スマホが震えて、元彦からの電話だった。「今日も帰りが遅くなるから夕食はいらない」いつも通りに答えて、電話を切ろうとした。でも、通話が終わらない。また切り忘れてるんだ。耳を澄ませた瞬間、聞こえてきたのは夫と見知らぬ女の会話だった。「妻は呼び枠だから」その一言が、35年の結婚をたった3文字で切り捨てた。花屋で15年働き、父が遺してくれた家を守り、家族のために生きてきた私。その家を「俺のもの」と豪…

スマホが震えて、元彦からの電話だった。「今日も帰りが遅くなるから夕食はいらない」いつも通りに答えて、電話を切ろうとした。でも、通話が終わらない。また切り忘れてるんだ。耳を澄ませた瞬間、聞こえてきたのは夫と見知らぬ女の会話だった。「妻は呼び枠だから」その一言が、35年の結婚をたった3文字で切り捨てた。花屋で15年働き、父が遺してくれた家を守り、家族のために生きてきた私。その家を「俺のもの」と豪...

スマートフォンが突然震え、画面を確認すると元彦からの電話だった。今日も帰りが遅くなるから夕食はいらない、と。分かったわ、と答えると、元彦はじゃあな、と言った。だが、通話が切れる音がしない。また切り忘れているのか。耳に押し当てて耳を澄ますと、案の定、元彦とみつ子の会話が聞こえてきた。私に聞かれているとは、1ミリも考えつかないようだ。

「妻は呼び枠だから。」

その言葉が焼き印のように脳裏に刻まれた。35年間連れ添った妻を、たった3文字で切り捨てた夫。怒りが津波のように押し寄せてきた。これまで感じていた悲しみや不安が一瞬にして灼熱の怒りへと変わり、体の芯から燃え上がるような感覚に包まれる。私は60年の人生で最も重い決断を下すことを決めた。

私の名前は福岡秋葉。今年で60歳になる。駅前の商店街にある花屋でパートとして働き始めて、もう15年が経った。朝8時に店に入り、まだ眠っている花たちに霧吹きで水をかけながら、今日も静かな一日が始まるのを感じている。花の水を変え、痛んだ花びらを一枚ずつ取り除き、花瓶の位置を微調整する。季節の花を仕入れ、アレンジメントを作り、お客様の笑顔を見届ける毎日は、私にとってかけがえのない時間だった。

結婚する前は中堅建設会社で経理事務として8年間働いていた。数字と向き合い、帳簿の一円の狂いも許さない几帳面さは、当時の上司にも評価されていた。決算期になると連日残業が続いたが、すべての数字がぴたりと合った瞬間の達成感は何にも代えがたいものだった。

けれど、夫の元彦と結婚してからは家庭に入ることを選んだ。子育てに追われる日々を過ごし、息子と娘が小学校に上がった頃から少しずつ自分の時間を持てるようになり、45歳の時にこの花屋と出会った。数字ばかりの世界から、色とりどりの花に囲まれた世界へ。人生の後半戦で見つけた、私だけの居場所だった。

花の仕事は経理と全く違うようでいて、実は似ている部分もある。花の状態を観察し、水の温度や切り口の角度を微調整し、最も美しく見える組み合わせを考える。どちらも細部に目を配り、全体のバランスを整えるという点では共通していた。

元彦は62歳で、中堅建設会社・丸全建設の営業部長を務めている。結婚して35年。息子の健太は32歳で独立し、都内のIT企業に勤めている。娘の美咲は29歳で結婚し、隣の県で夫と二人で暮らしていた。美咲のお腹には初めての赤ちゃんがいて、来年の春には祖母になる予定だ。

子供たちが育ってからは、夫婦二人きりの生活が続いている。5LDKの広い家に、二人だけの静かな暮らしが日常になっていた。

私たちが住んでいるのは、亡くなった父が残してくれた一軒家だ。父は生前、地元で小さな工務店を営んでおり、腕のいい大工として地域で信頼されていた。この家も父が自ら設計し、仲間の職人たちと1年かけて建てた思い入れのある建物だ。柱には檜の杉を使い、床板には樫の木材を選び、玄関の上がり框には栗の木を使った。職人としての美学が、家の隅々まで行き渡っている。

土地も建物も、父の遺言で私の名義になっている。元彦と結婚する際も、父は私の手を取って言った。「この家だけは秋葉のものだ。何があっても手放すな。お前を守ってくれる家だから。」

駅から徒歩10分、閑静な住宅街に立つ築40年の2階建て。庭には父が植えた梅と金木犀があり、季節ごとに美しい花を咲かせてくれる。梅雨時には紫陽花が青紫の大輪を広げ、秋になると金木犀が甘い香りを漂わせる。リビングの窓から見える庭の景色は、私にとって父のぬくもりそのものだった。

元彦はこの家に住み始めた当初こそ感謝の言葉を口にしていたが、年月が経つにつれ、まるで自分が建てた家のように振る舞うようになった。住宅ローンを払ったわけでもなく、固定資産税も私が花屋のパート代から捻出しているのに、友人や同僚が来ると「俺の城だ。好きに使ってくれ」と胸を張る。そんな姿に小さな違和感を覚えることもあったが、家族の輪を壊したくないという気持ちと、波風を立てることへの恐れが、私の口を塞いでいた。

ただ、ここ半年ほどで元彦の様子が少しずつ変わり始めていた。以前は休日になるとソファーでテレビを見ながらビールを飲むのが定番だったのに、最近は夜遅くに外食が増えている。スーツも新調し、美容院にも通い始め、不自然なほど身だしなみに気を使うようになった。洗面所には見慣れないブランドの化粧水が並び、クローゼットには派手な色のネクタイが増えている。夕食の時間に帰宅することが減り、得意先との付き合いだと言っては夜遅くに帰ってくる日が続いていた。帰宅すると、スーツから知らない香水の匂いが漂うことにも気づいていた。

「最近帰りが遅い日が多いわね。体は大丈夫?」
「営業部長ってのは付き合いが多いんだよ。お前には分からんだろうけどな。」

元彦はそう言って新聞に目を落とし、それ以上の会話を遮った。以前なら「ありがとう、心配してくれて」と返してくれたはずの言葉が、いつの間にか冷たく素っ気ないものに変わっていた。

数日後の夕方のことだった。花屋の閉店作業を終え、売れ残ったカーネーションの茎を切り揃えながら、私は元彦に電話をかけた。今晩の夕食のメニューを確認するためだ。

「ああ、今日は遅くなるから飯はいらない。」
「そう。鳥の唐揚げにしようと思っていたんだけど、明日にしましょうか。」

電話越しに元彦が鼻で笑う気配がした。「好きにしろ。明日も分からんけどな。」突き放すような口調に胸が痛んだが、もう慣れてしまった自分がいることが、余計に悲しかった。分かったわ、気をつけてね、と伝えて電話を切ろうとした。すると、通話時間を示す数字がまだカウントを続けている。元彦が電話を切り忘れたのだ。

