冷たい牢の中で、岩太郎は歌うように響く声を聞いた。逃げよう。何としても生き延びよう――そんな声が、炎の記憶の奥底から聞こえてくる。十歳の頃から己が何者かも分からぬまま生きてきた男が、今まさに、自分でも知らなかった過去と向き合おうとしていた。されど、そこに至るまでには長く曲がりくねった道のりがあった。時をしばし遡り、この男がまだ何も知らぬ一人の下男として、ただ黙々と働いていた頃から、静かに語り起こすことにしよう。
それは、ある年の冬、雪深い国の寒さの中で始まった物語である。風村という山合いの小さな里に、岩太郎という男が暮らしていた。田畑は決して広くなかったが、その分だけ土地の者同士の結びつきは深く、互いの暮らし向きも隅々まで知れ渡っているような在所だった。その小さな里の中でも、倉田十門の屋敷は一際大きく、蔵は三つ、田畑は隣村にまで及ぶほどであった。
岩太郎は肩幅が問田のように広く、二の腕には岩のような筋が浮き上がっていた。牛の代わりに畑を耕し、屈強な男が三人がかりでも持ち上げられぬ米俵を、一人で軽々と担いだという。それだけの力を持ちながら、岩太郎はこの村一番の豪農・倉田十門の家で、ただの下男として働いていた。村の前で、他の下男たちが二人がかりで運ぶ米俵を、岩太郎一人で担ぎ上げてずんずんと歩いていく姿を見て、「あの男、一人で三人前の仕事をする。飯の分は働くから助かる」という声が上がった。岩太郎は、その言葉に込められた意味をよく分かっていた。人としてではなく、荷を運ぶ牛と同じに見られているのだということを。
「お主は、それほどの力を持ちながら、なぜ扶持を上げてくれと言い出さぬのだ」と、共に働く下男が鍬を置いて尋ねたことがあった。「下手に口を挟んで睨まれれば、今与えられている人間の部屋さえ失いかねぬ」と岩太郎は答えた。「それでも悔しくはないのか」と重ねて問われると、「悔しくとも仕方あるまい。腹をすかせず、横になる場所があるだけでもありがたいことだ」と、苦く返すのだった。
親もなく、名字もなく、初体を持つことなど初めから望みもしなかった。夜明け前から日暮れまで、彼の一日は判で押したように同じだった。庭鶏が鳴けば起き出して庭を掃き、牛の世話をし、薪を割り、畑へ出て一日中腰を曲げて働いた。せっかくの器量を持て余して、なぜ未だに初体を持たぬのかと誰かが尋ねれば、岩太郎はいつも同じ返事をするのだった。「この身の上で初体など。飯にあり付けるだけでも御の字でございます」と。そう答えては、その場からそっと身を引くのだった。村人たちは、そんな岩太郎を羨むそぶりを見せながらも、背を向ければ陰で笑った。「あれほどの力を持ちながら、他人の家の厄介に甘んじるとは気の毒な話だ」と。岩太郎は、そう言われるたびにただ笑うほかなかった。笑う以外に、できることが何もなかったのである。
冬もいよいよ深まったある日、井戸端で体を洗っていた岩太郎の左肩が目に入った。手のひらほどの火傷の跡。古く白く冷えた傷だった。ちょうどそこを通りかかったのは、村でも指折りの年寄りで、若い頃からこの土地の事情を知り尽くしている幸兵衛であった。幸兵衛はその跡に足を止め、しばらく眺めてから、妙に見覚えがあるような、しかしどうにも思い出せぬという顔で首をひねりながら、そのまま黙って立ち去っていった。「この傷、いつぞや見たような。いや、気のせいであろう」と幸兵衛は一人つぶやきながら歩いて行ったが、その胸の奥には、拭いきれぬ小さな引っかかりが残っていた。岩太郎はそれに気づかなかった。
十歳の頃、燃える家の中で気を失ったその記憶だけがおぼろに残るのみ。誰かが自分を強く抱きしめていたような。焼け焦げる熱気の中で、切迫した声を聞いたような気もする。顔も、あの日何があったのかも、岩太郎にとっては全てが霧の向こうだった。気がついた時には、すでに倉田の屋敷の庭にいた。それから今日まで、この家の下男として生きてきたのである。
その朝、庭の片隅では、年老いた小作人が膝をついていた。「今年は不作にて、年貢の半分なりとも猶予をいただきたく」と老人が願い出ると、「半分を済まよとは、わしに損をせよというのか」と、十門の声が庭に響き渡った。「すぐにも蔵を開けて収めねば、あの田畑は来年から人手に渡ると思え」と言い放つ十門に、「この命に代えましても」と老人がすがりつくと、「その命で年貢が出るというなら、いくらでも待ってやろうが」と、十門は突っぱねた。傍らで見ていた万造の妻が、哀れんで口を挟むと、「情に流されて蔵を空にすれば、この家は何を食って暮らすのか」と十門は睨みつけた。「それでも、長年真面目に小作を務めてきた者でございます」と妻がなおも言うと、「真面目が飯を食わせてくれるものか。期限までに納めねば、この田畑はこの家に渡ることになる」と言い放った。老人が再びすがろうとしたが、十門はすでに背を向けた後だった。
岩太郎は庭の片隅で薪を終わりながら、その光景をじっと見ていた。拳が無意識に握られたが、口を出せる身の上ではない。「あの老人にまで、あれほど無慈悲になさるのか」と、独り言がこぼれた。かつてこの村には、年貢の取り立てに正面から異を唱え、それゆえに命を落としたと噂される者がいたと、幸兵衛たちの間で密かに語り継がれていたが、岩太郎はその噂を耳にしたことすらなかった。
その時、客間の障子の向こうから、十門の目がふと岩太郎の方へ流れた。ちょうど岩太郎の左肩の火傷の跡が、着物の合わせ目から覗いていたのである。十門の目は、その跡にしばし留まり、いつもより長く動かなかった。「何を見ておいでですか」と妻が尋ねると、十門ははっとしたように目をそらし、「何でもない。それより暗いの始末を急げ」と早口に言い捨てて、逃げるように客間の奥へと引っ込んだ。妻はその様子をいぶかしく思ったが、それ以上は気に止めなかった。
そんな折、見知らぬ旅の者が一人、風村へ流れ着いた。あちこちに背負い袋を背負った、老いた旅僧である。足を引きずるようにして歩くも、どうやら食にありつけぬのか、頬はこけ落ちていた。「この不作の折に、施す飯などあろうものか。よそへ行け」と、あちこちで無慈悲に戸が閉ざされた。僧は疲れた足を引きずり、村外れの岩太郎の庵の離れへと向かった。
