朝の八時、姉が「私行かないから」と言って家を出た。二時間後にはお見合いが始まる。振り袖は二階にかかったまま。母は台所で皿を洗う私を見て言った。「あんたが行きなさい。」私は姉の身代わりとして、写真で見た泥だらけの作業着の男の前に座った。あの日、私は何も知らなかった。この人が誰なのか、なぜ私を選んだのか。そして、半年後の結婚式で、家族の前で明かされる真実を。…
朝の八時過ぎ、玄関で姉がヒールを吐きながら言った。「私行かないから。」 二階には着付け用の振り袖がかかっている。なのに姉は自分のワンピースに着替え、足元には旅行用のカバンが置いてあった。母が階段を駆け下りてきた。「あお、何を言ってるの?あと二時間で仲人が来るのよ。」母の声は裏返っていた。姉は振り返りもしなかった。「あんな写真の男の前に私が座るの、無理に決まってるでしょ。」 玄関のドアが閉まった。家の中は静かになった。父が奥の部屋から出てきて、母と顔を見合わせた。「会場は常南で一番古い料亭の座敷だ。中ほどは父の会社の取引先の役員だ。今から断れば霧原の家の顔は潰れる。」その時、母が振り返った。まっすぐに私を見た。台所で朝食の皿を洗っていた私を。「はるか、あんたが行きなさい。」 私は手を止めた。水の流れる音だけが続いていた。「聞こえたでしょ?あんたがまおの代わりに座るの。」 その朝、私は姉の身代わりとしてお見合いの席に座った。相手は写真の中で色の焦げた作業着を着て、軽トラックの前に立っていた人だった。この日から始まった半年が、私の人生を根っこからひっくり返すことになるなんて、この時の私はまだ思ってもいなかった。 私の名前は霧原はるか。二十五歳。常南市で業務用の食品を卸している霧原フードサービスという会社の社長の娘だ。娘と言っても会社に席はない。朝五時に起きて家族四人分の朝食を作り、事務所へ行って伝票を仕分ける。電話がなれば取る。誰かが休めば穴を埋める。夕方に戻って夕飯を作る。それが高校を出てからの七年間だった。給料はもらっていない。「家の仕事に給料が出るわけがない」というのが母の言い分だった。 姉のまおは三つ上で、私とはまるで違った。背が高くて顔立ちが整っていて、話し始めると場の中心になる。大学を出て父の会社の営業部にいる。両親は姉のことを話す時、いつも少し声が高くなった。母がよく言っていた言葉がある。「あんたはまおの引き立て役なんだから。」小学生の頃から数えきれないほど聞いた。だから私はそういうものだと思って育った。前に出ない。口答えしない。呼ばれたら行く。それが霧原の家での役目だった。 霧原フードサービスはホテルや旅館やレストランに食材を卸す会社だ。従業員は五十人ほど。父が三十年前に一台で起こした。私が事務所に出入りするようになったのは高校三年の秋からだ。大学へ行きたいと言うと、父は書類から目を上げずにこう言った。「女に金がかかる。お前は家におればいい。」それで話は終わった。就職の相談も同じだ。母が三者面談に来なかったので、担任の先生が困った顔をしていたのを覚えている。 事務所の仕事は雑用だった。伝票の仕分け、請求書の封入、電話の取り次ぎ。誰かがやめるたびに私の机の仕事は増えた。それでも文句は言わなかった。言えば面倒になると知っていたからだ。 ただ、雑用にも雑用なりの覚え方がある。伝票を七年も仕分けていると、どの店がどの食材をいつ頼むかが頭に入る。あそこのホテルは金曜に大きい注文が入る。あの旅館は十二月に入ると魚の量が三倍になる。枚数を見ただけで、その月に何があったのかが分かるようになった。ただ、仕入れの伝票は私の机には来なかった。仕入れの伝票は営業部が別に持っていて、私が触るのは売り先の分だけだった。電話も同じだ。名前を名乗らない相手でも、何年も取っていれば声と癖で分かる。母は私のそういうところを一度も褒めなかった。褒めるどころか、気づいてもいなかったと思う。 一度だけ、こういうことがあった。得意先の旅館から注文の行き違いで大きなクレームが入ったことがある。事務所は朝から大騒ぎで、営業部の人たちが机の上をひっくり返していた。私は自分の机でその旅館の三ヶ月分の伝票をめくって、五分で見つけた。先方の担当者が電話で数を言い間違えていたのだ。前の月にも同じ間違いがあって、その時訂正の電話を受けたのが私だったから、余白に鉛筆で日付を書いてあった。