まさにその瞬間、電話の向こうから聞き慣れない女性の声が耳に飛び込んできた。甘えるような、媚びるような声色。手先に冷たいものが走り、私は反射的にスマートフォンを耳に押し当てた。

「元彦さん、今夜はどこに行きましょうか? この前の青山のイタリアンも素敵だったけど、新しいフレンチも気になってるの。」
「そうだな。あそこのワインは確かにうまかった。みつ子が喜んでくれるならまた行くか。新しいフレンチも予約してみるよ。」
「嬉しい。元彦さんと一緒だと、何を食べても美味しく感じるわ。」

間違いない。元彦の声だ。今朝の食卓では一度も見せなかったような、柔らかく弾んだ声。若い頃に私に向けてくれていたのと同じ、いや、それ以上に甘やかな声色。そして、みつ子という名前。元彦は親しげにその名前を呼び、女性も元彦さんと甘い声で応じていた。

電話が切れた後も、私は花屋のカウンターに両手をついたまま、しばらく動けなかった。たった3分42秒の間に、35年間の結婚生活が音を立てて崩れ始めたのだ。

結局、元彦がこの夜帰宅したのは日付が変わった頃だった。翌日から私は何事もなかったかのように日常を過ごそうとした。朝6時に起きて味噌汁を作り、弁当を詰め、花屋に行き、帰宅して夕食を用意する。いつもと同じ手順、同じ動作。しかし頭の中では、あの声がエンドレスで再生され続けていた。

3日が過ぎても気持ちの整理がつかず、私は幼馴染みの沼田なでし子に連絡を取った。なでし子は駅の反対側で喫茶店「なでしこ庵」を営んでおり、小学校からの付き合いだ。彼女は私の声を聞いただけで異変を察してくれた。

喫茶店のカウンター席に座り、温かいカフェオレを両手で包むように持ちながら、私はあの夜の出来事を話した。言葉にするたびに喉の奥が締めつけられるように痛み、何度も言葉が途切れた。なでし子は一言も挟まず、黙って私の話に耳を傾けてくれた。

「それは辛かったわね。1人で抱え込んでいたの、3日間も。」
「でも、そのままじゃ何も変わらないわよ。」
「分かってる。でも、35年間一緒にいた人を疑うなんて。聞き間違いだったのかもしれない、ただの仕事の付き合いなのかもしれない、って思い込もうとしている自分がいるの。」

なでし子はカウンター越しに私の目をまっすぐ見つめた。「気持ちは分かるわ。でもね、疑うんじゃなくて、事実を確かめるのよ。あなたが聞いたことが本当なら、このまま何も知らないふりを続けても自分を傷つけるだけだわ。それに、もし聞き間違いなら、確かめることで安心できるでしょ。」

なでし子の言葉は、私の中に眠っていた何かを呼び覚ました。経理事務として8年間培った、数字の裏に隠された真実を読み解く力。取引先の不正な請求書を見抜き、帳簿の齟齬を見破ってきたあの目を、今度は元彦に向けることになるとは思ってもみなかった。

それから数日間、私は家の中で元彦の痕跡を注意深く観察し始めた。最初に気づいたのは、元彦のスーツのポケットに残されたレシートだった。毎週木曜日にクリーニングに出す前にポケットの中身を確認する習慣があった私は、そこに印字された店名と金額を見て息を飲んだ。青山の高級フレンチレストラン、ディナーコース2人分で3万8000円。ワインのペアリングが別途1万2000円。合計5万円。日付は先週の木曜日。元彦が得意先との付き合いだと言って出かけた夜と完全に一致していた。接待なら会社の経費で落とすはずなのに、個人のカードで支払っている。この矛盾に、経理の勘がピクリと反応した。

私は元彦が管理を任されていた家計用のカードとは別に、彼個人のカード明細が書斎に保管されていることを知っていた。元彦が出勤した後、書斎の引き出しを開け、過去半年分の明細を一枚ずつ丁寧に確認していった。そこに記録されていた数字は、私の予想をはるかに超えるものだった。毎月10万円以上がブランドショップ、高級レストラン、ホテルに消えている。表参道の女性向けアクセサリーショップで5万円。銀座の有名百貨店の化粧品売り場で3万円。品川のシティホテルで2万5000円。六本木のバーで一回に2万円以上使っている日も複数あった。

どれも私には買ってもらった覚えのない品々であり、元彦と二人で泊まった記憶のない場所ばかり。私の誕生日にはスーパーの花束一つすら買ってくれなかった男が、別の女にはブランドのアクセサリーを送っていたのだ。半年間の合計はおよそ80万円に達していた。月平均にすると13万円以上。私が花屋のパートで朝から夕方まで汗を流して稼ぐ手取りが月に12万円弱であることを考えると、元彦は私の一ヶ月分以上の給料を毎月、別の女のために湯水のごとく使い続けていたことになる。

さらに調べていくと、出費のパターンにも規則性があることに気づいた。高額な支出が集中するのは毎月の第2と第4木曜日。元彦が取引先との接待があると決まって言い訳する曜日と完全に一致している。接待なら経費精算があるはずだが、これらは全て個人で支払われていた。経理の目で見れば、これは明らかな証拠だ。

明細をスマートフォンで一枚ずつ撮影しながら、私は手がもう震えていないことに気づいた。代わりに腹の底から、静かな怒りが溶岩のようにゆっくりと湧き上がってくるのを感じていた。数字は嘘をつかない。帳簿と同じように、カードの明細は元彦の裏切りを克明に記録し、日付と金額という動かぬ証拠として突きつけてきたのだ。

私は証拠を整理し、日付順にファイリングした。支出の傾向を分析し、毎月の推移をグラフにまとめ、特に金額の多い日を赤で印をつける。ホテルの利用日と元彦の帰宅が遅くなる日の日付を照合すると、すべてが見事に一致していた。80万円という金額と、カード明細に刻まれた店名と日付が、元彦の不倫の動かぬ証拠として私の前に積み上がっている。私は次の行動に移る決意を固めた。ただし、元経理の矜持にかけて、着実に、確実に、真実の全容を掴んでから動くと心に誓った。

証拠を集め始めてから1週間が過ぎた頃、花屋に一人の客が訪れた。閉店間際の時間帯で、店内には私しかいなかった。外は小雨が降り始めており、アーケードの先をパラパラと叩く雨音が店内に響いている。

「すみません。まだ間に合いますか? 友人の開店祝いに華やかな花束をお願いしたいんですけど。」

聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには見覚えのある丸い目と、昔から変わらない快活な笑顔があった。高校時代の同級生、北村芙美だった。