「この一日、何も口にしておりませぬ。飯を一膳分けてはいただけまいか」と願われ、岩太郎はしばらく自分の夕餉に目を落とした。麦飯一膳と味噌と匙。それがその日の彼の全てであった。それでも岩太郎は、ためらうことなく椀を僧の前に差し出した。「召し上がれ。拙者はまた稼げば良いが、御坊は今、腹を満たすことが先決だ」というと、僧は驚いた顔で、無心に食べ始めた。「お主の名は何と申す」「岩太郎でございます」「なるほど。お主はよく分からぬ男だ。己れの腹も空かぬ身で、他人の腹を先に満たすとは」「大したことではございません。飯一膳を分けたところで、何ほどのこともございません」「いや、施した飯一膳も、天の帳面には大きく記されるものよ」と僧は言った。岩太郎はその言葉に思わず笑ってしまった。「御坊。そのような帳面に、拙者ごときが何になりましょうか」と返すと、「この世の定めというものは、目の前に見えぬからと言って、ないわけではないのだ」と僧は静かに言った。
「生まれる前に、何か覚えていることはあるか」と僧が不意に訪ねると、岩太郎は一瞬言葉を止め、「なぜ、そのようなことをお尋ねになります」と問い返した。「ただ聞いてみただけだ。お主の顔に、陰りがあるのでな」と僧は答えた。「覚えていることなどございません。幼い頃に病にかかり、気がつけばこの屋敷の庭におりました。それだけでございます」「そうか」と、僧はそれ以上問わず頷いた。まるで何かを知っている者の眼差しのようだったが、岩太郎はただ空腹の名残りに腹を摩っている僧の姿がおかしいだけだと思っていた。
「御坊はこれから、どちらへ向かわれるのですか」と岩太郎が問うと、「決まった行き先などない。風の吹くまま、縁のある方へ足を運ぶだけよ」と僧は答えた。「それは心細いことでございましょう」「いや、心細いのはむしろ、行き先は定まっておるのに、そこに己れの望むものがないと知っている者の方であろうよ」と僧は静かに言った。岩太郎は、その言葉の意味をすぐには組み取れなかった。僧は静かに会釈すると、雪道を足を引きずりながら遠ざかっていった。
その夜、岩太郎は空きっ腹を湯で満たして床に着いた。「天の帳面などというのは、腹の満ちた者の戯れ言よ」と思いながら目を閉じると、風の音が次第に激しさを増していた。その夜から、天からは雪が降りしきり始めた。天に穴でも開いたかのように、見る見るうちに庭が白く覆われていった。「こんな雪は初めて見た。今夜を超えるのも容易ではあるまい。下手に外を歩けば、凍え死ぬだけだ」と西風村の者たちは互いに言い合い、戸を固く閉ざした。
倉田の屋敷は西風村でも屈指の構えで、蔵は三つ、合わせて五人を超える者が働いていた。しかし、その夜、風村の外れを一人の女が歩いていた。吹雪の中で道を見失い、供の者ともはぐれた一人の女である。その懐には、粗末な身なりには不似合いな指輪が一つ忍ばせてあった。その女が向かう先は、他でもない風村の庵の離れだった。この雪が、岩太郎の生涯をそっくり揺るがす出来事を、静かに運んでこようとしていたのである。
岩太郎は布団の中で寝返りを打ちながら、昼間の僧の言葉をふと思い出していた。「くだらぬ戯れ言だ」として目を閉じたが、なぜかその言葉が耳の奥に残って離れなかった。その時、戸が静かに打ち鳴らされた。驚いて身を起こし、「こんな夜更けに誰だ」と問うと、答える代わりに、また力なく、しかし切羽詰まったように戸を叩く音が続いた。岩太郎が戸を開けると、冷たい風と共に雪が部屋の中へ吹き込んできた。戸口には、全身雪にまみれた女が立っていた。「一晩だけ、お世話になれませんでしょうか。お願いでございます」と、女の声が細く震えた。「こんな夜更けに、一体何者だ」と問うと、「行く当てがないのでございます。どうか、一晩だけ」と言うなり、女はその場に力なく膝を折った。岩太郎は慌てて腕を伸ばして女を支え、部屋の中へと運び入れた。ほとんど気を失っていた女を日の当たる側に横たえると、体は氷のように冷たくなっていた。「このままでは大事になる」と、岩太郎は急いで炉に炭を起こし、古い夜着を女の体にかけ、手足を丁寧に摩ってやった。
女は低く呻いて目を開き、岩太郎と目が合うなり驚いて身を縮めた。「驚かれるな。害するつもりはない」と、岩太郎が両手を見せて低く言うと、女はいくらか緊張を解いた。「ありがとうございます。もう死ぬものと思っておりました」と女が言う。「山道で迷われたのか」と岩太郎が問うと、「供の者とはぐれて、どれほど彷徨ったか分かりませぬ」と女は答えた。「この辺りの方ではないようだが」と重ねて尋ねると、「しばらく遠い道中の途中でございました。詳しい事情は、お尋ねくださいますな」と答えた。岩太郎は女の眼差しに何かを隠す気配を感じたが、それ以上は問わなかった。「今夜の事情がどうあれ、この体で今から動くのは無理でございましょう。まずは体を温めなさい」と言い、湯の入った碗を差し出した。女は両手で碗を包み込み、そっと口をつけた。その指先に、指輪が一つちらりと覗いた。岩太郎はそれを見ても見ぬふりをして、目をそらした。
この屋敷の定めでは、見知らぬ者を勝手に招き入れることは固く禁じられていた。露見すれば、己は元より、この女までも痛い目を見ることになるだろう。それでも岩太郎は、「今夜はここにおいでなさい。夜が明けたら、行き先を決めなされば良い」と言い、入口に座り込んだ。女がゆっくり休めるよう、自らは戸口で夜を明かすつもりだった。「なぜ、そこまでしてくださるのです」と女が問うと、「人が死にかけているのに、部屋一つ貸すのが何の大事でございましょう」と岩太郎は答えた。「この恩は、決して忘れません」と女が頭を下げると、「女どのは大げさだ。ただ体を温めて、ゆっくりお休みなさい」と岩太郎は言い、背を向けて座り直した。もし十門に露見すれば、いかなる罰を受けるか分からない。それでも岩太郎は後悔しなかった。「人が死にかけているのを見て、どうして戸を閉ざせようか」と呟きながら、岩太郎は炉の火を守り抜いたのである。
