。カードのポイントを貯めるために、現金は使わないようにしているのだ。

もしかして、誰かが引き出してるのかしら?

思い当たるのは義姉か、り介しかいない。では、一体何のために引き出しているのだろう。私は内心首をかしげながらも、途中で考えるのをやめた。追求したところで意味がないからだ。ただ、頭の片隅に記憶として残しておくことにした。

翌年の春、義母の体調がさらに悪化した。

通院ではカバーしきれません。できるだけ早く入院が必要です。

そうですか。わかりました。夫と相談します。

義母は嫌いな相手ではあるが、命の危機と知れば話は別だ。すぐにでも対応しなければ、手遅れになるだろう。私はその日の夜、すぐにり介に報告した。しかし、彼は面倒くさそうな表情を浮かべている。

以前もそう言われて、結局大丈夫だったじゃないか。

そうなんだけど、今回は前回より検査結果の値が悪いって先生が。

入院したら金がかかるだろ。面倒を見てるお前だって大変じゃないか。母さんも入院はしたくないって言ってるし、放っておけば落ち着くよ。

り介はテレビのリモコンを手に取り、それ以上話を続ける気がないことを態度で示す。私はため息をつきながら、カレンダーをちらりと見た。この時期になると、毎年り介は義姉と旅行に出かける。兄弟水入らずで出かけるのが二人の楽しみだそうだ。おそらく今年も旅行に行くのだろう。入院となれば、今まで私に任せきりだった二人もお見舞いに行かなければならない。義母の体調の悪化より、自分たちの旅行を優先したいのだ。

どうしようかと迷っていると、実家の父から電話がかかってきた。

え、母さんが入院ですって。

え、お前の母親も?

私と同じくリビングにいたり介が、少し驚いたように声をあげる。

うん。わかった。じゃあね、また電話する。

通話終了ボタンを押した瞬間、り介が眉を寄せて口を開いた。

自分の母親が大変だからって、母さんを放置しないでくれよ。

あまりにも身勝手すぎる発言に、思わず口が塞がらない。なぜ彼は自分で面倒を見ようという発想に至らないのだろう。面倒なことは全て私任せだ。呆れすぎて、文句の一つも言えなかった。

一週間後、り介はまだ義母の入院を決断できていなかった。時間だけが無駄に過ぎていく。しびれを切らした私は、り介に告げた。

私の母さん、入院して検査までしてもらったんだけど、本人が自覚してなかったところで異変が見つかったのよ。もしお母さんにも何かあったら…

私の言葉は途中で遮られてしまう。

うちのお母さんを心配してくれるのはありがたいけどさ、そっちのお母さんの方が先に何かあるんじゃないの?

り介はへらへらと笑っている。あくまで冗談という手だったが、私はその言葉を聞いた瞬間、固まってしまった。冷たい怒りが胸を通り過ぎるのを感じる。今口を開いたら、り介に罵詈雑言を浴びせてしまうだろう。そんな予感があったので、何も言わなかった。

三日後、り介と義姉は旅行へ出かけた。今年は三泊四日で、少し贅沢をして高級温泉旅館に泊まるらしい。帰宅したら、義母の入院の話を進めなければ。

しかし、二人が旅立った翌日。

お母さんが仕事中に、突然見知らぬ番号から電話がかかってきた。相手は病院の看護師と名乗り、義母が搬送されたと話す。スーパーで突然倒れたらしい。

すみません、義母が病院に運ばれたみたいで。

まあ、それは大変だ。すぐ行きなさい。

ありがとうございます。

部長に頭を下げ、職場を飛び出す。車に乗る直前、港に電話をかけた。

もしもし、どうしたの?

おばあちゃんが病院に運ばれたんですって。港、行くわよ。

すぐ行く。

通話を終わらせ、今度はり介に連絡をする。しかし、電話は通じなかった。

まあ、なんで出ないのよ。

イライラしながらスマホを雑に鞄の中にしまう。これ以上待っていられない。車に乗り、急いで病院へ向かった。

救急治療室の前で、医者が出てくるのを待つ。港が到着した直後、暗い顔をした白衣の男性が出てきた。

残念ですが。

そうですか。

喪失感が襲いかかる。義母には散々嫌なことをされたけれど、悪い思い出だけではなかった。結婚する前後、私に優しくしてくれたのは演技ではなかっただろう。いずれ義母とも分かり合える。そんな期待を抱いていたが、もう二度と叶わないのだ。

母さん、父さんとおばさんに連絡しないと。

港の声にはっと我に返る。

そうね。すぐ帰ってきてもらわないと。

しかし、何度電話をかけても繋がらない。メールにも返信はなかった。仕方なく、新しいメールを作る。

あ、漢字に変換するの忘れてた。

義母を亡くしたショックで呆然としながら文章を打っていたようだ。全文ひらがなで送ってしまった。追加でメールを送ろうか悩んでいると、り介から電話がかかってくる。

もしもし、り介大変なの?

ああ、なんか変なメールを送ってきたよな。

聞こえてきたのは、呑気なり介の声だ。こんな大変な時に、と叫びそうになった。次の瞬間。

今お姉ちゃんと旅行中。義母の葬式行けなくなった。

は?