「芙美ちゃん? 嘘でしょ? 北村芙美ちゃんよね。」
「あら、もしかして……あ、秋葉じゃないの? まさかこんなところで会えるなんて。全然変わってないじゃない? 相変わらず優しそうな顔して。」

私たちは高校を卒業して以来、年賀状のやり取りだけが細々と続いていた関係だった。最後に会ったのは確か25歳の時で、共通の友人の結婚式だったはずだ。35年ぶりの再会に、二人とも驚きと懐かしさで思わず手を取り合った。

彼女は現在、地元で「北村住宅」という不動産会社を経営しているという。40歳の時に夫を事故で突然亡くし、夫が残した小さな不動産仲介店を一人で引き継いだ。それから20年、地元密着の営業で信頼を積み重ね、今では社員5人を抱える会社に成長させた。その表情には、苦労を乗り越えた人間だけが持つ力強さと自信が宿っている。

私は開店祝いにふさわしいオレンジのバラと白いトルコキキョウを中心にした花束を作りながら近況を報告し合った。自然と自分の家庭のことも話していたが、元彦の不倫については触れなかった。それでも芙美は私の表情から何かを感じ取ったのか、完成した花束を受け取る際にそっと私の手に触れた。

「ねえ、なんだか元気がないように見えるけど、目の下にクマができてるわよ。何かあったの?」
「ええ、ちょっとね。でも大丈夫よ。年のせいかしら。」

精一杯の笑顔を作ったつもりだったが、芙美の目はごまかせなかった。花束を受け取る手を止め、芙美は真剣な表情で私の顔を覗き込んできた。

「昔から秋葉は、一人で抱え込んで限界まで我慢する癖があったでしょう。文化祭の準備で倒れた時もそうだったじゃない。何かあったら、いつでも連絡して。私は秋葉の味方だからね。これ、私の名刺よ。」

差し出された名刺には「北村住宅 代表取締役 北村芙美」とある。角が少し擦り切れた名刺は、何枚も配り歩いてきた営業の日々を物語っていた。不動産会社の経営者。その肩書きが、後に私の運命を大きく変えることになるとは、この時の私にはまだ想像もつかなかった。

それからさらに2週間が経った、ある木曜日の昼下がりのことだった。花屋の休憩時間に、私は元彦に電話をかけた。週末に美咲が遊びに来ることになっていたので、その確認をするためである。

「ああ、美咲が来るのか。分かった。」
「土曜日の昼過ぎよ。あなたも家にいてね。」
「ああ、善処する。」

善処するという言葉の軽さが引っかかった。娘が孫を連れてくるというのに、まるで取引先との予定を調整するような口ぶりだ。短い会話が終わり、私がスマートフォンをしまおうとした瞬間、また同じことが起きた。元彦が通話終了ボタンを押し忘れたのである。前回と同じように、電話の向こうから声が聞こえてきた。今度は前回よりもはっきりと。

「いやあ、週末は面倒だな。娘が来るらしいから、家にいないといけない。」
「えー、つまらない。じゃあ日曜日は開けてくれるんでしょう?」
「当たり前だろう。みつ子のためだからな。」
「もう、元彦さんたら。嬉しいこと言ってくれるわね。」

息を殺して聞き続ける私の耳に、元彦のさらなる言葉が容赦なく突き刺さった。

「みつ子が喜ぶなら何だってするさ。あの家だって、いずれ俺のものになるんだ。みつ子と一緒に住めるように、そろそろリフォームでもしようかと思ってるんだ。」

通話が途切れた後も、私は花屋のバックヤードで身動きが取れなかった。あの家は、父が命を削って建てた家だ。職人としての誇りをすべて注ぎ込み、仲間たちと1年かけて建て上げた、渾身の一軒。名義も固定資産税の支払いも、すべて私が一手に担ってきた。それなのに、俺のものだと宣言し、女と暮らすつもりでいる。

午後の営業を終え帰宅した後、私は書斎にこもり、この家に関する書類をすべて引っ張り出した。土地の登記簿抄本、建物の登記事項証明書、固定資産税の納税通知書、父の遺言書の写し。どの書類を見ても、所有者の欄には「福岡秋葉」の名前しか記載されていない。共有名義ではなく、完全な単独所有。父の遺言書には「土地及び建物の一切を長女秋葉に相続させる」と明記されていた。相続登記も20年前に完了しており、法的には一分の隙もない。35年間この家に住み、俺の城だと豪語してきた男は、法律上はここに住んでいるだけの、いわば居候に過ぎなかったのだ。

翌日、私は花屋の仕事が終わった後、芙美に電話をかけた。

「芙美ちゃん、少し相談に乗ってもらえないかしら? 不動産のことで聞きたいことがあるの。」
「もちろんよ。電話でもいいけど、うちの事務所に来ない? 明日の午後なら空いてるわ。」

翌日の午後、花屋の休みをもらって芙美の事務所を訪ねた。駅前のビルの3階にある北村住宅は、小ぎれいな事務所だが、壁には地域の物件情報がびっしりと貼られ、デスクの上には書類が積まれている。応接用のソファーに座り、芙美が入れてくれたほうじ茶を一口飲んでから、私はすべてを打ち明けた。夫の不倫のこと、電話で二度に渡って聞いてしまった会話の内容、そして家が自分の単独名義であること。話しながら何度か声が震えそうになったが、書類を見せながら事実を並べていくと、不思議と落ち着いていられた。数字と書類がある限り、私は崩れない。

芙美は最後まで黙って聞いた後、まっすぐに私の目を見つめた。「あなたの家は完全にあなたのものよ。単独名義で相続による取得。これは特有財産に当たるから、婚姻中に夫婦で購入した財産とは違って、離婚時の財産分与の対象にもならないわ。」
「ということは、私の判断だけで売却できるの?」
「法的には、あなた一人の署名と実印で売却できるわ。配偶者の同意は不要よ。そして、参考までに言うと、あなたの家がある地域は再開発計画の影響で地価が上がっているの。駅前にタワーマンションが立つ計画が発表されてから、周辺の住宅地の価格が3割近く上がっているわ。今ならかなりいい値段がつくと思う。」
「いくらくらい?」
「正確には査定してみないと分からないけど、土地だけで7000万円以上。お父様が建てた建物は築30年とは思えないほど状態がいいから、建物の価値も高く評価されるはず。合わせれば1億円前後になる可能性が高いわね。」

1億円。その金額を聞いて、私は静かに目を閉じた。しかし、その時、突然スマートフォンが震えた。画面を確認すると、元彦からの電話だった。私は芙美に断り廊下に出ると、通話ボタンを押した。

「もしもし。」
「今日も帰りは遅くなるから夕食はいらない。」

元彦はその一言を業務連絡のように告げる。またか、と思いながら「そう、分かったわ」と答えると、元彦は「じゃあな」と言ったが、通話が切れる音がしない。また切り忘れている。スマートフォンを耳に押し当て耳を澄ますと、案の定、元彦とみつ子の会話が聞こえてきた。

