同窓会の会場で、俺の顔を見るなり三が「高卒じゃ無理もないか」と笑った。仕事も大したことないんだろう、貧乏なんだから帰れよ、と。周りがざわつく中、俺は呆れてため息をついただけだった。昔と変わらない嫌味に、七年経っても何も成長してないなと。でもその時、一人の女性が会話に割って入った。「ねえ、三君、もしかして彼のことを何も知らないの?」。鮮やかなルージュの唇が、俺の正体を告げた瞬間、会場がどよめい…

同窓会の会場で、俺の顔を見るなり三が「高卒じゃ無理もないか」と笑った。仕事も大したことないんだろう、貧乏なんだから帰れよ、と。周りがざわつく中、俺は呆れてため息をついただけだった。昔と変わらない嫌味に、七年経っても何も成長してないなと。でもその時、一人の女性が会話に割って入った。「ねえ、三君、もしかして彼のことを何も知らないの?」。鮮やかなルージュの唇が、俺の正体を告げた瞬間、会場がどよめい...

かつての同窓会も、今では見る影もない。まあ、高卒じゃ無理もないか。俺の顔を一目見て、三がそう言い放った。大学時代の楽しいひとときも、この男の登場で台無しだ。貢の不快な言動と高笑いに、周りの友人たちもざわつき始める。仕事だって大したところには就職できなかっただろう。貧乏なんだから、無理しないで帰れって。かつての俺を馬鹿にした後、三は昔と同じように自分の自慢話を始める。あれから何年も経ったのに、やっていることが変わらない。呆れてため息をついたその時、もう一人の人物が会話に割って入った。

ねえ、三君、もしかして彼のことを何も知らないの?

俺の方を見て微笑むその顔は、あの頃と変わらず綺麗で、俺の心を掴んで離さない。鮮やかなルージュの引かれた唇が動いて、俺の正体を告げた時、会場は大きくどよめいた。三は呆然とした顔で、膝から崩れ落ちたのだった。

俺の名前は長浜慎吾。ちょっと背が高いだけで、ごく一般的な男だ。黒縁メガネと少し長めの前髪。おしゃれとはほど遠い服装と見た目の俺は、寝癖がついているとか、勉強できそうだとか、そんな印象を持たれることが多い。実際、勉強はできる方だと自分でも思う。大学には奨学金を利用して通っている。うちは両親が離婚しているので、母と俺とで細々と暮らしていた。

そんな俺だが、人並みに片思い中だったりする。ゼミでたまたま隣同士になったのがきっかけで、勉強を教えることになった同級生。すらりと伸びた手足と小さな顔はモデルのよう。少し下がった目尻と、目元にある小さなほくろがセクシーで、本当に同級生なのかと思うほど大人っぽい雰囲気をまとった彼女の名前は柳内歩。彼女は容姿だけでなく、内面も綺麗な女性だった。俺のもさっとした外見を見て避けたり、眉をひそめる人も少なくないのに、歩は俺相手でもまっすぐに顔を見て話をしてくれる。緊張からあまりうまく会話ができなくても、馬鹿にするそぶりもなく、いつも優しい瞳で俺の言葉を待ってくれた。その澄んだ瞳に見つめられるたびに、俺の心臓はうるさいくらいの音を立てているので、いつか彼女に気持ちがバレてしまうのではないかとヒヤヒヤしている。

学内でもその美貌から人気が高い歩と、物静かで寝くらと呼ばれる俺。釣り合わないのは一目瞭然だったが、俺は彼女に恋をしていた。自身の気持ちを伝える勇気もないまま過ごすこと数ヶ月。普段は大学校内の図書館やカフェで勉強するのだが、その日は俺が自宅に忘れ物をしてしまい、それならということで、なんと俺の部屋で勉強することになったのだった。母さんはいつも帰宅が遅い。この日もいつものように遅いはずだと思い、俺の部屋で歩と過ごす時間にドキドキしていた。だが、そういう時ほど上手くはいかないもので、母はいつもよりも随分早く帰ってきてしまった。どうして今日に限って、という声が喉から出かかっていたが、母さんに歩を紹介した。もちろん、友人の一人としてだ。しかし母は何を勘違いしたのか。

こんなに美人な子を連れてくるなんて!

と大興奮で彼女をもてなした。とは言っても母子家庭の貧乏暮らしだ。大したことはできない。一般的な家庭料理で見栄えこそしなかったが、母さんは腕によりをかけて料理を準備してくれた。そんな食事会だったが、歩も母さんもとても楽しそうだった。その日は心なしか、歩の表情がいつもよりも柔らかい気がしたのだが、それは気のせいではなかったみたいで、三人で食卓を囲みながら、歩がぽつりとこぼした。

懐かしいな。お母さんが生きていた頃みたい。

歩は中学の頃に母親を病気で亡くしてからは、仕事で忙しい父親との二人暮らし。似た環境だったことも、俺と歩の距離が近くなった理由の一つなのかもしれない。きっと母さんも何か思うところがあったのだろう。

