朝の八時、姉が「私行かないから」と言って家を出た。二時間後にはお見合いが始まる。振り袖は二階にかかったまま。母は台所で皿を洗う私を見て言った。「あんたが行きなさい。」私は姉の身代わりとして、写真で見た泥だらけの作業着の男の前に座った。あの日、私は何も知らなかった。この人が誰なのか、なぜ私を選んだのか。そして、半年後の結婚式で、家族の前で明かされる真実を。…

朝の八時過ぎ、玄関で姉がヒールを吐きながら言った。「私行かないから。」 二階には着付け用の振り袖がかかっている。なのに姉は自分のワンピースに着替え、足元には旅行用のカバンが置いてあった。母が階段を駆け下りてきた。「あお、何を言ってるの?あと二時間で仲人が来るのよ。」母の声は裏返っていた。姉は振り返りもしなかった。「あんな写真の男の前に私が座るの、無理に決まってるでしょ。」 玄関のドアが閉まった。家の中は静かになった。父が奥の部屋から出てきて、母と顔を見合わせた。「会場は常南で一番古い料亭の座敷だ。中ほどは父の会社の取引先の役員だ。今から断れば霧原の家の顔は潰れる。」その時、母が振り返った。まっすぐに私を見た。台所で朝食の皿を洗っていた私を。「はるか、あんたが行きなさい。」 私は手を止めた。水の流れる音だけが続いていた。「聞こえたでしょ?あんたがまおの代わりに座るの。」 その朝、私は姉の身代わりとしてお見合いの席に座った。相手は写真の中で色の焦げた作業着を着て、軽トラックの前に立っていた人だった。この日から始まった半年が、私の人生を根っこからひっくり返すことになるなんて、この時の私はまだ思ってもいなかった。 私の名前は霧原はるか。二十五歳。常南市で業務用の食品を卸している霧原フードサービスという会社の社長の娘だ。娘と言っても会社に席はない。朝五時に起きて家族四人分の朝食を作り、事務所へ行って伝票を仕分ける。電話がなれば取る。誰かが休めば穴を埋める。夕方に戻って夕飯を作る。それが高校を出てからの七年間だった。給料はもらっていない。「家の仕事に給料が出るわけがない」というのが母の言い分だった。 姉のまおは三つ上で、私とはまるで違った。背が高くて顔立ちが整っていて、話し始めると場の中心になる。大学を出て父の会社の営業部にいる。両親は姉のことを話す時、いつも少し声が高くなった。母がよく言っていた言葉がある。「あんたはまおの引き立て役なんだから。」小学生の頃から数えきれないほど聞いた。だから私はそういうものだと思って育った。前に出ない。口答えしない。呼ばれたら行く。それが霧原の家での役目だった。 霧原フードサービスはホテルや旅館やレストランに食材を卸す会社だ。従業員は五十人ほど。父が三十年前に一台で起こした。私が事務所に出入りするようになったのは高校三年の秋からだ。大学へ行きたいと言うと、父は書類から目を上げずにこう言った。「女に金がかかる。お前は家におればいい。」それで話は終わった。就職の相談も同じだ。母が三者面談に来なかったので、担任の先生が困った顔をしていたのを覚えている。 事務所の仕事は雑用だった。伝票の仕分け、請求書の封入、電話の取り次ぎ。誰かがやめるたびに私の机の仕事は増えた。それでも文句は言わなかった。言えば面倒になると知っていたからだ。 ただ、雑用にも雑用なりの覚え方がある。伝票を七年も仕分けていると、どの店がどの食材をいつ頼むかが頭に入る。あそこのホテルは金曜に大きい注文が入る。あの旅館は十二月に入ると魚の量が三倍になる。枚数を見ただけで、その月に何があったのかが分かるようになった。ただ、仕入れの伝票は私の机には来なかった。仕入れの伝票は営業部が別に持っていて、私が触るのは売り先の分だけだった。電話も同じだ。名前を名乗らない相手でも、何年も取っていれば声と癖で分かる。母は私のそういうところを一度も褒めなかった。褒めるどころか、気づいてもいなかったと思う。 一度だけ、こういうことがあった。得意先の旅館から注文の行き違いで大きなクレームが入ったことがある。事務所は朝から大騒ぎで、営業部の人たちが机の上をひっくり返していた。私は自分の机でその旅館の三ヶ月分の伝票をめくって、五分で見つけた。先方の担当者が電話で数を言い間違えていたのだ。前の月にも同じ間違いがあって、その時訂正の電話を受けたのが私だったから、余白に鉛筆で日付を書いてあった。私がその二枚を持っていくと、うちのミスではないと分かって事務所の空気が緩んだ。父は「そうか」とだけ言って自分の部屋へ戻った。 その後、姉が私の机に来て伝票を取り上げてこう言った。「これ、私が見つけたことにしていい?だって、あの旅館私の担当だもん。はるかが見つけたって言っても誰も分かんないよ。」私は頷いた。断る理由が思いつかなかったからだ。その週の会議で姉は父に褒められたそうだ。私はその会議に呼ばれていない。家に帰ってから母がこう言った。「まおがね、旅館の件で助かったって、お父さんが言ってたわよ。ああいう機転が効くのは、やっぱりあの子だわ。」私は「そう」とだけ言って夕飯の支度を続けた。 悔しくなかったかと言うと嘘になるけれど、悔しがったところで私の暮らしは一ミリも動かない。動かないと分かっていることに気持ちを使うのは、私にはもう贅沢だった。 もう一つ、私には家の台所で身についたものがあった。母は料理をしない人だった。私が中学に上がった頃から夕飯を作るのは私の仕事だった。父の会社は食材の卸しだから、売れ残りや傷の入った野菜がダンボールごと家に回ってくる。曲がったキュウリ、割れた大根、線の入ったニンジン。そういう野菜は市場では値がつかない。父は「はね出し」と呼んでいた。規格から外れた、はね出されたものという意味だ。 はね出しの野菜を毎日切っているうちに、私は妙なことに気がついた。形の悪い野菜の方が味が濃いことがあるのだ。まっすぐ揃った人参より、途中で二股に割れた人参の方が甘い日がある。綺麗に巻いたキャベツより、外の葉が破れたキャベツの方が芯が締まっている日がある。いつもではないけれど、確かにそういう日がある。 一度だけ母に言ってみたことがある。中学二年の時だ。その日の煮物に使った人参が驚くほど甘かった。二股に割れた、一番形の悪いやつだった。私は夕飯の時に「これ甘いよ」と言った。母は皿も見ないでこう言った。「そんなの気のせいでしょう。はね出しなんだから。」はね出しなんだから。その一言で終わった。味の話をしていたのに、帰ってきたのは値段の話だった。それ以来、私はそれを誰にも言わなかった。言ったところで「あんたに何が分かるの」と返されるのが目に見えていたからだ。 そんな私に縁談が来たわけではない。縁談は姉に来た。三月の終わり。父が帰ってくるなり、上着も脱がずに母を呼んだ。「まおに見合いの話が来た。」母が台所から飛んできた。私は流しの前でその話を聞いていた。相手は北野町というところで農業をやっている三十四歳の男性だという。仲人は父の会社の取引先の役員で、その人が是非と思ってきた話だ。母は顔を曇らせた。「農業って、農家ってこと?北の町って、あの山の方?」父は椅子に座って上着を脱いだ。「向こうさんも家柄は悪くないらしい。とにかく先方はうちの会社にも縁がある。無にはできん。」 父は封筒も持ち帰っていた。中には写真と釣り書き。釣り書きというのは、相手の生まれや仕事や家族のことを書いた紙のことだ。母が封筒から中身を出して写真を見た瞬間に、短く声をあげた。「ちょっと、これ。」写真の中の男の人は色の焦げた作業着を着ていた。膝の辺りに泥が跳ねている。背景には軽トラックが止まっていて、その荷台には箱のコンテナが積んであった。日に焼けた顔でこちらを見て、少しだけ笑っている。それだけの写真だった。「これをお見合い写真で送ってくるの?普通スーツくらい着るでしょう。」母は写真をテーブルに放った。私が拾って戻すと、母はそれをまた指で押しのけた。父は釣り書きの方を手に取った。折り目を開いて目を通し始めたけれど、最初の職業を読んだところで父の指が止まった。「まあ、農家か。」そう言って父は釣り書きを封筒に戻してしまった。父は釣り書きを最後まで読まなかった。母は写真しか見なかった。 その夜、姉が帰ってきた。母が写真を見せると、姉は三秒も見なかった。「無理。」「ちょっとは考えなさいよ。お父さんの立場もあるんだから。」「こんな貧乏そうな男の人、絶対に嫌。泥だらけじゃない。」姉は写真を裏返してテーブルに伏せた。「私、そういうのと結婚して一生軽トラに乗る人生とか考えられないから。」母は困った顔をしたが、本気ではなかった。母も同じ気持ちだったのだと思う。 それからの一週間、家の中はずっとその話だった。断ろうか。でも仲人の顔がある。一度だけ座って、後で断ればいい。結局そうなった。姉は最後まで嫌がっていたが、当日の朝までは支度をする気配があった。だから母も油断していたのだと思う。そして当日の朝八時過ぎ、姉は旅行かばんを持って玄関を出ていった。残されたのは二時間後に始まる見合いと、二階にかけたままの振り袖だった。そして母は台所にいた私を見た。 何を言われたのか、私にはすぐには分からなかった。「私が?」「そうよ。相手はまおの顔なんて知らないんだから。」「でも、先方は姉さんと見合いをするつもりで…」「霧原の娘には違いないでしょう。」母はもう二階へ上がろうとしていた。振り袖を取りに行ったのだ。私は父を見た。父はテーブルの新聞を畳んで、こちらを見ずに言った。「行ってこい。」「お父さん…」「顔だけ出せばいい。あとはこっちで断る。」母が階段の途中で振り返った。そしてこう言った。「どうせあんたには贅沢な相手よ。」その言葉は不思議とあまり刺さらなかった。似たようなことをそれまでに何百回も言われていたからだと思う。刺さったのは、その後に続いた一言の方だった。「家族のためでしょう。」 私は返す言葉を持っていなかった。二十五年間、私はその言葉で動かされてきた。家族のため、霧原の家のためだから、今日も台所に立ち、伝票を仕分け、電話を取ってきた。私は手を拭いて二階へ上がった。姉のために用意された振り袖は、袖が少し長かった。着付けの人は「あら」と言いかけて、それから何も言わずに帯を締めてくれた。鏡の中の私は、他人の服を着せられた人形に見えた。 料亭の門をくぐったのは十時二十分だった。座敷は中庭に面していて、桜がもう散りかけていた。仲人の役員が先に来ていて、私を見て一瞬だけ動きを止めた。私は畳に手をついた。「霧原の娘、はると申します。姉のまおがどうしても来られなくなり、代わりに参りました。」嘘をつくつもりはなかった。というより、つき方を知らなかった。仲人の役員は困った顔で父を見た。父は咳払いをし、母は畳に目を落としていた。 その時、廊下から足音がして襖が開いた。入ってきたのは背が高くて肩の広い人だった。写真より少し痩せて見えた。着ていたのは紺のジャケットで、生地が薄くなっているのが遠目にも分かる。袖口が擦れて白い。何年も着ているのだろうと思った。その人は畳に座って深く頭を下げた。「小泉新一です。今日はありがとうございます。」低くて押し付けがましいところのない声だった。顔を上げた時、私はその人の手を見た。節が太くて甲が日に焼けていた。人差し指の付け根に古い傷があり、爪は短く切り揃えてある。爪の際に、洗っても落ちない土の色が残っていた。私も自分の手を膝の上で握った。七年分の洗い物で赤切れの治らない手だった。 仲人が形式に沿って両家を紹介した。父が会社の話をした。取引先の名前を並べて、少し声が大きくなっていた。母は途中から小泉さんの服装をチラチラと見ていた。父の話は長かった。霧原フードサービスは創業三十年で、県内のホテルと旅館の何割かに食材を入れている。近頃は産地との直接の取引に力を入れていて、いい生産者を探している。父はその話を十分続けた。「まあ、うちのような会社が言うのもなんですが、これからは産地と直に組む時代です。私はね、いいものを作る人にはちゃんと値をつけてやりたいんですよ。」 小泉さんは黙って聞いていた。相槌は打っていたが、顔はほとんど動かなかった。私はその時、変だなと思った。七年伝票と電話で人を見てきたせいだと思う。人は自分の商売に近い話が出ると、目の辺りが少し動く。小泉さんは全く動かなかった。聞いていないのではない。聞いていてなお動かさないでいるように見えた。けれど私は自分の感を信じたことがない。気のせいだろうと思って、膝の上に目を戻した。 父の話が途切れたところで、小泉さんは一度だけこう言った。「北の町で農業をしています。畑と、あとは出荷の仕事を少し。」それだけで、それ以上は自分の話をしなかった。母が身を乗り出した。「あの、失礼ですけど、農業というのはどのくらいの…?」「土地はまあ、それなりにあります。」「それなり?」母は口の端を上げた。私にはその笑い方の意味が分かった。「ああ、やっぱりね」という笑い方だ。「大変ね。人手も足りないんじゃないの?」「足りない年もあります。」母は「そうよね」と言って湯呑みを取った。その受け答えを私は横で聞いていた。小泉さんは一度も嘘をついていなかった。「人手が足りない年もある」「土地はそれなりにある」。全部本当のことだ。ただ、大きく言うということは、この人は一切していなかった。母は言葉の少なさを中身の少なさだと受け取っていた。そして、そう受け取られても構わないという顔を小泉さんはしていた。 料理が運ばれてきた。春の献立で、筍と菜の花、鯛の刺身、それから炊き合わせ。緊張していたので味などしないだろうと思っていた。炊き合わせの器に、花の形に抜いたニンジンが入っていた。一口食べて、私は思わず箸を止めた。甘かったのだ。砂糖の甘さではない。噛んだ後に、後ろの方からゆっくり上がってくる甘さだった。私は毎日はね出しの人参を切ってきた。何百本もだ。だから分かった。これはあの二股の人参と同じ味だ。急がせて太らせたものではなく、寒さにあたって時間をかけて育ったものの味だ。気がついたら、私は声に出していた。「この人参、甘いですね。」 座敷が静かになった。母が私を睨んだ。お見合いの席で料理の感想を言う人がいるか、という顔だった。私は慌てて口を閉じようとしたが、もう一言だけ出てしまった。「土がいいんだと思います。」