私がその二枚を持っていくと、うちのミスではないと分かって事務所の空気が緩んだ。父は「そうか」とだけ言って自分の部屋へ戻った。 その後、姉が私の机に来て伝票を取り上げてこう言った。「これ、私が見つけたことにしていい?だって、あの旅館私の担当だもん。はるかが見つけたって言っても誰も分かんないよ。」私は頷いた。断る理由が思いつかなかったからだ。その週の会議で姉は父に褒められたそうだ。私はその会議に呼ばれていない。家に帰ってから母がこう言った。「まおがね、旅館の件で助かったって、お父さんが言ってたわよ。ああいう機転が効くのは、やっぱりあの子だわ。」私は「そう」とだけ言って夕飯の支度を続けた。 悔しくなかったかと言うと嘘になるけれど、悔しがったところで私の暮らしは一ミリも動かない。動かないと分かっていることに気持ちを使うのは、私にはもう贅沢だった。 もう一つ、私には家の台所で身についたものがあった。母は料理をしない人だった。私が中学に上がった頃から夕飯を作るのは私の仕事だった。父の会社は食材の卸しだから、売れ残りや傷の入った野菜がダンボールごと家に回ってくる。曲がったキュウリ、割れた大根、線の入ったニンジン。そういう野菜は市場では値がつかない。父は「はね出し」と呼んでいた。規格から外れた、はね出されたものという意味だ。 はね出しの野菜を毎日切っているうちに、私は妙なことに気がついた。形の悪い野菜の方が味が濃いことがあるのだ。まっすぐ揃った人参より、途中で二股に割れた人参の方が甘い日がある。綺麗に巻いたキャベツより、外の葉が破れたキャベツの方が芯が締まっている日がある。いつもではないけれど、確かにそういう日がある。 一度だけ母に言ってみたことがある。中学二年の時だ。その日の煮物に使った人参が驚くほど甘かった。二股に割れた、一番形の悪いやつだった。私は夕飯の時に「これ甘いよ」と言った。母は皿も見ないでこう言った。「そんなの気のせいでしょう。はね出しなんだから。」はね出しなんだから。その一言で終わった。味の話をしていたのに、帰ってきたのは値段の話だった。それ以来、私はそれを誰にも言わなかった。言ったところで「あんたに何が分かるの」と返されるのが目に見えていたからだ。 そんな私に縁談が来たわけではない。縁談は姉に来た。三月の終わり。父が帰ってくるなり、上着も脱がずに母を呼んだ。「まおに見合いの話が来た。」母が台所から飛んできた。私は流しの前でその話を聞いていた。相手は北野町というところで農業をやっている三十四歳の男性だという。仲人は父の会社の取引先の役員で、その人が是非と思ってきた話だ。母は顔を曇らせた。「農業って、農家ってこと?北の町って、あの山の方?」父は椅子に座って上着を脱いだ。「向こうさんも家柄は悪くないらしい。とにかく先方はうちの会社にも縁がある。無にはできん。」 父は封筒も持ち帰っていた。中には写真と釣り書き。釣り書きというのは、相手の生まれや仕事や家族のことを書いた紙のことだ。母が封筒から中身を出して写真を見た瞬間に、短く声をあげた。「ちょっと、これ。」写真の中の男の人は色の焦げた作業着を着ていた。膝の辺りに泥が跳ねている。背景には軽トラックが止まっていて、その荷台には箱のコンテナが積んであった。日に焼けた顔でこちらを見て、少しだけ笑っている。それだけの写真だった。「これをお見合い写真で送ってくるの?普通スーツくらい着るでしょう。」母は写真をテーブルに放った。私が拾って戻すと、母はそれをまた指で押しのけた。父は釣り書きの方を手に取った。折り目を開いて目を通し始めたけれど、最初の職業を読んだところで父の指が止まった。「まあ、農家か。」そう言って父は釣り書きを封筒に戻してしまった。父は釣り書きを最後まで読まなかった。母は写真しか見なかった。 その夜、姉が帰ってきた。母が写真を見せると、姉は三秒も見なかった。「無理。」「ちょっとは考えなさいよ。お父さんの立場もあるんだから。」「こんな貧乏そうな男の人、絶対に嫌。泥だらけじゃない。」姉は写真を裏返してテーブルに伏せた。「私、そういうのと結婚して一生軽トラに乗る人生とか考えられないから。」母は困った顔をしたが、本気ではなかった。母も同じ気持ちだったのだと思う。 それからの一週間、家の中はずっとその話だった。断ろうか。でも仲人の顔がある。一度だけ座って、後で断ればいい。