「バレちゃったか。」
暗闇の中で、彼女の含み笑いが聞こえた。初めての夜だった。そっと触れた彼女の肌に、奇妙な感触が走る。驚いて手を引っ込めると、彼女は笑った。
「え、どういうことなの?」
好奇心を抑えきれずに尋ねる俺に、彼女は目を細めた。獲物を狙う猫のような瞳だった。
「好奇心は身を滅ぼすよ。」
そして彼女はゆっくりと自分の肌を見せた。あの時の彼女は本当に綺麗で、十年経った今でも思い出してしまう。
「出て行ってください。そして、私を傷つけたことを後悔してください。」
俺は倉田次郎。当時、三十六歳になったばかりだった。仕事は製薬会社の営業マンで、自慢じゃないがトップの成績だった。妻のよし子の実家は人気の海運会社で、義父に見込まれてのお見合い結婚だったが、断る理由も特段なかった。
会社の上層部は得意先との縁組を喜んでくれたが、同時に同僚から少なくない嫉妬を浴びせられるレベルの結婚だった。結婚した後、俺は雑音を跳ね除けるため、今まで以上に仕事に打ち込んだ。
ただ、そんな俺を快く思わない奴がすぐ近くにいるとは想像できなかった。商機のチャンスを虎視眈々と狙う同僚はたくさんいる。上層部にも見えない派閥が無数に存在する。売上や担当する病院の規模でいかに社内で目立ち、勢いのある派閥に属するかが上層部の評価を手に入れる鍵だった。
ただ、俺は正直そんなことには興味がなかった。ただただ純粋に、会社の製品を通じて患者さんの役に立ちたかったのだ。綺麗事ではない。小児がんで亡くなった妹だって、今ならその治療薬がある。時代が時代なら、妹は助かったはずなのだ。だからこそ、俺は薬の持つ力を信じていた。薬は人々の生活に必要なものだ。俺は薬というものを通じて、患者さんに貢献してきた。この仕事が好きで、誇りも持っている。
しかし、順風満帆に思えた俺の将来は、突然曇ってしまう。それは、多大な費用を投じて開発された新薬が発売されたことが発端だった。
「うちのチームで、この新薬のセールスを全国一位にする。」
上司はそんな風に息巻いていた。営業会議でも、担当病院での早期採用を強く依頼していた。俺のチームでは、俺が担当している病院が最も大きく、影響力もある。そして、このエリアの先生方は、俺の担当病院で採用していなければ、なかなか新薬を使おうとしない。
だが、新薬に関しては安全性を考慮すべく、一定の期間を置いて使いたいという先生もいるのだ。しかし、俺はかなり強引な形で担当の先生に営業を進めた。この病院の消化器科部長は、実は上司と仲が良かった。表向きは俺の担当だが、上司からの提案で役割分担を行っていたのだ。上司は科部長に新薬の使用を促す。この頃はまだ製薬会社による接待が横行していたから、上司は科部長としょっちゅう俺の交際費で飲みに行ってもいた。
この新薬は、他の薬の効果が不十分な時にも効果を発揮できる素晴らしいものだ。だからこそ、困っている患者さんに使用を検討してもらいたかったのだが、実は注意点も存在している。当然だが、ほとんどの薬には使用上の注意がある。副作用が懸念される薬には、絶対に服用すべきではない患者さんがいるのだ。
この時、上司は何を思ったのか、適正使用を促さなかった。その結果、科部長は使ってはいけない患者さんに投薬するという最悪の事態を起こす。当然、重大な副作用が発生した。これは薬剤部も気づくことなく起こった事故だった。
副作用の報告を受けた俺は病院に急ぎ、情報収集と症例の聞き取りを行った。そして、俺は愕然とする。絶対に投与されてはいけない類いの患者さんだったことに加えて、処方した医師が何も知らなかったからだ。この時、俺は上司と担当を分担したことを強く後悔した。
顔面蒼白になった上司は、問題の全てを部下の俺に押し付ける。社内的に病院の担当者名は俺だったし、交際費の領収書も全て俺の名前で通っていた。
重役に呼び出された俺は、書類と領収書を突き出されて質問される。事情を何度説明しても、聞き入れてはもらえない。俺を質問する重役の横には、問題の発端である上司がふんぞり返っていたが、それが偽装であることは明らかだった。その指先は小刻みに揺れていたからだ。
人の命を間の当たりにした俺は、数字に縛られるだけの生活が一気に嫌になった。だから、俺は「全部、俺の一存です」と重役に返す。そして、責任を取って退職するとも告げた。少しは引き止められるだろうと思ったが、そんなことはなく、俺はその後、退職した。
貯金もあるし、先のことはどうにでもなるだろう。俺はそんな風に思っていたが、自宅に帰るなり、妻が鬼の形相で俺を出迎えた。早くも義父に連絡が行ったらしく、俺は仕事をやめたことを玄関先で罵倒される。妻の手には離婚届が握られていた。その剣幕の凄まじさに、思わず吹き出しそうになってしまった。