自分でもなぜそう言ったのか分からなかった。父が咳払いをした。母が「すみません。この子は」と言いかけた。その時、小泉さんが顔を上げた。私を見ていた。まっすぐに。その目がそれまでとは違っていた。「そうですか。」それだけ言って、小泉さんは自分の器の人参を口に入れた。ゆっくり噛んで飲み込んで、それから小さく頷いた。「はい。土です。」 すると仲人が思い出したように口を挟んだ。「そういえば、こちらのお店、小泉さんのところの野菜を使っておられるんでしたね。」「ええ。父の代からです。」母は「あら、そう」と言っただけだった。母にとっては、農家が料亭に野菜を売っているというだけの話だったのだと思う。そのやり取りの後、座敷はまた当たり障りのない話に戻ったけれど、私には一つ気になることがあった。小泉さんが私の言ったことに一度も理由を聞かなかったことだ。普通なら聞くと思う。「なぜ土がいいと思ったんですか」と。若い女が料亭の煮物を食べて土の話をしたら、大抵の人は不思議がる。聞かないということは、こちらの言ったことが分かっているということだ。私はその時、この人は何を作っている人なんだろうと初めて思った。「畑と、あとは出荷の仕事を少し」そう言っていたけれど、あの人参の意味が一口で分かる人が、少しだけ出荷をしている人であるはずがなかった。 その考えは、けれど母の声にかき消された。「うちの主人も申しますけれど、これからの時代、若い方は資格でも取っておかないとね。」母は小泉さんに向かって話しているようで、本当は隣の仲人に聞かせていた。私は膝の上に目を戻して、それきり何も言わなかった。 見合いは一時間ほどで終わった。帰り際、仲人が父と母を先に玄関へ連れて行き、廊下に私と小泉さんだけが残った。小泉さんは中庭の方を見たまま、こちらを向かずに言った。「無理をして来られたんですよね。」私は息を止めた。「お姉さんが来られるはずだったんでしょう。」「はい。」「振り袖の袖の長さが合っていない。誰か別の方に合わせたものを、今朝慌てて着せられたんだと思いました。」私は自分の袖を見た。確かに指先が半分隠れている。小泉さんが振り返った。怒っている顔でも責めている顔でもなかった。「嫌なら、この場で断ってくださって大丈夫です。断りの理由はこちらで作ります。霧原さんのお家に迷惑がかからないようにします。」 私は言葉が出なかった。その日まで、「嫌なら断っていい」と言ってくれた人は一人もいなかったからだ。「家族のためでしょう」「お前は家におればいい」「あんたはまおの引き立て役なんだから」。私が聞いてきたのはそういう言葉ばかりだった。気がつくと、私は首を横に振っていた。「いえ…断りません。」自分の声だとは思えなかった。小泉さんが少しだけ目を見開いて、それから初めて笑った。目じりにしわの寄る笑い方だった。「そうですか。」 廊下の向こうから母の呼ぶ声がした。私は一礼して歩き出した。数歩進んだところで、私は足を止めた。小泉さんのジャケットの肩に、乾いた土がついていたのだ。少しだった。私は戻って手でそれを払った。自分でもなぜそんなことをしたのか分からなかった。七年、誰かの服の埃を払うのが仕事のような暮らしをしていたから、手が勝手に動いたのだと思う。「あ、すみません。ついていたので。」私はもう一度だけ小さく礼をして、今度こそ廊下を歩いた。背中に小泉さんの視線を感じていた。 帰りの車で、母はずっと機嫌が悪かった。「あの人、ジャケットの袖が擦り切れてたわ。見た?」「まあ、農家だからな。」「それに、うちの会社の話をしても全然食いついてこないの。ああいう人はダメよ。商売気がないんだから。」私は後部座席で黙っていた。 家に着くと、姉が帰っていた。ソファーでテレビを見ながら私を見て笑った。「あ、身代わり花嫁のお帰りだ。」母が荷物を置きながら言った。「まお、あんたね。」「だってお母さん、私が正解だったでしょ。どうだった?泥だらけの人。はるかにはちょうど良かったんじゃない?」私は振り袖を脱ぎに二階へ上がった。階段の途中で姉の笑い声が聞こえた。 その夜、家の中が静かになってから、私は封筒を出した。先月の終わりに父が持ち帰って、そのまま机に置きっぱなしにしていたあの封筒だ。誰も片付けないので、私が写真も一緒に戻して引き出しに入れておいた。中には写真と、それから釣り書きが入っていた。私はその釣り書きを、多分霧原の家で初めて最後まで読んだ。 小泉新一、三十四歳、北の町。そこから先に細かい字でこう書いてあった。「株式会社小泉農産、代表取締役。」私は指を止めた。代表取締役、社長ということだろうか。農家の社長というのがどういうものなのか、私には分からなかった。続きにはこうあった。「栽培面積およそ八十ヘクタール。契約生産者約百二十戸。従業員数およそ百四十名。」数字だけが並んでいて、そこから先はまた住所と家族構成に戻っていた。「両親はどちらも他界。兄弟なし。」私はもう一度その数字を読んだ。八十ヘクタールがどのくらいの広さなのか、その時の私には見当もつかなかった。ただ、伝票を七年見てきた勘でこう思った。契約生産者が百二十戸ある会社が、小さいわけがない。 私は封筒を持って階段を降りた。リビングで父がテレビを見ていた。「お父さん、この釣り書き読んだ?」「あ、読んださ。最後まで。」父はテレビから目を離さずに手を振った。「農家だろ。それ以上何がある?」私はそれ以上聞かなかった。同じ答えが返ってくると分かっていたからだ。 次の日の朝、私は仲人を引き受けてくれた役員さんの会社に電話をかけた。「霧原の娘のはると申します」と名乗った。「八十ヘクタールというのは本当ですか」と聞いた。桁を一つ書き間違えているのではないかと思ったからだ。電話を取り次いだ人が少し黙ってから「確かめてまいります」と言い、しばらくして「間違いありません」と答えた。私は礼を言って電話を切った。それだけのことだった。 その三日後、仲人から父に電話が入った。先方が是非話を進めたいと言っていると。父がその話をした時、母は本気で驚いていた。「進めたいって、まおじゃなくてはるかの方を?」「そうらしい。」「向こうは、そのはるかが身代わりだって分かってるんでしょ?」「分かってて言ってきてるんだ。」母と姉は顔を見合わせた。それから二人とも同時に笑い出した。「うわ、物好き。」「まあ、お互い似たもの同士ってことなんじゃないの?」 その夜の夕飯の間、私は一言も口を聞かなかったけれど、父は乗り気だった。父にとっては、霧原の家の顔が立って、しかも厄介払いができる話だったからだ。「先方は急ぎたいそうだ。五月には席を入れて、式は落ち着いてからでいいと言っている。」「早いわね。」「農家は季節で動くんだろう。春の忙しい時期に入る前に決めたいんじゃないか。」 話はそこから私のいないところで進み、私が呼ばれたのは結納が決まった後だった。母は私にこう言った。「あんた、運が良かったわね。二十五で行き遅れる前に片付いて。」姉は隣でスマートフォンを見ながら笑っていた。「農家の嫁なんてさ、売れ残りにはちょうどいいよ。畑で一生終わるってやつ。まあ、はるかにはお似合いじゃん。」母はそれを聞いてふふふっと笑った。それから私の顔を見てこう言った。「あんたの人生、終わったわね。」 その言葉を、母はほとんど何気なく言った。笑いながら言った。だからこそ、私はしばらく動けなかった。母は本気で私を傷つけようとしていたわけではないのだと思う。ただ、二十五年分の物差しがそう言わせたのだ。この子は下だ。この子の行き先はその程度だと。 その晩、私は声を出さないように枕に顔を押し付けて泣いた。泣き終わってから、私は引き出しを開けてあの封筒をもう一度出した。写真を抜いてしばらく見ていた。色の焦げた作業着、膝の泥、荷台のコンテナ、少しだけ笑っている人。姉が三秒で裏返した写真だ。「終わったわね」と母は言ったけれど、私にはこの人が私の人生を終わらせる人には見えなかった。なぜそう思ったのか、その時は説明ができなかった。 五月の連休が明けて、私は席を入れた。式はあげなかった。「繁忙期に入るので、落ち着いてからにしましょう」と小泉さんが言ったからだ。家を出る朝、母は玄関まで見送りに来た。姉はまだ寝ていて出てこなかった。母は私の鞄を見て言った。「それだけ?」「うん。」「まあ、向こうで買えばいいわね。」それから母は思い出したように付け加えた。「泥だらけの生活には慣れなさいよ。」 私は「行ってきます」と言って家を出た。駅までの道を歩きながら、私は不思議なほど何も感じていなかった。ただ、荷物が軽いなと思った。二十五年住んだ家から持ち出したものは、着替えと陰間と包丁が一本だけだった。包丁は自分で買ったものだ。中学生の頃、はね出しの野菜を毎日切るのに家の包丁が重すぎて、お年玉で買った。それだけが私のものだった。 北の町までは電車を二回乗り換えてバスに乗り、全部で二時間かかった。バスを降りると、目の前に畑が広がっていた。私は立ち止まった。畑というものをテレビでしか見たことがなかったのだ。平らな土地がどこまでも続いていて、その真ん中を細い道が伸びている。手前は耕したばかりの黒い土で、その向こうは緑だった。低くて濃い緑、背の高い薄い緑、白っぽく粉を吹いたような緑。それが畝ごとに島になっている。風が吹くと、白っぽい帯だけが順番に揺れてまた立った。この町は平地より標高が高い。夏でも日が落ちるとひんやりとする。だから、よそが暑さで作れない七月八月に、ここではブロッコリーやキャベツが取れるのだと後になって教わった。 「こっちです。」声の方を見るとトラックが止まっていた。小泉さんが運転席から降りてきた。作業着だった。写真と同じ色の焦げた作業着だ。小泉さんは私の鞄を見て、それから私の顔を見た。「荷物、それだけですか?」「はい。」「そうですか。」それ以上は何も聞かなかった。鞄を荷台に積んで、助手席のドアを開けてくれた。 軽トラックの助手席は思ったより高く、座ると畑がよく見えた。「今、何の畑か分かりますか?」「いえ。」「あの濃いのがブロッコリーです。その隣がキャベツ。奥の白っぽいのがネギです。」「あんなにたくさん。」「あれで全体の一割もありません。」私は思わず横顔を見た。小泉さんは前を向いたまま、自慢する風でもなく事実を言っただけという顔だった。 家に着いた。思っていたより古くて大きい家だった。木造の平屋で、瓦が黒く、玄関の引き戸がガラガラと音を立てた。中に入ると廊下がひやりと冷たかった。掃除は行き届いていたが、人の暮らしの匂いが薄い。「十年一人で住んでいたので、余っている部屋が多いです。好きな部屋を使ってください。母の使っていた部屋が一番日当たりがいいと思います。」「お母様は…」「十二年前に。父は十年前です。」小泉さんはそれ以上言わなかった。私も聞かなかった。 その日の夕飯は私が作った。「台所を借りていいですか」と聞くと、小泉さんは驚いた顔をした。「今日は疲れているでしょう。」「作らせてください。私にはそれしかできなかった。」七年、そうやって自分の居場所を作ってきた。冷蔵庫にはあまり何も入っていなかった。代わりに、手口の外の木の箱に野菜が山になっていた。ネギとほうれん草と大根と、それからニンジンが入っていた。大根を一本取り上げて、私は動きを止めた。重かったのだ。同じ太さの大根でも、水っぽいものと締まったものでは手に来る重さが違う。私はそれをはね出しの大根で覚えた。この大根は重かった。持ち上げた瞬間に「ああ」と思う重さだった。 私は自分の包丁を出して大根を切った。半分入ったところで音が変わった。中がぎっしり詰まっている音だ。その夜の献立は、大根とネギの味噌汁とほうれん草のおひたしとご飯だけだった。おかずと呼べるものは何もなかった。それでも小泉さんは味噌汁を一口飲んで、椀を持ったまましばらく止まっていた。「うまいです。大根がいいんです。」「そうですか。うちの大根です。」私は顔を上げた。小泉さんは椀の中を見ていた。「この箱の大根とニンジンは、秋に取って畑の隅の土に埋けてあったものです。ここは冬に凍るので、外に置くと腐る。土の中なら春まで持つんです。ネギとほうれん草は下の畑です。ただ、どれも店には出せないやつです。」「出せない?」「曲がっていたり、傷が入っていたり、大きさが揃っていなかったり。味は同じなんですが、規格に合わないので値がつきません。」私の手が止まった。「はね出し。」小泉さんが顔を上げた。「その言葉、どこで?」「実家の会社でそう呼んでいました。売れない野菜のことを。うちに回ってきていたのはいつもそれでした。私はそれを毎日切っていました。」しばらく誰も何も言わなかった。外で風が窓を鳴らしていた。やがて小泉さんが箸を置いてこう言った。「俺はその呼び方があまり好きじゃないんです。はね出すというのは、こっちの都合ですから。」 結婚した次の日から、私は畑に出た。出ろと言われたわけではない。むしろ小泉さんは「無理に手伝わなくていい」と言ったけれど、私は家にいてもすることがなかった。家の掃除は二時間で終わってしまう。何もしないで座っているという時間の使い方を、私は知らなかった。朝は四時半に起きた。小泉さんは五時前に家を出る。その前に朝食を作って、握り飯を持たせた。 五月の畑は忙しかった。畝を立てる。マルチという黒いビニールを貼る。苗を植える。草を取る。そのすべてが私には初めてのことだった。広い畑は、トラクターの後ろに人が乗る機械で一気に植えていく。私が任されたのは、機械が入れない畝の列と、抜けてしまったところを一本ずつ植え直す仕事だった。最初の日、私はその一本も植えられなかった。やり方は教わった。穴を開けて苗を入れて、根の周りの土を寄せて軽く抑える。それだけだけれど、私が抑えると苗が倒れた。強く抑えると根が切れ、弱いと風で抜けた。「力じゃないんです。」小泉さんが隣に来てしゃがんだ。「土に入れてやるんじゃなくて、土に返してやる感じで。」そう言って小泉さんは一本植えた。三秒だった。私はもう一度やってみた。今度は倒れなかったが、隣の苗より二センチ深く入ってしまった。「それでいいです。」「でも、深いです。」「気づいたなら大丈夫です。慣れればいい。急がなくていいですから。」その言葉を私はその後何度も思い出した。 … Read more