呆然としていると、ごそごそと物音が聞こえてきた。どこか楽しそうな義姉の声が耳に届く。

関わり薄かったしね。別に私たちが行かなくてもいいでしょ。頑張ってお葬式の準備してね。

そう言い捨てると、通話が切れてしまった。目を大きく見開いて、暗くなったスマホを見つめる。

ねえ、母さんはなんて?

あの二人、勘違いしているみたい。亡くなったのは私の母さんだと思い込んでる。

私の中に、マグマのように熱い怒りの感情が湧いてきた。仮に私の母親が本当に亡くなっていたとしても、先ほどの態度はどういうつもりなのか。あまりにもふざけた言い方だった。

感情に任せてメールを打つ。

亡くなったのはあんたたちの母よ。

すぐにり介から返事が届いた。

またお前、冗談うまいな。姉ちゃんも笑ってるぞ。

もう返信しなくていいよ、母さん。

私のスマホを覗き込んでいた港が、静かに言う。怒りは一気にしぼみ、私はスマホをそっと鞄に戻した。

そうね。今は何を言っても無駄ね。それよりも、やるべきことがたくさんあるわ。

うん。まずは葬儀の手配をしなきゃ。

慌ただしく手続きをしながら、頭の片隅でぼんやり考える。これ以上、り介と義姉の面倒は見られない。義母が亡くなった。今後について考える、またとない機会ではないか。

大変だけど、やるしかないわね。

腹をくくり、小さく呟く。肩を軽く叩いて気合いを入れると、山のように積み重なったやるべきことに向き直った。

義母が亡くなった日の午後、私は港と二人で葬儀の準備を粛々と進めていた。幸いなことに、葬儀会社はすぐ見つかったので、港と共に向かう。私がスタッフと葬儀の打ち合わせをしている間、港は寺に連絡をしてくれた。

親族の人たちにも連絡しないと。

そうだったわ。やることが山みたいね。

一人では対応しきれなかっただろう。港が手際よく動いてくれたため、なんとか無事に終わらせることができた。

すっかり遅くなっちゃったわね。夕飯はテイクアウトにしようか。

暗くなった道を、彼と共に帰宅する。翌日の葬儀で、港が喪主代理を務めてくれた。

お越しくださり、ありがとうございます。

参列者の対応を港に任せている間、私は裏で忙しく動く。葬儀社との打ち合わせの際、担当者とのやり取りでこんなことがあった。

ご関係は、義理のお母様なのですね。ご主人様はご一緒ではないのですか?

ええ、それが色々と事情がありまして…息子と二人で進めさせていただきます。

担当者は静かに頷く。しかし、その目にはかすかな驚きの色があった。息子と嫁だけが葬儀を取り仕切るのは、やはり通常ではありえないことなのだろう。

気後れする私とは対照的に、港は終始落ち着いていた。社会人になって間もないのに、受付から弔問客への挨拶、お坊さんの対応までそつなくこなす。港の姿を見ながら、いつの間にこんなに大人になったのだろうと思った。胸の奥に温かい感情が広がる。港を育てた二十四年間は大変だった。一方で、楽しい出来事もたくさん思い出せる。港がいたから、私は笑うことができたのだ。

港君、り介君と知恵はどこだ?

困惑したような親族の声にはっと我に返る。

葬儀で来られなくなったんです。

葬儀って…実の母が亡くなったんだぞ。一体どういう用事だ?

港が私の方を見る。どう答えたらいいものか迷っていると、一緒にいた女性が口を開く。

あなた、声が大きいわよ。

うっすいません。

申し訳なさそうな表情を浮かべて、彼らは自分たちの席に戻る。私たちのやり取りを聞いていた他の人たちの間に、微妙な空気が漂う。親の葬儀に来ない。明らかな異常事態に、何かあるのだとみんな悟っているようだ。けれど、騒ぐような失礼な人はおらず、葬儀は静かに進んでいく。親族たちに見送られ、義母は旅立った。

港、お疲れ様。

母さんもね。

自宅へ戻り、葬儀会社の人に後飾り祭壇を作ってもらう。これは四十九日まで、位牌などを飾っておくものだ。義母が生前好きだった白い百合を祭壇に置く。家の前に立つと、不思議と穏やかな気持ちになる。同時に、義母に少しだけ同情した。彼女は自分の子供たちに葬儀をすっぽかされたのだ。義母の育て方が招いた結果かもしれない。しかし、大切な時に実の子供がいないのは、どんな理由があるにせよ寂しいことだと思う。せめて私と港で穏やかに見送ってあげよう。そんな気持ちで葬儀を取り行った。

そういえば母さん、葬儀会場を出る前に親戚の人たちに囲まれてたけど、何を話してたの?

ああ、別に大したことじゃないんだけど。

先ほどのことを思い出し、思わず苦笑いを浮かべる。

かさん、ちょっといい?

何でしょう?