歩ちゃん、いつでもうちに来てくれていいからね。なんだったら、私のことお母さんだと思ってくれてもいいわよ。

最後の方は少し驚きながらだったが、歩の目を見つめながらそう言っていた。歩はと言うと、びっくりしているのか目を丸くして固まっている。

ちょっと母さん。

歩ちゃんと慎吾が結婚したら、私ももう一人のお母さんになれるわよね。それって、いいかも。

何言ってんだよ。

ごめん、柳内さん。

若干暴走気味な母さんの発言を静止しつつ、歩の方を見る。しかし次の瞬間、歩はポロポロと涙を流していた。泣き出した歩を見て慌てたが、俺たちの顔を見て彼女は微笑んだ。

ありがとうございます。すごく嬉しいです。

その言葉を聞いてほっとした表情を浮かべた母さんは、彼女の涙が止まるまで優しく背中を撫で続けていた。その後、食事もつつがなく終わり、夜も遅いということで俺が歩を送り届けることになった。二人きりの時間はほとんどなかったが、食卓を囲んだり、彼女の涙を見たりしたからだろうか。いつもより歩との距離が近づけた気がした。だからなのか、いつも以上に緊張して何か話さなきゃと思いつつも、話題が全く思い浮かばない。静かな夜道を歩く二人の足音だけが響く。先に口を開いたのは、歩の方だった。

今日は遅くまでお邪魔しちゃってごめんね。

こっちこそ、母さんが色々と強引でごめん。変なことも言ってたし、忘れてくれていいから。

俺はそう言って、母さんのあの発言を思い出す。二人が結婚したら、か。そうなったら嬉しいけど、歩が同じ気持ちでない限りは無理な話だ。そして彼女が俺みたいな奴を好きになる確率なんて、限りなく低いはず。つまりは、母さんのあの言葉は夢物語以外何者でもないわけだ。

私は、そうなったら嬉しいなって思ったよ。

え、え。たった今自身で可能性を否定したというのに、当の本人である歩が思いもよらないことを言うから、思わず俺は立ち止まってしまった。数歩先にいる歩が長い髪をなびかせながら振り返る。

長浜君、私あなたのことが好きよ。気づかなかった?

静かな空間に彼女の柔らかな声が響く。月の光を浴びた彼女の姿は、物語や絵画に描かれる女神や天女のような美しさで、思わず見とれてしまう。

長浜君は、私のことどう思ってるの?

何も言わない俺の反応に不安を覚えたのか、歩の声は少し揺れていた。その声を聞いて俺はぐっと拳に力を込める。ちゃんと伝えなくては。

俺も、柳内さんのことが好きです。俺と、付き合ってください。

はい。

歩が微笑む。その瞳の端からきらりと涙がこぼれ落ちる。綺麗だなと思った次の瞬間、歩が俺の胸へと飛び込み、俺の顔を見上げてくる。俺は彼女の濡れた頬をそっと拭った。すると、歩はくすぐったそうに肩をすくめながら、嬉しそうな声をこぼした。そんな彼女が愛しくて、俺は歩の細い体を優しく抱きしめたのだった。

こうして俺は歩と付き合うことになった。今でも信じられないし、奇跡だと思っている。でも隣で微笑む歩を見るたびに、これは現実なんだと実感して胸がほわほわと温かくなる。そんな俺たちを友人たちは祝福してくれたが、大人気の歩を射止めた俺の存在を面白く思わない人はそれなりに多かった。その中でも特に同級生の三の態度は顕著だった。三はどこかの会社の重役の息子で、顔立ちも整った方で成績も悪くない。金持ち、ルックス、将来性と三拍子揃った自分に相当な自信があるようで、普段の言動も嫌味が多かった。歩と付き合うようになってから学校生活も順調だった。将来やりたいことも見つかり、それまで以上に勉強にも身が入った。毎日が充実していた。

でも俺の人生はそううまくは進まないようにできているようだった。大学二年の秋、元気だった母さんが突然倒れた。病院に運ばれ、緊急手術を受ける。無事に手術は成功したものの、今後も長期的な治療や手術の可能性。そしてそれには、貧乏な母子家庭では到底払いきれない膨大な費用がかかることが説明された。病室に横たわる母さんは、まだ目を覚まさない。いつまでも元気で、倒れるなんてないと、なぜかそう思っていたけど、親だって人間だ。久しぶりに握った母さんの手は、記憶に残っているものと違い、だいぶ細くなっていた。こうなって初めて、母の苦労を思い知る。そして俺は決心した。

ずっと俺のために頑張ってくれた母を、今度は俺が支える番だ。俺がなんとかするから、母さんはゆっくり休んで。

眠ったままの母にそう声をかけて、俺は病室を出た。

その日から俺の生活は一変した。空いている時間は全てバイトに費やした。歩にも母が倒れたことは伝えたが、彼女との時間は俺の心の支えでもあったから、大学とバイトの隙間を縫って歩と会う時間を確保していた。でもそれまでとは全く違う生活を送る俺の体は、あっという間に悲鳴を上げ始めた。深夜バイトもしていたせいで生活リズムはめちゃくちゃになり、デートにも授業にも遅れることが増えてきた。歩と会ったとしても寝不足で頭はぼーっとしていて、慎吾君大丈夫? 無理しないでいいから、といつも心配ばかりかけていた。歩と会っても、俺はいつも謝ってばかりだった。

そんな生活が続いたある日のことだった。

私たち、もう別れましょう。

その日も待ち合わせ時間に遅れて到着した俺に、歩がそう告げた。働かない頭に、歩の言葉がぐるぐると回っていた。何も言えないままの俺を寂しげに見つめた後、歩はそのまま立ち去っていった。俺はその後ろ姿を黙って見つめることしかできなかった。もちろん、歩と別れたくなかった。彼女のことが好きなのは変わらない。いや、むしろ年月が経つにつれてその気持ちは大きくなってさえいた。しかし最近の俺は、時間も取れないし約束も守れない。その上お金もない。そんな男と一緒にいたって苦しいだけだよな。彼女が俺に愛想を尽かすのも仕方がないと思えた。それほど今の俺には余裕がないのだ。