翌朝、女は足首をくじいていることが分かった。昨夜の雪道を彷徨ううちに痛めたものと見えた。このままでは歩くこともままならない。「ままよ」と、岩太郎は庵の隅の物置きに女を移した。人目を避けられるのは、あそこしかなかった。古い莚を敷き、夜具をかけてやり、「日が暮れたらまた参ります。それまで、声を出さずにおいでなさい」と言い残して、彼は仕事に出た。夕方、岩太郎は握り飯を懐に忍ばせて物置きへと向かった。「具合はいかがか」と戸を細く開けると、「だいぶ良くなりました」と女が言い、食べ物を受け取りながら、「こんな貴重なものを、私のために」と言った。「貴重も何も、ただの麦飯でございますよ」と岩太郎が答えると、「あなたにとっては、お貴重なものでございましょう」と女は返し、物置きの中を見回した。「この部屋は、随分きちんとお暮らしなのですね」「何も持たぬゆえ、片付けることもございません」と岩太郎は答えた。狭い部屋の隅々まで、几帳面に整えられた暮らしぶりが伺えた。「それでも、この古い上着は大事にかけておいでですね」と女が壁の上着を指すと、岩太郎は言葉を失った。「それは、拙者の親が残した唯一の品でございます。捨てられずにおります」「ご両親は、いかがなさったのですか」「家事で、物心つかない頃に亡くなったと聞いております。詳しいことは、覚えておりません」と答えた。女の眼差しが一瞬深くなり、「そのような痛みをお持ちだったのですね」と言われたが、岩太郎は「今更、痛むこともございません。遠い昔のことでございます」と淡々と答えた。
その翌日も、岩太郎は変わらず、仕事の合間を縫って物置きに通った。日中は主の目を欺きながら平静を装い、夜になるとそっと足を忍ばせて女の様子を伺う。そのような日々が幾日も続いた。女の足の腫れは目に見えて引いていったが、それでもまだ完治には至らず、岩太郎は密かに、いつか終わるであろうこの奇妙な日々への名残りを感じている自分に気づいていた。誰かのために飯を分け、誰かの体を気遣う。そのようなことは、岩太郎にとって生まれて初めての経験だった。「あなたは、良いお方でございますね」と女が言うと、岩太郎は照れ臭そうに頭を掻いて、「それは買い被りでございます。拙者は、ただ人が死にかけているのを見過ごせなかっただけでございます」と答えた。女はそれ以上何も言わず、ただ静かに岩太郎を見つめていた。その眼差しには、思いがけぬ温もりと、何かを見定めるような複雑な色が入り混じっていた。
六日ほど経った夜、岩太郎が火の入った案を持って物置きを訪れると、女の顔にはいくらか血色が戻っていた。「足は、いかがか」と問うと、「だいぶ良くなりました。あと一日二日休めば、歩けそうでございます」と女は答えた。「それは何よりでございます。体が癒えねば、どこへ行くにも危のうございますから」と岩太郎が言うと、女は粥を一口すすりながら岩太郎を見つめ、「私が立ちましたら、またお会いできる日はございましょうか」と尋ねた。岩太郎は一瞬言葉を止め、「さあ。身分が違えば、再びお目にかかることもございますまい」と答えると、「身分が違っても、人と人との縁というものはございましょう」と女が言った。岩太郎は苦笑して、「耳に心地よい言葉でございますが、世の中はそうたやすくは参りますまい」と返した。女はそれ以上何も言わず、粥を静かに飲み干した。岩太郎は知る由もなかったが、それはこの女が己の正体を明かすか否かを巡る、最後の瞬きだった。
また別の折、岩太郎は物置きに食事を運んだ際、ふと女の物言いに目を止めた。粗末な握り飯を口にする様にも、どこか品のようなものが漂っていた。言葉遣いも、この村の百姓の女房や娘とはまるで違い、書物でも読んだかのような整った物言いだった。「あなた様は、一体どのようなお家にお生まれになったのでございますか」と岩太郎が思わず尋ねると、女は一瞬言葉に詰まり、「しばらくは、お答えできません」と静かに答え、「ただ、いずれ機会があれば、必ずお伝えいたします」と続けた。その声には、何か固い決意のようなものが滲んでいた。岩太郎はそれ以上問い詰めることはせず、「左様でございますか。では、無理にお尋ねはいたしません」と引き下がった。
ある夜、女はふと岩太郎に尋ねた。「この辺りの暮らしは、いかがなものか。なぜ、岩太郎ほどの者が、何ひとつ不自由なく過ごせるというのに、他人の家の厄介にいるのか」と。岩太郎はしばし言葉をためらった。あえて女に言うことになりはせぬかと案じたのである。それでも問われるままに、少しずつ語り始めた。今年は不作で、年老いた小作人が年貢の猶予を願い出て断られたこと。田畑を質に入れて手放す者が村に増えていること。そして、この家に長く奉公していても、扶持を上げてくれとは口が裂けても言えぬことを、ありのままに語った。「この村では、腹をすかせた者が真っ先に頭を下げねばならぬ。頭を下げても、聞き届けられるとは限らぬのでございます」と岩太郎が続けると、女は膝の上で手を静かに組み直し、「それは、辛いことでございますね」とだけ答えた。「例が取れねば人はまず腹を満たさねばならぬのに、年貢だけは待ってくれぬものでございます」と言うと、女はしばらく黙って聞いていたが、それ以上は何も言葉を返さなかった。ただその眼差しには、何かを深く胸に刻みつけているような、静かな色が宿っていた。
岩太郎はその時、この女がただの旅人ではないのかもしれぬと、ぼんやり思い始めていた。「人にはそれぞれ生まれ持った器があると申しますが、私はそうは思いません。器は生まれつき定まるものではなく、生きながら自ら満たしていくものだと信じております」と女が別の折にぽつりと漏らしたことも、岩太郎の耳に残っていた。その時岩太郎は苦笑いを浮かべて、「では、拙者のような身の上でも、いつかは何かを満たせるものでございましょうか」と問い返した。女はしばし黙り込んでから、「生きて叶えたいことが終わりならば」と静かに問い返した。岩太郎はしばし考え込んだ。「この身の上に、大きな望みなど元々抱いたことはございません。ただ日々腹をすかせず、誰にも後ろ指を刺されずに生きられれば、それで十分でございます」と答えると、「それだけか」と女は問い返した。「それだけでございます。欲を出しても仇になるゆえ、初めから望まぬ方が楽にございます」と岩太郎が言うと、女はその返事に何やら難しい表情を浮かべ、それ以上は何も申さなかった。
その頃、村の噂話の中で、年貢の調査をする者がこの辺りを歩いているという話が広まっていた。「お役所から人が来ておるらしい」「うちの村の年貢も、どこかおかしいのでは」という声が、井戸端でひそひそと交わされていた。それを耳にした十門は、書斎に一人こもり、「十八年前のことまで、掘り返されるはずはない」と低く呟いた。その言葉の意味を知る者は、屋敷のうちに誰もいなかった。数日のうちに、十門は妙なことに気づき始めた。台所の飯が二度三度と静かに減っていること。物置きの裏手に、炭の燃え殻が落ちていたこと。ある晩、十門は寝付けぬまま書斎を出て庭を一巡りしてみることにした。月明かりも乏しい夜だったが、物置きの隙間からかすかに炭の匂いが漏れているのに気づいた。「誰かがあの物置きに出入りしておるな」と眉を潜め、戸に手をかけようとしたが、ちょうどその時裏手で物音がして、慌てて身を隠した。息を殺してしばらく様子を伺ったが、それきり物音は闇に消えた。翌朝、十門は岩太郎に「近頃、お主の働きがいつもと違うようだが、何かあるのか」と問うた。岩太郎は「冬支度で薪を蓄えております」とだけ答え、それ以上は追求されなかった。それでも十門の心には、拭い切れぬ胸騒ぎが芽生え始めていた。