会場の隅に手招きされ、首をかしげながら近づく。すると、親族の女性が私の手をそっと握ったのだ。

り介さんがいないのに、本当によくやってくださったわね。いいお葬式だったわ。あなたの息子さんもしっかりしていらして。それに比べて、実のお子さんたちは…

言葉の続きは濁されたが、意味は十分に伝わった。周りにいる他の親族たちも、彼女と同じようにどこか怒りを孕ませた表情をしている。

ありがとうございます。お母さんも、皆さんに来ていただいて喜んでいると思いますよ。四十九日の際はまた連絡しますので、是非いらしてください。

そうしながら、義母のことを考えた。彼女が本当に喜んでいるかどうかは分からない。しかし、見送りの場をきちんと整えられたことに、私は内心安堵していた。

そして、葬儀が終わった翌日の夕方、り介と義姉が帰宅した。

ただいま。ああ、疲れた。

お邪魔するわね。

大きな荷物を持った二人が、リビングに入ってくる。

お帰り。待ってたわよ。

な、何これ?

二人は後飾り祭壇の前で足を止めた。新しい位牌と遺影の写真、そして見慣れた義母の遺影が飾ってある。時間が止まったような錯覚に陥った。そう感じるほど、二人は動かなかったのだ。り介の顔色が徐々に青くなり、義姉の口からは息切れのような呼吸が漏れる。ようやく目の前の光景を理解したらしい。

私は二人の様子を、無表情で見ていた。

これ、母さんなのか?

り介の声が震えている。信じたくないという気持ちが滲み出ていた。

ええ、そうよ。この前送ったメールにも書いたけど、亡くなったのはあんたたちの母よ。

り介と義姉は、ゆっくりと顔を見合わせる。

そんなバカな。笑えない冗談だろ。

こんな祭壇まで作って、心配になるほど真面目だ。まだ冗談だと思いたいのだろう。現実を受け入れることを、脳が拒否しているのだ。港が静かに口を開く。

葬儀は、昨日終わったよ。

次の瞬間、二人のまとう空気が一気に変わった。義姉は口に手を当て、り介は位牌に目を向けたまま固まる。

そ、そんな嘘よね。母さん。

義姉がゆっくりと仏壇に近づき、位牌を手に取った。震える指先が位牌の文字をなぞる。義母の名前が視界に入った瞬間、義姉の膝から力が抜けた。その場にへたり込み、号泣を漏らす。

私は丸くなった彼女の背中を見ながら、頭の中で静かに考えていた。泣いて悲しむのは義姉に任せよう。私は義母が亡くなったことより、この三日間の疲労と、ようやく終わったという安堵の方が大きい。

しばらく沈黙が続いた後、突然り介が声を荒げた。

な、なんで教えてくれなかったんだ?

ちゃんと教えたでしょう。

私はスマートフォンを静かに差し出す。表示されているのは、り介に送ったメールの画面だ。り介は食い入るように画面を見つめる。文字を目で追い、意味を理解するために必死な様子だ。

り介は何か言おうとして口を開いたが、結局閉じた。代わりに義姉が泣きながら叫ぶ。

亡くなったのは、あんたの母親じゃないの?

そうだ。入院したって言ってたよな。

私の母は検査入院よ。大腸にポリープが見つかったけど、特に問題なしと判断された。無事に退院して、元気に過ごしているわ。葬儀には、私の両親も参列していたわよ。来なかったのは、り介と義姉の二人だけだったのだ。

そうだ。

義姉の呟きがリビングに落ちて、消えた。り介はぶるぶると震えている。旅行前、「そっちのお母さんの方が先に何かあるんじゃないの?」と彼は言った。今更ながら、自分の無責任な発言を思い出しているのかもしれない。

いつの間にか時間が過ぎ、夜になった。

私、一旦家に帰るから。

小さく呟き、義姉は我が家を後にする。一方、り介はリビングのソファーに座り、茫然自失のままだった。夕食を作りに置くが、り介はこちらに来ない。私と港は黙ったまま、二人でご飯を食べた。

翌朝、リビングに行くと、り介が義母の遺影の前に座っていた。テーブルに置かれているスマホが、ぶるぶると振動している。

あなたのスマホ、すごい数の着信が来てるわよ。出ないの?

私に教えられ、り介は今更気づいたらしい。慌てて画面を確認し、顔を青ざめさせた。親族たちからの連絡だ。私は横から彼のスマホを覗き込む。表示されていたメールには、親族たちからの文句が書かれていた。実の母親の葬儀に来なかったとはどういうことなのか。恥ずかしくないのか。非常識だという罵倒も含まれている。り介はスマホを置き、ため息をつく。

長い時間、彼はその場から動かずにいた。私はり介の様子を台所から眺めながら、コーヒーを入れる。り介の分も作ろうかと一瞬考えて、やめた。彼を気遣うという気持ちが、湧いてこなかったのだ。

しばらくすると、り介は小さな声で私に告げた。

お姉ちゃんが心配だから、実家に行ってくる。

そう。行ってらっしゃい。

私は止めなかった。止める理由がなかった上に、り介がいると空気が重くなるので、むしろありがたいと思ったのだ。彼が出て行き、家の中が静かになる。

母さん、コーヒーのお代わりはどう?