支えとも言える存在をなくした俺は、転がり落ちるように無気力になっていった。歩と別れて数日後、どこから聞きつけたのか三が俺のところへとやってきた。高そうな服や時計を身につけている。若者向けのファストファッションを身につけている俺とは大違いだ。

長浜、彼女と別れたんだってな。

俺が力なく返事をすると、三は大げさなしぐさで俺の肩をぽんぽんと叩く。

彼女ほどの人には、全てが揃ってなければ釣り合わないんだよ。ま、いい夢を見れたと思って、今後の生活を頑張るんだな。

言いたいことだけ言って、三は去っていった。彼女ほどの人には、全てが揃ってなければ釣り合わない。三の言葉が胸に突き刺さっていた。これから先も母さんの入院費や治療費が必要な俺には、歩が喜ぶようなデートもプレゼントも何もできそうにない。俺にはもう、歩のそばにいる資格なんてない。彼女の顔を見るのも辛かった。

そして俺は、大学を中退することを決めた。歩とのこともあったが、経済的な理由が一番大きかった。バイトの掛け持ちでは稼げる金額にも制限があるし、何より大学にかかる費用も時間も、これ以上捻出するのが無駄に思えた。だから俺は就職する道を選んだ。中途半端な時期で、なおかつ高卒資格しかない俺が就職できる会社は少なくて、就職活動はかなり厳しかった。当然だが、給与も待遇もいい会社になんて入れるはずもなく、ようやく入れたのはいわゆるブラック企業だった。

朝から晩まで働き詰めで、上司からの暴言は日常茶飯事。大学中退で高卒という俺は格好の的で、同僚からも馬鹿にされる毎日。さらには外回りの営業に出れば、同じ年くらいの学生たちが楽しそうに街中を闊歩しているのを目にする。そんな日々を送る俺の精神はどんどん磨り減っていった。どうして俺は、こんなはずじゃなかったのに。そんな言葉ばかりが頭の中を駆け巡っている。最近は、色々な思いから母の見舞いに行くのも気が重かった。歩と別れたことを伝えた後も、母さんは歩の名前を出してきた。あまりにも何度も何度も話題に出すものだから、とうとう俺は言ってしまった。

歩の名前を出されると、惨めな気分になるからもうやめてほしい。

そうすると母さんは、ごめんね、と小さく謝った。その日以来、歩の名前が出ることはなくなったが、なんとなく母さんにも会いに行きづらくなった。俺が就職した時点で別れて二ヶ月が経っていたが、俺はまだ歩のことが好きだった。だからこそ彼女のことを思い出したくなかった。あの別れの日のことを、思い出したくなかった。今でも夢に見る。歩と一緒に過ごしたあの幸せな時を。どうしたら俺はまた彼女をこの手に取り戻すことができるのだろうか。彼女の夢を見た後は、いつもそのことばかり考えていた。

あれから七年の月日が経過し、今日は大学の同窓会が開かれていた。会場となったホテルは多くの人で賑わっている。二十七歳になり、スーツ姿も様になった彼らだったが、話をし始めると自然と昔のような空気に戻る。中退して交流が途絶えたにも関わらず、あの頃のように変わらず接してくれるいい奴らばかりで、賑やかな輪に俺も自然と混ざることができていた。しばらくすると、入り口の方が少し騒がしくなった。目をやると、人垣は目を引く人物が一人の方に歩いてくる。それは俺が会いたかった人だった。

久しぶりだね、慎吾。

歩。

ああ、久しぶり。

あの頃も美しかったが、年齢を重ねたことでさらにその魅力が増した気がする。しばらく見つめ合ったような気がしたが、そこに聞き覚えのある声が割り込んできた。

柳内さん、来てたんだね。

あら、三君。

歩に集まってきていた人込みをかき分けながら、三がやってきた。相変わらずブランドで全身を固めている。

今日は君に会えると思って、気合いを入れてきたんだよ。相変わらず美しいね。って、お前は長浜か。

歩しか目に入っていない様子の三だったが、ようやく俺の存在に気づき、驚いた声を出していた。

三も久しぶりだな。

俺がそう声をかけると、三は眉をひそめ、あからさまに嫌そうな顔をした。

長浜、お前何しに来たんだ?

何だって? 同窓会だろ?

当たり前のことを聞いてくる三に、俺だけでなく周りのみんなも不思議そうな顔をしている。

そうだ。今日は同窓会だ。会費だって馬鹿にならないのに、参加なんてしていていいのか? 中退して就職しなきゃいけないくらい、生活苦なんだろ。

三の一言に周りがざわつく。だが、そんな周囲の反応などお構いなしに、三は言葉を続けた。

どんなに学生の頃に頭が良くたって、最終学歴が高卒じゃ、ろくな会社には就職できないだろう。相当苦労してるんだろうなって、心配してたんだぜ。

そう言うと俺の肩に手を回して、ニヤニヤと笑っている。同窓会ということもあって気が大きくなっているのかもしれないが、まあまあ失礼な物言いだ。相変わらずだな、と言おうとしたのだが、俺よりも先に周りにいた同級生たちが三に向かって呆れた顔で言った。

三、お前知らないのか? 信吾は今じゃ超金持ちだぞ。

はあ? 何言って?

