プレゼンテーションを明日に控えた日、課長の小川が俺を見て言った。
「中卒は絶対喋るなよ。全部俺の手柄だからな」
何が俺の手柄だ。そう思ったが、今は小川の相手をしている時間がなかった。ここ数日ずっと資料作りに追われて、外回りがまったくできていない。このままではクライアントに見放されてしまう。
「わかりました。明日のプレゼンの場では、私が一言も喋らないことをお約束します」
そう言って俺は小川に一礼し、外回りのために車を走らせた。
そして迎えたプレゼン当日。小川はいつもより早く出社し、プレゼン資料を読み込んでいた。
「小川課長、今日はよろしくお願いします」
俺が頭を下げると、小川は「何も心配いらないよ」と言ってきた。だが、その小川のプレゼンを耳にした社長の島岡は、会議室外まで聞こえるほどの大声で怒りを爆発させた。
「一体どういうことなんだ?」
俺は鳩谷、二十五歳。中学を卒業して社会に出た、今の時代では少し珍しい中卒人間だ。家が貧しかったのもあるが、何より俺自身が勉強嫌いで、高校には進学しなかった。
中学卒業後、俺はアルバイトをしながら必死に就職先を探した。何枚の履歴書を書いたか分からない。そんなある日、今の会社が面接をしたいと申し出てくれた。面接前夜は受け答えの練習に費やし、当日は新品のスーツを着て会社へ向かった。
手応えは正直分からなかった。面接官との相性もある。期待して空振りになるのは嫌だと思っていたが、数日後、電話で合格の知らせが届いた。就職活動を始めてから半年が過ぎた頃だった。
今は営業をやっている。慣れるまでは苦労したが、ある程度慣れてくると数字が取れるようになった。成績はいつもトップを争うほどで、心の中で「中卒だってやれるんだ」とガッツポーズをしていた。
しかし、その天狗になっていた鼻をへし折る人物が入社してきた。
その日の朝、営業部長の呪が、空席だった課長の椅子に新入社員が座ったと紹介した。
「新入社員の小川君だ。今まで空席だった営業課長を担当してもらう」
「小川です。よろしくお願いいたします」
新入社員だから新卒だとは限らない。紹介されて名乗った小川は、四十代半ばくらいに見えた。課長の椅子は長い間空いていて、俺たちは呪部長が課長を兼任していた。何かあるとすぐ呪に報告し、行き詰まれば呪に相談していた。今日からは呪ではなく、この小川という課長に報告するのか、と俺は理解した。
小川は早速、二者面談を行いたいと申し出た。営業部員全員との面談のスケジュールが組まれ、メールで流れてきた。だが、本文に俺の名前がなかった。
俺はとっさに、中卒仲間で同い年の同僚である蚊を振り返った。彼も自分の名前がないことに戸惑っているのか、すぐに俺の視線に気づいた。俺たちは空いている会議室に入った。
「どういうことだ? 中卒とは面談する気がないってことか?」
「だとしたら、これから仕事がやりにくくなるな」
「二人とも俺の名前もなかったぞ」
室内に第三者の声が響いた。振り向くと、高卒社員の三田が立っていた。
「え、三田さんも」
どうやら新しい課長は、大卒社員としか面談しないつもりらしい。俺たちはこれを歴とした学歴差別だと結論づけた。問題は、この件をどうするかだ。呪部長に報告しようかと悩んだが、今日は小川の初出社の日。初日から部長に言いつけるのも気が引けた。俺たちは「しばらく様子を見よう」という結論に達し、大人しくデスクに戻った。
デスクに戻った俺を待っていたのは、一通のメールだった。
差出人の名前に驚いた。そして、メール本文と添付ファイルを見て、あまりの案件の大きさにただただ愕然とした。
極秘案件。俺はこのことを誰にも喋らず、取引先とのプレゼンを明後日に控えた今日、営業に出ずに内勤に徹していた。
「君は営業に出ないのかね?」
後ろから小川の声がした。
「はい、ちょっとやることがあるんです」
「ふむ、それはどんなことかね? 営業は足で稼ぐものだろう。数字を取ってこないのか?」
「数字なら、このプレゼンが成功すれば相当な金額になるでしょう」
「ほう。だが……」
「このプロジェクトは極秘案件なので、直属の上司であっても詳細はお伝えできません」