11 September 2026

Ero sul palco, sudato e felice, quando ho visto il mio cliente fisso non arrivare. Al suo posto, un uomo mi fissava come se fossi un oggetto. Poco dopo, il direttore mi ha chiuso in camerino e mi…

Era una sera come tante, o almeno così credevo. Dietro le quinte, il cuore già stretto, mi preparavo per il mio numero. Per tutti al locale ero semplicemente il ballerino con un cliente fisso, ma per me Elio era molto di più. Le cameriere mi prendevano in giro: “Damiano, è tornato il tuo cliente”. E … Read more

11 September 2026

「貧乏農家に買える車ないよ。ここ、あんたたちの来るお店じゃないの。」 6年ぶりに会った姉は、私の泥のついた長靴から夫の作業着まで値踏みして笑った。姉の夫は、この高級車ショールームの店長。私は田舎の農家に嫁いだ「貧乏な妹」のまま。でも姉は知らない。この日、私たち夫婦がこの店に何をしに来たのか。そして、姉が「どうせ買わないから」と追い返した後、この店で何が起きるのかを。…

磨き上げられた白い床に姉の声が響いた。 「貧乏農家に買える車ないよ。ここ、あんたたちの来るお店じゃないの。」 よく晴れた10月の昼下がり。桜坂市の高級車ショールーム。久しぶりに会った姉は、私の靴の泥から夫の作業着の襟まで順番に目でなぞって笑った。 「まだ農家やってるんだ。」 「はい。」 夫は短くそう答えただけだった。 ガラスの向こうの駐車場には、泥を残した古い軽トラが1台。姉は口の端を上げ、指輪を光らせて店の奥を指した。 「ちなみに、私の夫、ここの店長だから。」 私は日高美月。32歳。6年前、姉が「絶対に嫌」と突き離した縁談を押し付けられて、田舎の農家に嫁いだ。姉の中の私は、今も泥だらけの貧乏農家の嫁のままだ。 だから姉は知らない。この日、私たち夫婦が何をしにこの店へ来たのか。その後、この店で何が起きるのかも。 これは、姉がいらないと捨てた人生を、夫婦2人の手で作り直した6年間の話だ。 話は6年前の春から始まる。 当時の私は26歳。都内の事務機の会社で営業事務をしていた。見積もり書を作り、伝票を締め、月末には請求の数字を最後の1円まで合わせる。派手さのかけらもない仕事だが、数字が最後にぴたりと合う瞬間が好きだった。課長からは「美月さんに任せると締めが早い」と褒められていた。給料は多くない。それでも、自分の腕で回している実感があった。 実家は都内の外れにある一軒家。父は定年まで勤め上げた会社員、母は近所付き合いの顔が広く、町内の噂は大抵母を経由して広がった。そして3つ上の姉がいた。 うちの家には、私が物心ついた時から決まった順番があった。新しい服は姉に買い、私にはお下がりが回ってきた。夕飯の唐揚げは大きいものから姉の皿に乗った。進学の時も習い事の時も、先に選ぶのは姉だった。誰も理由を口にしないし、私も聞かなかった。理由を聞いたところで順番が変わらないことだけは分かっていたからだ。 母は近所の人に姉を紹介する時、決まって同じ言い方をした。「上の子は華やかでしょ。昔から人に好かれるのよ。」そして、思い出したように私を振り返って付け足す。「下の子はまあ、真面目だけが取り柄でね。」 私はその度に笑った。笑って流すのが一番早く終わると、子供の頃に覚えてしまった。父の口癖は「下の邪魔だけはするな」だった。邪魔をした覚えなどない。それでも父は同じ言葉を言い続けた。言い続けることで、家の順番を確かめていたのだと思う。 姉は短大を出て、デパートの化粧品売り場で販売員をしていた。給料は洋服と美容室に消え、貯金はほとんどないはずだった。口を開けば「私は都会でしか生きられない」が口癖で、テレビに畑が映るだけで「無理無理」とチャンネルを変えた。 4月の半ば、実家に縁談が持ち込まれた。持ってきたのは父の元上司の蒲沼さん。70歳。丸いメガネの奥の目が優しい人で、現役の頃から父が頭の上がらない数少ない相手だった。 休みの日の午後、座敷に通された蒲沼さんは、黒い風呂敷から釣書と写真を出した。 「先方は日高鉄平さん。30歳。隣の県で梨とぶどうの農園をやってる。」 父が釣書を受け取り、母が横から覗き込んだ。 「畑は2町歩。サッカー場の3つ分ほどの広さでな。家は古いが、土地も畑も本人のものだ。借金がないとは言わんが、地道にやってる。わしの古い友人の息子でな。親父さんの十蔵さんは3年前に亡くなって、それからは1人で畑を守っとる。うちの息子は真面目で嘘のつけない男だ。そろそろ所帯を持たせたいと親戚筋から頼まれてな。」 話は当然のように姉に向けられた。30歳が見えてきた姉に、母が焦りを感じていた時期だったからだ。 母は写真を姉の前へ滑らせ、声を弾ませた。「農園ですって。経営者さんよ。」 「農園って、社長さんのこと?」 姉は爪の先で写真をつまみ上げた。写真の中の男の人は、日に焼けた顔で真面目に正面を向いていた。 「経営者っちゃ経営者だがな。小さい農園だ。贅沢はさせてやれんと。本人も正直に言うとる。」 「ねえ、車は何に乗ってるの?年収は?」 姉は写真を置き、当然の顔で条件を並べさせようとした。蒲沼さんは苦笑して首を振った。 「車は仕事で使う軽トラが1台。収入は年によって波がある。それが農家というもんでな。」 姉の眉が寄った。それでも母に袖を引かれて、姉は写真をもう一度手に取った。 「もう、会うだけなら会ってもいいけど。」 姉が乗り気になったのは「経営者」の一言だけが理由だった。土の匂いのする暮らしを姉が受け入れるとは、私にはとても思えなかった。それでも口は挟まなかった。私はお茶を出しながら、人として聞いていた。姉の縁談に私の出る幕はない。この家ではいつものことだ。 「まずは見学だ。土地と人を見るといい。」 蒲沼さんの取り計らいで、その次の休みに姉は母と2人で先方の農園を見に行くことになった。会う前に家と土地を確かめておきたいと言い出したのは姉の方だった。見学してから会うかどうかを決める、姉らしいやり方だった。 見学の日の朝、姉は鏡の前で1時間かけて支度をした。よそ行きのワンピースに下ろしたてのヒール。畑を見に行く格好ではなかった。 「畑なんだから、歩きやすい靴の方がいいんじゃない?」 思わずそう言った私に、姉は鏡越しに笑った。「聞くだけで会ってあげるんだから、向こうが合わせるのが筋でしょ。」母も母で「下はそのままで十分よ」と送り出した。 私は玄関で2人を見送りながら、写真の中の真面目な顔を思い出していた。あの人は姉のこういうところを知らないまま待っているのだろう。胸の隅が薄く曇ったが、口には出さなかった。 そして夕方、玄関のベルが鳴って、私は台所から顔を出した。帰ってきた姉の顔を見て、盆を持つ手が止まった。化粧の上からでも分かるほど、姉の顔は不機嫌に沈んでいた。母は母で、姉の機嫌を伺うように半歩後ろを歩いてくる。 「お帰りなさい。どうだった?」 私が聞き終わらないうちに、姉はヒールを乱暴に脱ぎ捨てた。ワンピースの裾には、出かける前にはなかった砂埃の跡が残っていた。それを姉は、汚いものでも払うように手ではたいた。廊下に響いた音が、この縁談の行き先を先に教えていた。 その夜の食卓は、姉の毒舌会だった。 「無理、無理。絶対無理。農家なんて絶対嫌。あんな田舎で一生暮らすとか、考えただけで鳥肌が立つ。」 箸も持たずに姉はまくし立てた。「駅まで車で20分よ。コンビニまで歩けないのよ。家なんて築何十年って感じの古さだし。当たり一面、畑と山しかないの。」 「でも、土地は広かったじゃないの。」 母が取りなすと、姉は大げさにのけぞった。「広くて何になるの?お母さんもあの軽トラ見たでしょ。あれが自家用車なのよ。軽トラ乗って泥だらけになる人生なんて、私にはありえない。」 畑の途中で長靴を勧められたことまで、姉は侮辱のように語った。挨拶に出てきた本人については「日焼けした無口な人」の一言で済ませた。人柄の話は最後まで出なかった。 「とにかくお断りして。私、都会でしか生きられないから。」 姉は言うだけ言うと、夕飯にも手をつけず自分の部屋へ引き上げていった。階段を踏み鳴らす音が、2階から抗議のように降ってきた。 「蒲沼さんの顔を潰すわけにはいかん。」 父が唸った。蒲沼さんは父の元上司で、父の最終職の世話までした人だ。見学までしておいて断ったとなれば義理を欠く。母は近所への体裁を気にしていた。下の娘が農家を袖にしたと知られたら、母の社交界で格好の話の種になる。 沈黙が続いた後、母がふと顔を上げた。その視線が、お茶を注いでいた私で止まった。 「じゃあ、美月が行けばいいんじゃない?」 … Read more

11 September 2026

Alle 2:35 del mattino sono scappata di casa con un disturbatore di segnale in tasca, convinta di poter finalmente essere libera. Ma all’aeroporto, la mia carta d’imbarco è stata revocata e ogni…

Il rintocco dell’orologio del nonno alle 2:35 esatte del mattino risuonava in un silenzio soffocante. Mi chiamo Madison, ho 27 anni e sto cercando di spezzare finalmente le catene invisibili che legano la mia intera esistenza. Un disturbatore di segnale portatile stretto nel mio palmo tremante mi ha permesso di aggirare l’avanzata serratura intelligente che … Read more

11 September 2026

Ich dachte, meine Tochter würde nur vorübergehend bei mir wohnen, bis sie genug gespart hat. Stattdessen verschwand mein Lieblingssessel, meine Post wurde abgefangen, und dann fand ich in ihrem…

Ich hatte gar nicht bemerkt, wie ich in meinem eigenen Zuhause langsam zu einem Geist wurde, bis zu dem Tag, an dem meine Tochter meinen Lieblingssessel ohne zu fragen auf den Sperrmüll stellte. Mehr als zwanzig Jahre hatte ich in diesem Einfamilienhaus am Stadtrand von Lübeck gelebt. Nach dem Tod meines Mannes wirkte das Haus … Read more

11 September 2026

橋の渡り初めの瞬間、私は叫んだ。「この橋を渡ってはなりません!」でも、誰も聞いてくれなかった。役人は私を引き立てようとし、師匠は私の腕を掴んで止めようとした。私は石工に過ぎない。石の目を読むことだけが取り柄の、取るに足らない若造だ。それでも、あの橋脚を叩いた時の籠もった音が、頭から離れなかった。そして、馬車が橋の中央に差し掛かった時、石版が割れ落ちた。人々は私を責めた。橋を壊したのは私だと。…

橋の中央に差し掛かった瞬間、馬車の一頭が踏んだ石版が大きく割れ落ちた。馬が驚いて前足を上げ、体をよじらせた。荷が崩れ、御者の一人が膝から倒れた。悲鳴が上がり、後ろの者たちが我先にと後ずさった。石の破片が川面に落ち、大きな音を立てた。誰もが頑丈だと信じていた新しい石橋が、あと数十秒遅ければ二頭の馬もろとも川に落ちていたかもしれない。その時、橋の下で若い石工が命をかけて叫び続けていたことを、誰も知らなかった。 始まりは、この橋が架かるずっと前のこと。誰からも取るに足らぬ者として見過ごされていた一人の若い石工の物語である。 ある藩の城下に、年老いた石工の五兵衛と、その弟子である岩吉が暮らしていた。五兵衛はこの地で石工を営んで三十年を超える男であり、岩吉は幼い頃からその下で石ばかりを見て育った。親を早くに亡くした岩吉を、五兵衛は実の子のように育て上げていた。石の目を読む感覚は、教えたわけでもないのに岩吉の方が鋭いことがしばしばあり、五兵衛はそれを誇らしく、そしてどこか不安に思いながら見てきた。 その日は、城下でも指折りの豪商である佐野長兵衛の屋敷の庭を新しく造り直す日だった。夜明け前から庭に石と土がぶつかる音が絶えなかった。白い石粉が朝日の中を舞い、石の匂いが庭中に漂っていた。長く削り出した一枚板を両側の石に渡し、客人がそこに腰かけて池を眺められるようにする仕事だった。五兵衛と岩吉もその仕事に呼ばれていた。 庭の片隅には、候補として運び込まれた石材がいくつも並べて置かれていた。まだ朝の冷気が残り、石の表面はしっとりと冷たかった。鳥の声が庭の外から時折聞こえてくるだけで、庭は静かだった。 主の佐野が自ら庭に出て、石材を一枚一枚見て回った。これは厚みが足りぬと首を振り、あれは色が気に入らぬと通り過ぎた。そうして選び続けた目が、ある一枚の石材の前で止まった。一尺は広く、真っ直ぐな一枚だった。 「これだ。これほどの石は他にあるまい」 佐野は満足げな顔で手をこすり合わせた。 ところが岩吉がそっと近づき、その石材を覗き込んだ。指先で表面を撫でてみると、首をかしげた。 「旦那様、この石は行けません」 佐野が眉を吊り上げた。 「何を言う?」 「石目が片側に寄っております。荷を支えて真ん中に重さがかかれば、割れるでしょう」 岩吉は控えめに、しかしはっきりと言った。 佐野は鼻で笑った。 「若造が何を知っておる。石材を扱って三十年になるわしの目が、石一つ見誤るとでも思うか」 周りの職人たちも笑いをこらえる様子だった。五兵衛が口を差し挟もうとしたが、佐野は手を振ってその言葉を遮った。 「よい。お前たちはただ言われた通りにすれば良いのだ。石を見る目はわしにもある」 周りの者たちは互いに顔を見合わせるばかりで、止めたい気持ちはあってもその豪商に逆らえる者はいなかった。佐野はつかつかと歩み寄り、石材の真ん中、まさに岩吉が差し示した場所にどっかと腰を下ろした。腕組みまでして、一つ咳払いをした。 「見よ。これほど頑丈なもの」 その言葉が終わらぬうちに、石材の真ん中から「バキッ」と嫌な音がした。佐野の顔から笑みがすっと消えた。次の瞬間、石材は二つに割れ、佐野の体はそのまま下に落ちた。尻を地面に強く打ち付けられ、両足は宙に浮いてもがいた。 庭が一瞬静まり返った。職人たちは笑いをこらえて顔を赤くした。誰も声を上げようとはしなかったが、その静けさの中に隠しきれない笑いの気配が漂っていた。 岩吉が真っ先に駆け寄り、佐野を支えた。慌てる様子は少しもなかった。佐野はその手を借りてどうにか体を起こしたが、面目は丸つぶれだった。髪が半ば緩んで、斜めに乱れていた。佐野はどうにか着物を整えると、急に顔つきを変えた。 「己れ、さっきから怪しいと思っていたが、お前があらかじめこの石に傷をつけておいて、知ったふりをしたのではないか」 岩吉の顔が強張った。 「そんなはずがございません。私はただ石目を見て、危ないと思っただけです」 「最初からこの石を使えぬようにしておいて、わしより先に見抜いたふりをして、得意げにしただけであろう」 佐野の声が荒くなった。身分の低い岩吉には、その前で正面から言い返す術がなかった。悔しさをこらえて口を噤むしかなかった。周りの職人たちも互いに目配せをするばかりで、誰も助け舟を出そうとしなかった。この屋敷で佐野に逆らって得をした者は、これまで一人もいなかったからである。 その時、五兵衛がそっと前に進み出た。 「もしそのお言葉が真であるならば、今日の手間賃はいただきません」 庭が静まった。 「もし岩吉が本当に石に傷をつけて偽りを申したのであれば、その罰は私が代わりに受けましょう。しかし、もしあの石が元より疵のあった石であったならば、旦那様もあれが確かな石であることだけはお認めいただかねばなりません」 声に揺らぎはなかった。佐野は沈黙したが、やがて頷いた。 「ならば確かめてみるが良い。ただし、間違っていればお前も今日の手間賃はないものと思え」 人々が割れた石材の断面に集まった。よく見ると、石がずっと以前から片側に寄っていた跡が歴然としていた。最近誰かが手を加えた形跡はどこにもなかった。石の奥深くまで続く、長い年月が作った疵だった。 「ほう。これは元々欠けておった石ではないか」 周りの職人が呟いた。 「新しくつけた傷であれば、色が違うはずだ」 別の職人も相槌を打った。誰も岩吉に傷をつける暇などなかったことは、その場にいた者なら皆分かっていたはずだった。佐野はますます言葉を失い、咳払いを二度三度繰り返すばかりだった。 五兵衛がその隙を逃さず、しれっと一言添えた。 「この石が、旦那様の座る場所を見抜いて、あらかじめご挨拶も申し上げたのでございましょう」 堪えていた人々の笑いが、あちこちで弾けた。佐野は怒りをこらえきれず、咳払いでごまかすしかなかった。 仕事を終えて帰る道すがら、五兵衛は岩吉の肩を軽く叩いた。 「手間賃を取り上げられんでよかったな」 「本当に上げられたら、どうするもりでしたか?」 「岩吉が間違えるはずがないと、勝っておったからよ」 二人は顔を見合わせ、長年を共に過ごした者同士でなければ出てこない、穏やかな笑いを交わした。 城下の辻に差しかかった頃、人々の騒めきが聞こえてきた。 「今度新しく架かった石橋、出来上がったそうだ」 「城下でこれほどの橋は初めてだとか」 「石の一つ一つを丁寧に仕上げたそうだ」 「明日が渡り初めだと言うぞ」 「見物に行ってみようか」 五兵衛がその話に耳を傾けた。 「今日は久しぶりに聞く話だな」 … Read more