「これで今日も遅くまで一緒にいられるぞ。」
「やった。嬉しい。でも、いつまでもこれじゃ嫌。早く奥さんと別れて一緒に暮らしましょう。私、このままの関係じゃ嫌なの。何か遊ばれてるみたいで。」
「そんなこと言うなって。みつ子が本命だよ。」
「本当?」
「ああ。妻は呼び枠だから。」

その言葉が、焼き印のように脳裏に刻まれた。危なく手を滑らせそうになったが、なんとか握り直すと、震える手で通話を切った。

35年間添い遂げた妻を「呼び枠」というたった3文字で切り捨てた夫。若い女に本命だと囁きながら、妻には「好きにしろ」と吐き捨てる男。しかもあの家を俺のものだと宣言し、その女と暮らすためにリフォームを計画している。怒りが津波のように押し寄せてきた。涙ではなく、怒りだった。これまで感じていた悲しみや不安が、一瞬にして灼熱の怒りに変わり、体の芯から燃え上がるような感覚に包まれる。

震える足でなんとか事務所に戻ると、先ほどの元彦の話を芙美に語り、握り拳が白くなるほど力を込めた。

「芙美ちゃん、お願いがあるの。」
「何?」
「この家を売りたいの。できるだけ早く。そして、確実に。」

60年の人生で最も重い決断を、今まさに言葉にした。芙美は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに背筋を伸ばして頷いた。

「分かったわ。まずは正式な査定をさせて、それから売却のスケジュールを組みましょう。元彦さんには気づかれないように進めるのね。」
「ええ、すべてが整うまでは、何も知らせたくないの。」

芙美は手帳を開き、予定を書き始めた。査定の日程調整、内覧の手配、契約書の準備。不動産のプロとしての手際の良さに、私は心から感謝した。

「それと秋葉、これは大事なことだから言っておくわね。売却手続き中に、元彦さんが家の名義を調べたり、妨害しようとしたりする可能性もあるわ。だから、すべての連絡先は花屋の方にして、自宅には書類も電話も一切送らないようにするわね。メールのやり取りも、できれば新しいアドレスを作った方がいいわ。」
「ありがとう。芙美ちゃんがいてくれて、本当に心強いわ。」

それからの日々は、二つの人生を同時に生きているかのような毎日だった。表向きはいつも通りの妻として、朝食を作り、洗濯物を畳み、元彦の靴を磨き、夕食の支度をして帰りを待つ。一方で、花屋の休憩時間や閉店後には芙美と連絡を取り合い、家の売却を着々と進めていく。経理時代に培った二重帳簿を見抜く技術が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。不正な二重帳簿を暴く側だった私が、今度は自分で二重の生活を組み立てている。

査定の日は、元彦が名古屋出張の日を選んだ。芙美が連れてきた査定士は、1時間ほどかけて家の隅々まで丁寧に確認していった。父が選んだ檜の柱を手で触れ、樫の床板に膝をついて状態を確かめ、栗の上がり框の風合いに見とれる。築40年とは思えない建材の質の良さに、査定士は何度も感嘆の声をあげた。

「これだけの材料を使った家は、今ではとても建てられませんね。お父様は素晴らしい職人だったのでしょう。」

そう言われた時は、誇らしい気持ちと切ない気持ちが同時に込み上げてきた。査定の結果が出たのは、相談から1週間後のことだった。土地と建物を合わせた評価額は9800万円。再開発計画の影響で周辺の地価が急上昇しており、5年前なら6000万円程度だった物件が、今なら1億円前後で売れる可能性があるという。

「交渉次第で1億には載せられるわ。いや、載せて見せるわ。実はね、この近辺の物件を探してる法人があるの。都内に本社がある中堅のIT企業で、社員寮として駅近の一軒家を探しているらしくて。法人なら個人より手続きもスムーズだし、資金力もある。条件が合えばすぐに話がまとまるわよ。」

私は心の中でスケジュールを組み立てていた。査定完了、買い手との交渉、契約締結、引き渡し。同時に自分の引っ越し先の確保、花屋の移動手続き、荷物の整理。すべてを元彦に気づかれずに進めなければならない。

芙美が紹介してくれたのは、隣町の駅から徒歩15分の場所にある家賃6万5000円のワンルームのアパートだった。築10年のマンションの3階で、狭いが清潔感のある部屋。何よりも南向きのベランダが広く、小さなプランターを並べるには十分なスペースがある。花を育てながら新しい人生を始めるには十分な場所だ。

花屋の店長にも事情を話すことにした。店長の霧島さんは60代後半の温厚な女性で、15年間一緒に働いてきた私のことをよく理解してくれていた。

「店長、実は家庭の事情で引っ越すことになりまして、できれば系列の別店舗に移らせていただけないでしょうか?」
「明子さんの腕ならどこの店でも歓迎されますよ。隣町の駅前の店が一人募集してるから、そちらに話をつけておきましょうか。明子さんのアレンジメントのファンは多いから、新しい店でもすぐにお客様がつくわよ。」

店長の温かい言葉に、目頭が熱くなった。そして、なでし子にも計画を打ち明けた。なでし子庵のカウンターで閉店後に二人きりで向き合い、私は売却と引っ越しのすべてを話した。彼女は黙って最後まで聞き、丁寧にドリップしたコーヒーを差し出しながら静かに言った。

「あなたの決断を応援するわ。引っ越しの手伝い、私にも任せて。この店の仕入れに使っているバンがあるから、荷物の運搬は任せなさい。」
「ありがとう。でも、本当にいいのかな? 35年も一緒にいた相手に黙ってこんなことをして、卑怯だと思われるんじゃないかしら。」
「卑怯なのはどっちよ。35年一緒にいた相手を『呼び枠』って言ったのは元彦さんの方でしょ。あなたは十分すぎるほど我慢してきたわ。あの優しくて真面目な秋葉がここまで追い詰められたんだもの。誰も秋葉を責められないわよ。」

なでし子の目には、幼馴染みとしての怒りと友人としての愛情が入り混じっていた。揺らぎかけていた決意が、再び固まった。

家の売却計画が本格的に動き始めてから3週間が経過した。芙美の力もあり、買い手との交渉は順調に進んでいる。ある日、芙美から電話があった。

「いい知らせよ。相手のIT企業が正式にオファーを出してきたわ。1億200万円で購入したいと言ってるの。先方は社員の福利厚生に力を入れている会社でね、駅から近い一軒家を社員寮にしたいそうよ。建物の状態が非常にいいから、最小限のリフォームで済むと喜んでいたわ。私が毎日掃除をして手入れしたあの家、それが評価されたのが純粋に嬉しかった。引き渡しは来月末を希望しているけど、大丈夫?」
「来月末ね。あと5週間。その期間で、35年分の生活を片付けなければならない。」