え、嘘? マジで知らないのかよ。長浜ってあの、N H システムの社長だぜ。

俺は大学中退後に勤めた会社に早々に見切りをつけた。高卒だ中だと馬鹿にされるのも懲りたし、どうせ自分の時間を削るならと、大学の頃にやってみたいと勉強をしていたことを生かして、システム系の会社を立ち上げたのだった。最初の頃こそ大変だったが、自社で開発したシステムが徐々に企業で採用してもらえるようになり、とある大企業と契約をしたことから一気に知名度が上がった。そこからは面白いように業績が上がり続け、今では年収五千万超の会社経営者となっていた。

まあ、俺も色々あったからね。おかげで今はそれなりの暮らしができてるよ。

長浜が社長? そんなバカな。

心配もしてくれてたみたいだし、一応俺は言っておくよ。あ、そうだ。この後みんな二次会に行くんだろ。俺が奢るよ。みんなで楽しもう。

俺の一言に、会場からわっと歓声が上がる。当時は俺のことを見向きもしなかった女子たちからは、黄色い声まで上がっていた。あっという間に俺の周りには人が集まり、その波に飲まれたのか、三の姿は見えなくなっていた。俺は押し寄せる同級生たちと適当に話をしながら、歩の元へと向かう。

歩も二次会に行くよね?

ニコッと微笑みかけながら彼女の白い手を取ろうとしたが、すっと避けられる。久しぶりだから照れているのかもしれない。

うん。行くつもり。

そっか。よかった。歩も気にせず、好きなものを頼んでいいからね。

ありがとう。

結局その後も歩と話すことは叶わなかったものの、二次会自体は盛大に盛り上がり、無事に終了した。会計は宣言通り支払ったが、大した金額ではなかった。先日の取引先との会食の方が、高くついたかもしれない。そんなことを考えながら、俺は歩を探す。

歩。

俺が声をかけると、歩は少し戸惑った表情をしていた。

なかなか話しに行く時間が取れなくて。もしよければ、少し話せないかな。車で家まで送っていくよ。

うん。

よかった。歩を車で送るつもりでいたから、お酒我慢してたんだ。

そう。

素っ気ない返事が気になりながらも、一緒に車のところまで歩いていく。その間、歩はずっと黙ったままだった。車の助手席に歩を乗せ、俺も運転席へと座る。ドアを閉めると外の喧騒も少し静かになり、ようやく二人きりになれたという実感が湧いてきた。

歩はまだ実家の方? 今日は実家に帰るって連絡入れてあるから。

そっか。じゃあ、実家に向かうね。

お願いします。

ここから歩の実家までは三十分ほどだ。あまり一緒にいられなくて残念だが、久しぶりの歩と過ごす時間に俺は完全に浮かれていた。

慎吾君、なんか変わったね。

そうかな。

昔より、自信に溢れてるっていうか。

まあね。オドオドしてたら、競争に負けるからね。馬鹿にされるのはもう懲り懲りだよ。今の俺は会社社長だし、自由になるお金もある。俺のことを敬ってくれる人もたくさんいる。昔の自己主張もできない弱々しい俺じゃない。きっと歩も、そういう頼りになる男が好きに決まっている。歩の言葉をいいように捉えた俺は、上機嫌だった。しかし歩は硬い表情のまま、前を見据えていた。

お母さんは元気?

そのまま会社の話や今住んでいる家の話をしようかと思っていた俺は、歩からの質問に面食らってしまった。でも付き合っていた頃、あれだけ仲の良かった二人だ。今母さんがどうしているのかは、歩にも伝えるべきだろうと思った。

母さんは元気だよ。最初に入院していた病院は設備が揃ってなかったから、転院したんだ。今の病院はお金もかかってるから設備も最高だし、何より二十四時間三六五日体制で見てくれるから、安心して預けられるよ。

お見舞いには行ってるの?

見舞いは大丈夫だよ。看護師さんがついててくれるからね。

実際に今の病院に転院してから、俺はあまり見舞っていない。看護体制はしっかりしていて信頼できるし、何かあれば連絡が来る手はずになっている。何より俺も仕事が忙しくて、病院に行っている時間もなかった。

慎吾君が行けば、お母さんだって喜ぶんじゃないかな。

お母さんには、テレビ電話ができるタブレットもスマホも渡してるし、たまにメッセージのやり取りもしてるから大丈夫。それに完全個室だから、のびのび過ごしてるよ。そうそう。その病院は食事も豪華でね。

俺は歩に病院の設備のすごさや、勤務している医師の評判の高さなど話をした。そんなことを話しているうちに、あっという間に歩の実家近くまで来てしまっていた。

この辺りで大丈夫。送ってくれてありがとう。

わかった。

車を停止させると、歩は車を降りた。

歩、待って。

そのまま去っていきそうな歩を、俺は追いかけ呼び止めた。

話したいことがあるんだ。聞いてほしい。

俺の言葉を聞いて、歩がゆっくりと振り返る。その表情はどこか硬く、よそよそしい。それでも構わず、俺は自分の気持ちを伝えることにした。この七年間、ずっと胸にあった歩への思いを。

歩。俺はあの時から変わらず、君のことが好きだ。あの頃の俺は、力もなくてお金もなくて、歩を不安にさせるばかりだったと思う。だから振られても仕方ないって思ってた。でも今は違う。今の俺なら、君の願いならなんでも叶えてあげられる。望むものだって、なんでも与えてあげられるはずだ。だから俺たち、やり直さないか。あの頃の俺になかったものを、ようやく揃えることができたんだ。今の俺なら、歩に釣り合うはずだ。

俺はまっすぐに歩の顔を見つめた。彼女のあの微笑みがまた見れると、そう信じていた。

だが。

ごめんなさい。

硬い表情のまま、彼女は言った。

え?

