「ポンコツ」
俺にとって彼女は、いつも生意気な年下の女の子でしかなかった。ただの後輩。ただの部下。いや、正確に言えば上司か。とにかく、俺にとって彼女の存在はそれだけだった。そのはずだったのだ。
ある日、突然の大雨。傘も持たずに道端で立ち往生する俺たち二人。ずぶ濡れになった彼女の顔から、化粧がはがれ落ちた。その下から現れたのは、左目の下に三つ並んだ泣き袋を持つ、あの頃の面影だった。
俺は息を飲んだ。そして、あの日から十年近く経った今も、彼女の素顔をもっと見ていたいと思ってしまったのだ。
俺、当野正年、二十八歳になる。生まれた瞬間から、俺は勝ち組だった。家は代々続くそこそこ名の知れた会社を経営している。「ああ、あの会社ね」と言えば、大概の人間が頷くような、そんな家柄だ。俺は次男だったが、両親は訳隔てなく可愛がってくれたと思う。長男である兄が父の仕事を継ぐことは、俺が小学校を卒業する頃にはもう決定事項だった。だから俺は、自分で自分の道を探さなくてはならなかった。
両親は揃って教育熱心だった。俺も勉強は嫌いじゃなかったし、嬉しいことに同級生よりも出来は良かった。父親似なのか、どうやら頭がいいということに気づいたのは高校生になってからだ。ただ、俺は生まれながらのギフトの上にあぐをかくような真似はしなかった。両親の期待に応えられるよう、努力も怠らなかったのだから。
まあ、少しだけ俺の方が優秀なのに、という気持ちはあったが。兄は優しい人間だったが、どことなく凡庸だった。人より秀でているところは、正直優しさだけだ。母はそれを大切なことだと褒めたが、俺は不満だった。
両親や祖父母の期待を一身に受けて会社を背負うことが決まっている兄貴。俺より能力は劣っているのに——この頃の俺は、どうしようもないクズだった。今思い返すと恥ずかしくて仕方ない。若気の至りだ、と今では反省しているが、当時は真剣に、いつか両親が俺の優秀さに気づいて後継者を変更してくれないか、と願っていたのだ。
だが、そんな機会が訪れるはずもなく、俺は大学を卒業した。就職活動に熱が入らなかったのは、どうせ実家に戻って会社を継ぐわけでもないのに、という投げやりな気持ちがどこかにあったからだ。それでも俺は、第一志望の会社から内定をもらったこうして俺は、後取り問題に不満を抱えつつ、社会人としての一歩を踏み出すことになる。そして、人生最初の挫折を経験するのだった。
入社したのは、有名な広告会社だった。蓋を開けてみれば、俺のような金持ちのボンボンなんて普通にいた。実家の名声で注目を浴びて生きてきた俺の存在は、あっという間に畳の目に埋もれてしまったのだ。俺は自分が注目されない状況に慣れていなかった。だからひどく動揺した。自分の思い通りに場をコントロールできないことに、焦りを感じるようになった。
元々の傲慢な性格が邪魔をして、同僚のアドバイスを素直に聞けない。その結果、俺は暴走し、入社して半年も経たないうちに、とんでもないミスを犯してしまった。一人で何でもできる——そう思い込んだ俺の傲慢さが招いたミスだった。俺をフォローすべく走り回る同僚、クライアントに頭を下げる上司、それを目の当たりにした俺は、完全に壊れてしまった。翌日には退職届を提出し、二度と出勤しなかったのだ。
もう人と関わるのも嫌だ。俺のことを知っている相手に会いたくもない。実家に引きこもった俺を心配した両親は、実家とは別にマンションを用意してくれた。追い出されるような形で家を出た俺は、用意されたマンションに引きこもった。半年経って、ようやく外に出られるようにはなったが、就活をする気分にはなれなかった。ニート、俺は毎日ダラダラと平和に過ごすようになる。今までの自分を全否定するような生活をしてみよう、と思ったのだ。
そんな生活が、数年ほど続いた。