気の遠くなる作業に思えたが、私にはもう迷いはなかった。経理時代の決算期を乗り越えてきた私だ。締め切りが決まれば、逆算して計画を立てるのは得意分野である。

その日から、私は帰宅後の時間を使って計画的に荷物の整理を始めた。元彦は相変わらず帰りが遅く、早くても午後10時。遅い日は日付が変わってから帰宅するため、夕方6時から数時間は自由に動けた。私はまず家中の荷物を4つに分類した。新居に持っていくもの、子供たちに送るもの、処分するもの、元彦に残すもの。経理の仕訳作業と同じ要領で、効率よく作業を進めていく。

子供たちの思い出の品々はダンボール箱にまとめて、健太と美咲にそれぞれ送った。「押入れの整理をしていたら出てきたの。懐かしいでしょう」とだけ伝え、詳しい事情は話さなかった。両方から、嬉しそうな返信が届いた。

最も神経を使ったのは、元彦に気づかれないようにすることだった。目につく場所の荷物はそのままにし、押入れやクローゼットの奥から少しずつ運び出す。なでし子は毎回私が用意したダンボール箱を手際よくバンに積み込み、新しいアパートまで運んでくれた。荷物が減っていくにつれて家の中が少しずつ広く感じられるようになった。不思議なことに、物が減るたびに心が軽くなっていく。35年間溜め込んできたものだけでなく、我慢や不満や寂しさも一緒に手放しているかのような清々しさがある。

ある晩、整理の合間にリビングの窓辺に座り、庭の金木犀を眺めていた。ちょうど見頃を迎えた金木犀が、甘い香りを風に乗せて運んでくる。この香りを嗅ぐのも、あと何回だろうか。父が40年前に植えたこの木ともうすぐお別れだ。

売却手続きが最終段階に入った頃、予想もしなかった障害が立ちはだかった。ある日曜日の朝、珍しく家にいた元彦が、朝食の片付けが終わったリビングのテーブルに何枚もの見取り図と見積もり書を広げ始めたのである。

「ちょっと見てくれ。この家、リフォームしようと思うんだ。前から考えてたんだが、いよいよ本腰を入れようと思ってな。知り合いの業者に見積もりを頼んだ。来週の水曜日に下見に来てもらう予定だ。」

心臓が跳ね上がるのが分かった。リフォーム業者が家に来れば、押入れやクローゼットの中身が減っていることに気づかれる可能性がある。さらに工事が始まれば、売却に重大な支障をきたす。工事中の物件を法人に引き渡すことなどできないのだから。

「急にどうしたの? リフォームなんて、一度も言い出さなかったのに。私が何度かキッチンの水栓を直して欲しいと頼んだ時も、面倒くさがっていたでしょう。」
「あの時とは違うんだよ。そろそろ老朽化も進んでいるだろう。来年定年を迎えるし、家で過ごす時間も増えるんだから快適に暮らしたいじゃないか。それに、退職金の使い道としてリフォームは悪くない。俺が金を出すんだから、お前は何もしなくていい。業者との打ち合わせも俺がやる。」

元彦の口調は穏やかだったが、私にはその裏にある意図が透けて見えていた。みつ子と一緒に住むための回状計画が、現実になろうとしているのだ。業者に来てもらう件を何とか延期させなければ。私は必死で言い訳を考えた。

「今は花屋が繁忙期で、お悔みのアレンジメント作りに追われているの。家を開けられる日が限られているから、来月以降にしてもらえない? 業者さんが来る時は、私もいた方がいいでしょうし、キッチンのことは私が一番分かっているから。」

私が粘ると、元彦はしぶしぶながらも了承した。しかし、猶予は長くない。売却のスケジュールと元彦のリフォーム計画が、まるで時限爆弾のように同時進行している。

そして、もう一つの脅威が姿を現したのは、それから数日後のことだった。花屋の閉店間際、午後5時を少し回った頃、見慣れない若い女性が店に入ってきた。整った顔立ちに深紅のルージュ。ブランドもののバッグを肩にかけ、ヒールの高い靴が床を叩く音が店内に響く。花を物色しているふりをしているが、その目は花ではなく私を見ていた。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「あなたが福岡秋葉さんね。元彦さんの奥様でしょう。」

背筋に電流が走った。この女がみつ子だと直感する。元彦が本命と呼ぶ女性が、今目の前に立っているのだ。

「どちら様でしょうか?」
「柏木みつ子と申します。元彦さんの会社、丸全建設の経理部でお世話になっているものです。ちょっとお話があって、寄らせていただきました。」

同じ経理畑。私がかつて働いていた世界の住人だ。年齢は35歳前後だろうか。私が経理事務として働いていた頃と同じくらいの年齢であるが、私の時代とは何もかもが違う。みつ子は店内をゆっくりと歩き回り、カーネーションの花弁を指で軽く触れ、ガーベラの前で足を止め、値札をちらりと見てから鼻で笑うような仕草をする。

「単刀直入に言いますね。奥様、元彦さんのために身を引いてくださいません? もう十分でしょ。35年もお世話になったんですから。元彦さんは私と一緒になりたいと言っています。あの方は本気よ。もうお互い大人ですから、円満に済ませましょうよ。弁護士を挟んで揉めるよりも、奥様にとってもいいんじゃないかしら。60歳にもなれば、もう女としての役割は終わったでしょうし。家のことは元彦さんがすべて面倒を見てくれるって言ってるから、心配しないで。」

彼女の言葉が、順番に私の胸を貫いた。だが、怒りが腹の底から湧き上がると同時に、別の感情も湧いてきた。哀れみだ。元彦が面倒を見ると言っている家は、元彦のものではないのに。みつ子も元彦も、この家の名義が誰のものかすら知らずに、壮大な夢物語を描いている。私は表情には一切出さなかった。元経理事務として、監査の場で不正を指摘する相手の前でも平静を崩さなかった私だ。感情に流されずに数字と向き合い続けてきたあの訓練が、今の私を守ってくれている。

「お気持ちは分かりました。ですが、こういった話は夫婦の問題ですから、少し時間をいただけますか?」
「何が言いたいの? さっさと出ていってくれればいいだけの話じゃない。」
「そう簡単にはいかないものですよ。法的な手続きもありますし。」

みつ子は不満げに唇を噛んだが、「まあいいわ。でも、あまり待てませんからね。元彦さんも早く一緒に暮らしたいと言ってるんですから」と捨てゼリフを残して店を出ていった。ヒールの音がアーケードの石畳に遠ざかっていくのを聞きながら、私は心の中で静かに呟いた。あなたが一緒に暮らしたいと思っている家は、もうすぐなくなるのよ、と。

