新幹線のグリーン車で、偶然再会した元恋人とその婚約者に「高卒の荷物持ち」と嘲笑された。彼女は冷たい目で「あなたと別れて正解だった」と言い放ち、俺の過去も今も全て否定した。その直後、車内で倒れた初老の紳士を救うため、俺は「医者です」と名乗り出た。彼らの驚愕の表情を背に、俺は命を救った。だが、その後の商談先で、まさかの再会が待っていた。彼女の父親が、俺の取引先の社長だったのだ。そして、彼女の婚約…
「誰か、お医者様か看護師の方はいらっしゃいませんか?」 静まり返っていたグリーン車の空気が、乗務員の悲鳴に近い声で切り裂かれた。膝の上にあるアタッシュケースの重みが、急に現実味を帯びる。最悪だ。数分前、偶然再会した昔の恋人とその傲慢な婚約者の男に、俺は高卒の荷物持ちと嘲笑われ、過去も今も全てを否定されたばかりだった。 騒ぎの中心に目をやると、通路に初老の紳士が倒れていた。そして、あの男が待ってましたとばかりに自信満々に口を開く。 「医療には精通している。ああ、窒息しかけてるだけでしょう。その人を横向きに寝かせてあげてください」 「違う。その体勢は逆に命を奪うぞ。それじゃダメだ」 俺は叫んでいた。驚く男と乗務員を押しのけ、倒れた乗客の前に進み出る。混乱する乗務員が俺に問いかける。 「あ、あのお客様は一体…」 俺は乗客の脈を確認しながら、短くはっきりと告げた。 「医者です」 嘲笑っていた男と、信じられないという目で俺を見る彼女の視線が突き刺さる。そうだ。俺が捨てたはずの過去が、今、俺の未来をこじ開けようとしていた。本当の戦いはここから始まる。 俺の名前は霧島秋斗。かつてはそんなありふれた自分の名前が、少しだけ誇らしかった時期もある。だが今は違う。 俺は今、桜総合サービスという中小企業で働いている。表向きは中小企業の取引をサポートする小さな専門集団だが、俺にとってこの会社は戦場であり、希望そのものだった。 俺は明確な目的を持ってこの会社に入った。 「霧島君」 デスクで分厚い技術分析レポートを作成していると、初老だが鋭い目をした部長に呼ばれた。 「先日のスマート製作所の技術分析レポート、素晴らしかったよ。うちの営業が、霧島君のレポートのおかげでクライアントの反応が別次元だって絶賛してたぞ」 「いえ、製品のポテンシャルが高いだけです」 「謙遜するな。君があの金属加工技術の応用可能性について追記してくれた補足資料、あれが決定的だったんだ。君の分析は確かだよ」 「ありがとうございます」 そう、俺はこの会社で地道に築いてきた信頼があった。今の職場の人間関係は悪くない。真面目に働いていれば、正当な評価はしてもらえる。そして昨日、俺にとって最大のチャンスが訪れた。 「霧島君、悪いんだけど、これ、明日の朝一で大阪のクライアント先に直接届けてくれないか?」 部長は興奮した面持ちで、1枚の新幹線のチケットと重いアタッシュケースを俺のデスクに置いた。 「例のケースだ。最新サンプルと最終提案書の原案だ。最重要機密だからな」 「はい」 「クライアント様への誠意として、グリーン車を取っておいた。会社の経費だ。何より、この案件は最初から君が技術データをまとめてくれていた。君は仕事が確実だからな。この件は霧島君に任せたい」 「ありがとうございます。必ず確実にお届けします」 俺は膝の上のアタッシュケースの重みだけを強く感じていた。流れゆく窓の外の景色をぼんやりと眺める。少し落ち着かないな。この車両の静かすぎる空気と、俺の心持ちがどうにもちぐはぐだった。 俺は重要なアタッシュケースを抱えたまま、気分転換にトイレへ向かおうと席を立った。狭い通路を車両の前方に向かって進む。その時、前方から来た女性とすれ違おうとして、互いに軽く会釈をした。ふわりと香った懐かしい匂い。 足を止めかけた俺の背中に、小さくだが確かな声がかけられた。 「あれ? もしかして、秋斗君?」 心臓が大きく跳ねた。この声は忘れるはずがない。ゆっくりと振り向くと、そこに立っていたのは、俺の記憶の中にいるよりも少しだけ大人びた、しかし変わらない大きな瞳を持つ、つむぎだった。 「つむぎ…なのか」 「やっぱり。久しぶりだね、秋斗君」 数秒か、あるいは数十秒か。気まずい沈黙が俺たちの間に流れた。グリーン車の静かな車内では、互いのぎこちない呼吸の音さえ聞こえてきそうだった。昔もこうやって2人で旅をしたことがあったな。 蘇ってきたのは学生時代の記憶。俺は家庭が決して裕福とは言えなかった。つむぎも、町の社長令嬢とは名ばかりで、決して贅沢ができる暮らしではなかった。そんな俺たちが、当時東京に新しくできたテーマパークにどうしても行きたいねと話し合い、何ヶ月も2人で必死にアルバイトをしてお金を貯めた。やっとの思いで手にした2枚の新幹線の自由席チケット。混雑する車内で運良く並びの席を見つけた時のあの高揚感。 窓の外を流れる景色を見ながら、つむぎが恥ずかしそうに言った。 「なんだか、こうやって2人で新幹線に乗ってると、新婚旅行みたいだね」 「バカ。気が早いだろ」 「でも、つむぎ、本当に行けるといいな」 「うん。ねえ、秋斗君は将来絶対すごい人になるよ。私、分かってるから」 「プレッシャーかけるなよ。俺は俺のやり方で、人の役に立つことをするだけだ」 「それより、つむぎこそどうなんだよ。実家の工場継ぐんだろ」 「うちはまあ、古い技術ばっかりだって取引先にも言われてる。でもね、お父さんのあの技術だけは世界一だって信じてるの。つむぎ、この技術が世界をあっと言わせるんだから」 「ああ、俺もそう思うよ。つむぎの家の技術は、いつかきっと世界を変える」 あの頃、俺たちは本気でそんな未来を信じていた。 俺が何かを言おうと口を開きかけたその時だった。 「おい、つむぎ、遅いじゃないか」 通路の奥から、聞きたくもないデリカシーのない声がした。つむぎの背後から現れたのは、高そうな光沢のあるスーツを着こなした男。俺の大学時代の同級生、馬場賢介だった。 「うん? なんだ、知り合いか」 馬場はつむぎの肩に馴れ馴れしく腕を回すと、値踏みするように俺の全身を眺めた。そして俺の顔を見て、思い出したように目を丸くした。 「うわあ、お前、霧島じゃねえか。マジかよ。こんなところで会うとか」 馬場は学生時代からこういう男だった。大手医療機器メーカー、馬場メディカルの御曹司であることを鼻にかけ、常に他人を見下すことでしか自分の価値を図れない、中身のない男。俺は昔からこいつが嫌いだった。 「お前、今どこで何してんだよ。同窓会にも来ないし。まさかフリーターか」 … Read more