ありがとう。いただくわ。

笑顔を浮かべながら、椅子に深く腰を下ろす。港と二人きりのリビングは、とても心地よかった。

り介は夜遅くに帰宅した。翌日は平日で、落ち込んだ様子で仕事へ向かっていった。夕方帰ってきた彼は、朝より暗く沈んでいた。

上司に叱られたんだ。

身内の不幸は、慣例として会社へ報告する必要がある。しかし、彼は旅行中だったため報告が遅れた。上司に義母の不幸を報告すると、どうして忌引休暇を取らなかったのかと問われたらしい。

家族間の行き違いがあったって説明したんだけど、納得してもらえなくて。そしたら、俺のSNSを知ってる同僚が余計なことを言ったんだ。

り介の声には、怒りの感情が滲んでいる。彼はこの旅行をSNSに投稿していた。温泉や食事の写真、さらに義姉と並んで笑っている写真もアップしていたらしい。それを見ていた職場の同僚が、上司との会話で気づいたのだ。実の母親が亡くなったのに、姉と旅行に行っていた。だから休暇を取らなかったのでは、と上司の前でり介に問い詰めたのだ。

あまりにも非常識な行為は、職場で一気に広まる。一週間もすると、彼の周りの環境はすっかり変わってしまった。

俺、職場で冷たい目で見られてるんだ。何もしてないのにおかしいだろう。

港と二人で呆然と彼を眺めつつ、心の中で考える。何もしていないから、このような事態になったのだ。彼は義母が病気になった時、私に全てを押し付け、自分は楽しいことだけしていた。しかし、私は何も言わない。わざわざ丁寧に教えてやろうとは思えなかったのだ。

ああ、どうすればいいんだ?母さんもいなくなって、職場で冷たい目で見られて、お姉ちゃんも塞ぎ込んでる。ちくしょう。どうしてこんなことになったんだよ。

声がさらに大きくなった。感情の発散場が見つからないのだろう。悲しみと焦りと恥が混ざり合い、うまく処理できず外に溢れ出している。取り乱す彼を目の前にして、私は不思議と冷静さを保っていた。この人は何を言っているのだろう。落ち着いて考えれば、自分のせいだと分かるのに。現実から目を背け、誰かのせいにしようとしている。あまりにも無責任だ。

こんな最低な人を選んだ自分に呆れてしまう。ぼんやりと頭の片隅で考えていると、彼が決定的な一言を放った。

なんで母さんが亡くなったんだよ。お前の母親が先のはずだろう。

リビングに静寂が落ちる。私の隣にいた港が、ゆっくりと立ち上がった。家族で一番身長が高い彼は、自分の父親を冷たい目で見下ろしている。

それ、本気で言ってるのか?

絶句した表情になったり介は、慌てて視線をそらした。自分が今何を言ったのか、ようやく気づいたのだろう。けれど、彼は謝らなかった。私に謝るという考えが、この人の中にはないのだ。

もう、限界だ。

私は立ち上がり、引き出しの中から一枚の紙を取り出した。

な、なんだよ、これ。

見て分かるでしょ?離婚届よ。

半年ほど前に市役所に取りに行き、私の欄だけ書いて保管しておいたのだ。書いた日の夜のことはよく覚えている。港が仕事から帰る前の静かな時間。リビングのテーブルに座って、ボールペンを手に取った。手は震えず、涙も出ない。ただ淡々と、必要な欄を埋めた。

いつか使う日が来るかもしれないわね。

その時が、とうとう来たのだ。り介の顔が青白くなる。離婚届という紙切れ一枚が持つ重さを、正確に理解したのだろう。

離婚なんて…。そんな、待ってくれよ。

私は、あなたが変わるのを、離婚せずに済む未来をずっと待ってた。でも、そんな日は一生訪れないって分かったのよ。

さっきの言葉が気に触ったのか。

ごめん。謝るよ。母さんを亡くしたショックで、取り乱してたんだ。

謝罪とも言い訳ともつかない中途半端な言葉が続く。私は何も言わず、ただ黙って聞いていた。

言いたいことは、それだけ。

港が静かに、しかし容赦なくり介を追い詰める。うまく言い返せないり介は、突然立ち上がったかと思うと、家から出ていった。おそらく、義姉のいる義実家へ逃げたのだろう。いい年をした男が、問題から目を背けるために姉を頼るとは。

背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。

母さん、夕飯を食べよう。

そうね。

私たちは何事もなかったかのように、食卓の準備をする。り介のいない夕飯の時間は、とても穏やかで楽しい一時だった。

翌日、義姉を連れてり介が戻ってきた。義姉は玄関を入るなり、激しい金切り声で怒鳴り立てる。

離婚ってどういうことよ?こっちは母さんが亡くなって大変だっていうのに。

先日はあれほど泣き崩れていたのに、今日は攻撃の鎧を着直し、私に向き合っていた。おそらく、抱えきれない悲しみを怒りに変換しているのだろう。実の家族を失った辛さは理解できる。しかし、私に八つ当たりしていい理由にはならない。

離婚するなら、慰謝料払いなさいよ。あんたのせいで、り介がどれだけ苦労したと思ってるの?

とりあえず、上がってください。立ちっぱなしじゃ、落ち着いて話もできませんよ。

リビングに案内し、義姉とり介を向かい側に座らせる。私の隣には港が座った。り介は義姉の隣で黙っている。姉の影に隠れて、自分は問題に直面せずに済ませようという根性なのだろう。あまりにも情けない姿に、もはや怒りも湧かない。

父さん、母さんに何か言うことないの?