翌日、さらに危険な場面が訪れた。元彦が帰宅した際、玄関の靴箱の上に「北村住宅」の封筒が置きっぱなしになっていたのだ。花屋に届くはずだった売却に関する重要書類が、手違いで自宅に配送されてしまったものだった。

「なんだこれ? 北村住宅? 不動産屋の封筒がなんでうちに届いてるんだ? しかも速達じゃないか。」

心臓が凍りつく思いだった。封筒の中には売買契約の草案が入っている。開けられたら、すべてが終わる。しかし、ここで動揺を見せるわけにはいかない。台所から急いで玄関に向かいながら、頭をフル回転させた。

「それは多分チラシの一種よ。最近この辺りもマンション建設が増えてるでしょう。不動産会社がDMを速達で送ってくるの。この前もポストに入ってたわよ。」
「ふん。速達で大げさな不動産屋だな。」

元彦は封筒を手に取り、裏表を確認した。宛名には「福岡秋葉様」と書かれている。元彦の眉が少し動いたが、興味を失ったように封筒をポンと靴箱の上に戻し、リビングのソファーに腰を下ろした。私は素早く封筒を回収し、エプロンのポケットに滑り込ませた。背中を冷や汗が伝い、シャツが肌に張りつく感触に、自分の不注意を激しく悔いた。

あの封筒がもし開けられていたら、想像するだけで指先が冷たくなる。売却に関するすべての書類は花屋のロッカーに保管し、自宅には一切置かないことを改めて徹底した。さらに、芙美にも連絡を入れ、今後の連絡はすべて花屋の電話番号か新しいメールアドレスに送るよう依頼した。

売却の最終契約まであと2週間が迫った頃、最も恐れていた事態が現実になった。その日、元彦がいつになく早い時間に帰宅したのだ。午後4時過ぎ。私はまだ2階の寝室でクローゼットの中身を整理している最中で、ハンガーの半分以上が空になったクローゼットの扉を開けたまま作業していた。階段を上がってくる足音に気づいた時には、もう遅かった。

「おい、クローゼットの中、スカスカじゃないか。何やってんだ。」

普段なら帰宅しても2階にほとんど来ないのに、今日に限って上がってきたのは偶然なのか、それとも何かを嗅ぎつけたのか。彼の眉間には深いしわが刻まれ、目が鋭く光っていた。

「断捨離をテレビでやっていたでしょ。60歳を過ぎたら持ち物を半分に減らすといいって。終活の一環みたいなものよ。」
「断捨離ね。にしても、減らしすぎじゃないか。」

元彦は寝室を見回しながら、不機嫌そうな顔をしていた。壁にかけてあった家族写真が外されていることにも気づいたようだ。「あの写真、どこやったんだ? 健太の七五三の写真と、美咲の成人式の写真があっただろう。」
「額縁が古くなったから、新しいのに入れ替えようと思って外してあるの。写真屋さんにサイズの合う額を注文しているわ。」

彼はそれ以上追求しなかったが、その目にはかすかな疑念の色が浮かんでいた。あと少しで全てが終わる。ここで踏ん張らなければ。

数日後、その不安は的中した。元彦が夕食の席で唐突に切り出してきたのだ。

「おい、秋葉。最近お前、おかしいぞ。家の中のものがどんどん減ってるし、どこかに電話していることも多いだろう。この前の封筒の時も慌ててたよな。何を隠してるんだ。」

箸を持つ手が止まった。元彦の視線はいつになく鋭い。

「隠してなんかいないわ。ただの片付けよ。」
「嘘をつくな。お前が何を考えてるか、俺には分かるんだぞ。」

その言葉に、苦い笑いが込み上げそうになった。この半年間、私の気持ちなど一度も理解しようとしなかった人間が、今更何を言っているのだろうか。

「あなたこそ、私に隠していることがあるんじゃないの? 最近、随分帰りが遅いじゃない。」

元彦の顔が一瞬強張る。箸を持つ手が止まり、味噌汁の椀を掴んだまま3秒ほど動かなかった。しかし、すぐに表情を取り繕い、「仕事が忙しいだけだ」と白を切った。

「なんでもないわ。ただの独り言よ。」

食卓に沈黙が落ちた。焼き魚の香ばしい匂いが漂っているのに、何の味もしない。もし元彦が本格的に調べ始めたら、売却計画が露見するかもしれない。私は翌朝、元彦が出勤した直後に芙美に電話をかけ、事情を伝えた。芙美はスケジュールを前倒しにできるか調整すると即答してくれた。

翌日、花屋が定休日だった。元彦が出勤した後、私は一人でリビングの仏壇の前に座った。父の遺影が、穏やかな笑顔でこちらを見つめている。写真の中の父は、工務店の作業着を着たままの姿で、少し照れくさそうに笑っていた。

「お父さん、ごめんなさい。この家を手放すことになりそうよ。」

仏壇に線香を上げ、手を合わせた。自然と涙がこぼれる。この家には数えきれないほどの思い出が詰まっている。クリスマスの朝、枕元にプレゼントを見つけた子供たちの歓声。夏休みの庭でビニールプールに水を張り、はしゃぐ小さな姿。健太が初めて逆上がりに成功して庭から走って報告に来た日。美咲が高校合格発表の日にリビングに飛び込んできて「受かった」と叫んだ瞬間。家族全員で抱き合って喜んだ光景。すべてが、この家の壁や床や天井に染み込んでいるような気がした。

けれど、同じ壁の中で、元彦は別の女性を本命と呼び、私を呼び枠と嘲笑っていた。温かい記憶と冷たい現実が胸の中で激しくぶつかり合い、息が苦しくなった。父は70歳で亡くなったが、最後まで母のことを大切にしていた人だった。病床でも母の手を握り、「お母さん、すまなかったな。苦労ばかりかけて」と詫びていた。「お母さんがいてくれるから、俺は頑張れるんだ」というのが、父の口癖だった。

結婚式の日、私は父に伝えた。「元彦さんと、お父さんとお母さんみたいな夫婦になりたいの。」父が目を赤くしながら「バカ、泣かせるな」と笑っていたことは、今でも覚えている。ただ、その願いは叶わなかった。お父さん、私ね、この家より大切なものを見つけたの。それは自分自身の尊厳だ。誰かの呼び枠として生きるのではなく、自分の人生の主役として生きること。60歳になって初めて気づいた真実は遅すぎたかもしれないが、気づかないよりはずっとましだ。父が私に残してくれた本当の遺産は、家そのものではなく、自分を大切にする強さだったのかもしれない。

心を決めた私は、すぐに行動に移した。花屋の昼休みに芙美に電話をかけ、契約の前倒しについて確認した。

「相手側も早期決済を希望しているから、来週の金曜日に最終契約ができるように調整しているところよ。」
「ありがとう。来週の金曜日なら、元彦は名古屋出張で不在の日よ。朝早くに出て、翌日の夜まで戻らない。」
「完璧ね。契約書は私がすべて準備しておくから、当日は署名と押印だけで済むようにするわ。売却代金の振り込みも即日で手配できるわよ。」