11 September 2026

午前4時、台所でコーヒーを入れていると、玄関のドアが開く音がした。2年ぶりに帰ってきた夫の隣には、若い女性と赤ちゃんがいた。「まあ、細かいことは後で」と平然と言う夫に、全身の血が凍った。2年間、毎月10万円を送り続け、海外赴任を信じてパン屋で働いてきた。でも、その日、私は彼の嘘を暴くことを決めた。 コメントで続きを読んで。

午前4時半、まだ夜の闇が残る住宅街で、私はパン屋の厨房に立っていた。大きなステンレスのボールに張った仕込み水に手を浸すと、指先にひんやりとした冷たさが伝わる。粉と酵母を丁寧に合わせ、両手で生地をこね始めると、しっとりとした手触りが手のひらに馴染んでいく。隣では同僚のしおりが食パンの型にバターを塗る作業を手際よく進めていた。 「みほ、今日の生地の調子はどう?」 「少し元気が良さそう。2次発酵の時間を15分ほど短くした方が良さそうね。」 しおりは頷きながら慣れた手つきで型を並べていく。彼女とはこの店で出会い、今では何でも話せる大切な友人だ。バツイチで小学生の息子を一人で育てているしおりはいつも朗らかで、その明るさに何度救われたかわからない。 オーブンの中でじわじわと膨らんでいく生地を見つめるのが好きだった。何の変哲もない粉と水と酵母が、熱を加えることで金色に輝くパンへと姿を変えていく。その変化を見届けるたびに、人生にも同じことが言えるのではないかと柄にもなく思う。 2年前、夫の陣一が突然シンガポールへの海外赴任が決まったと告げた日のことは、今でもはっきりと覚えている。陣一は中堅商社・鳳凰商事の営業部に務めていて、結婚して10年、子供には恵まれなかったけれど、2人で穏やかな生活を送っていた。少なくとも私はそう信じていた。 陣一との出会いは友人の紹介だ。27歳の秋、初めて顔を合わせた陣一は背が高くて顔立ちが整っていて、話も上手で、その場にいた女性全員の視線を集めていた。海外と取引をしていると自慢する姿が眩しく、地味な事務の自分にはもったいない相手だと思ったものだ。それでも交際はトントン拍子に進み、半年後にはプロポーズされた。 結婚してからの陣一は平日は仕事で帰りが遅く、休日はゴルフや接待で家を開けることが多かったけれど、それがサラリーマンの当たり前なのだと受け入れていた。子供を望んだ時期もあったが、不妊治療がうまくいかず、互いに話題を避けるようになっていったのも、今思えば2人の間に生まれた最初のひび割れだったのかもしれない。 「3年間の赴任だけど、すぐに慣れるから心配するなよ。向こうで基盤を作って、いずれはみほを呼び寄せるつもりだ。」 リビングのソファに並んで座ったあの日の陣一は、いつになく真剣な顔をしていた。テーブルの上には陣一が広げた赴任先のパンフレットらしきものが置かれている。シンガポールの街並みが印刷されたそれを眺めながら、私は寂しさをこらえ、陣一のキャリアアップを応援するべきだと自分に言い聞かせた。 空港で見送る時、陣一はスーツケースを引きながら一度だけ振り返り、片手を軽く上げて笑顔を見せた。あの笑顔に嘘が混じっていたことを、当時の私は知るよしもなかった。 それから月に一度のビデオ通話が2人をつなぐ唯一の手段になった。画面の向こうの陣一はいつも白い壁を背景にして映っていたが、海外の街並みや現地の様子を見せてくれたことは一度もない。不思議に思わなかったわけではないが、仕事が忙しいからという言葉にそれ以上は踏み込めなかったのだ。 それよりも気がかりだったのは、毎月届く送金の依頼だ。 「現地の物価が想像以上に高くて、会社の手当てだけじゃ足りないんだ。悪いけど、毎月10万円だけ送ってくれないか?」 最初は戸惑ったものの、海外生活の大変さを思えば仕方がないと納得し、私はコツコツ貯めていた300万円の貯金から毎月10万円ずつ陣一の口座に振り込み続けた。銀行の窓口で振り込み用紙に金額を書くたびに小さなため息が漏れるけれど、陣一が海外で不自由な思いをしているのだと考えれば、10万円は夫婦の絆をつなぐ大切な架け橋のように思えた。2年間で合計240万円。残された貯金はもう60万円ほどしかない。 専業主婦だった私がパン屋で働き始めたのも、そうした経済的な事情が大きかった。求人誌で見つけた「ほのか」の募集広告には「未経験者歓迎、パンが好きな方」と書いてあった。パン作りの経験はなかったけれど、料理は得意だったし、何より家に一人でいる時間を減らしたいという気持ちが背中を押したのだ。最初は生地の扱いが分からず失敗の連続だった。だが、粉をこねる手仕事の温かさに触れるうちに、自分の手で何かを生み出す喜びを知った。 義母の金沢福からは月に一度は電話がかかってくる。 「みほさん、陣一はちゃんと元気にやってるかしら?あの子が海外で頑張っているんだから、あなたもしっかり支えてちょうだいね。」 いつも穏やかな口調の中に、どこか有無を言わせない圧力が込められている。結婚以来、義母は私に対して嫁としての勤めを果たしなさいという姿勢を崩さなかった。先月の電話ではこんなやり取りがあった。 「陣一に送金はちゃんとしているでしょうね。嫁が金を出し渋るなんてことがあったら許しませんよ。」 「はい。毎月きちんと送っています。ただ、貯金も残り少なくなってきまして。」 「それはあなたの稼ぎが足りないからでしょう。だったら、もう少しまともな仕事を探したらどうなの?」 受話器を握る手に力がこもるのをこらえながら、「はい」と答えるしかなかった。義母にとって私は息子に尽くすための道具のようなものなのだろう。電話を切るたびに虚しさが込み上げてくる。 そんな日々の中でも、パン屋の仕事としおりの友情が私の心を支えてくれていた。 「みほ、この黒わっさんの焼き加減、完璧じゃない?あんたの腕、どんどん上がってるわよ。」 「ありがとう。でも、しおりのフランスパンの成形の方がずっと上手よ。」 「何言ってるの?あんたは天然酵母の扱いに関しては天才よ。店でもみほの酵母パンが一番売れてるんだから。」 しおりの言葉に自然と頬が緩む。この店に来るまで、誰かに自分の仕事を褒められた経験などほとんどなかったから、その一言一言が胸に温かく染み渡っていく。 けれど、最近ほんのわずかな違和感が心の隅に引っかかるようになっていた。陣一とのビデオ通話はいつも日本時間の夜9時頃に行われる。シンガポールとの時差は1時間しかないから、向こうでは夜8時。それ自体は不自然ではないが、陣一の背後から聞こえてくる音がどうしても気になるのだ。救急車のサイレンの音色が海外のそれとは明らかに違う。日本の救急車と同じあの「ピーポーピーポー」という高い音が、画面の向こうからかすかに聞こえてきたことが一度や二度ではなかった。気のせいだと思いたかったし、実際に何度も自分にそう言い聞かせた。だが、一度気づいてしまった違和感はなかなか消えてくれない。 朝の仕込みを終え、開店の時刻が近づいてきた。ショーケースに並べられた焼き立てのパンたちが朝日を受けてこがね色に輝いている。開店と同時に常連のお客様が次々と足を運んでくれる。「いつも美味しいね」「今日のおすすめは?」という声に答えながら接客をしていると、自分がこの町の一部になれている実感が湧いてくる。 パン屋で働く前の私は、陣一の帰りを待つだけの毎日を送っていた。朝起きて掃除をして洗濯をして夕食を作ってテレビを見て眠る。その繰り返しに疑問を持つことすらなかった。だが今は違う。自分の手で生地をこね、自分の判断で発酵時間を調整し、自分の感覚で焼き加減を見極める。その一つ一つの工程に、私という人間の存在が確かに刻み込まれている。陣一のいない2年間で、私は少しずつ変わり始めていたのかもしれない。 変化は何の前触れもなく訪れた。ある秋の午後のこと。窓の外では銀杏の葉がこがね色に染まり、風に乗って歩道にひらひらと舞い落ちている。閉店まであと30分ほどとなった「ほのか」の店内にはもう客の姿はない。私はショーケースの売れ残りを片付けながら、明日の仕込みの段取りを頭の中で組み立てていたところだった。 そこへ、見慣れない男性客がガラス扉を押して入ってきた。グレーのスーツに紺のネクタイ、40代前半といったところだろうか。店内を見回しながらカウンターに近づいてくると、ショーケースの中のパンよりも私の顔をじっと見つめている。 「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」 男性客はカウンターの前で少し迷うようにパンの並びを眺めていたが、不意にこちらへ視線を向けると、ためらうような口調で切り出した。この男性は、私が金沢陣一の妻ではないかと尋ねてきたのだ。心臓が一瞬大きく跳ねた。陣一の名前を知っている人物が、なぜこんな場所に? 私は動揺を押し殺しながら慎重に頷いた。 「はい。金沢の妻です。あの、どちら様でしょうか?」 男性客はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、両手で丁寧に差し出した。白い名刺の中央には「鳳凰商事 営業部主任 山崎健太」と印刷されている。陣一が務めている会社の社員だった。 山崎と名乗ったその男性は、以前陣一と同じ部署で働いていたこと、近くの取引先に来た際にたまたま私の顔を見かけたことを早口で説明した。ただ、そこで彼は急に言葉を詰まらせる。視線を床に落とし、一度深く息を吸い込んでから再び私の目を見た。その表情には申し訳なさと使命感が入り混じっていて、私の胸にざわざわとした不安が一気に広がっていく。 「あの、夫が何か…今はシンガポール赴任で勤務しているのですが…」 その瞬間、山崎の顔に浮かんだのは明らかな困惑だった。声を潜め、唇を一度硬く結んでから、声のトーンを落として、思い切ったように口を開く。陣一は2年前に会社を退職しており、シンガポール赴任という話は一切なかったのだと。 店内に流れていた穏やかなBGMが急に遠くなった気がした。山崎の声が頭の中で何度も反響するけれど、その内容がうまく像を結ばない。目の前の名刺に印刷された「鳳凰商事」の文字を何度も読み返しながら、私はようやく声を絞り出した。 「退職ですか?2年前に。でも、あの人は毎月ビデオ通話で海外の仕事が忙しいと…」 「詳しい事情は申し上げられないが、少なくとも海外赴任の事実はないと。」 山崎は付け加え、ぺこりと頭を下げた。そして彼は食パンを一気に買い、会計を済ませると、申し訳なさそうにもう一度小さく頭を下げて足早に店を出ていく。ガラス扉が閉まる音を聞きながら、私の指先からトングがするりと滑り落ちた。金属がタイルの床にぶつかり、カシャンと高い音が店内に響き渡る。その音が合図だったかのように、足元から力が抜けていくのを感じた。 「どうしたの?顔色が真っ白よ。聞こえてる?」 しおりが慌てて駆け寄り、私の肩を両手でしっかりと支えてくれた。そのぬくもりが伝わっているはずなのに、体の内側が氷のように冷たくなっていく。2年間毎月10万円を送り続けた。海外で頑張っている陣一を支えるために、早朝4時に起きてパン屋で汗を流してきた。節約のために自分の服は一着も買わず、外食もせず、美容院にも年に2度しか行かなかった。その全てが嘘の上に成り立っていたというのか。 目の前に並ぶパンたちが急にぼやけて見えた。閉店間際で店内に他のお客様がいなかったことだけが唯一の救いだった。膝から力が抜けそうになるのをカウンターに手をついてこらえながら、私は震える声でしおりに告げた。 「しおり、夫が会社を辞めていたみたい。海外赴任なんて、最初からなかったのかもしれない。」 その夜、私は陣一にビデオ通話をかけた。画面に映る陣一はいつもと変わらない白い壁の前に座り、にこやかな笑顔を浮かべている。 「お、みほ、どうした?急に電話なんて珍しいな。」 胸の奥で渦巻く疑念を押し殺しながら、私はできるだけ自然な声を作った。 「陣一さん、最近会社の方はどう?シンガポール赴任の仕事、順調に行ってる?」 … Read more

11 September 2026

Mio marito mi ha mandato un messaggio dalla costiera amalfitana: “Non farti trovare quando torniamo. Tutto ciò che è vecchio per me è morto.” Nella foto allegata, tutta la mia famiglia brindava al…