皆も、私と同じことを感じていたようだ。軽蔑の感情を含んだ目で、り介を見ていた。

あ、あの…。

港君は黙ってなさい。あなたには関係ないんだから。

何言ってんの、おばさん?これは俺の家の家族の問題だよ。おばさんの方こそ、関係ないんじゃない?

港の容赦ない突っ込みに、義姉は目も口も大きく開く。彼の言う通り、この場に彼女が口を出すのはおかしい。むしろ、余計な口出しをする姉が不在の方が、話がまとまるだろう。

それと、さっき慰謝料とか言ってたけど、払うのは父さんとおばさんの方だよ。

は?何を言ってるのよ。私は関係ないでしょ。

義姉の声には、余裕の色がある。港を馬鹿にするような感情も含まれていた。まさか法的な話になるとは思っていないのだろう。

いいえ、あなたにも関係あります。

港に代わり、私が口を開く。

実は少し前、港が無料の弁護士相談窓口で、私の件を相談していたんです。息子だけが、私を心配してくれたんですよ。

どうすることもできず、諦めて日々を送っていた私を、港はずっと気にかけていた。母親を救いたい。その一心で、港は仕事で忙しい日々の合間を縫って行動していたのだ。

半年ほど前、弁護士に相談したと明かされた時は、飛び上がりそうなほど驚いた。同時に、大切な息子にそこまでさせた自分の不甲斐なさを、心の底から恥じた。これ以上心配をかけさせたり、負担を強いたりしてはいけない。私は決意する。り介と別れて、新しい人生を踏み出すこと。半年ほど前に市役所へ離婚届をもらいに行ったのは、港が弁護士に相談した直後のことだ。

昨日の離婚宣言は、り介にとって晴天の霹靂だろうが、私と港はすでに覚悟を決めていた。ところが、離婚に向けて密かに準備を進めていく中で、義母の病状が悪化。彼との話し合いは先送りになりそうだと思っていたところに、今回の事件が起こったのだ。

あなたの件って、何よ?

私に対する、あなたやお母さんの嫁いびりですよ。

義姉が嫌そうな表情を浮かべる。次の瞬間、私の発言で彼女は目をカッと大きく見開いた。

誰の目から見ても問題と判断できる侮辱的な言動によって、私は精神的損害を被りました。よって、慰謝料請求の対象になるそうです。

あ、は?何よそれ。意味わかんないんだけど。

ご自分のした言葉をお忘れですか?

義姉は長年、義母と一緒になって私をいびり続けてきた。身に覚えがないとは言わせない。もし義姉がしらを切ったとしても、私には否定できるだけの材料があった。

実は私、日頃から言われたことを日記に細かく記録していたんです。時には録音もしていましたよ。

無料の弁護士に相談した際、証拠があれば有利に進められるってアドバイスされたんだ。それで母さんに聞いたら、予想以上のものが出てきて驚いたよ。弁護士に改めて相談に行ったら、十分戦えるって太鼓判をもらえたんだ。

義姉の顔から、余裕が少しずつ失われていく。ノートへの記録は、自分の感情を整理するために始めたものだった。義姉や義母による長年のいびりだけでなく、り介の言動も記録している。彼はよく二人に便乗して、私を馬鹿にしていたのだ。さらに、義母の介護を一方的に押し付けられた事実や、二人の非協力的な姿勢も細かく書き残していた。

俺は専門家じゃないから詳しくないんだけど、誰の目から見ても常識を逸脱している侮辱言動があった場合、慰謝料が請求できるんだって。おばさんとおばあちゃんの言動は、ただの嫁いびりじゃないってこと。

介護の押し付けや、協力の拒絶。これも慰謝料請求できる可能性があると、弁護士の先生はおっしゃってたわ。

義姉の顔が、徐々に青くなっていく。

何よそれ?っていうか、家族の問題に弁護士を持ち出すなんて非常識じゃ…

あんたらに非常識とか言われたくないな。自分たちが母さんにしてきたこと、ちゃんと理解してる?弁護士の先生が、慰謝料を請求できると言ってるんですよ。もはや家族だけの問題に留まりません。こうなったのは、他でもないあなたたちのせいですから。

二人にも理解できるよう、はっきりと力強い声で語りかける。義姉は何か言おうと口を開いたけれど、結局言葉は出なかった。彼女の目はあちこち泳いでいて、焦りを露呈しているのが手に取るようにわかる。こんなに追い詰められた表情は、今まで見たことがなかった。義姉がちらりとり介を見る。助けを求めるような視線だった。しかし、り介は気まずそうに目をそらす。

ねえ、黙ったままじゃ話を進められないんだけど。何も言うことはないなら、あとは弁護士の先生に任せるわよ。

次の瞬間、り介の中で何かが爆発したらしい。いきなり立ち上がると、震える指を私に突きつけた。

お前はいつもそうだよ。何でも完璧にできますって感じの余裕の態度。姉ちゃんも言ってたぞ。お前は俺を見下してるって。

は?何を言ってるの?私、そんなつもりはないわよ。

いいや。お前は結婚する前から、俺をバカにしていた。だってお前は大手企業でバリバリ働いて、俺より稼いでた。中小企業の冴えないサラリーマンの俺なんて、自分の足元にも及ばないって思ってたんだろ。

