「もういい。この無能君は首だ」…
「もういい。この無能君は首だ」 社長であり、両親が亡くなってからずっと世話になっている叔父にそう告げられ、俺はその場に呆然と立ち尽くした。前々から普通で何の取り柄もない人間だとは思っていたが、この程度で体調を崩すようなら君は普通ですらない。無能だよ。無能。 叔父は無能を強調するように繰り返した。体がどんどん重くなっていく。 「あ、この会社をやめるということは、もちろんうちからも出て行ってもらうということだからね。何の役にも立たない奴を置いておくほど、僕もお人好しじゃないから」 こうして俺は家族から追い出され、行く当てもなく途方に暮れることになった。だが仕方がない。全ては普通で何の取り柄もない俺が悪いのだから。 だけど、俺のそんな考えは、一人の美女と交わした契約によって大きく覆されるのだった。 「ま」という表札の掲げられた、親戚と言っても過言ではないほどの大きな家を眺めて、俺、中岡大和はため息をついた。私物を詰めたリュックサックは思っていたほど重たくない。それだけこの家に物を置いていなかった。いや、置く場所がなかったんだと気づいて、思わず自嘲が漏れる。 俺の両親は俺が大学生の時に亡くなった。それからはこの家の持ち主である叔父の元に身を寄せていた。就職も叔父が経営している会社に入社した。 「君の両親が亡くなった後、学費を払ってやっていたのは僕だ。生活費だって君を養っている分、余計に払っているんだ。その分しっかり働いてもらわないとな」 叔父はそう言って、発揮で俺をこき使った。元々ブラック企業の気がある会社だ。サービス残業は当たり前だった。さらに、社長に嫌われている俺は、周りの社員から格好の不満の吐け口として雑務を押しつけられたり、暴言を浴びせられたりした。 そのストレスが溜まったのか、先日一週間寝込んでしまった。その結果、叔父から首を言い渡され、家からも追い出され、今に至る。 再びため息をついてから、その場を後にした。とはいえ、行く場などあるわけがない。足は自然と行きつけの居酒屋「騎兵隊」に向いていた。ここは大学時代の後輩である高杉が店長を務めている店だ。 金がなく、一杯だけお酒を頼むのが精一杯の俺に、高杉はよくビールや握り飯、唐揚げなんかをサービスしてくれた。後輩に奢られるなんて情けないと思いながらも、俺は彼の心遣いをありがたく受け取っていた。 ここに来るのも最後になる。高杉には今までの感謝と別れを伝えないと。そう決意し、俺は店の暖簾をくぐった。 「いらっしゃい。あれ、大和先輩じゃないっすか。あれ、どうしたんすか?その大荷物は」 大した量でもない荷物を見て、高杉は目を丸くする。まだ開店して間もないはずの店内には、すでに数人の客がいた。それにも関わらず、高杉は俺をカウンター席に案内し、ビールを一杯置いて、俺の前に立ったまま動かない。話を聞く気満々だとわかる。 「いよいよ家出っすか?」 「家出じゃなくて、追い出されたんだよ。前から『普通だの凡人だの』と言われていたけど、とうとう『無能』のレッテルを押されてな」 高杉は「ひえっ」と小さな悲鳴をあげた。そんな彼が置いてくれたビールを喉に流し込む。なんだか味がしなかった。 「まあでも、良かったんじゃないですか。俺はいつ、先輩が先輩の能力を適正に評価しない親戚たちに見切りをつけるんだろうなって思ってたんすよ」 「俺が凡人なのは事実だからな。叔父のように大勢の社員をまとめ上げることなんてできないし、お前みたいに何年も流行るような店の経営もできない。特に取り柄のない普通の人間さ」 「大和先輩、何度も言いますけど、普通の人間なんていないんですよ」 「はいはい」と高杉の言葉を聞き流す。それは彼がよく俺に言うことで、耳にタコができるぐらいには聞き飽きていた。高杉は口を尖らせながらも、「家出ってことで、全部俺が持ちます」と言いながら、料理を次々に出してくれる。