Mio marito è scappato con un’altra donna e ha portato la mia stessa famiglia in Italia per il loro matrimonio. Poi mi ha mandato un messaggio: “Non farti trovare quando torniamo. Tutto ciò che è vecchio per me è morto. ” Sono tornati tutti a casa e hanno visto ciò che avevo creato. I loro … Read more

11 September 2026

「あんたみたいな社会のゴミと同席するなんて時間の無駄よ。とっとと帰ってくれない?」合コンで初対面の令嬢にそう言われ、俺はただ苦笑いするしかなかった。徹夜明けでクタクタの中、大学時代の友人に無理やり連れて来られただけなのに。ところが、店を出ようとしたその瞬間、今最も注目される新人歌手が現れて、俺の顔を見るなりこう言ったんだ。「あれ?作曲家さん、どうしてここに?」さっきまで俺をニート呼ばわりして…

「フリーダンス。要するにニートってことじゃないの。」その一言で、バーの空気が凍りついた。週末、大学時代の友人・木本に頼まれて合コンの人数合わせに来ただけなのに、初対面の令嬢は俺を見るなり眉をひそめた。「私たちはね、弁護士と飲むって聞いて来たのよ。どうしてこんな人を連れてきたの?」隣のスーツ姿の男たちも言葉を失い、木本でさえ目をそらす。華やかな照明が席を照らしているのに、肌に刺さるのは冷たい視線ばかり。令嬢はワイングラスを置き、鼻を鳴らして吐き捨てた。「あんたみたいな社会のゴミと同席するなんて時間の無駄よ。とっとと帰ってくれない?」俺は苦笑いを返すしかなかった。このままいても場の雰囲気が良くなるとは思えない。「じゃあ、俺は失礼するよ。」軽く一礼して出口へ向かおうとした、その時。店の奥から、今注目の新人歌手が現れた。彼女は俺の姿を捉えると、驚いたように口を開いた。「あれ?作曲家さん、どうしてここに?」周囲の視線が一気に集中する。さっきまで俺をニート呼ばわりしていた令嬢たちが、目を丸くして固まっていた。「あなた、まさかあの天才作曲家?」このハプニングが俺の人生と彼女たちの運命を大きく変えることになるとは、まだこの時は知るよしもなかった。 俺は杉崎悠都。フリーランスとして音楽関係の仕事をしている。とはいえ、世間一般の自由でクリエイティブな音楽の仕事というイメージとはちょっと違う。実際は細かいスケジュール管理や雑務、多くの原案作りやアレンジの締め切りに追われる日々だ。収入も安定しないから、そこそこ苦労している。だが、子供の頃から好きだった音楽をどうにか仕事にできていると思うと、なんとなくやりがいを感じてしまうのも事実だ。今日は一区切りついた案件があって、ようやく解放感を味わっていた。元々納期がギリギリだった楽曲の制作をどうにか終えて、先方にデータを納品できたのが数時間前。正直クタクタで、こんな日はさっさと帰って眠るに限る。そう思いつつ町を歩いていたら、ふと誰かに肩を叩かれた。「おい、悠じゃないか。」振り返ると、そこに立っていたのは大学時代の同級生・木本匠だった。彼は当時から優秀で、卒業後は弁護士になったと風の噂で聞いたことがある。キリッとしたスーツ姿は相変わらずで、見るからに忙しそうだ。「やっぱりお前か。久しぶりだな。どうしてこんなところに?」「ちょっと用事があってな。お前こそ珍しいな。こんな遅い時間まで仕事か。」「そういうところかな。まあ、色々あるんだよ。ところで、お前今時間あるか?」そう言って彼はにやりと笑った。こういう顔をする時の木本は、大抵ろくでもないことを考えている。学生時代からの付き合いで、俺はなんとなく勘が働いてしまった。「いや、悪いけど。今日はさっさと帰って休みたいんだ。徹夜明けで体がバキバキなんだよ。」「そんなこと言わずにさ。実は今から合コンなんだよ。人数足りなくて困ってるんだ。うちの事務所の連中と、ちょっとした令嬢のお仲間たちって感じだけどな。」「霊嬢ね。それはまた随分と派手なメンバーだな。」木本が言うには、今夜は彼の仲間が主催する合コンらしい。そんなキラキラした場に俺なんかが混ざっていいのだろうか。自分で言うのもなんだが、スーツを着こなしている彼らに比べると、どう考えてもラフすぎる格好をしている。「俺は場違いだろう。お前らみたいにスーツを着こなしてるわけじゃないし。」「そこをなんとか。あと1人だけ男性枠が空いてるんだよ。それに俺たちは学生時代からの仲じゃないか。頼むよ。合コンって言っても堅苦しいのは嫌だし、お前が来たら空気和むだろう。」正直、行きたくはなかった。だが、木本の「どうしても頼む」という一生懸命な顔と、昔からの縁を無にするのも気が引ける。それに、せっかく久しぶりに再会したのだ。「ちょっと顔だけ出して、ほどほどのところで切り上げればいいか」と妥協することにした。「分かったよ。じゃあ、1時間だけな。あんまり長くするつもりはないぞ。」「サンキュー。助かったよ。」そんなやり取りをして、俺は木本の後に続く形でタクシーに乗り込んだ。向かった先は、都会の中心街にある高級感漂うバー。店のガラス扉を開けると、落ち着いた照明の下で、すでに何人かがシャンパン片手に談笑していた。「遅れてすみません。木本です。こっちは友人の杉崎悠太。急に誘っちゃってごめん。」木本がそう言って全員に目配せすると、弁護士風の男たち数名と、ドレスアップして華やかな女性たちがこちらを見た。ぱっと見でも分かるほど、みんなきちんと仕上げてきている。男性は全員スーツ。女性陣も高級ブランドらしきバッグやアクセサリーを身につけているようだ。「よろしくお願いします。」一応俺も頭を下げて挨拶する。すると、その中の1人、華やかな雰囲気の女性が目を丸くして、俺の服装を上から下まであからさまにチェックした。彼女の名前は佐田リカと言うらしく、後で木本に耳打ちされたが、かなり大手の会社の令嬢だという。「ちょっと失礼だけど、そのラフな格好。あなたも弁護士か何か?今日は弁護士限定のはずなのに。」「いや、俺は弁護士じゃない。ただのフリーランスさ。普段は音楽関係の仕事をしていて、まあ今日誘われて急遽来ただけなんだ。」俺としては丁寧に答えたつもりだった。だが、その令嬢は明らかに不機嫌そうな顔で、はっと鼻を鳴らした。「フリーランス?音楽?要するに定職についてないってことでしょ?ニートみたいなもんじゃないの?」「まあ、そういう解釈ならそうかもしれない。でも、正確には少し違うんだけどね。」言い返すのも大げさだ。俺はふっとスルーしようとしたが、令嬢はさらに言葉を続けた。「私たちはさ、きちんと資格を持って頑張ってる人たちと飲みたいわけよ。ていうか、なんでこんなの連れてきたの?木本さんも説明不足だったんじゃない?これじゃせっかくのお席が台無しだわ。」「ちょっと、リカさん、それは言いすぎだろう。」木本が慌てて俺を見る。「すまん、悠。本当に知らなかったんだ。許してくれ。」場の空気が一気に重たくなる。周囲の弁護士仲間たちも居心地悪そうにしていた。一部の男性はちらりと俺に同情的な視線を向けるが、それ以上は何も言えないらしい。「別にいいよ。木本、気にしないでくれ。ほら、そもそも俺も疲れてて、あんまり長くするつもりなかったし。」正直、ニートだの、こんなのだの、散々言われても、そこまで怒りが湧いてこなかったのは自分でも不思議だった。多分、徹夜明けで思考回路が鈍っていたのと、こういう場に呼ばれたらこうなることも覚悟していたからだろう。昔から少し浮きがちな性格だった俺は、こういった社交の場にはそぐわない。本人が一番よく分かっている。「ありがとうな、木本。せっかく呼んでくれたけど、俺やっぱり帰るわ。お前らの迷惑になるしな。」俺はそう言って席を立つ。木本は「悪い」と申し訳なさそうに俯く。申し訳ないのはむしろ俺の方だ。木本の顔を潰すようで少し心苦しかったが、これ以上ここにいても双方にとって良いことはなさそうだ。「じゃあ、失礼します。」礼儀として軽く頭を下げると、俺はバーの出口へ向かった。背後から令嬢の「まあいいわ。貧乏バイト相手にしてもね」という声がかすかに聞こえた気がするが、それを気にする余力はもうなかった。とにかくここを出て、まっすぐ家に帰りたい。そんな思いだけを支えに、重い足取りでドアに手をかけた。 その時。「あれ、もしかして歌手の彩佳じゃない?」店の奥から急にざわめきが起こり、思わず振り返る。すると、カウンター近くの席からすらりと立ち上がった女性が、そばにいた客たちに取り囲まれ始めていた。小顔で華やかな雰囲気。今、急上昇中の人気を誇る新人アーティストだと噂されていた。彼女の名前は星野彩佳。まだ地上派の音楽番組にはほとんど姿を見せていないが、今最も注目を浴びるネット発アーティストとして、若者を中心に圧倒的な支持を集めている。特に配信限定でリリースした「サニーハート」は、出した途端に大手ストリーミングサイトのチャートを席巻し、ダウンロード数、再生回数ともに他の人気アーティストを抑えて堂々の1位を独走中だ。「え、マジで本物?やばい。めちゃくちゃ可愛い。」合コンの弁護士たちも浮き足立っている。すると、その女性がちらりとこちらに目をやる。ふと視線が交わった瞬間、彼女は「え、あの、もしかして」と俺の顔をじっと見つめた。「プロデューサーさん、杉崎さんですよね。」「え?ああ。うん。」慌ててそれだけ返すと、彼女はマスクをずらしてにこりと笑った。その笑顔が合図だったかのように、合コン参加者たちがざわつき始めるのが背後で分かった。「知り合いなの?ちょっとすごくない?」彼らの驚きの声が一気に耳へ飛び込んできて、俺は思わず目を伏せる。すると彩佳は店内のみんなに向けてぺこりと一礼すると、はっきりした口調で言った。「杉崎さんは『サニーハート』を書いてくれた作曲家さんで、プロデューサーでもあります。」一瞬、合コン参加者たちの間に間が生まれた。誰もが呆気に取られたようで、「え、作曲家?プロデューサー?」と顔を見合わせている。さっきまで俺のことを鼻で笑っていた連中が、嘘のように目を丸くして口をつぐんでいるのが分かった。そんな様子を見た彩佳は、戸惑ったように首をかしげる。「皆さんは杉崎さんのお友達ですか?」「え?ああ。一応そういうことになる。」俺が適当に答えると、令嬢や弁護士たちが焦ったように目を泳がせる。彩佳は深々と頭を下げながら、控えめな口調でこう続けた。「杉崎さんには本当にお世話になってるんですよ。私がこうしてたくさんの人に聞いてもらえるようになったのも、杉崎さんの素敵な曲のおかげなんです。」木本が「お前、そんなにすごかったのかよ」と目を見開いて呟いたが、俺としては複雑な気分だった。何しろ作曲する時は本名を使っていないせいで、こういうプライベートの場で表立って言われると困るのだ。だが彩佳はそんな事情を知らないから、純粋に感謝の気持ちを伝えてくれているだけなのだろう。すると、他の客たちが「やっぱり星野彩佳だ。サインお願いしたい」と寄ってきた。あっという間に混雑し、店内はパニック一歩手前だ。「あ、ちょっと待って。押さないで。」彩佳はファンを大切にするタイプだと知っているから、無下に断るわけにもいかない。しかし、これでは彼女が潰されてしまうかもしれない。俺はなるべく落ち着いた口調で周囲に呼びかけた。「すみません。彼女も疲れてますから、また別の機会にお願いします。星野さん、こっちへ。」そう言って彼女の腕をそっと引き、人混みの間に少しだけ隙間を作りながら扉の方へ向かう。俺はそのままバーの外へと急いだ。夜風を受けてようやく一息つく。彩佳はやや息を上げているが、その瞳にはほっとした色が浮かんでいる。バーの前にはまだ人だかりがあるし、彼女をこれ以上注目の的にするのは気が引けた。「俺はこっちへ行こう。」声をかけ、彼女と共に人気のない路地へ足を運んだ。「助かりました、杉崎さん。」そう言って彩佳は小さく息をつく。さっきまであの狭い店内で押し合いへし合いだったことを思うと、こうしてひんやりとした夜風を感じられるだけでもだいぶ落ち着く。「いや、俺こそ。それより大丈夫か?押されたりしてなかったか?」「はい、大丈夫です。でも杉崎さん、あれ友達じゃないですよね。え、合コンに参加してるなんて意外。そういうのをやるんですね。」彩佳はちらりと俺の顔を伺い、どこか呆れたような笑みを浮かべる。まるで軽蔑の視線を向けられているようで、俺は思わず慌てた。「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺が好きで参加したわけじゃないんだ。同級生に無理やり連れて来られただけなんだよ。」「ふうん。」彩佳は目を細めて、相変わらず呆れ気味。「ところで彩佳は、なんであんな店に?仕事の打ち合わせか何か?」俺が話題を切り替えるように尋ねると、彩佳はこくりと頷いた。「はい。レコーディングのことでスタッフと食事がてら打ち合わせしてたんです。終わって店を出ようとしたら、あっという間にバレちゃって。私まだテレビ番組とかにはほとんど出てないのに、ネットで顔を知られすぎてるから、なかなか隠れにくくて。」「そうか。いつも大変だな。」話しているうちに、彼女の緊張した様子が少しずつ溶けていくのが分かった。ため息混じりの口調ではあったが、いつも収録や制作現場で見せるのと同じ自然体の星野彩佳に戻りつつある気がする。「それにしても、最近の曲もすごい反響ですよ。私のSNSにリプやコメントが絶えなくて、毎日通知が爆発してるくらい。」彩佳は嬉しそうに言う。「ああ、確かに先週リリースしたばかりの新曲は、配信サービスのランキング上位にいきなり踊り出たと連絡をもらっていたっけ?うん。君は本当にすごいよ。どんどん人気が出てきてるし、このままトップアーティストになってもおかしくない勢いだ。」俺がそう返すと、彼女は「私じゃない」と首を振った。「杉崎さんがすごいんです。私がこうして人気になったのも、杉崎さんが書いてくれた曲があったから。最初に声をかけてもらえなかったら、私はずっと売れない歌手のままだったかもしれません。」「そんなことはないさ。ただたまたま路上で歌ってる君の声がすごく良くて、歌ってみないかってお願いしただけだろ。」「それが大事なんです。あの時拾ってくれなければ、私今の事務所にも入れなかったし、本当に感謝してます。」