結局そうなった。姉は最後まで嫌がっていたが、当日の朝までは支度をする気配があった。だから母も油断していたのだと思う。そして当日の朝八時過ぎ、姉は旅行かばんを持って玄関を出ていった。残されたのは二時間後に始まる見合いと、二階にかけたままの振り袖だった。そして母は台所にいた私を見た。 何を言われたのか、私にはすぐには分からなかった。「私が?」「そうよ。相手はまおの顔なんて知らないんだから。」「でも、先方は姉さんと見合いをするつもりで…」「霧原の娘には違いないでしょう。」母はもう二階へ上がろうとしていた。振り袖を取りに行ったのだ。私は父を見た。父はテーブルの新聞を畳んで、こちらを見ずに言った。「行ってこい。」「お父さん…」「顔だけ出せばいい。あとはこっちで断る。」母が階段の途中で振り返った。そしてこう言った。「どうせあんたには贅沢な相手よ。」その言葉は不思議とあまり刺さらなかった。似たようなことをそれまでに何百回も言われていたからだと思う。刺さったのは、その後に続いた一言の方だった。「家族のためでしょう。」 私は返す言葉を持っていなかった。二十五年間、私はその言葉で動かされてきた。家族のため、霧原の家のためだから、今日も台所に立ち、伝票を仕分け、電話を取ってきた。私は手を拭いて二階へ上がった。姉のために用意された振り袖は、袖が少し長かった。着付けの人は「あら」と言いかけて、それから何も言わずに帯を締めてくれた。鏡の中の私は、他人の服を着せられた人形に見えた。 料亭の門をくぐったのは十時二十分だった。座敷は中庭に面していて、桜がもう散りかけていた。仲人の役員が先に来ていて、私を見て一瞬だけ動きを止めた。私は畳に手をついた。「霧原の娘、はると申します。姉のまおがどうしても来られなくなり、代わりに参りました。」嘘をつくつもりはなかった。というより、つき方を知らなかった。仲人の役員は困った顔で父を見た。父は咳払いをし、母は畳に目を落としていた。 その時、廊下から足音がして襖が開いた。入ってきたのは背が高くて肩の広い人だった。写真より少し痩せて見えた。着ていたのは紺のジャケットで、生地が薄くなっているのが遠目にも分かる。袖口が擦れて白い。何年も着ているのだろうと思った。その人は畳に座って深く頭を下げた。「小泉新一です。今日はありがとうございます。」低くて押し付けがましいところのない声だった。顔を上げた時、私はその人の手を見た。節が太くて甲が日に焼けていた。人差し指の付け根に古い傷があり、爪は短く切り揃えてある。爪の際に、洗っても落ちない土の色が残っていた。私も自分の手を膝の上で握った。七年分の洗い物で赤切れの治らない手だった。 仲人が形式に沿って両家を紹介した。父が会社の話をした。取引先の名前を並べて、少し声が大きくなっていた。母は途中から小泉さんの服装をチラチラと見ていた。父の話は長かった。霧原フードサービスは創業三十年で、県内のホテルと旅館の何割かに食材を入れている。近頃は産地との直接の取引に力を入れていて、いい生産者を探している。父はその話を十分続けた。「まあ、うちのような会社が言うのもなんですが、これからは産地と直に組む時代です。私はね、いいものを作る人にはちゃんと値をつけてやりたいんですよ。」 小泉さんは黙って聞いていた。相槌は打っていたが、顔はほとんど動かなかった。私はその時、変だなと思った。七年伝票と電話で人を見てきたせいだと思う。人は自分の商売に近い話が出ると、目の辺りが少し動く。小泉さんは全く動かなかった。聞いていないのではない。聞いていてなお動かさないでいるように見えた。けれど私は自分の感を信じたことがない。気のせいだろうと思って、膝の上に目を戻した。 父の話が途切れたところで、小泉さんは一度だけこう言った。「北の町で農業をしています。畑と、あとは出荷の仕事を少し。」それだけで、それ以上は自分の話をしなかった。母が身を乗り出した。「あの、失礼ですけど、農業というのはどのくらいの…?」「土地はまあ、それなりにあります。」「それなり?」母は口の端を上げた。私にはその笑い方の意味が分かった。「ああ、やっぱりね」という笑い方だ。「大変ね。人手も足りないんじゃないの?」「足りない年もあります。」母は「そうよね」と言って湯呑みを取った。その受け答えを私は横で聞いていた。