自分の声とは思えないほど枯れた声が喉から出てきた。口の中が乾いて、うまく喋れない。

ごめんなさい。

もう一度そう言うと、彼女は踵を返して走り去っていった。必死に努力して、あの時になかったものを手に入れたはずなのに。どうして彼女をこの手に抱きしめることは叶わないのか。後は彼女さえいてくれたら完璧なのに、俺にはまだ足りないものがあるというのだろうか。彼女の去った方向を見つめながら、俺はしばらくその場から動くことができなかったのだった。

歩との再会から三日後のこと。俺はまだショックを引きずりながら仕事をしていた。そんな時、病院から連絡が入り、俺は大急ぎで病院へと向かった。病室に飛び込むようにして入ると、ベッドに横たわる母の姿と、点滴などの確認をしている看護師さんの姿があった。特に緊迫した雰囲気は感じられず、ベッド横にある花瓶に入った淡い色の花も綺麗に咲き誇っている。

長浜さん、息子さんが来てくれてよかったですね。それじゃあ、また後で来ますね。

看護師さんはそう母さんに声をかけると、俺に会釈をして病室を去っていった。その姿を見送ってから、俺は母さんの傍らに歩み寄る。

病院から連絡があったんだけど。

にこやかに笑う母さんの姿は、呼び出しがかかるような状態には見えなかった。

あら、そうなの。少し体調が悪かったからかしら。連絡しなくていいって言ったんだけど、気を聞かせてくれたのかもしれないわね。ごめんね。

母さんは困ったように笑っている。その様子を見て、俺はなぜかイライラしてしまった。

それにしても、久しぶりね。前に来てくれたのは、一ヶ月前だったかしら。慎吾の顔が見れて、母さん嬉しいわ。疲れてるみたいだけど、ちゃんと寝れてるの? 仕事も忙しいのも分かるけど、しっかり休んで。

うるさいな。俺が仕事しなきゃ、ここの費用だって払えないんだから、やるしかないだろう。母さんのためを思って、俺だって頑張ってるんだから、口出さないでくれよ。

自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまった。母さんが俺のことを心配してくれているのは分かっている。でも仕事に関しては、少なからず母さんの病院の費用の捻出のためにしている部分があるのだ。それなのに俺の行動を否定された気がして、反射的に怒鳴ってしまった。

そうよね。ごめんなさい。慎吾がすごく頑張ってくれてるから、母さんもこうしていられるのよね。ありがとう。

申し訳なさそうな顔で謝罪と感謝を言う母さんを見て罪悪感も感じているのに、俺の口は止まらない。

今日だって仕事が立て込んでるっていうのに、呼び出されて何なんだよ。全く。

ごめんね。でも、来てくれて嬉しかったわ。

本当に無性にイライラした。その苛立ちの相手は母さんなのか自分なのか分からない。仕事を理由に母さんの見舞いをサボっている自覚もあった。寂しい思いをさせているのも分かっていた。きっと先日の歩との件も尾を引いていたのだと思う。そんな負の感情に飲み込まれているからなのか、俺の中に、母さんのせいでこんなことになっているんだ、と叫びたくなる衝動が湧き上がる。俺だって、何年も何年も母さんが全然帰ってこなくて寂しい日々を送っていたのだ。たった一ヶ月、見舞いに来なかったことをとがめられる筋合いはない。そんなことまで考えている自分に気がついて、辛うじて言葉を飲み込む。

仕事に戻るよ。

母さんの顔を見ずにそう言うと、俺は立ち上がった。出ないと、母さんにもっとひどい言葉を投げつけてしまいそうだった。ドアへ向かう俺に、気をつけてね、という母さんの言葉が聞こえたが、俺は振り返らずにそのまま病室を立ち去った。

すぐに戻ったことや社員のフォローのおかげで仕事に遅れは生じなかったが、母さんや歩の顔が脳裏に浮かんで、その日は仕事に集中できなかった。

母さんの見舞いに行ってから、一週間が経とうとしていた。行くべきだと頭では分かっていても、心のモヤモヤはまだ晴れていないせいで、まだ自分から母さんのところへ行こうという気にもなれず、俺は仕事に没頭することでそのことを考えるのを放棄していた。

そんな時、また俺のスマホが病院からの着信を示していた。正直、またかよ、と思う自分がいた。出るかどうかを迷っているうちに、コールはすでに切替わったようだ。俺はため息を一つついて、留守番電話を再生する。

お母様の容態が急変しました。病院へお越しください。

その内容にわずかに胸がざわついたものの、先日のこともあったので、俺は大したことではないのだろうと高をくくっていた。とはいえ無視するわけにはいかない。手早く仕事の調整をして、病院へと向かった。

病院は昼間ということもあって、多くの人が受付や会計を待っていた。いつもと変わらない風景。そのはずだった。

しかし。

長浜さんの息子さんですね。お母様は、集中治療室に運ばれました。

え? 集中治療室? だって、先週はあんなに元気で、その前だって。

気をしっかり持ってください。

看護師さんに窘められて、俺ははっとする。

お母様は大丈夫です。お見舞いの方が急変に早く気づいてくださったおかげで、適切な措置を取ることができています。ご案内しますので、ついてきてください。

そして俺を安心させるためなのか、にこりと微笑んでくれた。

すみません。よろしくお願いします。

まだ頭はうまく回っていなかったが、看護師さんの「大丈夫」という言葉で少し安心した俺は、看護師さんの後について集中治療室へと向かった。

歩?

そこには、なぜか歩の姿があった。

慎吾君。

俺の姿を見た歩は、心なしか安堵している気がした。

こちらの柳内さんが気づいてくださったんですよ。

え、そうなのか。

お見舞いに来たら、苦しそうにしていて。それで、すぐに看護師さんを呼んだの。

長浜さんがうちに転院されてから、ずっとお見舞いに来てくださっていて。長浜さんも、柳内さんが来る日はすごく嬉しそうにされてましたよ。

そうだったんだ。病室の花って、もしかして歩が?