彩佳は照れくさそうに笑いながら視線を外す。こうして礼を言われると、なんだか居心地が悪い。俺はあくまで曲を作っただけで、歌うのは彼女自身。ここまで人気を得られたのは彩佳の並外れた才能と努力の結果だ。それなのに俺にまで感謝してくれるなんて、全く謙虚すぎるくらいだ。「ま、俺の方こそいい歌い手に出会えてラッキーだったよ。これからも一緒に頑張ろうな。」「はい。」「あ、もうこんな時間。そろそろ帰らないと。」スマホの時計を見た彼女が、少し残念そうに言った。どうやら向こうのタクシーが近くまで来ているらしい。「じゃあ、行くか。ここら辺は夜も遅いし、変な連中に見つかってまた騒ぎになるのは勘弁だしな。」「はい。杉崎さんこそ、帰り大丈夫ですか?まだ合コンの人たちが待ってたりして。」「いや、行かないよ。もうたくさんさ。とにかくお互い気をつけて帰ろう。」「はい。じゃあ、また近いうちにスタジオで。」そう言って手を振る彩佳は、さっきバーでファンに囲まれていた時とはまるで別人のよう。あっさりとした笑顔を浮かべていた。 それから数日後、俺は都内の小さなスタジオで彩佳と一緒に新曲のアレンジについて打ち合わせをしていた。「今日はコーラスの部分にもう少しアコースティックギターを重ねて、全体の抜けをよくしようと思うんだ。どうかな?」「いいと思います。前回の曲以上に明るくて、聞く人の背中を押すような雰囲気を強調したいですよね。」彩佳は以前よりもずっと生き生きと意見を交わすようになっていた。売れ出したばかりの頃は少し控えめだったが、人気が高まるにつれて自分の表現に自信を持ち始めているのが伝わってくる。それはアーティストとして確かな成長だし、俺としても頼もしい限りだった。「じゃあ、ひとまずメインボーカルの収録との仮を取ってみよう。音を合わせてみてバランスを確認したい。」「分かりました。準備してきますね。」彩佳はそう言うとボーカルブースへ向かった。俺はパソコンを立ち上げてレコーディングソフトを起動させる。早速デモの再生準備を整えていると、不意にスマホが震えた。画面を見ると、着信相手は見覚えのない番号だ。「誰だ?」軽く疑問に思いながら応答すると、受話器の向こうから意外な声が聞こえてくる。「もしもし。杉崎さん?わ、私、佐田です。あの、先日のバーで失礼なことを言ってしまって。」一瞬、誰だろうと考える。だが「バーで失礼なことを言った」という言葉でピンときた。あの令嬢、佐田リカか。「佐田さんか。よく俺の番号が分かりましたね。」「木本さんに聞きました。勝手に連絡してしまってすみません。でも、どうしても謝りたくて。」電話越しの声は弱々しく、バーで見せた高飛車な態度とはまるで別人のようだ。少し面食らいながら、俺は口を開く。「いや、俺の方は別に気にしてないので。もう済んだことだし。」「そ、それでも、あの時は本当にごめんなさい。杉崎さんがこんなにすごい作曲家さんだと知らずに、ニート呼ばわりなんて。」「や、謝ってもらうほどのことでもないよ。俺の方も間違ってましたし。」実際、疲れていたこともあって当時はさほど傷つかなかったけれど、彼女の方はどうやら深刻に捉えているようだ。「とにかく、直接お詫びをさせてください。今どこにいらっしゃるんですか?もしご迷惑でなければ、すぐ伺いたいんですけど。」「今?いや、ちょっとスタジオで。」そう言いたいところで、ボーカルブースの中の彩佳が「準備できました」と手を振るのが視界に入った。俺は迷う。仕事の途中とはいえ、彼女がわざわざ謝罪に来るという。ここで断ってまた面倒なことになっても困る。「分かりました。今、都内の桜ワークスってスタジオにいる。大通り沿いだから、タクシーでもすぐ見つかると思います。」「ありがとうございます。では、すぐ向かいます。」電話を切ると、俺はため息をついた。面倒なことになるかもしれないけれど、一度切り上げて改めて組むのもおかしいし、何より直接謝罪したいという彼女の申し出をあまり邪険にはできなかった。それから1時間ほど作業を進めていると、スタジオの入口がノックされた。すぐにスタッフが対応するが、「お知り合いの方が来られています」と声がかかる。通されたのは、前回とは打って変わってシンプルな白いブラウスに落ち着いたタイトスカート姿のリカだった。派手なアクセサリーも身につけていない。まるで普通のOLのような雰囲気で、彼女がやたらと緊張しているのが伝わってくる。「この間は本当に申し訳ありませんでした。」彼女はそう言うなり、スタジオの一角に置かれたソファーの前で深々と頭を下げた。そこにはちょうど休憩中の彩佳もいたので、俺は軽く肩をすくめながら紹介する。「星野彩佳です。」「初めまして。星野です。先日はちゃんとご挨拶できなくてすみませんでした。」彩佳はそう言って軽く一礼した。「えっと、本当にあんな態度を取ったことを反省してます。あの夜は正直、私も仕事で色々あって。合コンって言ってもお嬢様方の集まりなんて気を張らなきゃいけないし、言い訳になりますけど、余裕がなかったんです。それでもニート呼ばわりまでしたのは言い訳できません。」本人なりに一生懸命なのが伝わる。今更蒸し返しても仕方ないし、心から謝罪してくれているのならそれでいい。「分かりました。もうそんなに気にしてませんので。わざわざ来てくれてありがとうございます。」俺がそう言うと、リカは安心したように息をついたが、すぐに真剣な顔つきになった。「それで、実は今日、謝罪以外にもお話があって。私、父が経営する桜エンターテイメントというレコード会社の関連レーベルで働いているんです。今回、その桜レコードで新しいプロジェクトを立ち上げることになりまして、もしよろしければ杉崎さんと星野さんに参加していただけないかと思って。」「え?」彩佳と顔を見合わせる。あの合コンで「令嬢」という単語は耳にしていたが、具体的にどういう家柄かまでは聞いていなかった。だが、桜エンターテイメントといえば、国内の音楽業界のトップクラスに君臨し、数多くのヒットアーティストを生み出してきた超大手企業だ。毎年複数のアーティストが大型の音楽賞を受賞し、全国ツアーや海外進出までサポートするその実績は群を抜いている。まさか、その社長の令嬢が目の前にいるなんて、想像すらしていなかった。「うちの会社は大手とはいえ、最近は若者向けの音楽市場で他社に追い抜かれそうなんです。そこでネット発の勢いあるアーティストを集めようと、今力を入れて企画を練っていて。星野さんの人気や杉崎さんの作曲センスは絶対に欲しいって、社内でも話題になってるんです。もちろん、具体的な条件面でもできるだけ好条件を用意します。」そう言いながら、リカはスマホ画面をこちらに向け、プロジェクトの概要や仮契約書のよう な資料を見せてくれた。ざっと目を通す限り、破格の予算が組まれているらしい。メディア露出はもちろん、大規模なプロモーションやイベント出演などをセットで提案している。彩佳を国民的歌姫レベルまで押し上げるというのが会社の方針であり、そのために大金を惜しまないというのだ。「本から令嬢と聞いた時は、おそらく金持ちのお嬢様くらいのイメージだった。だが実際は、彼女の父親が日本の音楽業界に大きな影響力を持つレベルの社長だったとは。」「父も星野さんの楽曲を全部聞かせていただいて、相当気に入ってます。杉崎さんが作るメロディーの良さと星野さんの声の魅力は、今の時代にぴったりだって。だから今回、大きくバックアップしたいと考えていて。」「いや、でも俺たちは今、小さな事務所やフリーで動いてるから、いきなり大手レベルと契約するにはハードルが高いというか。既存の契約関係もあるし。」俺がそう言うと、リカは「もちろん承知しています」と頷いた。「既存の契約は可能な限り円満に調整します。違約金などもうちのレーベル側で負担する方向で進めるつもりです。とにかく星野さんが納得してくれるなら、いくらでも便宜を図ると社長も言っています。」そこまで言われると、さすがに俺も驚かざるを得ない。フリーランスの作曲家である俺にとっては、よほどの大物アーティストでもなければ想像できない規模のサポートだ。「すごいですね。ここまでの条件提示、普通はありえないんじゃないかと。」彩佳が信じられないといった表情を浮かべる。リカはそんな彩佳に向き直り、頭を下げるように言葉を続けた。「もちろん、星野さんにもプレッシャーはかかると思います。国民的歌手になるには、膨大なメディア露出や大きなステージでのパフォーマンスも求められるでしょう。でも、私どもは必ず力になります。どうか信じて欲しいんです。」控えめながらも、彼女の言葉には確かな熱意がある。先日の傲慢な姿からは想像できないくらい、今のリカは一生懸命に頭を下げていた。彩佳は一度俺の方に目をやる。どうするべきなのか、まだ判断がつかないのだろう。俺自身も、彼女を大きく飛躍させるにはこの話が魅力的なものであることは間違いないと感じていた。「ひとまず、返事は保留でいいですか?もちろん前向きに検討はします。ただ、今の事務所やスタッフとの関係もあるし、彩佳のスケジュールもあります。そこを整理したいんです。」「はい、もちろん大丈夫です。父も星野さんの負担にならないように最大限調整すると言っていますので、お気軽に何でも相談してください。」リカはそう言い残し、深くお辞儀をしてスタジオを後にした。見送った後、彩佳と顔を見合わせる。お互い、こんな展開になるとは夢にも思わなかった。 それから1週間ほど、俺と彩佳は今後のキャリアについて真剣に話し合い、彼女のマネージャーや俺の知り合いの業界関係者にも助言を仰いだ。結果として、大手レーベルとの契約を結ぶ方向に大きく傾いた。彩佳はまだ若い。勢いがある今だからこそ、より大きなステージに挑戦する意義は大きい。俺もフリーランスであるため、規模の大きい仕事を経験したいと思っていた。そして何より、桜側が示す待遇やプロモーション内容は、彩佳を国民的アーティストに押し上げるだけの説得力があった。最終的に契約がまとまったのは、リカが正式に手配した都内の高層ビルに入る豪華な会議室でのことだった。黒光りする代理店のテーブルに、深いグリーンのカーペットチェアがずらりと並べられた部屋は、いかにも超大手らしい圧倒的な存在感を放っている。そこにリカの父親、桜エンターテイメントの社長が姿を見せると、俺と彩佳の前までゆったりと歩み寄り、柔らかな笑顔を浮かべた。「いやあ、お会いできて光栄です。杉崎さん、星野さん、ようこそいらっしゃいました。この度は私どものレーベルでお力を発揮していただけるとのこと、大変嬉しく思っています。星野さんの歌声、先日送っていただいた映像で拝見しましたよ。素晴らしい才能だ。これは是非、うちの力で日本中、いえ、世界中に広めたいと思っております。」「よろしくお願いします。精一杯、歌で答えたいと思います。」彩佳がそう頭を下げると、社長は大げさなほどに頷いて見せる。そして俺の方へも視線を移し、「杉崎さんの作るメロディは素晴らしいですよ。いや、本当に。」と言いながら、さらりとこちらの経歴などを持ち上げた。それから部下たちが契約書や資料を手渡してきて、話はあっという間にまとまっていく。双方の条件をすり合わせる作業は短時間で終わり、最終的に俺と彩佳は桜エンターテイメント、正確にはその関連レーベルと正式な契約を交わすことになった。 その後は、桜エンターテイメントの盤石なプロモーション体制のもと、彩佳の知名度は爆発的に上がっていった。主要テレビ局の音楽番組に次々と出演し、CMタイアップやドラマ主題歌のオファーが殺到。街角の大型ビジョンや雑誌の表紙など、どこを見ても彩佳の姿が目に飛び込んでくる。いつの間にか、彼女の曲はお茶の間でも当たり前のように流れる存在になっていた。最初は喜びこそ大きかったものの、ふとした瞬間に感じてしまうのは、彼女がどんどん遠い存在になっていく、そんな寂しさだった。お互いのスケジュールが過密で、まともに顔を合わせる機会が激減した。打ち合わせすらオンラインで済ませることも珍しくない。ビデオ通話をつないでも、背後からスタッフの声や外部の音が入り込んで落ち着かないし、彩佳の方も疲れているのか、画面越しに無理に笑顔を作るだけで、どこかよそよそしい。「杉崎さん、すみません。ちょっと次の撮影が迫ってて、細かいところは後でメールで大丈夫ですか?」そんな風に、慌ただしく通話を打ち切られることもしばしば。俺から細かいアレンジの提案をしても、彩佳は「すみません。後でマネージャーと確認しますね」と、どこか上の空だ。以前のように「こうしたい、ああしたい」と熱を持って話し合った頃が嘘のように感じてしまう。スケジュールの兼ね合いで仕方ないとはいえ、画面に映る彼女がすっかり芸能界の顔になりつつある気がして、孤独を覚える。終了アイコンをタップして通話画面が消えるたび、まるで向こう岸へ流される船を見送っているような感覚に襲われた。 そんなある日の深夜、ようやく作業の切れ目ができた頃、事務所からの帰り際にスタジオ付近で彩佳と偶然顔を合わせる機会があった。マネージャーも付き人もおらず、マスク姿の彼女はほっと一息ついたように俺に視線を向ける。「杉崎さん、ちょっとだけ話せますか?」いつもは慌ただしくマネージャーに呼ばれ、すぐ次の現場へ移動してしまう彼女が、1人で俺の近くに立っている。マスクも外した素顔からは、かすかな疲労が伺えた。「ん?どうした?もう遅い時間だけど。」「少しだけでいいんです。」外で話せる雰囲気でもなかったため、俺は彼女を伴ってスタジオの中に行くことにした。彼女はソファーに腰を下ろして深呼吸をする。普段はテレビ画面やステージで完璧な笑顔を見せるスターのはずなのに、今の彩佳はどこか沈んでいた。「実は最近、思うんです。私の歌が、私の歌じゃないみたいで。忙しすぎて、一曲にかけられる時間があまりにも少なくなってて。」彩佳はそう言いながらちらりとこちらを見やる。ためらいがちな言葉の端々から、胸の奥に溜まったモヤモヤが伝わってくる。「ほら、デビューした頃は1曲1曲、もっと丁寧に時間をかけて作り上げられたじゃないですか。でも今はスケジュールを詰め込みすぎて、レコーディングやミックスも駆け足で済ませることが多いですよね。自分が本当に納得できるまで向き合えないまま、曲が世に出ていくのが正直怖いんです。」彩佳の瞳が切なげに揺れる。そこにはアイドルのように祭り上げられている華やかな姿など微塵もなく、ただ純粋に歌を届けたいと願う1人のアーティストがいた。「でも、私は恵まれてるのも分かってます。