翌朝、風村の外れが騒然とした。馬に乗った一団が村へなだれ込んできたのである。「この辺りで、若い女を一人見なかったか」と、槍を持った侍達が声を張り上げた。「着物は空色。足を痛めているやもしれぬ」と。村人たちは驚いて騒ぎ立ち、「お役所からの方々か」と囁き合い、「いや、見るにただの者ではあるまい。あの馬の毛並み一つとっても、並みの家来のものとは思えぬ。迂闊な口出しは慎しめ」と言い合った。十門は庭先に出て一団を迎え、「何故、このような在所まで起こしか」と平静を装って尋ねると、侍は鋭い目つきで十門を見回した。「この辺りで人を一人見失った。見知らぬ女を見かけなかったか」と問われ、「さあ。では、そのような者は見た覚えがございませぬが」と答える十門の声は、かすかに震えていた。
岩太郎はこの隙に女を裏庭から逃がそうと、物置きへ向かい、女を支えながら崩れた低い塀の方へと導いた。まだ調子の戻らぬ足を庇うようにして這いながら、塀を越えさせようとしたその時、庭の向こうから足音が近づいてきた。岩太郎はとっさに女を塀の影に押し込み、何食わぬ顔で薪を拾い上げた。通りかかったのは下働きの一人だった。「こんなところで、何をしておる」と問われ、「薪が足りぬようで、拾っておりました」と平静を装って答えると、下働きはそれ以上気に止めず立ち去っていった。岩太郎は心臓が早鐘のように打つのを感じながら女を助け起こし、「あの見える竹林の方へお行きなさい」と導いた。「誠にありがとうございます。この恩は、決して忘れません」と女が指輪を差し出そうとしたが、「いや、そのようなものを受け取る謂われはございません」と岩太郎は手を振って断った。「お名前は何と申しますか」と問われ、「岩太郎。ただの岩太郎でございます」と答えると、女は足を引きずりながら竹林の方へと去っていった。
ほどなくして、竹林の方から「見つけたぞ。ここにいらっしゃるのだ」と侍の声が響き渡った。「ご無事でございましたか」という叫びに、庭にいる者全てが色めき立った。「大御前様とは」という叫びに、十門の顔がまたたく間に青ざめた。まさかと信じられぬ様子で竹林の方を見つめる十門の傍らで、岩太郎もその言葉に全身が凍りついた。「大御前様とは。それでは、あの女は」と岩太郎は言葉を失った。この数日、飯を分け、宿を貸したあの女が、他でもないこの地を治めるお殿様の大御前だったとは、にわかには信じられなかった。遠くで侍が大御前様を支えて駕籠に乗せる様子が見えた。大御前様は乗る間際、一瞬振り返って里の方を見つめた。「この数日の御恩は、忘れませぬ」と、その口から静かな声が漏れ、その視線は岩太郎の立つあたりにしばし留まってから、霧の中へと消えていった。岩太郎はただその場に立ち尽くし、深く頭を下げることしかできなかった。
十門はその光景を目にしながら、足の力が抜けるようにしてよろめいた。「あの方が大御前様であったなら」と呟いた。翌日、十門は屋敷の者から、「大御前様は、この数日間、他の誰とも合わず、ただ下男の岩太郎とばかり言葉を交わしておられたようだ」という話を聞いた。十門の頭に、恐ろしい考えが浮かんだ。「あの下男の野郎め。屋敷の年貢の取り立てのことを、大御前様に洗いざらい話したに違いない。あいつは日頃から、この家の内情に薄う感づいておったやもしれぬ」と、そう思い込むと、十門の胸には次から次へと悪い考えが湧いてきた。「もしこのまま捨てておけば、いずれお役所の調べが入るは必定。そうなれば、この十八年。いや、それよりずっと前から積み上げてきたものが、全て水の泡になる」と。そう思い込んだ十門は、万造を書斎の奥深くに呼び入れ、戸を固く閉ざした。「あの者が生きて口を利けば、それこそ大きな災いの元になる。あの者の言うことを、誰も信じぬようにせねばならぬ」と十門は言った。「それは、どういうことでございますか」と万造が問うと、「岩太郎が盗みを働いたということにすれば、あの者のことなど、誰も信じまい」と十門は言った。「旦那様。それは、無実の罪を着せろということでございますか」と万造が問い返すと、「この家が潰れるか潰れぬかの瀬戸際なのだ。お前も、この家が潰れれば行く当てがないことを、よく承知しておろう」と十門は言った。「しかし、岩太郎はこの屋敷で誰よりも真面目に働いてきた者でございます」と万造が言うと、「今はそれを論じている場合ではない。お前ができぬと申すなら、他の者にやらせるまでだ」と、十門の眼差しが冷たく沈んだ。万造は言葉を返せず、頭を垂れた。「蔵の鍵を一つ、あの者の部屋にそっと忍ばせておけ。そして、昨日蔵から米が一俵減っていたと言いふらしておけ」と命じられ、「承知いたしました」と、万造の声は震えていた。心の内では死ぬほど痛いと思いながらも、十門の眼差しの前では、その勇気が出なかった。
その夜、万造は己の部屋で一人、鍵を握りしめたまま幾度も迷った。一晩のうちに川でもに投げ込んでしまおうか。いや、そうすれば旦那様は他の誰かに同じ役目を命じるだけだ。それならば、せめて己の手で事を納め、これ以上事が大きくならぬようにするしかあるまい。万造は己に言い聞かせるように呟いた。しかし、どれほど言葉を並べても、無実の者を落とし入れるという行いの重さは、万造の胸から片時も離れなかった。夜が明けるまで、万造は鍵を握ったまま、ただ暗闇を見つめていた。
翌朝、十門は岩太郎を庭へ呼びつけた。庭のあちこちに人が集まり、「あの者がやってくるぞ。静かにせよ」という声が交わされた。岩太郎は妙な気配を感じて足を止めたが、誰も理由を答えない。台所を預かる年配の女中でさえ、いつもは気さくに声をかけてくるのに、その日ばかりは目を伏せて、足早に通り過ぎていった。「お主、昨夜、蔵から米を持ち出したという話があるが、誠か」と問われ、岩太郎は呆れた顔で「拙者は、そのようなことは一切いたしておりませぬ」と答えた。「しておらぬだと。では、これは何だ」と十門が手を挙げると、万造が蔵の鍵を一つ手にして庭に進み出た。その足取りはひどく重く、万造は岩太郎と目を合わせられぬまま、視線を落としたままだった。「この鍵が、お主の部屋から出てきたそうだ。米蔵の鍵は、拙者と万造だけが持っているものだが」と問われ、岩太郎は一瞬言葉を失った。「拙者は、そのようなものを持った覚えはございません」「偽りを申すな。昨日、蔵から米が一俵減っていたのを確かめたぞ」と十門は言った。周りに集まった者たちが囁き始めた。「岩太郎が盗みを」「まさか」「そういえば、近頃どうも怪しかった。物置きの方をよく覗いていた」という声も上がり、岩太郎はその囁きに全身が震えた。「旦那様、拙者は本当に潔白でございます。濡れ衣でございます」と訴えても、十門は聞く耳を持たなかった。