遠慮せずに食べることにした。そもそも家出じゃないし。 「それで、先輩、住む場所はあるんですか?」 「あるわけないだろう。しばらくはネットカフェだな」 鳥の照り焼きを頬張りながら、思わずまたため息を漏らした。 「あ、じゃあ先輩、俺の店で、私が雇ってあげようか」 高杉の言葉を遮ったのは、抜群に顔立ちの整った美女だった。顔を真っ赤にし、片手にピンク色の何かを持って、カウンターに座る俺を見下ろしている。突然美女にそんなことを言われたら、普通の人間は驚きのあまり声も出ないだろう。俺も例外ではなかった。 美女は「よいしょ」と俺の隣に座った。高杉がカウンターを離れて、彼女が元いたらしい席から食べかけの湯豆腐を持ってきて置く。 「それで、どうなのよ?働く?もちろん住み込みよ。悪い話じゃないと思うんだけど」 グイッと顔を近づけてくる彼女に、思わず後ずさりする。完全に酔っ払っている。こんな美女の元で住み込みで働くなんて、いい話があるはずがない。酔っ払いの戯言だ。 「あの、申し訳ないんですが、その話は…」 断りの言葉を口に出したその時、目の前の美女がいきなり机につっぷした。何事かと慌てるも、どうやら寝落ちてしまっただけのようだった。すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てている。 「あら、秋さんたら、しょうがないっすね。先輩、彼女を送り届けてくれませんか?」 「はあ?なんで俺が?」 高杉の言葉に驚いていると、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。 「送ってくれないんなら、今日食べた分の代金払ってもらいます」 「今日は全部持つって言ったじゃないか」 「気が変わりました」 言葉をつまらせる俺。文句が言えない。 高杉に彼女、秋さんの住所を教えてもらい、彼女を背中に、リュックを腹に抱えて店を出た。教えてもらった住所に着くと、そこは金持ちしか住めないであろう高級マンションだった。もちろんオートロックだったので、意識のおぼつかない秋さんをなんとか起こして鍵を出してもらい、中に入る。そのまま彼女の部屋まで行き、失礼ながらお邪魔して、彼女をリビングのソファーに寝かせた。さすがに寝室に入るのは気が引けた。 「よし、俺の仕事は終わり。高杉のところに戻ろう」 踵を返したその時だった。強く腕が引っ張られて、ソファーに背中を打ち付けるはめになった。リュックを背負っていたから痛みはなかったけど。 「どこ行くのよ。だめでしょ。大人しくしなさい」 まだ顔の赤い秋さんが、眠そうに目を半分開きながら頬を膨らませて、不機嫌そうにこちらを見下ろしていた。ポカンとする俺を、彼女は構わず抱きしめた。 「よしよし、いい子だ」 嬉しそうに俺を撫でて、満足したのか、再びソファーに身を沈めた。どうすればいいのか分からなかった。心臓は早鐘を打ち、頭は真っ白寸前だ。そっと抜け出そうとするも、ますます強く抱きしめられてしまった。これでは動けない。観念して、俺はこの部屋で一泊することにした。 とても眠れるものじゃないと思っていたが、徹夜明けで出社した上に、叔父にきつい言葉を投げられて疲れていたのだろう。いつの間にか眠っていた。 気がつくと、カーテンの隙間から朝日が漏れていた。秋さんは俺から腕を離している。一泊させてもらったのだからと、俺は秋さんを起こさないように掃除と朝食の支度を始めた。 すっかり支度が整ったちょうどその時、秋さんが目を覚ました。 「おはようございます」 挨拶すると、秋さんはぼんやりと俺を見上げた。眠そうだった目が、次の瞬間大きく見開かれる。 「誰?」 「え、もしかして覚えてないんですか?昨日、騎兵隊で絡んできたじゃないですか」 「騎兵隊に行ったのは覚えてるけど、その後は確か犬を拾って…」 … Read more