こんなに大手のレーベルで、しかも大勢の人に私の歌を聞いてもらえる。多分、夢のような環境なんだと思います。でも、なんか違うんですよ。思ってたのと違う。もうちょっと1曲ごとに真剣に向き合って、自分の声を大切にしたいのに。」言葉を最後まで絞り出すと、彩佳は視線を落とし、拳をきつく握りしめる。その指先がわずかに震えているのを見て、俺はそっと彼女の肩に手を置いた。「今が忙しすぎるだけだよ。むしろ、それだけみんなが君を求めてるってことじゃないか。確かに時間は足りないかもしれないけど、君が本当に届けたい歌があるなら、きっとどんな方法でも届けられる。大丈夫だって。俺も手伝うから。」俺がなるべく穏やかな声で諭すと、彩佳は俯きがちに唇を噛み、次の瞬間、ぽたりと涙をこぼした。その涙はひどく静かで、けれど切実さをはっきりと伝えてくる。「早く泣きやまないと、誰かに見られたら大変だぞ。」俺がそう言うと、彩佳はしたように目を伏せた。ここで涙を流している姿を週刊誌やカメラにでも撮られたら、一瞬でスキャンダルになりかねない。そして、彼女は泣く場所もなくなっていたのだと、ふと気づく。ステージに立てばファンの声援を浴び、仕事現場ではスタッフやスポンサーの目がある。友人の前だって、いつも明るく振る舞わなきゃいけない。1人の時間だって、SNSの通知は止まらない。どこへ行っても泣く自由なんて与えられない世界の中で、彼女は息を詰めていたのだろう。「でも、俺の前なら泣いてもいいよ。」そう伝えた途端、彩佳の目にはみるみる涙が浮かび、こらえきれないものが頬を伝う。きっと、自分の素直な感情をさらけ出すことも許されずに走り続けてきたのだ。俺はそんな彼女の肩をそっと支え、小さく息をつく。周りには誰もいない。もう遠慮しなくていいと告げるように、静かに背中をさする。「私、やっぱり杉崎さんと一緒に歌を作りたい。駆け足のままじゃダメなんだ。私…」彼女の肩は小刻みに震えていて、その体温がじわりと伝わってくる。少し前まで大勢の前で堂々と歌っていた人とは思えないほど、今の彩佳はか細く、今にも折れてしまいそうだ。「ゆっくりでいいんだ。誰かにせかされるんじゃなくて、俺たちが納得できるスピードで曲を作ろう。」言葉をかけるたび、彩佳の肩の震えは少しずつ落ち着いていく。肩をさすりながら、俺もまた彼女の不安や苦しさを分かち合うように息を吐いた。スタジオの外では深夜の闇が広がっているが、控え室の小さなライトだけが俺たちの小さな語らいを優しく照らしていた。 あの夜、涙を流す彩佳をなだめて以来、俺の中で色々な思いが渦巻いていた。忙しさに押されてやりたいことができないのは、おそらく彼女だけじゃない。俺だって、もっと時間をかけて一曲を磨きたいという理想はある。だけど現実には、締め切りやスケジュールを優先しなきゃいけない場面が多いのがこの世界だ。それでも俺たちは、少しでも自分たちの納得いく音楽を作ろうと踏ん張ってきた。特に彩佳がこぼしたあの涙を見てから、どうしても書きたい曲が頭の中に浮かんで離れなくなった。そして数日後、一気に描き上げた新曲は、驚くほどの手応えがあった。自分の中でも「これだ」と確信を持てるメロディに仕上がり、思わず徹夜明けに完成を上げそうになったほどだ。「え、これすごくいい曲じゃないですか?」ある夕方、彩佳がスタジオに来るなり、すぐにデモを聞いてもらった。イヤホンを外した瞬間、彼女の目にはすでに涙が浮かんでいる。「ごめん。急に泣いたりして。でも、どうしよう。言葉にならないくらい嬉しくて。」彩佳は指先でまぶたを拭いながら、震えたように息を吐いた。そっと再生を止めた俺は、恥ずかしさを隠すように小さく肩をすくめる。「実はさ、初めて出会った時の君をイメージして書いたんだ。路上で歌ってた頃の、あのちょっと不器用な熱量とか純粋さとか。今の君にも通じる思いが、ちゃんと形になればいいなと思って。」「ありがとうございます。本当にすごい。なんでこんなに胸に響くんだろう。」彩佳の頬にはまだ涙が伝っていたが、その瞳には確かな輝きが戻っていた。「絶対、これを自分の声で最高に仕上げたい」とでも言うように、まっすぐこちらを見つめてくる。俺はそんな表情が愛しく思えてならなかった。 その翌日、社長に新曲のデモを聞かせるために本社ビルへ足を運んだ。会議室に通されると、すでに社長は黒いソファーに腰かけていた。「おお、これはまた素晴らしい曲じゃないか。星野さんにぴったりな心メロディだね。」社長はそう言って、にこやかに頷きながらもう一度デモ音源を再生する。内心ほっとする。ここまで高評価なら、彩佳の希望通りこの曲をのびのびと作り上げられるに違いない。だが、次の瞬間、彼はあっさりとした調子でこう続けた。「うん。決めた。これ、新人に歌わせよう。」「新人ですか?」思わず聞き返すと、社長は苦笑するように頷いて見せる。「実はな、リカが歌手になりたいと言ってきてね。以前から声楽を学んでいて、すごく歌がうまいんだよ。大学でも発表会のたびに先生たちが絶賛するほどの腕前でな。」社長が意外な提案を持ち出した瞬間、俺は思わず目を見開いた。リカ、つまりあの佐田令嬢のことだろうか。「ちょ、ちょっと待ってください。この曲は、彩佳、星野さんのために書いたものなんですが。」俺が慌てて切り返すと、社長は気にした様子もなく椅子の背もたれにふんぞり返る。「星野さんはもう十分人気があるし、売れっ子だ。君の曲を歌わなくても困りはしないだろう。むしろ、今度の新人をしっかり育てるには、最高の名刺としてこの曲を使いたい。ま、もちろん最終的には検討するけどね。」「彩佳はこの曲にすごく思い入れがあるんです。俺も彼女をイメージして書いたもので。」「イメージは大事だが、商売も大事なんでね。まあ、考えておいてくれ。星野さんには別の作曲者に依頼した曲を用意しよう。その方が効率的だ。」そう言うと、社長は音源を止めた。部屋に静寂が戻る。思わず言葉を失った俺をよそに、彼は立ち上がって部下に指示を出し始める。役員会議だの企画案だのと業務的な話が流れる中で、俺は呆然としていた。あの曲は、彩佳が涙を流して喜んでくれたのに。よりによって彩佳の瞳が浮かぶ。彼女のための曲だ。それをいきなり別の新人に歌わせるなんて、一体どう受け止めればいいのか。社長の理屈も分からなくはない。新人を売り出すには、これ以上ない当たり曲が欲しいだけだけど。「じゃあ、そういうことで。」最後にそう言い放って、社長はさっさと会議室を出ていった。俺はぐっと拳を握りしめたまま、絞り出すように1人呟く。「彩佳はどうなるんだよ。」誰からも返事はない。会議室に残された俺は、ただ硬い沈黙の中で立ち尽くすしかなかった。 その日の夜、俺はどうにも落ち着かなくて、まだ事務所に残っていた彩佳を捕まえ、今回の件を正直に話すことにした。「え、私の曲を新人に歌わせるって、本当ですか?」彩佳は控え室のソファーに腰かけたまま、目を大きく見開く。いつもなら少し疲れている時でも笑ってごまかす彼女が、さすがに今回ばかりは言葉を失っている。「社長の方針だ。新人と言っても、あのリカで声楽を学んでるらしい。めちゃくちゃ歌がうまいとか、なんとか。」「そんな…あの曲、杉崎さんが私のために書いてくれたのに。」そう言いかけて、彩佳はぐっと唇を噛む。その姿を見ていると胸が痛んだ。今にも涙が溢れそうで、俺は握りしめた拳をほどいた。「いや、やっぱり納得できない。この曲はお前だけのために書いた曲なんだ。俺が社長に話してくるよ。ちゃんと説明すれば、分かってもらえるかもしれない。」そう言って立ち上がろうとする俺を、彩佳は慌てたように腕を掴む。ぬくもりのあるその手からは、どこか一生懸命な思いが伝わってくる。「大丈夫です。杉崎さん、ありがとうございます。でも、いいんです。社長がそう言うんじゃ、どうしようもないじゃないですか。私がもっと実力をつければ、きっと…」最後まで言い切らずに、彩佳は無理やり笑顔を作る。だからこそ、彼女が本当はどれほど悔しい思いをしているかが痛いほど伝わった。小さく震える唇を見つめながら、俺は何とも言えないやるせなさを覚える。「そうか。」「はい。」彩佳の笑顔は、どこか苦しげでもあった。 そして後日、レーベルのスケジュールに従う形で、俺はリカをスタジオに迎えることになった。あの時はやたらと高飛車な印象を受けたが、今日は少し違う雰囲気で現れた。「えっと、なんかすみませんね。星野さんの曲を奪っちゃったみたいで。レーベルの方針ですから、私もどうしようもなくて。それでも、こういう機会をもらえたのは嬉しいんです。私は声楽をやってて、実はずっとプロを目指してたから。杉崎さんの曲を歌えるなんて、すごく光栄なんですよ。」彼女は恐縮気味に微笑みかけ、自筆した譜面をテーブルに並べ始めた。「じゃあ、早速お願いします。」俺が音源の用意をすると、リカはこくりと頷き、イヤホンを装着してボーカルブースの中へ入る。さっきまでの遠慮がちだった表情は消え去り、まるで舞台女優のように堂々とマイクの前に立つ。再生ボタンを押し、デモが流れ始める。するとリカは、声楽仕込みの正確なピッチとのびやかな声を響かせた。一音一音がクリアで、音程のずれなど一切感じられない。なるほど。確かに「歌がうまい」という評価は嘘じゃない。一通り歌い終わると、リカはイヤホンを外し、軽く息をついてからこちらを見る。「どうでした?すごい緊張しちゃいましたけど、一応は歌えたかと思います。もっとうまく歌えますので、何でも言ってくださいね。」その口元には小さな誇りが滲んでいる。先ほどまで見せていた「すみませんね」という遠慮の態度よりも、手応えを感じている様子がはるかに強く伝わってきた。「もっとうまくとは、どういう意味?」俺がそう切り返すと、リカはマイク越しにすっと顎を引き、微笑を浮かべる。さっきまでの謙虚さは消え去り、彼女本来の令嬢らしい気位が見え隠れする。「この曲、星野さんのために作った曲なんですって。でも、ぶっちゃけあの子、顔だけじゃないですか。確かに可愛いし人気はあるんだろうけど、ピッチも曖昧だし技術もまだまだ。私に任せてくれれば、この曲を完璧に歌いこなして見せますよ。」マイクスタンドに片手を添え、彼女は自信満々にそう言い切る。確かに彼女の歌唱力は認めざるを得ないほど高い。しかし、その一言がやけに耳障りだ。あの合コンで見せた態度が頭をよぎり、胸の奥がざわつく。「そうだね。技術的には君なら完璧に歌いこなせるかもしれない。でも、残念だけど、俺は君とはやっていけない。」スタジオ内に一瞬、沈黙した空気が流れた。イヤホンを手にしたまま、リカの瞳がわずかに見開かれる。「はあ?どういうこと?歌はちゃんと歌えてるわよ。私が下手だって言うの?」困惑する彼女に、俺は静かに首を振る。「そうじゃない。あなたは確かにうまいし、音程も完璧かもしれない。でも、歌ってのはその人の人柄が滲むもんだ。あなたの歌には傲慢さが出ちゃってる。テクニックで押し切ろうとしていて、心を揺さぶる何かが伝わってこない。俺はこの曲の良さをまるで感じられないな。」彼女の顔がみるみる紅潮する。まさか面と向かって否定されるとは思わなかったのだろう。彼女は激昂し、あからさまに不満を机に叩きつけた。「生意気言うんじゃないわよ。私にはパパがついてるのよ。こんなに歌がうまい私を否定するなんて、許されると思ってるの?今すぐパパに言いつけてやるから。」彼女の声がスタジオに反響するほど大きい。俺は肩をすくめつつ、冷静に言葉を返した。「言いつけるなり、なんなり自由にすればいい。でも、これは事実なんだ。テクニックや勢いだけが全てじゃない。心がこもってなければ、どんなにうまくても聞く人の胸には届かない。」「ふざけないで。私の歌は先生たちからも絶賛されたのよ。あなたなんかが口を挟む余地なんてないの。」「口を挟む余地がないのは、テクニックについてだろ。そこは俺も認める。だけど、歌ってのは誰の歌かっていうことが重要なんだ。今の君の歌からは、正直、星野彩佳が歌ったらどうなるかなんてことばかり気にしている、傲慢な気配しか感じられない。」「うるさい。あんな子より私の方が絶対に歌えるわ。今に見てなさいよ。パパに言えば、あなたなんて首にできるんだから。」リカは鋭い目つきをこちらに投げつけ、足音荒くスタジオから飛び出していく。扉がバタンと閉まると、静寂の戻った空間に俺の息遣いだけが響いていた。彼女の怒りを買ったことは間違いないが、それでも譲れない思いがある。曲は単なる商品じゃない。作る側も歌う側も本気で向き合わないと意味がないのだから。 翌日、案の定というべきか、社長から呼び出しがかかった。都内の高層ビルにある桜エンターテイメント本社の会議室に入ると、すでに社長は険しい顔で腕を組んでいる。リカも隣で眉を吊り上げ、「パパ、早くなんとかして」と不満げに促していた。「杉崎君、君にはがっかりだ。せっかくうちの娘が興味を持った曲だというのに、あんな失礼なことを言うなんてな。娘は傷ついてしまったんだぞ。」「失礼というか、事実を言ったまでです。彼女では曲の良さが伝わりません。」ここでも俺は態度を曲げない。どうせもう後がないならと、開き直るしかなかった。社長は一瞬ぎょっとしたような顔になるが、すぐに唇を固く結び、声を荒げた。「いいだろう。そこまで言うのなら、首だ。君は作曲家として、うちではもう雇わんよ。契約解除だ。出て行きたまえ。」リカは口元を釣り上げ、勝ち誇ったように俺を見る。俺はそれを無視して、荷物をまとめ始めるしかなかった。胸が痛むが、全く後悔はない。これで俺も桜エンターテイメントの傘から外れ、フリーに逆戻りだ。 スタジオを出て、行き先も決めずに夜の街を彷徨った。大手レーベルと契約した後の反動は大きい。連絡もパイプも、何もかもが途絶えそうだ。しかも、佐田社長が黙っているとは思えない。どんな妨害が待ち受けているか考えるだけで、胃が重くなった。そんな時、スマホが震える。彩佳からだ。「杉崎さん、どうしてやめちゃったんですか?今どこにいますか?」電話口の音量を落としながら、俺は通りの隅に立ち止まる。しばらく言い訳めいた言葉しか浮かばず、黙り込んでしまった。「ごめん。あそこにいても、俺の作りたい曲は作れないと思った。それだけだ。」「そんな…私、事務所で杉崎さんがやめたって聞かされて、本当に驚いたんですよ。」彼女の声はいつになく震えている。マネージャーやスタッフの目を盗んで連絡してきたのだろう。とにかく会わないと話が開かないと思い、俺は彩佳と会うことに決めた。 人影の少ない公園の片隅。街灯の照明だけがほんのりと地面を照らしている。