電話を切った後、私は花屋のロッカーから売却関連の書類をすべて取り出し、最終確認を行った。経理事務として鍛えた目で、契約書の条項を一つ一つ確認していく。金額、引き渡し日、瑕疵担保責任、免責金条項、所有権移転の手続き。すべての項目に漏れがないことを確かめた。数字と条文を追う作業は、20年以上のブランクがあるとは思えないほどスムーズだった。体が覚えているのだ。次になでし子に連絡を入れると、彼女はすぐに引っ越しの段取りを整えてくれた。

すべての準備が整った。夜、元彦が外出した隙に、私は書斎に入り、離婚届の最終確認をしていた。すると、ふと机の引き出しの奥に一枚の写真が挟まっているのが目に入った。結婚式の日の写真だ。白いウェディングドレスを着た25歳の私と、隣で照れくさそうに笑う27歳の元彦。あの日の誓いは、互いを尊重し共に歩むというものだった。写真の中の元彦は、まだ優しい目をしていた。「秋葉を一生幸せにする」と父の前で誓った声を、今でも覚えている。誓いを先に破ったのは、元彦の方だ。私は写真をそっと裏返し、引き出しの奥に戻した。

約束の金曜日が来た。朝6時、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。窓の外はまだ薄暗く、遠くでカラスが鳴いている。布団の中で深呼吸を3回繰り返してから静かに起き上がった。隣の布団では元彦がまだ寝息を立てている。この寝顔を見るのも、今日が最後だ。いつも通りに台所に立ち、味噌汁を作り、焼き魚と卵焼きを並べた。最後の朝食だからと言って特別なものにする気はない。35年間そうしてきたように、いつも通りの朝を演じ切る。それが私のやり方だった。

元彦がスーツケースを引いてリビングに現れたのは6時半だった。名古屋への一泊出張で、帰りは翌日の夜になるという。玄関で靴を履く元彦の後ろ姿を見つめながら、私は35年間で何千と繰り返してきた言葉を、最後にもう一度だけ口にした。

「気をつけてね。」
「ああ。」

いつもと変わらない朝の挨拶。彼は振り返ることもなく、「じゃあな」とだけ言って出ていった。35年間の結婚生活で、最後の朝の会話がこれほど味気ないものになるとは、皮肉なものだ。

元彦の車のエンジン音が遠ざかり、角を曲がって完全に見えなくなったのを2階の窓から確認した。時計を見る。午前6時45分。ここからが本番だ。すぐになでし子に電話をかけた。

「準備はいい? こっちはバンのエンジンかけて待ってるわ。」
「ええ、始めましょう。」

なでし子のバンが到着したのは7時過ぎ。手配してあった引っ越し業者の小型トラックも、予定通り8時ちょうどに家の前に止まった。作業員2人となでし子、そして私の4人で、残りの荷物を手際よく運び出していく。衣類、日用品、化粧品、タオル類。仏壇の遺影と位牌は、自分の手で丁寧にダンボールに収めた。父の写真を布にくるみ、母が大切にしていた着物3枚を桐の箱に入れる。どれも変えの効かない、私の人生そのもののような品々だった。

なでし子が台所の棚の奥から取り出したのは、子供たちが母の日にくれた湯飲みだった。健太が中学1年の時に陶芸教室で作ってくれた、少しいびつな形の湯飲み。そこには幼い字で「お母さんありがとう」と彫られている。

「それも持っていくわ。」
「うん。」

なでし子は何も言わず、丁寧にタオルで包んでダンボールに入れてくれた。搬出作業は予定通り2時間で完了した。私の60年分の人生が詰まったダンボール箱は、全部で12箱。35年間の結婚生活がたった12箱に収まるという事実に、一瞬だけ胸が締めつけられた。けれど、大切なものはすべてここにある。不要なものはすでに手放した。トラックが出発した後、なでし子が残ろうかと言ってくれたが、断った。この家との別れは、一人で済ませたかったのだ。

私は台所から掃除道具を取り出し、この家を隅々まで掃除し始めた。換気扇のフィルターを外して洗剤で磨き、窓の桟を一つずつ丁寧に拭く。浴室のタイル目地をブラシで擦り、鏡を曇りなく拭き上げた。トイレの便器を磨き、洗面台の水垢を落とし、廊下の樫の床板を雑巾掛けした。父が選んだ木材の床は、30年経った今でも美しい木目を保っている。雑巾で拭く度に、木のぬくもりが手のひらに伝わってきた。私は唇を噛み、手を動かし続けた。立ち止まったら、この家を出る勇気が鈍ってしまいそうだった。

掃除を終えたのは正午過ぎ。ガランとしたリビングに立つと、家具がすべて運び出された部屋は驚くほど広く見えた。庭に出て、金木犀の幹にそっと手を触れる。父が40年前に植えたこの木は、毎年秋になると甘い香りを庭いっぱいに漂わせてくれた。さよなら、新しい持ち主にも、きっと綺麗な花を咲かせてあげてね。

午後1時、芙美の事務所で売却契約に署名した。売却金額は1億200万円。芙美が用意した書類を、経理の目で一条項ずつ確認していく。金額、引き渡し日、瑕疵担保責任、免責金条項。すべてに漏れがないことを確かめてから、署名と押印を済ませた。

「売却代金は、本日中に指定口座に振り込まれるわ。お疲れ様。」

契約書の最後のページに記された1億200万円という数字を見つめ、深く息をついた。父が建てたこの家は、最後まで私を守り抜いてくれたのだ。

「芙美ちゃん、本当にありがとう。あなたがいなかったら、ここまでできなかったわ。」
「秋葉が自分で決断したのよ。私はただ、不動産屋としての仕事をしただけだから。」

新しいアパートに着くと、なでし子がすでに荷物の大半を運び終えてくれていた。小さなワンルームの部屋に、最低限の家具が配置されている。

「ここが秋葉の新しいお城よ。狭いけど、日当たりは抜群だわ。」
「十分よ。広すぎる家で寂しさを抱えて暮らすより、小さな部屋で穏やかに過ごす方がずっといい。」

なでし子は冷蔵庫に食料品も入れてくれていた。明日からの生活がすぐに始められるように、細やかな気配りが行き届いている。「お腹空いたでしょう。おにぎり作ってきたから、食べなさい。」なでし子が握ってくれた昆布と鮭のおにぎりを頬張りながら、私は窓の外を見た。遠くに山並みが見え、空が茜色に染まり始めている。見慣れない景色だけれど、不思議と心は穏やかだった。