そう言ったときには、小川が俺の背後からパソコンの画面を覗き込んでいた。しまったと思ったが、時すでに遅し。
「課長、これは極秘案件です。絶対に他言しないでください」
見られてしまったものは仕方ない。明後日まで内密にしてもらおうと、俺は小川に頼み込んだ。
「いいだろう。黙っていよう。だが、条件がある」
「どんな条件ですか?」
「君がプレゼンするのは明後日だそうだな。君が作っているその資料を全部、俺にメールで送れ。そして当日、君は一言も喋らないこと。いいな」
これは契約の横取りではないか。そう見構えた。これでは案件をくれた人に申し訳が立たない。それに、極秘案件のプレゼンの場に、課長であっても小川が出席していいのだろうか。
「課長、プレゼンの資料はお渡しします。至らない点があればご指導ください。ですが、プレゼンの場に出るのは俺だけにしてください。課長は呼ばれていませんので」
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。ここで小川のプライドを傷つければ、事態は一層面倒になる。すると小川は言った。
「ダメなんだよ、いくらでも思いつく。なんなら、この資料全部がダメだと言える」
「どこがダメなのか具体的に言ってください。全部と言われても、もう一から作り直す時間はないんです」
すると小川は俺からマウスを奪い、プレゼン資料の画面を片っ端から閉じていった。
「今閉じたファイルの保存場所はどこかね?」
俺は意味が分からず、とりあえずサーバー上のファイルの置き場所を開いた。すると小川は、俺が作った五つのファイルをサーバーから削除してしまった。
「課長、何をするんですか?」
俺は思わず大声を上げた。
「何って? 出来損ないのファイルを捨ててあげただけじゃないか。そのくらいで大声を出すなんて。中卒は声がでかいね」
サーバーから消されたファイルは復元できない。分かっていてやったのか。そう思うと、冷静でいようとしながらも怒りが抑えきれなかった。
「さあ、私はITには疎くてね。まあ、また一から作り直すように」
俺は震える手で拳を握った。中卒だから我慢しろとか、一から作り直せとか、めちゃくちゃにもほどがある。俺は仕方なく一通のメールを出し、どうか救いの神が微笑んでくれますようにと祈るような気持ちで昼休憩を待った。
その日の昼休み、俺はちょっとした約束があった。簡単なランチをデスクで済ませ、屋上への階段を駆け上がる。約束していたのは十二時四十五分。相手はすでに来ていて、屋上のフェンス越しに眼下の風景を眺めていた。
「高瀬さん、遅れてすまない」
IT所属の社員、高瀬は振り返って見せた。
「結構苦労したんだぞ」
そう言って、俺にUSBメモリを差し出してくる。
「恩に着るよ。ごめん、鳩谷。データを復元する時、ファイルの中身を見てしまった。というか、見えてしまうものなんだ」
「それは仕方のないことだろう。この件で高瀬さんが追求されることがあれば、それは俺の責任だ。高瀬さんには何の責任もない。でも、誰にも言うなよ」
「もちろん」
高瀬が頷くのを見届けて、俺は営業に戻った。しかし、戻った先の空気は不穏だった。机に向かっている人たちがみんな俺を見て、ひそひそと何かを話している。
「それでね、部長。この契約がまとまったら百億なんですよ。百億。転職早々、目立っちゃいますね」
「し、それもこれも君が、自分にはとても百億なんて契約は扱えないっていうもんですから、私としても断りきれず、仕方なくねえ」
小川が呪部長相手に、あの極秘契約のことを喋っている。しかも、いかにも自分の手柄だと言いたそうな口ぶりで。胸くそが悪い。他の営業社員たちも俺を見て、小川の言文が正しいのかと問いかけるような目をしていた。
小川のせいで何もかもめちゃくちゃだと投げ出したくなった。その時、俺の携帯がメールを受信した。開くと、蚊からの着信だった。「自白時期になるな。これを使え」という文面と、添付ファイルとして今し方小川が呪に喋っていた全てが録音された音声が入っていた。