屈強な男が三人、岩太郎を取り囲み、「この者を縛れ。大破所に引き渡す」と命じられた。男たちが岩太郎の腕を捉えようとすると、岩太郎は思わずその手を振り払い、三人が呆気なく吹き飛ばされた。「おい、あの力を見ろ。このままでは人を殺めかねぬぞ」と悲鳴のような声が上がり、集まっていた村人たちは後ずさりして遠巻きに眺めるばかりだった。十門の顔には恐れと怒りが同時によぎった。「あの者、力で逆らおうとしておる。油断するな」と十門が声を張り上げると、岩太郎はそこでようやく我に返り、手を下ろした。「申し訳ございません。傷つけるつもりはございませんでした」と言い、素直に両手を差し出した。力で逃げることもできたが、そうすれば却って己れが凶悪な者として扱われることを、彼は知っていた。
男たちは岩太郎の庵に乱入し、粗々しく畳をひっくり返し、床を突き崩し、壁にかけてあった上衣を手荒く引きずり下ろした。「これは何だ。この古い上着は」と一人の男が壁の上着を見つけて掴み取った。岩太郎の顔からさっと血の気が引いた。「それだけは、それだけはお赦しくださいますな」と岩太郎が慌てて叫んだが、男は取り合わずに上着をあちこち探り、「中に盗んだ品でも隠しておらぬか」と確かめた。「何もないな」と男は面白くもなさそうに上着を投げ捨てた。ちょうどそこに火のついた火鉢が置いてあった。上着は火鉢の上に落ち、たちまち火が回った。岩太郎は絶叫して身をよじったが、縛られた体では何もできなかった。親の唯一の形見が、目の前で灰になっていくのを、岩太郎はただ見ている他なかった。「これも随分大事にしていたものだな」と男は投げやりに呟き、燃え尽きたそれを足で払いのけた。岩太郎は膝をついたまま崩れ落ちた。その目から涙が止めどなく流れ落ちた。母上、父上――その一瞬だけは、いかなる力を持ってしても抗えぬ力が、岩太郎を押し潰していた。身の形見も、これまで守り抜いた矜持も、全てが一度に崩れ落ちる瞬間だった。
万造はその光景を遠く離れた場所から見つめながら、目を合わせることができなかった。己が十門にこの行いを止められなかったことへの自責の念が、その胸を締め付けていた。「己は、己は何ということをしてしまったのか」と低く唸りながら顔を背けた。岩太郎はそのまま大破所へと引き立てられ、牢へと押し込まれた。牢の外には、相変わらず雪が降っていた。「明日の朝には大破所を立ち、遠くへ送られるだろう」と牢番の囁く声が聞こえ、岩太郎の胸に焦りが走った。夜が開ければ、もはや取り返しがつかぬかもしれない。あと一晩、この牢を出られねば、真実を明らかにする機会そのものが失われてしまうのだ。岩太郎は冷たい壁にもたれながら、幾度もそう思った。
岩太郎は膝を抱えて蹲った。生まれてこの方、初めて己のこの大きな力が何の役にも立たないと感じる瞬間だった。遠くから牢番たちの囁きが聞こえてきた。「あの力自慢の男が盗みとは。飛んだ食わせ物だ」「全くのことだ。時期に裁きも下るだろう」と交わされる声を、岩太郎は目を固く閉じたまま聞いていた。風村の空には、再び雪が舞い始めていた。その雪は、幾日か前に大御前様をこの村へ導いた雪と似ていたが、今度はそれを喜ぶ者は誰もいなかった。
ふと、昼間に出会った僧の言葉が思い出された。「元々、施した飯一膳も、天の帳面には大きく記されるものよ」。岩太郎は苦い笑いを浮かべた。「御坊。その帳面には、このようなことも記されるのでございますか。人を助けたとて、こうして牢に繋がれることも」と。苦い呟きは虚しく響き渡り、そのまま消えていった。その瞬間、彼は歌うような浅い眠りに落ちかけた。そして、おぼろげな記憶が一つ蘇った。炎だった。焼けつくような熱気と、蒸せ返える煙。そして、誰かが自分を力強く抱きしめていた。「逃げよう。何としても生き延びよ」という、切迫した声が耳元に響く。岩太郎は目を覚ました。牢の中は相変わらず暗く、静まり返っていた。「今のは、一体何の記憶だったのか」と、岩太郎は震える手で左肩を撫でた。火傷の跡が、ほのかに熱く感じられた。初めて、己の生い立ちと、あの日の家事が、単なる災難ではなかったのかもしれぬという思いがよぎった。「逃げよとは。それでは、あの日、誰かが己れを外へ逃がしたということか」と、岩太郎は混乱した心のまま膝を抱え込んだ。これまでの身の上を、ただの定めとして受け止めることすら、諦めていた。しかし、あのおぼろげな記憶の中の声は、何か別のことを語りかけているようだった。人に飯を分けたことも、見知らぬ女に宿を貸したことも、つまりは己が持つものを分かち合った行いだった。その報いとして今、牢に繋がれている。しかし、岩太郎はふと気づいた。後悔はない。それだけは確かだと、岩太郎はそう呟きながら顔を上げた。窓の外はまだ暗く、夜明けの裁きまでには、今しばらくの時が残されていた。
一方、その頃、屋敷へ戻った大御前様は、岩太郎が盗みの咎で大破所へ連れて行かれたと聞き、顔を曇らせた。「この者が私を庇ったがために、濡れ衣を着せられたということか」と言い、傍らにいた侍が「大御前様がその場にお泊まりであったことが知れた直後に起きたことでございます。どうにも怪しい筋がございます」と答えた。「命の恩人を、あのように貶しめるとは。このまま捨て置くわけにはいかぬ」と大御前様は言った。「いかがなさいましょうか」と侍が問うと、しばし考え込んでから懐に手を入れた。「これは、かつて将軍より万が一の際には持てと託されていた、かなめの書き付けでございます。私自らが赴くわけには参らぬが、これがあれば、奉行も動かぬわけにはいくまい」と大御前様は言い、その書き付けを静かに取り出した。「この書き付けを使う日が来ようとは、微塵も思うておられなんだであろうが」と独り言ちながら、「今すぐこれを持って奉行所の元へ参れ。部の帳簿を改めて調べさせ、あの下僕の件も洗いざらい調べさせよ。必ずや、何か大きな罪を隠す根底に違いない」と命じた。侍は躬身して頭を下げ、夜のうちに発った。