あの家のリビングの床の中央には、一通の封筒を置いてきた。元彦が出張から戻った時に見つけるはずだ。手紙にはこう書いた。

「元彦さんへ。35年間お世話になりました。この家は私の父が残してくれたもので、名義はすべて私のものです。本日付けで売却いたしました。離婚届に署名をお願いします。秋葉」

簡潔な文面だったが、それ以上書くことはなかった。感情的な言葉も恨み言も、この手紙には必要ない。事実だけを伝えればいい。長い文章を綴ったところで、半年分の裏切りを言葉にすることはできないのだから。

翌日の夜、元彦は出張から戻り、いつものように玄関の鍵を回した。おそらく帰りの新幹線の中でみつ子にメッセージを送り、来週のデートの予定でも立てていたのだろう。唇の端に笑みを浮かべたまま靴を脱ぎ、スーツケースを廊下に置いてリビングのドアを開けた。そして、真顔になった。リビングには何もなかったのだ。ソファーもテーブルもテレビも食器棚もカーテンも時計も写真も、すべてが消えていた。床にはフローリングの木目が剥き出しになり、壁には家具の跡が白い影として残っているだけ。磨き上げられた床が、夕日を反射してぬらぬらと光っている。

「あ、なんだこれ? おい、秋葉! どこにいるんだ?」

声が虚しく壁に反響する。返事はない。台所に駆け込むが、コンロも冷蔵庫も空っぽだ。2階に駆け上がるが、寝室もクローゼットも空っぽ。布団も枕もない。息を切らしてリビングに戻った元彦の目に、床の中央に置かれた一通の封筒が映った。震える手で封を切り、中の書類と離婚届を引き出した瞬間、顔から血の気が引いていった。

「売却……この家を売った? ふざけるな。ここは俺の家だぞ。」

叫び声が空っぽの家中に響き渡った。元彦は慌ててスマートフォンを取り出し、私に電話をかけた。しかし、電話口に流れたのは「現在使われておりません」という機械音声だけだった。私は番号を変えていたのである。パニックに陥った元彦は、次に法務局のオンラインサービスで登記情報を確認した。画面に表示された所有者の欄には「福岡秋葉」の文字。そして、先日付けで所有権移転登記が完了していることを示す記録が刻まれていた。相手は都内のIT企業。売買価格は1億200万円。

「嘘だろ? 名義が秋葉だと? そんなはずは。俺はここに35年も住んで……」

35年間この家に住みながら、元彦は一度も登記簿を確認したことがなかった。自分が住んでいるのだから自分の家だと、根拠もなく思い込んでいたのだ。妻を呼び枠と蔑み、他の女を本命と呼び、妻の家を俺のものだと豪語していた男は、気づいた時には住む場所すら失っていた。

元彦は最後の望みをかけて、みつ子に電話をかけた。

「みつ子、大変なことになった。秋葉が家を売って出ていったんだ。すぐに売りに出されたんだが……だがな、俺には退職金があるから、しばらくお前のところに置いてくれ。」
「ちょっと待って。家を売られたって、あの家はもうないの?」

みつ子の声に、明らかな揺らぎが混じっていた。駅から近い一軒家は、みつ子にとっても元彦さんと一緒に住む家として計算に入れていた物件だったのだ。

「ああ、だが俺たちの計画は変わらない。新しい家を買って……」

電話の向こうで数秒の沈黙が流れた。みつ子の声色が、つい先ほどまでの甘えた調子から一変して、事務的な冷たさを帯びる。

「元彦さん、ごめんなさい。私、実は仕事の関係で来月から大阪に転勤になったの。もうお会いできなくなるわ。」
「転勤? そんな話は聞いてないぞ。先週まで一緒に住む相談をしてたじゃないか。」
「状況が変わったのよ。家がなくなったなら、こっちにも考えがあるわ。元彦さんとは楽しかったけど、もうお互い前を向きましょう。じゃあね、お元気で。」

通話は一方的に切られた。家も資産もない男に用はない。みつ子の本性は、最初から変わっていなかったのだ。元彦の肩書きと資産に引かれていただけの女は、それが消えた瞬間に手のひらを返す。

家を失い、みつ子にも捨てられた元彦は、居場所を失って会社の独身寮に転がり込んだ。6畳一間にユニットバスだけの狭い部屋。62歳の営業部長が、入社2年目や3年目の若手社員に混じって独身寮に住んでいるという事実は、あっという間に社内に知れ渡った。さらに追い打ちをかけるように、元彦とみつ子の不倫関係が正式に社内問題となった。みつ子が大阪に転勤した直後、経理部の同僚が二人の関係を人事部に報告したのだ。丸全建設は社内規律に厳しいことで知られており、特に管理職の不倫は厳正に対処される。元彦は営業部長の職を解かれ、総務部の資料管理室への異動を命じられた。実質的な窓際だ。35年間築き上げた営業部長としてのキャリアが、一枚の辞令で消し飛んだ。

健太に電話をかけたが、帰ってきたのは冷たい声だった。健太はすでに私からすべてを聞いていたのだ。「母さんに35年間支えてもらって、それを『呼び枠』って言ったんだってな。俺たちを育ててくれた母さんをそんな風に扱って、自業自得だよ。母さんの方が100倍立派だ。」美咲からはさらに厳しい言葉が届いた。手紙で「お父さんとはもう会いたくありません。生まれてくる赤ちゃんにも合わせるつもりはありません」と絶縁を告げられたのである。孫の顔を見ることすら叶わなくなった。子供たちは迷うことなく、私の味方についていた。

小さなアパートのベランダで、私はガーベラの苗に水をやっていた。黄色い花びらが朝日を受けて輝き、小さなプランターの中で力強く咲いている。新しい土に根を張った花は、前の家にいた時よりも元気に見えた。あの日から2ヶ月が経ち、新しい花屋での仕事にも慣れてきた。休みの日にはなでし子の喫茶店でコーヒーを飲み、芙美とは月に一度一緒に食事をする。60歳を過ぎてから得た友情は、若い頃のそれとは違う深みがある。

仏壇には父の遺影を飾り、毎朝手を合わせている。「お父さん、家は手放してしまったけれど、あなたが教えてくれたことは胸の中に残っているわ。自分を大切にすること、それが一番の財産だって。」売却代金の1億200万円は堅実に管理している。毎月の生活費を計算し、90歳まで安心して暮らせる資金計画を作成した。数字と向き合う作業は、相変わらず私の得意分野だった。

美咲からは毎週連絡が来る。「お母さん、新しい家はどう? 赤ちゃんが生まれたら遊びに行くからね。」健太も「母ちゃん、今度の休みに飯でも行こう」と誘ってくれた。子供たちの温かさが、胸に沁みる。ベランダの手すりに手を置き、秋の空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。60歳からの新しい人生。呼び枠ではなく、自分の人生の主役として生きる日々が、今ここから始まっている。

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