小泉さんは一度も嘘をついていなかった。「人手が足りない年もある」「土地はそれなりにある」。全部本当のことだ。ただ、大きく言うということは、この人は一切していなかった。母は言葉の少なさを中身の少なさだと受け取っていた。そして、そう受け取られても構わないという顔を小泉さんはしていた。 料理が運ばれてきた。春の献立で、筍と菜の花、鯛の刺身、それから炊き合わせ。緊張していたので味などしないだろうと思っていた。炊き合わせの器に、花の形に抜いたニンジンが入っていた。一口食べて、私は思わず箸を止めた。甘かったのだ。砂糖の甘さではない。噛んだ後に、後ろの方からゆっくり上がってくる甘さだった。私は毎日はね出しの人参を切ってきた。何百本もだ。だから分かった。これはあの二股の人参と同じ味だ。急がせて太らせたものではなく、寒さにあたって時間をかけて育ったものの味だ。気がついたら、私は声に出していた。「この人参、甘いですね。」 座敷が静かになった。母が私を睨んだ。お見合いの席で料理の感想を言う人がいるか、という顔だった。私は慌てて口を閉じようとしたが、もう一言だけ出てしまった。「土がいいんだと思います。」自分でもなぜそう言ったのか分からなかった。父が咳払いをした。母が「すみません。この子は」と言いかけた。その時、小泉さんが顔を上げた。私を見ていた。まっすぐに。その目がそれまでとは違っていた。「そうですか。」それだけ言って、小泉さんは自分の器の人参を口に入れた。ゆっくり噛んで飲み込んで、それから小さく頷いた。「はい。土です。」 すると仲人が思い出したように口を挟んだ。「そういえば、こちらのお店、小泉さんのところの野菜を使っておられるんでしたね。」「ええ。父の代からです。」母は「あら、そう」と言っただけだった。母にとっては、農家が料亭に野菜を売っているというだけの話だったのだと思う。そのやり取りの後、座敷はまた当たり障りのない話に戻ったけれど、私には一つ気になることがあった。小泉さんが私の言ったことに一度も理由を聞かなかったことだ。普通なら聞くと思う。「なぜ土がいいと思ったんですか」と。若い女が料亭の煮物を食べて土の話をしたら、大抵の人は不思議がる。聞かないということは、こちらの言ったことが分かっているということだ。私はその時、この人は何を作っている人なんだろうと初めて思った。「畑と、あとは出荷の仕事を少し」そう言っていたけれど、あの人参の意味が一口で分かる人が、少しだけ出荷をしている人であるはずがなかった。 その考えは、けれど母の声にかき消された。「うちの主人も申しますけれど、これからの時代、若い方は資格でも取っておかないとね。」母は小泉さんに向かって話しているようで、本当は隣の仲人に聞かせていた。私は膝の上に目を戻して、それきり何も言わなかった。 見合いは一時間ほどで終わった。帰り際、仲人が父と母を先に玄関へ連れて行き、廊下に私と小泉さんだけが残った。小泉さんは中庭の方を見たまま、こちらを向かずに言った。「無理をして来られたんですよね。」私は息を止めた。「お姉さんが来られるはずだったんでしょう。」「はい。」「振り袖の袖の長さが合っていない。誰か別の方に合わせたものを、今朝慌てて着せられたんだと思いました。」私は自分の袖を見た。確かに指先が半分隠れている。小泉さんが振り返った。怒っている顔でも責めている顔でもなかった。「嫌なら、この場で断ってくださって大丈夫です。断りの理由はこちらで作ります。霧原さんのお家に迷惑がかからないようにします。」 私は言葉が出なかった。その日まで、「嫌なら断っていい」と言ってくれた人は一人もいなかったからだ。「家族のためでしょう」「お前は家におればいい」「あんたはまおの引き立て役なんだから」。私が聞いてきたのはそういう言葉ばかりだった。気がつくと、私は首を横に振っていた。「いえ…断りません。」自分の声だとは思えなかった。小泉さんが少しだけ目を見開いて、それから初めて笑った。目じりにしわの寄る笑い方だった。「そうですか。」 廊下の向こうから母の呼ぶ声がした。私は一礼して歩き出した。数歩進んだところで、私は足を止めた。小泉さんのジャケットの肩に、乾いた土がついていたのだ。少しだった。私は戻って手でそれを払った。自分でもなぜそんなことをしたのか分からなかった。七年、誰かの服の埃を払うのが仕事のような暮らしをしていたから、手が勝手に動いたのだと思う。