わずかに肌寒くなった夜風が吹き抜ける中、彩佳はトレンチコートの襟を立ててやってきた。「で、本当にやめたんですね。」少し息を整えながら、彼女はまっすぐに俺を見つめる。瞳には戸惑いと苛立ち、そして寂しさが混ざっていた。「社長の意向に従っていたら、あの曲はリカに回される。俺には耐えられなかったんだよ。」「耐えられないなら、なんで相談してくれなかったんですか?勝手にやめるなんて。」「悪い。でも、時間がなかった。あれ以上ずるずる引き延ばせば、あの曲が丸ごと潰されるか、誰かに取られるだけだったから。」言い合いになるのも時間の問題だった。実際、彩佳の目に涙が浮かんでいるように見えたが、彼女は懸命に耐えているようだった。「それなら、私もやめます。」唐突な言葉。思わず俺は息を飲んだ。今や看板アーティストとも言える彼女が、簡単に口にしていい言葉じゃない。慌てて首を振る。「待て、それはまずい。お前はもう大勢のファンに支持されてるし。こんな形でやめたら、社長の妨害だって容赦ないぞ。」「構いません。私、限界なんです。あそこにいても、私の歌なんてなくなっちゃう。杉崎さんがいないなら、なおさら意味がない。」彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。俺は思わず手を伸ばし、そっと彩佳の肩を支えた。「彩佳。それは、もしかしたら取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ。」「分かってます。でも、もう決めました。」その言葉には、それ以上の反論が浮かばないほどの切実さがあった。結局、俺たちは視線を交わしたまま黙り込んでしまう。遠くの車の走行音がやけに大きく響く。「分かったよ。じゃあ、もう1度2人でやり直そう。あの曲を大ヒットさせて、見返してやろう。フリーに戻ったって、できることはあるはずだ。」「はい。もう1度、あの曲をちゃんと歌わせてください。」彼女はそう言いながら涙を拭い、春めいた笑みを浮かべる。その笑顔は、初めて路上で歌っていたあの頃の彩佳を思い出させる。飾り気のない、でも意志の強い眼差し。どんなに険しい道でも、彩佳となら踏み出せる気がする。2人で作った曲を、2人の手で守り抜く。そんな覚悟が、この夜の風の中ではっきりと形をなしていった。 それから数日後、彩佳と一緒にレコーディングの準備を進めていたある日のこと。スマホの通知が鳴り止まないのに気づいて、何気なくニュースアプリを開くと、目に飛び込んできたのは佐田リカ・デビューの大きな見出しだった。そこには「今期最高の神曲」「天才新人が放つ圧倒的存在感」といった文字が並び、SNSのトレンドを席巻しているという。ただ、その曲の冒頭を再生すると、どう考えても俺が書いたデモとほぼ同じメロディが流れ出す。歌手のクレジットは全く知らない名前だが、コード進行もサビの展開も限りなく近い。彩佳も「これ、あの曲そっくりですね」と青ざめた顔で呟いた。「やられたな。」俺はヘッドホンを外し、テーブルに放り投げる。レーベルを飛び出してフリーに戻った矢先の、卑劣な仕打ち。あの曲を彼女用に書いたのに、どうやら内部データを利用されてしまったらしい。 その夜、自宅の狭い部屋で頭を抱えていると、玄関のインターホンが唐突に鳴った。モニター越しに確認してみれば、そこに立っていたのは大学時代の同級生、木本だった。彼はスーツのジャケットを抱えたまま入ってきて、テーブルに白いコンビニの袋を置く。「なんだよ、急にこんな夜遅くに。やっぱり家にこもってたか。ほら、ビールでも飲めよ。」木本はそう言うと、床にどかりと腰を下ろして缶ビールのプルタブを引く。「で、どうした?」「いや、あれ見たぞ。佐田リカとかいう新人が神曲でデビューしたってやつ。あれ、お前の曲だろ?」やはり気づいていたのか。木本は一気にビールを煽ってから、しみじみとした表情になる。「曲全体の雰囲気、特にコード進行とかアレンジの癖が完全にお前じゃないか。学生時代、バンドでやってた頃からよく知ってるから、ピンと来たんだよ。あのDメロの入り方とかさ、間違いないだろ。」俺は苦い笑いをもらす。彼の指摘は的確だ。大学時代から幾度となく音楽の話をしてきた男だから、俺の作風を把握しているのも無理はない。「やっぱり分かるか?そうだよ。曲名も作曲者名も違うけど、中身はほぼ俺が書いたやつ。そのまま使われたんだろうな。」「やっぱりな。それで、どうすんだよ。」木本の問いに、俺は言葉をつまらせる。普通なら訴える以外にないが、相手は大手レーベルだ。圧倒的な資金と業界のコネを持っているため、下手に争えば潰されてしまう危険性もある。「相手は桜エンターテイメントだ。今更、俺みたいなフリーの作曲家が訴えたところで、どれだけ勝ち目があるか。」そんな弱気な声を漏らすと、木本は唇を曲げて笑う。「お前、なんか勘違いしてないか?俺、法学部時代からの知り合いだろ。弁護士として働いてるのは知ってるよな。」「いや、でも、そう簡単じゃないだろ。向こうには一流事務所の弁護士もいるだろうし。証拠だってうまく隠される可能性がある。」「可能性があるだけで、戦わないのか?お前らしくないぞ。曲を盗まれたままでいいのか?このまま黙ってたら、お前の音楽人生が壊されるかもしれないんだぞ。」木本はビールの缶を持ったまま、俺に詰め寄る。迷いがちな俺に苛立っているようだが、その奥にはなんとかしてやりたいという友人としての思いが見える。「なあ、あの合コン以来、お前とまともに話してなかったけど。実はあの時、俺もちょっとお前のことを馬鹿にしてたんだ。法学部って弁護士確実って言われてたくせに、音楽の道に進むなんて、無謀なやつだなって。でも、今思うと、お前は自分の夢をしっかり貫いてる。お前はすげえよ。」そう言われた瞬間、胸の奥で何かが軽くなった気がした。勉強自体は嫌いじゃなかったし、実際、法廷に立って人を助ける弁護士という職業は社会的にも意義のある立派な道だと分かっていた。だけど、幼い頃から音に触れるたびに感じてきたあのワクワク。ギターの弦に指が触れただけで、まるで新しい世界が広がるような感覚が、どうしても捨てきれなかった。もちろん、弁護士の道だって人を助ける素晴らしい仕事だと思うけれど、俺にとっては音楽が言葉以上の力を持っているように感じられた。音が鳴った瞬間に伝わる熱量、心の奥まで届く衝撃。それを自分の手で生み出して、聞いてくれる人に届けたい。そんな夢を諦める方が、よほど自分を偽る行為だと思った。だから俺は、周囲の反対を押し切って音楽の道を選んだ。「俺はただ、弁護士になるって夢を親や周りに追い立てられるようにしてきただけだけど、お前は自分の意思でこの道を選んで、成功してる。お前の曲、ちゃんと評価されるべきだろ。木本、こんなところで終わって欲しくないんだよ。お前がこのまま泣き寝入りするようなやつだとは思いたくない。訴えろよ。曲を書いたのはお前なんだって、胸張って言え。」その力強い言葉に、俺は喉が詰まる。彩佳のためにも、俺のためにも、ここで引き下がるわけにはいかない。頭では分かっていたが、ずっと怖かった。だが、木本がこうして背中を押してくれるのなら。「分かった。やってみるよ。なんとか証拠も揃えて、勝ち目を探す。木本、頼っていいのか?」「当たり前だろ。俺も日本一の弁護士になるって夢があるんだ。こんな大舞台、燃えないわけがないだろ。俺は俺の夢を叶える。その過程で、お前の曲を取り返すって話さ。」木本は立ち上がり、さっと手を差し出してくる。俺はその手を力強く握り返す。胸の奥に、じわりと熱いものが湧き起こるのが分かった。「ありがとう。本当に助かる。たとえ相手が大手だろうと、やるしかないよな。」「ああ、その意気だ。お前の音楽は、何者にも奪われるべきじゃない。」静かな夜の中で、2人は改めて拳を突き合わせる。今まさに、大手レーベルへの宣戦布告をする瞬間だ。夢を貫くもの同士、乗り越えるべき壁は高いかもしれない。それでも、ここで動かなければ一生後悔するだろう。 その翌日から、俺たち、作曲者である俺と弁護士として奮闘する木本、それに彩佳のチームは怒涛のような日々を過ごした。相手は業界トップクラスの大手レーベル、桜エンターテイメント。その社長や顧問弁護士、さらには裏で糸を引く大勢の業界関係者まで、敵はあまりにも多い。まともに戦って勝てるのか。最初は誰もが不安を抱えていた。しかし木本は恐れるどころか燃えていた。彼にとっては日本一の弁護士になるという夢があり、これ以上ない大舞台でもある。俺は俺で、この曲を取り返さないと自分のプライドも未来も失ってしまうと覚悟を決めていた。彩佳は「この曲を私の声で歌いたい」という強い思いを胸に、必要な証拠集めや証言にも積極的に協力してくれた。法廷で明かされた佐田社長の実態は、想像以上に黒かった。著作権侵害や契約書への違法情報の追加、二重契約の強要など、その手口は次から次へと暴露され、世間を大いに騒がせる。その結果、社長のみならず桜エンターテイメント全体が膨大な数の不祥事を抱え込む事態に陥った。さらに、リカのデビュー曲が盗作だったのも決定的で、メディアは大スキャンダルとして大々的に取り上げ始める。裁判は長期化を極めたが、木本が用意した証拠はどれも強力で、俺が書いたデモ音源やメッセージのやり取り、彩佳による証言までしっかり裏付けが取れた。審理を重ねるたびに相手の弁護側は追い詰められ、大手レーベルの権威など吹き飛ぶほどのダメージを負う。最終的に裁判所は「作曲者は杉崎悠都である」という判決を下し、桜エンターテイメントに多額の損害賠償金と謝罪広告の掲載を命じた。その上、佐田社長は他にも過去の契約違反が複数発覚という追い打ちを食らい、一躍業界最大級の不祥事の主役となってしまう。週刊誌は「音楽業界の闇」「大手レーベル崩壊寸前」と大騒ぎし、SNSでも批判が殺到した。当然、リカもデビュー曲が盗作だと判明したことで、一夜にして「天才令嬢シンガー」の称号を失った。 そんなある夜、街角のカフェの前で偶然再会したリカは、かつての高飛車な雰囲気を失い、すっかりやつれていた。頬はこけ、瞳もうつろで、重そうにため息をつく。俺が「大丈夫か」と声をかけると、彼女はか細く笑って首を振った。「大丈夫なんて、あるわけないじゃない。でも、本当は私、自分の力で歌手になりたかったのよ。父の影響力を借りれば簡単にステージに立てるって思って、あんな暴挙に出ちゃったけど。どこで間違えたのかしらね。」うつろな瞳のまま、リカは苦しそうに笑い、帽子を深く被り直す。「結局、誰も私の歌なんて聞いてくれなかった。父の人形だっただけ。」彼女の呟きには、痛ましいほどの後悔と、本当は純粋に歌いたかったという未練が滲んでいた。けれど、それ以上何も言わず、リカは夜の闇に消えていく。俺はただ、その背中を見送るしかなかった。 そして、裁判は俺たちの勝利という形で幕を下ろした。彩佳のために書き下ろした曲を、彩佳とレコーディングをし、リリースすると、それは驚くほどの速さでヒットチャートを駆け上がった。元々話題性があったのも大きいが、彩佳の切ないほど純粋な歌声と、当初から構想していた本来のアレンジが圧倒的な魅力を放ったのだろう。テレビやSNS、音楽メディアが「これこそが本物の神曲」と大絶賛。リスナーはもちろん、業界関係者も「これはやばい」と共鳴し、またたく間にヒットへと成長していく。しかも、そこで終わりではなかった。この爆発的ブームに目をつけた海外の大手レーベルは、「是非一緒に世界へ挑戦しませんか」とオファーをくれたのだ。俺と彩佳はもちろん「やらせてください」と二つ返事。木本も「まだ訴訟関係の仕事が残ってるけど、うまくやるよ」と頼もしい言葉をくれる。こうして俺たちは、国内トップヒットにとどまらず、世界を視野に活動することになった。 今日もレコーディングが終わった頃、クタクタに疲れた彩佳が俺の前へとふらりとやってきた。「お疲れさん、大丈夫か?」ソファーから立ち上がって声をかけると、彩佳はうなだれず、苦笑いでもなく、ただふーと大きな息をつく。「ねえ、頑張ったから、ご褒美ください。何でもいいです。」「ご褒美って、俺にできることなんて高が知れてるぞ。」そう答えながら彼女の顔を伺うと、彩佳はにやりと笑みを浮かべる。「じゃあ、私とも合コンやってください。」「合コン?」驚きのあまり言葉を飲み込む俺に、彩佳はさらに顔を寄せてくる。目の奥がどこかいたずらっぽく光っていた。「ただし、私と2人きりの合コンですよ。」「そ、それって、合コンじゃなくて…」「し、そういうのは野暮って言うんです。」「いいじゃないですか。私が頑張ったご褒美なんだから。」彩佳は満足そうに微笑むと、軽い足取りでスタジオの外へ歩き始めた。全てをかけた一曲が奇跡のように蘇り、今や世界へ羽ばたこうとしている。その姿を見つめながら、俺は深い息を吐き、覚悟を新たにした。これまでの苦労も試練も、全てが俺と彩佳、そして仲間たちを強くさせてくれた。次なる舞台は海外。夢はまだまだ終わらない。俺たちはどこへでも行ける。音楽と思いさえあれば。

11 September 2026

Durante la cena del Ringraziamento, mia sorella Giulia ha preso il mio tablet per mostrarci le foto della sua villa in Toscana. Non ha trovato le foto. Ha trovato i miei conti bancari. “18 milioni…

Per quasi tutta la vita, la mia famiglia mi ha considerata una donna fallita. Ero quella strana, quella silenziosa, quella che passava le giornate in un semiinterrato polveroso, circondata da libri vecchi e documenti che odoravano di muffa. Mia sorella Giulia era l’opposto: elegante, rumorosa, perfetta per le fotografie. Ogni settimana pubblicava foto di cene … Read more

11 September 2026