俺が社会復帰できたのは、小さな幸運が重なったからだろう。ニートの俺にとって唯一の娯楽は映画だった。そして、マンションの近くにはミニシアターがあった。要するに小さな映画館で、少しマニアックな映画や古い映画を流しているのだ。年末にはオールナイト上映会までやっていた。地元に根付いた、いい場所だと思う。
ある日、俺はいつも通りチケットを買っていると、受付に従業員募集の張り紙があるのに気づいた。
「従業員を募集してるんですか?」
「急な辞令があってね、急遽してるんだ」
この頃の俺は、ミニシアターがどんな仕事をしているのか、何も知らなかった。
「映画好きなら楽しい仕事だよ」
そんな風に言われたものだから興味が湧き、俺はこの求人に応募することにした。翌日、履歴書を携えて館長との面接が行われ、その場で採用が決まった。トントン拍子に進むので、少なからず不安になったのを今でも覚えている。
「ものすごいブラック企業だったらどうしよう」
面接の翌日から出勤が始まる。一体どんな仕事なのか、俺は不安で仕方なかった。
俺の仕事は雑務と営業だった。前者はポスターやチラシ、館内ディスプレイの作成や展示など、後者は上映する映画の買い付けや宣伝だ。社員が少ないから、みんなが仕事を兼任していた。
「よろしくお願いします」
俺の直属の上司は、女の子だった。年齢的には大人なのだろうが、見た目は少女以外の何者でもない。年齢を聞いて俺は驚いた——俺より五歳も年下だったのだ。
後で館長が教えてくれたのだが、彼女は中卒でフリーターをしていたらしい。手当たり次第にバイトを掛け持ちして働いている彼女を見かねて、ここで働いてみないかと提案したのが最初だったという。その後の彼女の努力はすごかったらしい。「センスがいい」と館長は評していたが、彼女が買い付ける映画は全て当たった。今や業界でも知らぬ者のいない腕らしい。俺の教育係は、彼女と館長が担当することになったそういうわけで、俺には年下の上司ができてしまったのだ。
あっという間に一週間が過ぎた。この短い期間で、俺は彼女の実力を思い知らされる。俺が学生時代に培ってきたことは、何の役にも立たないのだ。毎日、俺は自分の不甲斐なさに頭を抱えていた。
「ゆっくり覚えたらいいよ」
館長はそんな風に言ってくれるが、男として、年上としてのプライドもある。そのやる気が空回りして、何度も失敗を招いた。その度に、彼女は俺のことを「ポンコツ」と呼ぶのだった。
「ポンコツ」は、いつの間にか俺のあだ名となってしまった。もちろん彼女に嫌味な意図はなく、親しみを込めて呼んでくれているのだが、エリート街道まっしぐらだった俺にとって「ポンコツ」呼ばわりは屈辱でしかなかった。「いつか見返してやる」——だが、この気持ちがまた次のミスを招く。
京子さんは本当に美人だ。だが、内面は骨太であるということを、この一週間で思い知らされた。大体この職場は、一癖も二癖もある人ばかりだ。口を開けば皮肉、ギリギリの際どい会話ばかり。最初は「就職を間違えた」と本気で思った。だが、みんなを観察していると、それは間違いだったことに気づく。一見憎まれ口に聞こえるが、それらは悪口ではない。そして、全員が仕事に真摯に向かい合っていた。そのせいで言い争うこともあるが、一時のことで、相手の意見を全否定することはない。入社したばかりの俺の意見にも耳を傾け、皮肉混じりではあるがアドバイスもくれるのだ。」
知らないことを知っているふりをする必要がない——そんな職場は、社員の成長速度が違うようだ。
「チラシの発注終わった?」
クライアントとの打ち合わせから戻った途端、京子さんから確認される。
「終わっています」
「あら、ポンコツの割にやるじゃないの」
京子さんはそう言って、俺のデスクにお土産とコンビニのカフェラテを置いてくれた。一緒に外回りをしている時、俺がこれしか飲まないのを覚えていてくれたのだ。
「俺たちにはないの?」
他のデスクから不満の声が上がる。