うん。長い入院で大変な慎吾君のお母さんの心が、少しでも明るくなればと思って。

母さんの病室に飾られていた花。定期的に花の種類や花瓶の形などが変わっていたから印象に残っていた。てっきり母さんの友達や仕事関係の人が持ってきたのかと思って、聞くこともしなかったけど、歩が持ってきてくれていたなんて、思いもしなかった。

歩。その、色々とありがとう。母さんのこと。今日も歩が来てくれたから、母さんは助かったんだよな。本当にありがとう。

俺は歩に深々と頭を下げた。

そんな、顔を上げてよ。慎吾君。

慌てた声の歩が、俺の元へやってくる。顔を上げると、すぐそばに歩がいた。以前のような硬い表情ではなく、俺のよく知っている顔をした歩が、そこにはいた。互いの目を見つめ合っていると、看護師さんがふっと声をもらす。その声にはっとした俺たちは、互いに照れくささから俯いた。

ここではなんですから、中へどうぞ。今は眠られてますから、お静かにお願いしますね。本来面会はご家族だけなんですが、眠る前の長浜さんから、柳内さんは通して欲しいと言われておりますので、医師からも特別に許可が出ております。

そう言って看護師さんが俺と歩を中へと案内する。

申し訳ないのですが、面会時間は十分程度とさせていただいてます。その後で、息子さんには主治医から手術のことや今後の治療についてのお話がありますので、別室にご案内しますね。

それでは、と看護師さんが立ち去ると、俺と歩はベッド横に用意されていた椅子に座った。無機質な機械音が鳴る中、腕や体に様々な線や管のついた母さんが横たわっていた。胸の辺りが上下しているのを確認して、俺は安堵の息をもらす。眠っていると聞いてはいても、自分の目で確認しないと安心できなかったからだ。

よかった。でも、どうして急にこんな。

俺が呟いた言葉に、歩がゆっくりと首を振った。

本当は、少しずつ悪くなってたんだよ。でも、慎吾君のお母さんから、慎吾も仕事が忙しいみたいだから、余計な心配はかけたくない。だから言わないでって。口止めされてたの。

そんな。

でも歩は、知ってたんだよな。

うん。慎吾君と付き合うようになってから、私、お母さんには本当に良くしてもらってて。私にはお母さんはもういないから、慎吾君のお母さんを本当のお母さんみたいに思えて、いっぱい甘えさせてもらってた。慎吾君と別れた後も、変わらずに時間を見つけてはお見舞いに来て、お互いに色々な話をしてたの。病状のことも、含めてね。

そうか。はあ。そんなに仲が良かったなんて、知らなかったよ。母さんが歩のことを気にかけていたことも、歩がそんな母さんのことを知っていたことも知っていたけど、俺たちが別れた後も交流を持っていたとは思ってもいなかった。ましてや、息子の俺には話していない自身の病状まで打ち明けるほどだったなんて。俺にはできないことを、母さんは歩に、歩は母さんにしてくれていたんだな。

歩。ありがとな。

俺は歩に微笑みかけた。すると、歩は辛そうに表情を歪めた。

私、慎吾君と別れたことも、慎吾君のお母さんに話したの。お母さんはただただ私の話を聞いてくれて、優しく背中をさすってくれた。初めて会った時と同じ、優しくて温かい手だった。あの頃の私は未熟で考えが足りなくて、慎吾君の辛さや大変さをどうしたら和らげてあげられるのか分からなくて、戸惑うばかりだった。本当は一緒に支えたいって思ってたけど、私という存在が慎吾君の負担になるんじゃないかって、そう思って言い出せなかった。あの頃の慎吾君は、大学といくつものバイトで本当に大変そうだったから。

歩の口から告げられた真実に、俺は言葉を失った。恋人らしいことが何一つできない俺に愛想を尽かしたのだと思っていた。だからまた歩に振り向いてもらえるように努力したつもりだった。社長というステータスと財力、他者から評価される仕事、母さんを安心して任せられる病院も見つかって、時間だって作れるようになった。これでようやく釣り合うようになったんだと、そう思っていたけど、大きな間違いだったんだ。

お母さん、ずっとずっと慎吾君のこと心配してたよ。私に似て不器用だから、あれもこれもって頑張りすぎて、いっぱいいっぱいになって体を壊さないか心配だって。

穏やかな顔で眠る母さんを見ながら、歩がこれまで母さんが話していたことを色々と聞かせてくれた。そのどれもが俺を思いやる言葉ばかりで、俺の胸に熱いものが込み上げてくる。

自分だって治療で大変な思いをしてるはずなのに、弱音も吐かずに、慎吾が頑張ってるんだから私も頑張らなきゃって、そう言っていつも笑ってた。その姿を見て私思ったの。あ、これが親の愛なんだって。大きくて温かくて、どこまでも深くて。

母さん。

気がつけば、俺は母さんの手を取って握っていた。最初に倒れて入院した時よりも、もっと細くなってしまった手首に、鼻の辺りがツンと痛んだ。母さんはいつもそうだった。自分のことは後回しで、俺に心配をかけないようにいつも笑って。でも本当は、倒れるくらい無理していたんだ。俺はそれを知っていたはずだったのに、あの時に気がついたはずなのに、また同じ過ちを繰り返していたんだ。俺は本当に、大バカ野郎だ。自分の行動に後悔していると、歩の手が俺の手の上に重ねられた。歩と目が合う。その表情はとても穏やかで、まなざしは優しかった。