り介の声が部屋に響く。結婚してから今まで、心の底に溜め込んできたものが一気に溢れ出した瞬間だった。まさか彼が私に対してコンプレックスを抱いていたとは思わず、少しだけ驚く。しかし、感情が揺れ動いたのは一瞬だけだ。

自分が誰かより劣っているのが嫌なら、ひたすら努力するしかない。仮に結果が出なかったとしても、頑張ってきた日々は自分の成長に繋がるだろう。けれど、り介は何も努力しなかった。ずっとそばで見てきたから分かる。彼は現状に不満を抱いて文句を言うだけで、自分から動こうとはしなかったのだ。

あなたを情けないと思ったことは、一度もないわ。

わめいていたり介が、ぴたりと止まる。血走った目で、私をじっと見つめていた。

家計を支えるために一生懸命働いていたあなたを、昔はむしろ尊敬していたくらいよ。あなたと結婚して良かったと、心の底から思った過去もある。

これは本当のことだ。結婚当初は、り介のことを心の底から愛していた。給料が高くなくても、毎日仕事に出かけ真面目に務め続ける姿を、私は尊敬していたのだ。妊娠中は義母や義姉のいびりがひどくなり、何もしてくれない彼に絶望した時もあるけれど、私の具合が悪い時は親身に心配をしてくれた。

大丈夫か?無理するなよ。

目を閉じると、今も私を気遣う彼の姿をはっきりと思い出せる。しかし、もはやそれは遠い過去の話だ。彼を愛していた気持ちは嘘ではないが、愛情はとっくの昔に枯れ果てている。

一呼吸置いて、私はゆっくりと口を開いた。

今の自分が情けないと思うなら、そうなる未来を選んできたのは、あなた自身よ。やり直す機会や時間は、いくらでもあったはず。でも、あなたは目の前の楽しいことに夢中で、私に向き合わなかった。

り介の顔が歪んだ。唇がぶるぶると震えている。やがて震えは全身に広がり、彼は俯いてしまった。

母さんの言う通り、父さんは楽なことばかり選んできた。母さんに大変なことばかりを押し付けて、それを当たり前だと思い込んでいたんだ。今までの父さんの生活は、母さんの犠牲の上に成り立っていたんだよ。

港の声は怒っていない。ただ事実を述べているだけだ。その静けさが、怒声よりもずっと深く刺さるのだろう。り介は俯いたまま、一言も発することができなかった。そもそも反論は不可能だ。港が言っていることは、全て事実。下手に言い返せば、さらに情けない姿をさらすはめになると、彼も理解しているのだ。

ここまできついこと言わなくても…

義姉が口を挟みかけるも、港が彼女に目を向けた瞬間、唇をぎゅっと結び黙った。はるかに年下の威圧感に、義姉は押されているようだ。

しばらく沈黙が続いた。重く、気分が暗くなりそうな空気がリビングに漂う。やがて、り介が急に顔をあげた。追い詰められた人間が最後に見せる、虚勢の顔だった。

分かった。離婚したいなら、してやるよ。

声は大きいが震えていて、全く迫力がない。義姉は慌てた様子でり介を見ていた。

ただし、母さんの遺産は絶対に渡さないからな。遺産は俺と姉ちゃんのものだ。

り介の発言に、義姉の表情がぱっと明るくなる。そして、にやりと笑みを浮かべてこちらを見た。

あ、そうね。母さんが残してくれたお金は、嫁のあんたは相続できないわ。

そうだ。専業主婦のお前に金はない。俺と離婚したら、困るのはお前の方だ。

喚き散らす二人に、私は静かな声で返す。

お母さんの遺産。そんなの、いらないわよ。

強がりを言うな。母さんの貯金があれば、俺たちは悠々自適な生活を送れる。でも、金のないお前は路頭に迷うはめになるんだよ。

もしかして、知らないの?お母さんの遺産なんて、ほとんど残っていないわよ。

り介の口が止まった。義姉も、まるで氷付けになったかのように固まってしまった。私は立ち上がり、預かっていた義母の通帳を棚の中から取り出す。そして、二人の目の前に置いた。

これを見れば、私が嘘を言ってないって分かるわ。

り介が慌てて通帳を手に取る。義姉も隣から覗き込んだ。ページをめくるにつれ、二人の顔から血の気が失われていく。定期的に引き出されている小額。そして、義母が亡くなる直前に、まとまった金額が引き落とされていた。

う、嘘だろう。本当にほとんど残ってないじゃないか。ていうか、この引き落としは何だ?誰がこんなことを?