「甘いんじゃないよ。自分で買ってきな」
全員と上だが、京子さんは容赦がない。館長にさえこんな感じだから、実質最強である。なんとなく甘やかされているような気がする」だが、「新人相手はみんなそんなもんだよ」と館長は笑っていた。ただ、年下に甘やかされてばかりではいられない——俺はカフェラテを飲みながら、心に誓った。
営業も仕事のうち、というわけで、ある日、営業で外回りの仕事があった。今回は京子さんが同行しての外回りである。館長と一緒に出かけたことはあったが、彼女とは初めてだから、少し緊張する。
今後一人でも行けるようにと、という形でチケット売り場や書店を巡った。ただ、その日は朝から晴れていていい天気だったのだが、やがて空模様が怪しくなってきた。
「雨降りそうですね。傘持ってますか?」
「傘はないな」
曇り空を見上げながら、京子さんは少し不安そうな口調で言う。そういえば、俺は傘を持っている京子さんを見たことがない。どうしてか、と聞こうとした途端、大粒の雨が降ってきた。蹴り上げるような突然の大雨だ。この降り方はどうしようもない。
横断歩道の真ん中にいた俺たちは、走り始める。慌てて店の軒先に駆け込み、雨から逃れることに成功した。高々雨に濡れたのは数秒なのに、俺たちは頭からつま先までびしょ濡れだった。
「ちっ」
京子さんは毒づきながら、ハンカチを取り出して濡れた髪を拭き始めた。
「もう最悪なんだけど」
京子さんは毒づきながら八つ当たりで俺の足を蹴ってくる。
「俺が降らせたわけじゃないですよ」
ってあれ、俺は思わず京子さんの顔に違和感を覚えた。いつもと違うような気がする。
「あれ、京子さん、泣き袋ありましたっけ?」
普段は化粧で隠しているのだろう。京子さんの左目の下には、三つ並んだ泣き袋があった。秘密を知ってしまったみたいで、なんだかドキッとしてしまう。この先も、見てみたい——
そんな風に思ってしまったからだろう、俺は無意識に口が滑った。
「俺の家来ますか?ここから近いですよ」
だが、俺たちは揃って真っ赤になってしまった。
「行った」
俺の足に、強烈な蹴りが入った。
「何するんですか?」
「うるさい。ポンコツの分際で何言ってんだか」
京子さんはそう吐き捨てて、その場で俺を置いて走り去ってしまった。雨はまだ止んでいないから、帰り着く頃にはずぶ濡れだろう。「風を引かなければいいんだけど」——俺は心配になってしまった。映画館に戻ると、京子さんは直帰したらしく、事務所には帰っていなかった。
翌日から、京子さんの態度が一変した。露骨に俺を避けるのだ。「顔も見ようとしないし、挨拶も適当。仕事の話をしようにも、他の先輩に仕事を振る始末。徹底的に自分の縄張りから、俺を排除している。
「お前、なんかやっただろう?」
同僚からもそんな風に言われてしまい、非常に気まずい。
昼休み、やっとの思いで京子さんを捕まえたが、彼女はやはり俺の顔を見ようとしなかった。
「どうして俺のこと避けるんですか?」
「避けてないわ。ポンコツの勘違いでしょ」
俺は昨日のことを思い出しながら、京子さんの左目の下を静かにこする。すると、隠されている三つの泣き袋が、今回も姿を現した。
俺はこのほを、見たことがあった。そして、急に記憶が遡り始める——
あれは、昔、俺がまだ大学生だった頃。当時の俺は傲慢などうしようもない男で、自分は優秀で失敗することなんて想像もしていないようなクズだった。大学のサークルも遊びのようなところに所属し、毎日ダラダラと過ごしていた頃である。大学の近くに、いつもサークルで利用している居酒屋があった。イタリア料理を扱っていていい感じにおしゃれだったから、女の子を口説くには持ってこいの場所だった。その日は合コンで、男三人と女の子が四人。女の子はみんな俺目当てだったと思う。それに気づいた友人が、イライラし始めた。「イライラするくらいなら自分を磨いたらどうか」と思うが、彼にそんな向上心はないようだ。