そして、プレゼン前日。俺は朝早くに出社し、明日のプレゼンで使う資料を準備する。全てをチェックし終えたところで、小川が出社してきた。
「課長、おはようございます。こちらが明日のプレゼン資料になります」
俺は数日間、社内にこもって作り直した資料一式を小川に渡した。
「ご苦労様。資料を一から作り直したなんて偉いね。ああ、鳩谷君。中卒は絶対喋るなよ。全部俺の手柄」
またそれか。だが、今は相手にしている暇がなかった。この数日、資料作りに専念しすぎて取引先に足を運べていない。いい加減外回りをしなければ。
「わかりました。明日のプレゼンの場では、一言も喋らないことをお約束します」
俺は一礼し、外回りのために車へ向かった。
そして翌日。小川はいつもより早く出社し、プレゼン資料を読んでいた。
「小川課長、今日はよろしくお願いします」
「何も心配いらないよ」
俺が頭を下げると、小川はそう言った。その口元が少し歪んでいた。
「俺はな、超絶なまだなんだよ。お前みたいな中卒なんかに、百億の手柄なんて立てさせるわけがないだろう」
ようやく本音を漏らしたな。俺はそう思った。しかし、取り入らずに席についた。本当に超絶にまだなら、今日のプレゼンを俺の手を借りずに成功させてみろ、と考えていた。
午前十一時。俺と小川はプレゼン会場の大会議室に入り、プロジェクターや印刷物のセッティングを済ませた。時計の針が十一時を差した瞬間、社長の島岡を始め、取引先の役員や開発部、マーケティング部の面々が勢揃いした。
小川が一歩前へ出て、軽く咳をする。その時、俺にこの案件をメールでくれた人物が俺を見つめてくる。俺は小さく首を振ってやり過ごした。とにかく今日は一言も喋るなと言われている。俺は一切口を開くつもりはなかった。
「えー、本日プレゼンを務めさせていただく営業の小川と言います。どうぞ」
会場内にざわめきが起こった。当然だ。取引先も俺以外の社内の者も、プレゼンターは俺だというメールを受け取っている。戸惑わない方がおかしい。しかし小川は、このざわめきを自分への賞賛だと思ったらしく、得意げにしていた。
「では、これからプレゼンを行います。まず、この資料の二ページ目をご覧ください。ここには当社の歩みが記載されており……」
俺はあ然とした。取引先へのプレゼンで冒頭に会社の沿革や歩みを載せることは珍しくないが、それは形式上のことであり、わざわざ詳細に説明するものではない。それなのに、小川は会社の沿革を細かく説明し始めた。
昨日、小川は自分のことを超絶にまだだと言っていた。あれは空耳だったのだろうか。プレゼンターに与えられた時間は質疑応答を含めて一時間。こんなに長々と沿革を語っていたら、本題に入る頃には時間が尽きてしまう。新入社員の課長ばかりに実力を出させてしまった。この契約を俺に投げてくれた人に、このままでは申し訳が立たない。
そう考えていた矢先だった。室内に、パンパンと手を打つ乾いた音が二度響いた。見れば、社長の島岡が起立して小川を睨みつけている。
「一体どういうつもりかね、君は。私は君をこの席に呼んだ覚えはない」
小川はスーツのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭き始めた。
「いえ、私の部下がこのプレゼン資料を制作しているのを見て、その指導のために私がプレゼンターを……」
「君にプレゼンを頼んだ覚えはない。今すぐ、鳩谷君と交代しなさい」
「しかし! 君は中卒で、この規模の契約なんて……」
「君はもういい。鳩谷君」
俺は名前を呼ばれたが、今日は一言も喋るなと言われている。だから、その胸を記載した用紙を社長に向かって掲げた。島岡はそれを見て、さらに声を張り上げた。
「小川君。後で事情を聞かせてもらう。君は学歴で人を判断しているようだが、我が社は完全実力主義だ。そして、私も中卒だ。不満があるなら出ていきなさい」
小川は遠目からでも分かるほど顔中に汗をかき、俺が掲げている用紙を今にも奪い取りそうな様子だった。
「……私からは以上です。鳩谷君、プレゼンターを代わりた」
課長命令と社長命令を天秤にかければ、社長命令の方が重いに決まっている。俺は小川が悄然として会議室から出ていくのを見届けると、百億の契約を取るべく、持てる力を総動員してプレゼンを始めた。