「岩太郎よ。今しばらく耐えてくれ。必ずや、私がそなたの無実を晴らして見せる故え」と、大御前様は一人、窓の外の雪を眺めながら誓うように呟いた。
牢の小さな窓の隙間から、かすかな夜明けの光が差し込んできた。その時、外で慌ただしい足音と共に騒ぎが起こった。「大御前様の御遣いである。門を開けよ」という大声が響き渡り、牢屋全体がざわめいた。牢番たちが慌てて駆け出し、松明を手に慌ただしく走り回る足音が、牢の奥にいる岩太郎の耳にも届いてきた。大官が慌てて礼を取ると、侍は帰趨を示しながら、「その罪が真偽かどうかは、奉行様のお調べにて明らかになろう。今すぐ、牢より出されよ」と命じた。大官はそれ以上、何も言えなかった。戸が開かれ、岩太郎は戸惑いながら外に出た。夜明けの冷たい風が頬を撫で、久しぶりに見る外の景色に、岩太郎はしばし言葉を失った。侍が近づいて丁寧に頭を下げ、「そなたは、大御前様の御恩人でございます。これより風村へ参り、真実を明らかにいたす。そなたも、共に参られよ」と言われ、岩太郎は頷いた。牢から出てまだ間もない身だったが、真実を明らかにするというその言葉に、改めて力が湧いてきた。
西風村へ向かう道すがら、侍は岩太郎にこれまでの経緯を語って聞かせた。「大御前様は、将軍の御許しを得て、この一体の年貢の不正の噂を確かめるべく、密かに巡検においでになったのでございます。ところが、吹雪の中で道を見失われ、そなたの手助けによって、命を拾われたのでございます」と侍が言うと、「それでは、大御前様がお泊まりになった間、拙者が語ったあの村の暮らしの話も、無駄ではなかったということですか」と岩太郎が問い返した。「無駄どころか、大御前様はそなたの言葉を胸に刻んでおいででございました。無実の者を盗人に仕立てたその行いこそが、倉田の焦りを露わにした証でございましょう」と侍は答えた。岩太郎はその言葉を聞いて、微苦笑した。「拙者を盗人に仕立てたことが、却ってあの者の破滅を掘り起こす結果になったということでございますね」「左様でございます。天というものは、誠に巡り合わせの妙をお持ちのようです」と侍は答えた。
風村に着くと、すでに奉行の手の者が倉田屋敷を取り囲み、固められていた。十門は庭に引き据えられた。奉行はまず、岩太郎が盗みを働いたとされる件から調べを始めた。震えながら前に進み出た万造は、幾度も言葉に詰まりながらも、ようやく口を開いた。「それがしは、それがしは、知りながら黙っておりました。岩太郎は、誠に何もしておりませぬ。あの鍵は、あの鍵は、それがしが旦那様に命じられ、岩太郎の部屋に密かに忍ばせたものでございます」と、万造は鍵を岩太郎の部屋に忍ばせたこと、十門が罪を着せよと命じたことを、洗いざらい白状した。これにて、岩太郎の盗みの疑いはまず晴れることとなった。
次に奉行は、年貢の帳簿を改めさせた。倉田の表帳簿と、村の組頭が別に控えていた裏の控えとを付き合わせると、いくつもの年に食い違いがあることが分かった。諸役が両方の帳面を並べ、一つ一つ数を読み上げながら照らし合わせていくと、その差は次第に誰の目にも明らかになっていった。呼び出された村人たちが、一人また一人と進み出て、己が実際に納めた米の数を口々に証言した。「それがしは去年三十俵を納めましたが、帳簿には三十五俵と記されております」とある百姓が声を震わせて申し出ると、「それがしの家も同じでございます。四俵は水増しされておりました」と別の者が続いた。傍らで見ていた、あの年貢の猶予を願い出て断られた年寄りも、震える声で進み出た。「それがしは、おりしもの不作に、半分の猶予すら許されず、泣く泣く年貢を全て収めましたが、帳簿にはさらに多くを収めたことになっておりました」と申し出ると、庭に集まった村人たちの間に、抑えきれぬ怒号が広がった。証言が一つ、また一つと積み重なるごとに、表帳簿に記された数と、村人たちの記憶に残る実際の数との差が、次第に明らかになっていった。長年に渡り、帳簿の上でだけ年貢が水増しされ、その差額が倉田の懐に流れ込んでいたのである。これが、第二の罪だった。
さらに、別の村人が進み出て、十門にまつわる別の話を語り始めた。「それがしの父も、かつて年貢が払えず、田を手放したことがございます。あのように、帳簿を盾に取られ、何も言い返せませんでした」と。ある中年の百姓が声を震わせて申し出ると、「それがしの家も同じでございます。村中に、このような泣き寝入りをした者が、どれほどおりましょうか」と別の者が続けた。庭に集まった村人たちの間に、これまで誰にも言えずにいた鬱憤が、堰を切ったように広がっていった。奉行はそれらの証言を一つ一つ書き留めさせ、「いずれも追って詳しく調べる。この場では逃さぬかに申し渡す」と言った。
そこで万造が、震える声でさらに申し出た。「それがしの父・左兵衛は、生前この家の万造を務めておりましたが、亡くなる間際に、『あの子の名を消したのはわしだ。あの家事は、誠に不憫なことであったのか』と、上念仏のように繰り返しておりました。それがしには、その意味が分かりませんでしたが、今思えば、書斎の奥に旦那様が長らく隠しておいでの木箱と、何か関わりがあるのではと存じます」と、万造は続けた。「木箱とは、いかなることか」と奉行が鋭く問うと、「以前一度、旦那様がその箱を、一目を忍ぶようにして扱う手の姿を見たことがございます。中身までは存じませぬ」と万造は答えた。奉行の命を受けた者たちが書斎の押し入れを改め、床下の隠し場所から、ようやく木箱を運び出してきた。箱にはしっかりと錠が下ろされており、鍵はどこにあるかと問われても、十門は口を固く閉ざしたまま答えようとしなかった。やむなく錠を叩き壊して開けさせると、まず出てきたのは、古い年貢の下書きらしき書面だった。「これだけでは、何のことか分かりかねる」と奉行が眉を潜めると、傍らで下働きをしていた年配の女中が、恐る恐る進み出てもうし上げた。「その帳面の筆跡には、見覚えがございます。亡くなった左兵衛様が書かれたものに違いございません」と。「それがしも幼い頃、左兵衛様が膳番を引きながら、この毛筆で書き物をなさる姿を、幾度も見た覚えがございます」と万造も傍らから付け加えた。この証言により、書面が十八年前のものであることが、まず確かめられた。