り介が叫びながら、隣の義姉を見る。義姉は顔面蒼白で、滝のような冷や汗を流していた。

ま、元々おばあちゃんの口座にはほとんどお金は残ってなかったけどね。おばあちゃんは働いてなかったし、おばさんも週三日程度のパート。おじいちゃんの遺産に頼らざるを得なかったんだ。でも、その残った遺産を、骨までしゃぶり尽くそうとしている人がいた。お姉さん、あなたのことですよ。

義姉の口から、短い息が漏れている。先ほどの反応から察するに、彼女は遺産が残りわずかだと知らなかったようだ。頼りにしていた遺産がほとんどなくなっていた事実に加え、引き落としの犯人が自分だと指摘され、余裕のない表情を浮かべている。

何を言ってるの?私は母さんの口座からお金を引き落とすなんて…

それに関しては、俺が調べたというか、たまたま目撃したんだけどさ。

港が落ち着いた口調で語り始めた。先月、仕事の取引先との飲み会の帰り道。港は、若い男と並んで歩く義姉を見かけたらしい。義姉は確かに美人だが、若い男性と仲睦まじげにしている姿は、かなりの違和感があるだろう。港も気になったため、距離を置いて義姉をこっそり尾行。すると、二人はホストクラブに入っていったそうだ。

翌日、港は義姉のSNSを調査。本名で検索したところ、すぐ見つかったらしい。投稿を遡ると、ホストへの入れ込みぶりが赤裸々に綴られていた。使った金額を自慢するような投稿や、ホストとの写真。それを読みながら、港は複雑な感情を抱いていた。

でもさ、おばあちゃんの通帳から引き落とした金額だけじゃ、ホストクラブの費用には足りないと思うんだよね。おばさんが入った店のホームページを見たんだけど、かなり強気の価格設定だったし。

義姉の目が、徐々に大きく見開かれていく。

おばさん、パートでそんなにもらえないよね。他にどこから出費してたの?

部屋が静まり返った。義姉の顔色は青を通り越して、白になっている。決して視線をこちらに合わせようとはしなかった。

お姉さん、この際だから、全部話した方が楽になるんじゃないですか。

あえて、私は優しい声で義姉に問いかける。義姉は唇をぎゅっと噛むと、長い沈黙の後に頷いた。

私、借金してるの。あまり大きな金額を引き落としたら、母さんにバレると思って。

次の瞬間、り介は通帳を持ったままソファーにへたり込んだ。彼の顔には、母親を亡くした悲しみとは別の喪失感が浮かんでいる。唯一信じていた姉は、母親の金を使い込んでいた。守ろうとした家族が、実は自分の知らないところで裏切り行為をしていたのだ。事実の重さで、立っていられなくなったのだろう。

離婚したら、私たちは他人同士です。借金返済、頑張ってくださいね。

義姉は何も言えなかった。我が家に来た時は得意げに慰謝料を払えと叫んでいたけれど、今は俯き、膝の上で手を組んでいる。代わりに、り介が絞り出すように口を開く。

お、お前だって、パートでまとまった金なんてないだろう。離婚したって、どうやって生きていくんだ?

金がないのは、お互い様だろう。

悔しそうな顔だ。自分たちだけが地獄に落ちるのは納得できないと、彼の瞳が語っている。どうにかして私も不幸にしたいという、浅ましい考えが伝わってきた。私はゆっくりと息を吸い込む。全てこの瞬間のために準備してきたわけではない。しかし、結果として私は彼に反論できる武器を揃えていたのだ。

家計を管理しながら、自分名義の口座にコツコツと積み立ててきたの。生活費の範囲内で、無理なくね。そのお金があれば、当分暮らせるわ。

り介の顔に動揺が浮かぶ。

な、なんで…

いつから、だと?

あなたが家計に無頓着だったから、全部私が管理していたでしょ。少しでも家のことに協力していたら、母さんが積み立てていたことも、とっくの昔に知っていたはずだよ。ちなみに、俺は知ってたぞ。

呆れたような口調の港に、り介は何も言い返せなかった。

それだけじゃないわ。パート先から、正社員にならないかと打診を受けているの。

なんだって?

今までで一番、り介が驚いたような声をあげる。義姉も目を丸くして私を見ていた。私は誰かに頼らなくても生きていける力を、長い時間をかけて静かに積み上げていたのだ。二人と違い、努力を続けてきた結果が今だ。

り介の顔が、一気に崩れる。もはや取り繕う余裕も失われたようだ。

頼む。離婚しないでくれ。俺が悪かった。考え直してくれよ。な?

さっきまでは、離婚してやるって言ってたのに。手のひら返し?

だって、こっちにはお姉ちゃんの借金があるんだぞ。頼りにしていた母さんの遺産はないし。離婚したら、俺たちはおしまいだ。

私はわめくり介を、まっすぐ見つめる。二十六歳の頃、初めて会った喫茶店のことを一瞬だけ思い出した。向かい合って座り、楽しくおしゃべりをして笑い合った時間。緊張が解けていく感覚。連絡先を交換した時の、少し弾んだ心。私は優しい彼に恋をしていた。でも、あの人はもういない。私の目の前にいるのは、喚いている男。妻と子供より姉を優先し、楽しいことだけをして暮らしてきた、無責任な人間だ。

拒絶しても無駄よ、私。どんな手を使っても、離婚するから。

話し合いで離婚に至らなかった場合、家庭裁判所で調停離婚になるわ。こっちはすでに弁護士に依頼済みだ。お金も母さんの積み立てがあるし、俺もそこそこ貯金があるからな。どうする?あなたがその気なら、徹底的に争ってもいいけど。