私も、そんな慎吾君のお母さんの姿を見て、すごく後悔した。母が生きている時に、もっとしてあげられることが、言わなきゃいけない言葉があったんじゃないかって。でも、もう私にはそれはできない。でも、慎吾君はまだ間に合うでしょ。

俺の手に重ねられた歩の手に、力が込められる。

大丈夫だよ、慎吾君。今からでも、遅くないんだよ。

その言葉を聞いた瞬間、俺の視界が滲んだ。母さん。俺はまだ、母さんにしてあげたいことも、言わなきゃいけないことも山ほどあるんだ。だから、どうか元気になってくれ。頼むから。眠っている母さんに俺の声が届いたのかは分からない。だけど俺は心から母さんの無事を祈った。隣の歩も、きっと同じように祈ってくれたのだと思う。

母さんはかなり状態が悪化していて、医師からは手術も体力があるうちにすることを進められた。「全力を尽くします」という主治医の言葉に願いを託し、母さんの手術はすぐに行われた。俺と歩は二人で無事を祈り続けた。互いに手を握り合って。そして、無事に手術は成功した。麻酔から覚めた母さんと目が合う。

母さん、お疲れ様。

俺の隣に座る歩も、頷いている。

信吾。歩ちゃん。

俺たちの顔を見て、安心したように笑みをこぼす。その顔を見た瞬間、それまでなんとか堪えていた涙が一気に溢れ出した。俺はこれまでの態度を詫び、誠意を込めて口を開く。

母さん。今まで本当にごめん。俺、何も分かってなかった。母さんが今まで俺のために、自分のことを後回しにしながらどれだけたくさんのことをしてきてくれたか。それなのに俺は、母さんのことを。

いいのよ。慎吾。お母さんのことはいいの。

母さんは、俺の父が倒れたこと。

うん。お父さんと離婚した時から、あなたにはたくさん我慢をさせて、たくさん辛い思いをさせてきてしまった。もっとあなたの気持ちに寄り添わなくちゃいけなかったんだわ。私の方こそごめんね。

母さん。

それに、ちゃんと分かっているわ。あなたがちゃんと私のことを心配してくれたことも。私のためにすごく頑張ってくれたことも。今日だって、歩ちゃんと一緒に私の無事を祈っててくれたんだもの。私は、世界一幸せなお母さんだわ。

そう言って、母さんは優しく微笑んだ。その温かな笑顔を見た瞬間、俺は堰を切ったように泣き出した。まるで子供のように、わんわんと泣きじゃくった。今思えば、幼い頃に我慢していた分の涙も流していたのかもしれない。そんな俺の頭を、母さんは細い手で優しく撫でてくれた。俺だけじゃない。母さんも、歩も、涙を流していた。ひとしきり三人で泣いた後、母さんの様子を見に来た看護師さんが俺たちの顔を見て驚いていたけど、色々と察してくれたのか、何も言わずにいてくれた。そして、術後の状態も問題なさそうとの言葉を聞いて、俺と歩は安堵の息をもらす。しばらく一緒に過ごしたかったが、手術で疲弊した体力回復のためにも、俺と歩は帰宅を促された。

また明日も来るから。

そう言うと、母さんは泣きはらした目尻を目いっぱい下げながら、待ってるね、と嬉しそうに笑っていた。

病院を出ると、外はすっかり暗くなっていた。並んで駐車場までの道を歩く。

歩。今更だけど、俺、何もかも間違ってた。やっと気がついたよ。

俺の言葉に、歩が立ち止まった。

俺、歩に振られたのは愛想を尽かされたからだと思ってたんだ。あの時の俺は目の前のことでいっぱいで、心身がすり減って。そんな俺にとっての唯一の支えは歩だった。だから、歩と会う時間を減らしたくなかったんだ。でも、恋人らしいことは何一つできなくて、不甲斐なさでいっぱいだった。そんな時に別れようって言われたから、俺。

うん。

歩が俺のことを思って別れを切り出したなんてこと、考えつきもしなくて。だから、金さえ稼げば母さんのことも歩のことも解決して元通りになるって、神様みたいなこと考えてた。必死に今の会社を大きくしていったら、色んな幸運も重なって、成功することができた。そうなった途端に、俺はそれまで自分が嫌ってた奴と同じ思考になってたんだ。立場と金を持つ奴が偉いって、何でも思い通りになるって。思い上がって、勘違いして、最低な奴だった。

俺の言葉を、歩は黙って聞いてくれていた。歩はいつだってそうだった。付き合う前、二人で勉強会をしていた頃も、付き合っている時も。そして今、俺が話しているように最低な奴だった時だって、歩は俺の話を真正面からちゃんと聞いてくれていたんだ。

あの時も、辛くて苦しくて逃げ出したかった。あの時も、こうして歩に話していれば、今とは違った未来があったかもしれない。それも今となっては夢物語に過ぎないのだけど。でも、歩や母さんのおかげで、これは大事にしなきゃいけないものに気がつくことができた。だから、もう一度立ち止まって考えることにするよ。これから俺がするべきこと、やりたいこと、ちゃんと整理してから、もう一度前に進もうと思う。

うん。今の慎吾君なら、きっとできると思うよ。私も、応援してるから。

そう言うと、歩が微笑んだ。その微笑みが綺麗だと思うのと同時に、胸がズキッと痛む。「私も応援してるから」——もう一緒に歩むことはできないのだと、その言葉から思い知らされる。俺は小さな声で、ありがとう、と言うのが精一杯だった。