さらに箱の底からは、割れた位牌のかけらと、もう一枚、村の百代の印が押された書面が出てきた。この書面を奉行がまず読み上げると、そこには十八年前、当時この村の百代を務めていた善介という者が、年貢の水増しを見つけ、その差額を書き留めた上で、これを矢安筋に訴え出る旨が記されていた。「この善介という者に、お心当たりはございますか」と問われ、庭の隅に控えていたあの幸兵衛が、はっとした様子で進み出た。「そういえば、十八年前、善殿の家は、ある夜の家事で焼け落ち、夫婦は亡くなり、幼い子は行方知れずになったはずだ」と申した。「あの家事も、この十門殿の家の火の不始末だと届け出ておいでだったが」と。そして、そこにいた岩太郎の左肩の火傷の跡に目をやり、はっとした顔をした。「ああ、これでようやく分かった。あの折り、見た子の傷と、どこかに似ておると思うておったのだ。あの時はまさかと思うて口にせなんだが、今思えば間違いなかろう」と、幸兵衛は震える声で申した。庭に集まった村人たちの間に、深い沈黙が広がった。
奉行は「それだけでは断じられぬ」と、さらに村の人別帳の古い控えを取り寄せさせた。すると、火事のあった直後、確かに善一家の名が人別帳から抹消され、そのわずか数日後に、同じ田畑が倉田の名義として新たに書き加えられていたことが分かった。「これほど手回しよくことが運ばれたのは、あらかじめ仕組まれておった証であろう」と奉行は言った。しかし、その書き換えを正式なものとするためには、善介自身が生前に記した田の書面が必要であり、それ故、十門はこの書面を焼き捨てることができず、十八年の間、密かに木箱の奥深くに隠し持たねばならなかったのである。己の罪を守るために手放せなかったその書面こそが、今の罪を暴く証となったのだった。
しかし奉行は、「これだけでは家事そのものが十門の仕業と断じられぬ。資料のみでは人を裁けぬ」と厳しく申した。その時、奉行の手の者が木箱の底から、もう一枚、左兵衛の筆跡と思しき小さな紙片を見つけ出した。震える手でそれを広げると、そこには短く、「あの夜、旦那様は一人で出かけられ、麝香の匂いをまとうて戻られた。翌朝、商家の女を連れておいでで、その日のうちに、善殿の一家を人別帳より消せと命じられた」と記されていた。「この筆跡もまた、亡き左兵衛のものに違いございません」と先の女中が、涙ながらに確かめた。それでも十門は、「年貢の件は認めよう。しかし家事については、わしは何も知らぬ」と、なおも言い張った。奉行が、左兵衛の記した紙片を静かに読み上げると、十門は口を開きかけたまま、それきり言葉を失い、深く俯いたまま黙り込んだ。木箱に刻まれたような日付。書き換えられた人別帳。左兵衛の残した紙片。女中の証言による筆跡の確認。そして幸兵衛の記憶。これら一つ一つが積み重なり、岩太郎こそが善介の忘れ形見であることが、ようやく確かめられた。
岩太郎は、震える手で自分の肩を撫でた。牢の中で見た夢。逃げよという声が、また耳元に蘇ってきた。「父上。あの日は、逃げようとして」と、岩太郎は言葉を継げず、その場に膝をついた。涙が止めどなく流れ落ちた。長らく霧の向こうにあった父母の姿が、ようやく輪郭を持ち始めたような、そんな心地だった。「この十八年。拙者は何も知らぬまま、父母の仇であるこの者の下で働き続けてきたのか」と、岩太郎の胸のうちに、悲しみとも怒りともつかぬ、言葉にならぬ思いが溢れてきた。あの雪の日、あの物置きで分けた粥も、あの数日の問答も、全てがこの者の屋根の下で行われてきたことだったのだと思うと、岩太郎はしばし言葉を失い、ただ顔を伏せるばかりだった。
十門はその光景を見て、顔が真っ白に染まった。「そのようなはずはない」と繰り返す十門に、奉行は静かに言い放った。「その方が十八年守り抜いてきた、その書面こそが、その方の罪を明かしておるのだ」と。十門は、その場に力なく座り込んだ。あの夜の炎の中から幼子を連れ出したのは、十門自身だった。村の者に見られていたがゆえに殺すこともできず、また幼子が何も覚えておらぬ様子であったため、「これなら外はあるまい」と、身寄りのない子として届け出て、そのまま己の下僕として使い続けたのである。父の罪を奪うだけでは飽きたらず、その子までも十八年に渡り働かせ続けたその所業に、村人たちは声もなかった。あの幸兵衛も、あの女中も、あの一緒に働いてきた下男たちも、皆一様に息を飲み、誰一人として言葉を発することができなかった。
数日後、大破所の沙汰にて、正式な取り調べが行われた。風村の人々が庭に集まった。誰もが固唾を飲んで見守る中、奉行が判決を読み上げた。「倉田十門。十八年前、無実の者を火難に見せかけて手にかけた罪。人別帳を書き換え、その罪を奪い、その子が真相を知らせぬまま使役した罪。長きに渡り年貢を横領し、民を苦しめた罪。無実の者を盗人に仕立てて、虚偽の訴えを行った罪。これほどの罪の重さに、死をもって償わせるものとする」と。十門は、その場で崩れ落ちた。何か弁明はあるかと問われても、十門はしばらく口を開くことができず、ただ頭を垂れたまま、顔を伏せていた。ややあって、絞り出すような声で、「全ては、この家を守りたい一心でございました」と呟いたが、その言葉に耳を傾ける者は、もはや誰一人いなかった。傍らで見守っていた村人たちが、どよめいた。「世に、そのような恐ろしいことが」「岩太郎は、あの者の恨みを受けた方の御息子であったとは」「誠に恐ろしい巡り合わせよう」「これまで気づかなんだとは、村中恥ずかしいことだ」と囁き合われた。
十門は引き立てられていく最中、最後に一度だけ岩太郎の方を振り返り、「己が、己が、そのような罪を」と言ったが、岩太郎は何も答えず、ただ静かな眼差しで見つめるのみだった。憎しみをぶつけることもできたはずのその瞬間、岩太郎の胸にあったのは、怒りよりもむしろ、長い霧がようやく晴れたような深い静けさだった。故郷を奪われ、名を奪われ、十八年もの歳月を奪われたその男を前にして、なお声を荒げることもなく立ち尽くす岩太郎の姿に、村人たちは却って畏怖した。十門はその眼差しを受け止めきれず、項垂れたまま連れて行かれた。その日以来、倉田の全財産は御上に召し上げられ、十門は間もなく、その罪を果たすこととなった。かつて風雲で十二を争う豪農だった男が、今や影もない罪人の身となって果てていく様を、村人たちは苦い顔で見送った。かつて岩太郎を牛のように扱い、陰で笑っていた下男たちの中にも、「我らは、あのお方の苦労を何も知らなかった。飯の分は働くから助かるなどと、軽々しく口にしていた己が恥ずかしい」と頭を垂れる者もいた。岩太郎はそうした者たちに、これ幸いと恨み言を申すこともなく、「あの頃のことよりも、拙者も己の身の上を恨むばかりで、他人を思いやる余裕もございませんでした」と、静かに答えるのみだった。