り介と義姉に、弁護士を雇う余裕はないだろう。金銭的な問題もあるけれど、何より今の二人は精神的にかなり追い詰められている。ショックから準備を整えている私たちとやり合うのは、おそらく無理だ。それに、長く争えば争うほど、二人の傷は深くなる。離婚届に素直にサインすることが、一番傷の浅い選択だった。

う、ちくしょう。

り介がうめき声をあげ、椅子に力なく座り込む。両手で頭を抱え、テーブルに突っ伏した。義姉も隣で、ぼろぼろと涙を流している。勝敗は決したようだ。

り介は震える手で、私が差し出した離婚届にサインをした。

慰謝料に関しては、弁護士から連絡が行くから、ちゃんと対応してね。

離婚届を鞄に入れながら、必要事項だけ伝える。私と港は椅子から立ち上がると、リビングの扉へ向かった。

どこに行くんだよ。

この家を出ていく準備をしないとね。家と家と土地は、父さんの名義だからな。

り介が首を何度も振り、私たちを止めようとする。

待ってくれよ。そんな急に…

邪魔しないでね。

港がり介の前に立ち、威圧感たっぷりに睨む。もし私一人だけだったら、り介に力づくで引き止められていたかもしれない。港がいてくれてよかったと、心の底から思う。

それから半月後、私と港は長年住んだ家を出ていった。仮のアパートは運よくすぐ見つかり、業者に依頼して荷物を運んでもらう。

じゃあね。

リビングのソファーに座り込んでいるり介に声をかける。彼はこの半月で、すっかりやつれてしまった。しかし、かわいそうだとは思わない。

玄関から出ると、雲一つない青い空が広がっていた。

あとは、慰謝料の支払いだけだね。

ええ、あ、新居に行く前に、離婚届を役所に出さないと。

車に乗り、役所へ向かう。私も港も、一度も振り返ることはなかった。

家を出てから一ヶ月後、弁護士から連絡が届いた。り介から、慰謝料を振り込みたいという連絡を受けたらしい。それと合わせて、私への手紙を預かったそうだ。念のため受け取り、中身を確認する。書かれていたのは、彼と義姉の近況についてだった。

り介は貯金のほとんどを慰謝料に当てることになったらしい。自宅はまだローンが残っていたが、金銭的に余裕がなくなり、支払いが難しくなる。結局、家を売って、自分の実家へ戻ったとのこと。二人を追い詰める出来事は、さらに続く。旅行中に撮った写真をSNSに投稿していた件で、所属部署だけでなく会社中に話が広まったそうだ。実の母親が亡くなったというのに、姉と旅行に行って楽しんでいた。その事実が職場でじわじわと広まり、り介への視線はさらに冷たいものになる。さらに、彼はSNSで離婚したことも投稿していた。実の母親の葬儀をすっぽかし、嫁に捨てられた哀れな男。り介にはそのようなレッテルが貼られ、職場で居場所を完全に失う。彼は周りからの冷たい視線に耐えきれなくなった。結局、衝動的に会社を辞めたそうだ。

自宅の売却金額は、二束三文でまとまったお金にはならなかったらしい。義実家に戻ったが、待っているのは収入が少ない義姉と借金だけ。お金がなく追い詰められた二人は、義実家も売却し、ボロアパートへ引っ越した。兄弟二人、ボロアパートの狭い部屋で、互いに依存し合いながら生きていく。お金も、頼る家族もなく、二人に待っているのは暗い未来だけだ。

大変そうね。

私は手紙を封筒にしまいながら呟く。哀れだとも、ざまあみろとも思わなかった。この結末は、二人が選んだものだ。手紙には、復縁を懇願する文章と、二人の引っ越し先のアパートの住所が書かれている。私はそれらを無視し、封筒ごとゴミ箱に捨てた。

離婚から半年後、私は仮のアパートを出て、小さなマンションを購入し、一人で暮らし始めた。港もこれを機に一人暮らしを開始し、私を見守る必要はもうない。休日は時間がある方の家へ遊びに行く。一緒に出かけることもあった。最初は港と離れて少し寂しかったけれど、今はこの距離感が心地いい。

パートから正社員になる話は、離婚が成立して間もなく正式に決まった。職場での私の評価はずっと高かったらしい。パートという立場でも手を抜かずにやってきたことを、周りはちゃんと見ていたのだ。

かさん、この処理お願いします。

わかりました。

経理部が最も忙しくなる月末。慌ただしく仕事をしながら、心は充足感に満ちていた。二十六歳で手放したキャリアが、形を変えて戻ってきた気分だ。

資産運用は続けている。コツコツと積み上げてきた自分名義の資産を少しずつ運用に回しながら、老後の計画を立て始めた。派手な生活は必要ない。自分の力で暮らせる範囲で、穏やかな日々を送れたら、それだけで十分幸せだ。

よし、準備完了。

朝、鏡に向かって呟く。薄く化粧を施した私が、笑顔を浮かべていた。

行ってきます。

返事をする人は誰もいないけれど、私は心の底から幸せを感じていた。

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