慎吾君。

ずっと、と歩が心配そうな声で俺の名前を呼ぶ。俺は溢れてきそうな涙をこらえながら顔を上げると、笑顔を浮かべた。

母さんのことも支えてくれて、今まで本当にありがとう。歩には感謝してもしきれない。それで、図々しいのは承知でお願いしたいんだ。母さんには、これからも会いに行ってもらえたら嬉しい。俺も見舞いに行くつもりだけど。歩が来てくれたら、母さんも喜ぶと思うから。もちろん、無理のない範囲で構わないからさ。

もちろんよ。私も、慎吾君のお母さんに会えるのは嬉しいから、これからもお見舞いに行かせてもらうね。

歩。ありがとう。

これで言いたいことは全部伝えることができた。だから、これでも本当に最後だ。そう思って、俺が別れの言葉を口にしようとした時だった。歩が一歩、俺の方へと近づいた。

今の慎吾君、昔に戻ったみたい。私が大好きだった頃の慎吾君に。

え?

私もね、慎吾君に言いたいことがあるの。聞いてもらえる?

歩からの唐突な申し出に驚きながらも、俺は頷いた。

私、本当はずっと後悔してた。慎吾君に別れましょうって言ったこと。あの時はそれが一番いい方法だと思ってたけど、私の本心はずっと別のところにあったの。

その時のことを思い出したのだろうか。歩の瞳が揺れた。月の光を受けて、その瞳が潤んで光っている。

私、慎吾君のこと忘れることなんてできなかった。慎吾君のお母さんのことももちろん心配だったけど、もしかしたら慎吾君とまたやり直せるんじゃないかって。そう思う、ずるい気持ちもあったの。再会した時のあなたはすっかり変わってしまってて、怖くて逃げ出したけど、やっぱり慎吾君は、あの頃と変わらない真っすぐな人だった。

歩。それって。

私、慎吾君のことが今でも好きよ。気づかなかった?

そして、歩はふわっと柔らかな微笑みを浮かべた。その瞬間、俺は歩と付き合うことになったあの夜を思い出した。あの日も、月明かりが彼女を照らしていて、見とれるほど綺麗で。俺はぐっと拳を握りしめると、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。

俺も、歩のことが好きだ。ずっと、歩のことが忘れられなかった。俺と、また付き合ってくれますか?

はい。

そして、歩は俺の胸へと飛び込んできた。俺はそんな歩を、優しく抱きしめる。

やっぱり慎吾君は、昔と変わらない。優しくて、少し不器用で。でも、私のことをまっすぐに見て、正面から受け止めてくれる人。初めて会った時から、ずっと変わらない。

そう呟いた歩は、俺の顔を見上げる。潤んだ瞳と目が合う。そして、互いの顔が、唇が近づき、キスを交わした。

こうして俺と歩は、再び付き合うことになった。

翌日、母さんの見舞いに二人揃って向かうと、何かを察したのか。

よかったわね、二人とも。親バカかもしれないけど、やっぱりお似合いね。

そう言ってニコニコと笑っていたが、その瞳には涙が浮かんでいた。その姿を見て、歩も泣いていた。俺は改めて母さんに、今までのひどい言動を詫びて、今までの分も含めて親孝行するから、と伝えた。母さんは目を丸くしていたけど、恥ずかしそうに笑っていた。有言実行とばかりに、俺は仕事をおろそかにしない程度に調整しながら、足しげく病院に通った。手術は成功したものの、繰り返していた入院生活ですっかり筋力が衰えていたので、しばらくはリハビリも必要とのことだったが、元々バリバリ働いていた人だ。お医者さんも驚くほど順調に回復していき、手術から三週間後に無事退院することができた。

俺は母さんの退院までの間に、自分のこれからについて考えていた。今のシステム会社は、手っ取り早く独立したかったのと金を稼ぐために始めたと言っても過言ではなかった。だが、元々は機械類が苦手な母さんでも扱えるシステムは作れないかと考えたことがきっかけで勉強し始めたことが、今こうして身を結んでいるのだ。俺はそういった自分の原点をすっかり忘れてしまい、技術や知識、会社を金を稼ぐための道具としか見ていなかったことに気がついた。そのことを反省した俺は、新たなシステムの開発や新事業に着手することにした。困っている人の手助けになるような物づくりを、新しい志に決めた。俺が歩に報告すると、慎吾君らしいね。素敵だと思う、と背中を押してくれた。会社を立ち上げた頃は、暗闇の中を手探りで模索する不安に押しつぶされそうな時もあったが、今は歩という光が俺の足元をしっかりと照らしてくれている。だから俺は、安心して前へと足を踏み出すことができるのだ。

そんな歩と俺は、母さんの退院から約半年後に結婚した。多くの人から祝福された俺たちは、幸せに包まれていた。

歩ちゃん。嫁とはいえ、これで本当にあなたのお母さんになれたわね。これからもよろしくね。

はい。私の方こそ、よろしくお願いします。お母さん。

二人のやり取りに、俺も歩の父もボロボロ涙を流していた。歩や母さんは号泣する俺たちを見て笑っていたけど、二人の方も涙で濡れていた。

これからは夫婦として、家族として、歩と一緒に支え合って生きていく。互いに寂しい幼少期を過ごし、家族とすれ違うこともあったけれど、その大きな愛を感じることのできた俺たちだからこそ、作れる温かい家庭を、二人で築いていくつもりだ。一人なら辛くて挫折してしまいそうになることも。共に歩いてくれる人が一緒なら、きっと大丈夫。互いに支え合うことで、一人ぼっちの時よりも何倍も強くなれること。俺たちは、よく知っているのだから。

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