岩太郎は、その姓を取り戻した。かつて耕した百代の家柄の子として、亡き父の無実の死が満天下に明らかになったのである。新たな名主の手により、岩太郎の名は正しく人別帳に書き改められ、亡き父より受け継ぐべき田畑もまた、検地の上で岩太郎のものと定められた。大御前様は自ら岩太郎を召し出し、「そなたの恩と、これまでの苦しみを思えば、褒美一つでは足りぬであろう。望むものがあったら、何なりと申せ」と言われた。「苗字帯刀を許すことも叶おう。望むならば、この地の役目に取り立てることもできよう」と大御前様は続けた。周りに控えていた者たちも、これは異例の計らいであると固唾を飲んで、岩太郎の返答を待っていた。岩太郎はしばらく考え込んだ後、静かに首を振った。「大御前様。拙者は、そのような格式には馴染みませぬ。これまでずっと、この手で働いて生きてまいりました。今さら、人の上に立つような真似は、似合いませぬ」と答えると、「それでも、このまま元の苦しい暮らしに戻れとは、させぬ」と大御前様は言った。「拙者は、苦しい暮らしとは思っておりませぬ。この手で汗を流して働く暮らしの方が、むしろ心地よくございます」と岩太郎は答え、「ただ、父が残された田と一つと、静かに暮らせる小さな家が一つあれば、十分でございます」と続けた。大御前様は、そんな岩太郎をしばし見つめてから、ふと微笑んだ。「誠に、そなたらしい返事よ。承知した。そのように取り計らおう」と言い、岩太郎は深く頭を下げた。
岩太郎は風村の近くに小さな家を立てて根を下ろし、父が残した田を耕しながら、以前と変わらず真面目に一日一日を送っていった。ただ今は、その田が全て己のものであり、もはや誰の顔色を伺う必要もなかった。朝は自らの石で起き、己のために飯を炊き、日が傾けば己のために休む。そのような当たり前の暮らしが、岩太郎にはこの上なく尊く感じられた。時折、あの雪の夜、戸口を叩いた女の声を思い出すこともあったが、身分の違いを思えば、それも遠い夢のようなものと、胸の内にそっとしまい込んでいた。田の一画には、割れたままであった父母の位牌を新たに作り直し、小さな祠を立てて祭った。日には必ず花と水を供え、あの失われてしまった上着の代わりに、ささやかながらも心を込めた祈りを続けた。「父上、母上。ようやく、ここまで参りました」と、岩太郎は祠の前で幾度も呟いた。十八年の間、名字も知らぬまま過ごしてきたことを思えば、今こうして父母の眠る場所に手を合わせられることが、何にも勝る安らぎだった。
善介は罪を自ら白状し、実刑を組まれて牢に入れられましたが、十門の処刑後、恩赦により減刑されました。しかし、万造の座はもはやなく、彼は幾度も岩太郎の元を訪れては頭を下げました。「お主を、あのような目に合わせたのは、この拙者だ。どの面を下げて会えば良いものか」と言うと、「万造殿も、あの家に雇われた身で、仕方がなかったことでございます」と岩太郎は許した。しかし、その言葉をもって、万造は自らの行いの重さから解き放たれたわけではなかった。それからというもの、万造は岩太郎の小さな仕事を手伝いながら、静かに日々を送ったと伝えられている。畑に出るたび、万造は岩太郎の背にそっと頭を下げてから、鍬を手に取るのが習慣となった。その姿を見た村人たちは、「あの二人にしか分からぬ何かがあるのだろう」と、それ以上は詮索しなかった。年を重ねるごとに万造の足腰は弱っていったが、それでも彼は畦に座り込んで、岩太郎の働く姿を眺めるのを日課とし、いつまでも静かにその傍らにあり続けたのである。
田を取り戻してほどなく、あの年取った小作人が岩太郎の元を尋ねてきた。老人は杖をつきながら坂道をゆっくりと歩み、岩太郎の姿を見つけると深々と頭を下げた。かつて十門の前で膝をつき、すがりついても跳ねつけられたあの日のことを、老人はまだ忘れてはいなかった。「岩太郎様が後を継がれたと聞き、恐る恐る参上いたしました。今年もまた、不作の兆しがございます。年貢は、やはり満額を収めねばなりませぬか」と、老人は震える声で訪ねた。その様子は、あの雪の日、十門の前で膝をついていた姿とまるで変わらず、岩太郎の胸に苦いものが込み上げてきた。岩太郎は己の田を見渡してから、しばし黙り込み、やがて静かに答えた。「田は、一季待たせても枯れはせぬが、人は一季、腹をすかせては生きてゆけぬ。まずは食いを残し、残った分だけで良い」と。老人は目に涙を浮かべ、幾度も頭を下げて帰っていった。全ての年貢を許すというわけではなかったが、そこには十門の家には決してなかった、人への思いやりがあった。その噂はほどなく村中に広まり、「岩太郎様は力ばかりでなく、情けにおいても人に優るお方だ」と、誰もが口を揃えるようになった。
幾年か後、風村では岩太郎の物語が、いつまでも語り継がれた。春には田には若い苗が揺れ、秋には黄金色の稲穂が頭を垂れる。その度に村人たちは、あの雪の夜のことをふと思い出し、「岩太郎様の物語」を、また誰かに語って聞かせるのだった。何も持たぬ身でありながら、人に施すことを知った一人の男が、ついには天の計らいによって失われた名と根を取り戻し、さらには他人の暮らしをも守るようになったという物語として。ある日、風村を通りかかった老いた僧が、岩太郎の家の前で「施した飯一膳が、天の帳面には国をも救うほど大きく記されておったのだ」と呟いて去っていったという話も、合わせて語り伝えられている。それが本当にかつてのあの僧であったのか、確かめる術は誰にもなかった。ただその言葉だけは、風村の人々の胸にいつまでも温かく刻まれ続けた。
岩太郎自身も、夜、一人庭に佇んでは、かつて雪の中で聞いたあの言葉をふと思い出すことがあった。「施した飯一膳も、天の帳面には大きく記されるものよ」と。あの時、何気なく分けた一杯の飯が、巡り巡って己の名を、そして父母の無念をこの世に取り戻す糸口になろうとは、岩太郎自身、未だに信じ難い思いでいた。誰かに何かを分け与えるということは、決して損なことではなく、いつか自身へと帰ってくるものなのかもしれぬ。岩太郎は、静かな夜の田を眺めながら、幾度もそう思うのだった。