「無職の夫とは離婚するに限る。」
そんな風な助言が義父からあったのかもしれない。何もかも面倒になった俺は、その場で離婚届にサインした。自宅は妻が義父からプレゼントされたものだった。だから、俺は「行き先が決まったら連絡する」とだけ言い残して立ち去った。二度と戻れないとは分かっていたが、不思議と未練は感じない。もしも妻が少しでも離婚届の受け取りをためらったら、俺は泣きながら謝ったかもしれない。しかし、現実には奪い取るように受け取り、その後、お布団を見るような視線を浴びせてきた。どうせ、俺の稼ぎと肩書きだけが妻にとって必要なものだったのだ。薄々気づいてはいたが、笑ってしまいそうだ。
俺は翌日から住む場所を探した。しかし、無職ゆえに不動産屋に行っても冷たくあしらわれる。所得証明を提示しても無駄だった。これはまずい。そう察した俺は、不動産関係の仕事をしている古くからの友人に相談する。友人は俺からの連絡に驚き、そして呆れた。
「まあ、お前ってそういうやつだよな。」
しかし、彼は呆れながらもそういう風に言ってくれた。そして、「三分待て」と言われる。三分後、アパートが見つかったのですぐに連絡が来た。慌てて住所をメモして電話を切った俺は、指示された場所に急ぐ。
そこに立っていたのは、古めかしい館だった。「大家さんがいるから話をしろ。」そんな風に言われていたから、俺は「ごめんください」とドアに向かって叫ぶ。すると、廊下の奥から足音が聞こえてきて、中から女性が現れた。若く美しい女性だった。
「今日から住む人でしたっけ? 私が大家のさえ草です。よろしくお願いします。」
そう言って差し出された右手を、俺は握り返す。細い手からはひんやりした感触。彼女の名前はさえ草さん。驚くべきことに、この館のようなアパートは女性ばかりが住んでいるという。そして、敷金と礼金は必要ないから、力仕事を頼みたいとさえ草さんは言った。
「これで役に立てることがあるなら。」
「じゃあ、契約成立で。」
続いて、さえ草さんは鍵を差し出しながら、「以前は製薬会社にお務めと聞きました」と聞いてくる。友人の口から聞いたのだろう。
「はい。長年勤めていたんですが、先日やめました。」
「退職した途端に、離婚を告げられた」と続けると、さえ草さんは爆笑してしまう。しかし、そのまま家を出た件を聞くと、さすがに驚いたようだ。
「まあ、やり直すことは悪いことじゃないと思います。」
そう語るさえ草さんの笑顔は、なんだか眩しかった。
「早めに仕事を見つけますから。」
「気にしなくていいですよ。」
こうして、俺の新生活が始まった。このアパートには多種多様な人間がいた。シングルマザー、学生、小説家、ご主人のDVから逃げてきた女性。こんな人たちから「頼りにしている」と言われるものだから、腕っぷしに自信のない俺は震えるしかなかった。ただ、住人はみんな優しくて、俺の離婚なんて何も気にしないような人たちだった。
やがて、俺はさえ草さんのことを少しずつ知っていく。彼女は今三十歳で、以前に夫を先立たれた未亡人だった。このアパートは舅のものを継いだという。また、彼女の亡くなった夫は医師だったらしい。狭い世界だ。もしかしたら、どこかでニアミスしたことがあったのかもしれない。
やがて、俺は近所の書店でアルバイトとして働き始めた。いずれは正社員として働きたかったが、今は自由に時間を使えるアルバイトを選んだ。アパートでの力作業は結構な量があり、バイトが終わった後は簡単な修繕まで俺は行うようになった。さえ草さんは時折り、夕飯のおかずを分けてくれたり、趣味で作ったパンを渡してくれる。接する時間が増えるにつれて、俺は彼女に惹かれていった。
また、さえ草さんはさりげない形ではあるが、アパートの人たちを助けてもいた。廊下はいつも綺麗で、古い館なのに住み心地は快適。さえ草さんが綺麗に磨いているからだ。また、さえ草さんはシングルマザーの家庭の子どもたちの宿題を見てもいる。俺が彼女に惹かれるように、彼女も俺に興味を持っているようだった。以前の仕事について色々聞きたがったり、バイト先の書店によく顔を出してくれたりする。そのうち、俺たちは一緒に食事をする仲となった。
そして、お互いに距離を縮め合った末、彼女の部屋に泊まることに。俺は暗闇の中で、彼女の肌に初めて触れた。いつ見ても美しい、あのひんやりした肌に。しかし、俺はその肌に違和感を覚えて、手を引っ込めてしまう。不思議な感触。これは一体何だ?