百億の社運をかけた大口契約は、小川の乱入で一度はどうなることかと思われたが、俺や社長などプロジェクトに携わる者たちの熱い思いと、取引先の理解もあって、無事成立した。
「やったな、鳩谷君」
先方が帰っていくと、島岡が俺に向かって手を差し出した。俺もその手を握り返す。
「社長、ありがとうございます」
「いや、俺の方こそ礼を言いたい。実はな、この案件を君に投げたのは俺なんだ」
島岡は昔、営業部に所属していた。俺と一年ほど一緒に仕事をしたことがあり、俺は島岡から多くのことを学んだ。島岡も、俺の営業としての能力に誰よりも早く目をつけていた。俺たちは共に中卒で、同期の蚊も加えてしょっちゅう飲みに行っていた。
「ところで、さっきの小川という男は、一体何だったんだ?」
島岡にとって小川は謎だったらしい。それはそうだろう。プレゼンの場で会社の沿革を説明し出すプレゼンターなんて、俺だって知らない。
「ああ、最近入った営業課長です」
俺は、俺と蚊という中卒、そして三田という高卒社員が二者面談のリストから外されていた話をした。さらに、蚊が送ってくれた音声を聞かせてみた。
「学歴主義はまあ仕方ないにしても、極秘案件を大声で喋ってしまうのはどうかと思うなあ」
「本当にそうですよ」
「それにしても、今日の資料はよくできていたな」
島岡が褒めてくれた。
「俺一人の力では作れなかった資料です。実は、一昨日に小川にファイルを完全に削除されてしまいまして。八割くらい完成していたのに、サーバーから消されて、自力ではどうにも復旧できなかったんです。ITの高瀬さんに助けてもらいました。サーバーの管理はITがやっているので、もしかしたらバックアップが残っているかもしれないとメールをしたら、高瀬がデータを救い出して、USBメモリに落としてくれたんです」
島岡はしばらく沈黙したあと、真剣な表情で言った。
「鳩谷君、君に頼みがある」
突然の言葉に、俺は背筋を伸ばして次の言葉を待った。
その後、俺と蚊と三田が社長室に呼ばれた。
「小川君は、君たち三人と二者面談をしなかったそうだな。理由を聞かせてくれるか」
「いえ、それは……面談をしても意味がなかったというか」
「先ほどのプレゼンで、君が学歴主義だということはよく分かった。大方、ここにいる鳩谷君、蚊君、そして三田君が大卒ではないから面談を行わなかったといったところか」
島岡は残念そうな口調で言った。実際、俺に頼みがあると口にした時も、島岡は「残念だ」と言っていた。心中複雑だったに違いない。
「小川君には降格を言い渡す。課長から降格し、一営業社員として現場に出てもらう」
「え、なぜですか! 私には輝かしい学歴と実績が……」
「文句があるなら、他所へ行ってくれて構わない。降格に伴い、給与も規定に基づき減額となる。人事からの通知を待つように」
降格処分になってから、小川は会社に来なくなった。呪部長にさえ連絡も入れず、無断欠勤が続いた。
「小川部長、今日来なかったら首になるらしいぞ」
昼に俺と蚊が待ち合わせをし、ファミレスでランチを食べていると、蚊がそういう情報を仕入れていた。
「小川部長、もう無理じゃないの?」
三田の言葉に、俺と蚊も同意した。学歴主義でプライドばかり高い人間は、この会社では生き残れないだろう。
翌日になっても、小川は出社しなかった。規定通り、解雇ということになった。ある朝、事務の人が小川の私物をダンボール箱に詰めて運び出していった。
「俺、今朝小川課長を見かけたぜ。まあ、あれが課長であれば、だけどな」
三田がそんなことを言う。
「どういう意味だ?」
「髪はボサボサで、無精髭を生やしていて、とても小川には見えなかった。でも、遠めに見た感じでは小川そのものだったから、本人だと思うんだけど」
課長の席はまた空き、以前のように呪部長が課長を兼任することになった。
そして俺は、社長の後押しで営業主任というポジションに就くことになった。手に負える個人の数字はもちろん、チームで数字を取るという新しい取り組みにも着手し始めている。