最悪なことに、友人は料理を運んできたアルバイトの女の子をからかって、口説き始めたのだ。まだ高校生くらいの女の子の顔は、当然困っている。「派手な外見をしているから何とかうまくスルーするだろう」——俺はそんな風に思ったが、予想に反して女の子は本当に困っていた。お客さんが相手ではきつく言えない。だが、軽くあしらうには経験値が足りない印象を受けた
「ちょっとごめん」
隣に座る女の子を口説いていた俺は、そう言ってから友人に合図する。
「いい加減にしろよ。困ってるだろう」
続いて、椅子から身を乗り出してバイトの女の子に絡む友人の首根っこを押さえつけた。
「早く行きな」
俺は友人が暴れている間に、バイトの女の子を逃がしてやった。
「お前、ちょっとうざ絡みしすぎ」
俺は友人の頭を何度か叩いて、その場を収めた一方、カウンターの中に逃げ返ったバイトの女の子は、何度も俺に頭を下げていた。その子の目の下には、この三つのほがあった——
「ちっ」
そうだ、思い出した。あれだ、あのイタリア居酒屋のバイトの子だ。
俺がようやく思い出すと、京子さんはちっと舌打ちをした。
卒業するまで何度もあの店を利用し、何度もこの顔を見ていたはずなのに、どうして気づかなかったんだ——
「隣にいた彼女と結婚しないの?」
あれは学生の頃付き合っていた彼女のことだ——今の京子さんそっくりの——
「まさかと思いますけど、俺の勘違いかもしれませんけど、その格好はコスプレですか?」
直後、京子さんは俺に頭突きを見舞った。続いて、言葉と共に蹴りが入れられた。
「言葉を選べよ、ポンコツ」
だが、その後、俺は聞き逃さなかった——
「ありがとう」
消え入りそうな声で、あの時と同じ感謝の言葉が送られたような気がしたのだ。
「館長、聞きたいことがあります」
その後、俺は館長室に飛び込んだ。
「もうバレたのか?」
何かを悟ったように、館長は笑っている。館長が言うには、俺を雇ったのは京子さんの希望らしい。「自分を助けてくれた初恋の人が失業して困っているから、ここで雇って欲しい」とさらに、社員募集の張り紙も、俺がチケットを買う時だけ掲示していたらしい — 要するに、俺はこのミニシアターの社員全員に担がれていたわけだ。
京子さんは、当時俺が連れていた彼女を思い出し、俺好みの格好をしていたのだという。
「コスプレとは当たらずとも遠からず、だな」
さらに、京子さんから容姿が変わったことや、諸々を俺に言わないよう、口止めが敷かれていたと、館長は笑った。
「ちっ——全て京子さんの策略だったなんて」
深謀遠慮、回りくどい——だが、同時に、心から愛しいと思った。
翌日、京子さんはあの時の女の子に戻っていた。この姿で再会していたら、すぐに分かっただろうに——それでも、元の姿に戻った京子さんは、何事もなかったように振る舞っていた。
「俺が初恋の相手って聞きましたよ。ずっと俺のことが好きでしたか?」」
昼休み、自分のデスクでパンを頬張る京子さんに、俺は聞いてみる。だが、京子さんは俺を睨み、舌打ちした——
「今は嫌い」
「えっ」
まさかの言葉に、俺は間抜けな声を漏らしてしまう。
「ポンコツだからね、あんた」
——だが、京子さんは微笑んだ。少しだけ、耳の先が赤くなっている。
「じゃあ、早くポンコツから卒業しなきゃですね。でも、卒業したら考え直してくださいね」」
「ポンコツのくせに、生意気」
京子さんは相変わらず吐き捨てて立ち去っていく——だが、俺は聞き逃さなかった—
「……待ってあげないことはないわよ」
小さく呟かれたその言葉を、確かに。
彼女が俺の隣でウェディングドレスを着る日——それは、まだまだ先の未来になりそうだ。だが、その未来が、確かに待っているような気がして——俺は、ゆっくりと、その背中を見送ったのだった。