「ごめんなさいね。」
そんな俺を見て、さえ草さんは笑う。
「ど、どういうこと?」
年上の余裕をすっかりなくしてしまった俺。それでも動揺しながら、さえ草さんに問う。
「好奇心は身を滅ぼすよ。」
一方、さえ草さんは目を細めた。
「後悔しない。」
そして、自分の肌を見せてくる。そこにあったのは無数の手術痕だった。かなりの大怪我だったようで、全身に傷が走っている。
「だから後悔するって言ったでしょう。あなたは私に触れることはできません。」
思わず言葉を失った俺を、さえ草さんは面白そうに見ている。
「あなたが私に触れることは許されない。」
そして、彼女はゆっくりと出口を指さした。
「出て行ってください。そして、私を傷つけたことを後悔してください。」
この口調は、今まで聞いたこともないような冷たいものだった。続いて、有無を言わさずさえ草さんは俺をベッドから追い出した。
「その傷…どうして?」
俺の疑問を受けて、さえ草さんは微笑んだ。草さんの夫は総合病院に務める外科医だったそうだが、ある日、製薬会社との癒着を疑われ、担当するはずの手術を行えなくなった。代わりの医師が手術を行うが、その患者は死亡。もちろん癒着など行っていなかったが、さえ草さんの夫は全責任を押し付けられて退職した。病院を去った後、ずっと落ち込んでいた夫は、趣味の登山に行くと告げた。さえ草さんはそれを聞いて安心したが、夫を見たのはこの時が最後だったという。下山予定を過ぎても帰ってくる気配のない夫。捜索活動の末、彼は雪山で亡くなっているのが見つかった。遺書は見当たらなかったそうだが、死にきれなかった責任を取ろうと崖から飛び降りた。その結果が、この大きな傷跡だという。
「まさか、その製薬会社って…」
俺には思い当たる節があった。少し前に先輩が起こした不祥事として聞いたことがある。
「正解。あなたが勤めていた会社です。何度も自分は無実だと証明して欲しいとお願いしても、夫を門前払いした会社。」
さえ草さんの声は、喉から絞り出すかのようだった。
「俺が関係ないのは重々承知していたが、あの会社の営業職というだけで、絶対に許せなかった。決して手に入らないものを前に、傷つけばいいと思った。」
彼女は笑った。ただ、俺には泣いているようにしか見えなかった。自分が無茶苦茶なことをしているのが分かっているのだろう。ただ、理屈はどうあれ、俺に制裁を加えたい気持ちがあったのは間違いない。彼女の中にはまだ、亡くなった夫がいるのだ。さえ草さんは夫の無念を抱えて生きていく。そのことを知った俺は、背筋が寒くなった。たったそれだけのために、俺の気を引いたのだろうか。
「今まで色々とありがとうございました。明日、出ていきます。」
こんな場所にはもういられないと、俺は判断した。長い人生の中で、少しだけ休憩をさせてもらった。多分、そういうことなのだろう。
「そうね。そうしてもらえると助かるわ。」
引き止めてくれるかと少しだけ期待したが、無駄だった。さえ草さんはそんなに甘い人間ではなく、最後まで俺に背を向けたままだった。
次の日、俺は朝一番で不動産屋に駆け込んだ。そして新しいアパートを探したわけだが、今は無職ではないから、幸運にも部屋を借りることに成功する。荷物は多くなかったから、引っ越しも楽だった。人生の休息はもう終わり。このアパートを出たら、仕事探しの始まりだ。書店のアルバイトも、来月やめると告げてきた。
俺は住人たちに見送られて、アパートを去る。さえ草さんは最後の最後まで顔を出さなかったから、俺は住人の一人に鍵とお礼を書いたメモを渡した。彼女はメモを読んでくれるだろうか? いや、読まない。多分、そんな気がした。
翌月、俺は新しい仕事を見つけた。以前と同じ営業職だが、今回セールスするのは不動産。そう、あの不動産屋に俺は就職したのである。畑違いの仕事だから、毎日覚えることが盛り沢山。ただ、充実した日々なのは事実だ。
そして今日、やっと引っ越しにこぎつけた。引っ越すのは、懐かしいあのアパート。俺は再び帰ってきたわけである。
「どの面下げて戻ってくるのかと思ったわ。」
さえ草さんは両腕を組んで、玄関先で俺を待っていた。この口調は辛辣だが、瞳には穏やかな光が宿っている。
「最初からやり直してみたいと思って。」
そんな俺の言葉を受けて、さえ草さんは呆れたように笑った。
「まずは、お互いに自己紹介から始めましょう。」
俺はそう言ったが、さえ草さんはなかなか取り合ってくれない。それでも何度かお願いして、ようやく了承してくれた。
「最初からやり直しても、結局同じかもよ。」
「それならそれで、またやり直します。」
さえ草さんは俺の言葉を聞いて、苦笑いしていた。いつか彼女の中で区切りがついた時、さえ草さんの隣に俺がいたら最高だと思う。もしさえ草さんが別の男を選んだ時は、精一杯強がって「おめでとう」と言ってやるつもりだ。