「あ、すみません。ついていたので。」私はもう一度だけ小さく礼をして、今度こそ廊下を歩いた。背中に小泉さんの視線を感じていた。 帰りの車で、母はずっと機嫌が悪かった。「あの人、ジャケットの袖が擦り切れてたわ。見た?」「まあ、農家だからな。」「それに、うちの会社の話をしても全然食いついてこないの。ああいう人はダメよ。商売気がないんだから。」私は後部座席で黙っていた。 家に着くと、姉が帰っていた。ソファーでテレビを見ながら私を見て笑った。「あ、身代わり花嫁のお帰りだ。」母が荷物を置きながら言った。「まお、あんたね。」「だってお母さん、私が正解だったでしょ。どうだった?泥だらけの人。はるかにはちょうど良かったんじゃない?」私は振り袖を脱ぎに二階へ上がった。階段の途中で姉の笑い声が聞こえた。 その夜、家の中が静かになってから、私は封筒を出した。先月の終わりに父が持ち帰って、そのまま机に置きっぱなしにしていたあの封筒だ。誰も片付けないので、私が写真も一緒に戻して引き出しに入れておいた。中には写真と、それから釣り書きが入っていた。私はその釣り書きを、多分霧原の家で初めて最後まで読んだ。 小泉新一、三十四歳、北の町。そこから先に細かい字でこう書いてあった。「株式会社小泉農産、代表取締役。」私は指を止めた。代表取締役、社長ということだろうか。農家の社長というのがどういうものなのか、私には分からなかった。続きにはこうあった。「栽培面積およそ八十ヘクタール。契約生産者約百二十戸。従業員数およそ百四十名。」数字だけが並んでいて、そこから先はまた住所と家族構成に戻っていた。「両親はどちらも他界。兄弟なし。」私はもう一度その数字を読んだ。八十ヘクタールがどのくらいの広さなのか、その時の私には見当もつかなかった。ただ、伝票を七年見てきた勘でこう思った。契約生産者が百二十戸ある会社が、小さいわけがない。 私は封筒を持って階段を降りた。リビングで父がテレビを見ていた。「お父さん、この釣り書き読んだ?」「あ、読んださ。最後まで。」父はテレビから目を離さずに手を振った。「農家だろ。それ以上何がある?」私はそれ以上聞かなかった。同じ答えが返ってくると分かっていたからだ。 次の日の朝、私は仲人を引き受けてくれた役員さんの会社に電話をかけた。「霧原の娘のはると申します」と名乗った。「八十ヘクタールというのは本当ですか」と聞いた。桁を一つ書き間違えているのではないかと思ったからだ。電話を取り次いだ人が少し黙ってから「確かめてまいります」と言い、しばらくして「間違いありません」と答えた。私は礼を言って電話を切った。それだけのことだった。 その三日後、仲人から父に電話が入った。先方が是非話を進めたいと言っていると。父がその話をした時、母は本気で驚いていた。「進めたいって、まおじゃなくてはるかの方を?」「そうらしい。」「向こうは、そのはるかが身代わりだって分かってるんでしょ?」「分かってて言ってきてるんだ。」母と姉は顔を見合わせた。それから二人とも同時に笑い出した。「うわ、物好き。」「まあ、お互い似たもの同士ってことなんじゃないの?」 その夜の夕飯の間、私は一言も口を聞かなかったけれど、父は乗り気だった。父にとっては、霧原の家の顔が立って、しかも厄介払いができる話だったからだ。「先方は急ぎたいそうだ。五月には席を入れて、式は落ち着いてからでいいと言っている。」「早いわね。」「農家は季節で動くんだろう。春の忙しい時期に入る前に決めたいんじゃないか。」 話はそこから私のいないところで進み、私が呼ばれたのは結納が決まった後だった。母は私にこう言った。「あんた、運が良かったわね。二十五で行き遅れる前に片付いて。」姉は隣でスマートフォンを見ながら笑っていた。「農家の嫁なんてさ、売れ残りにはちょうどいいよ。畑で一生終わるってやつ。まあ、はるかにはお似合いじゃん。」母はそれを聞いてふふふっと笑った。それから私の顔を見てこう言った。「あんたの人生、終わったわね。」 その言葉を、母はほとんど何気なく言った。笑いながら言った。だからこそ、私はしばらく動けなかった。母は本気で私を傷つけようとしていたわけではないのだと思う。ただ、二十五年分の物差しがそう言わせたのだ。この子は下だ。この子の行き先はその程度だと。 その晩、私は声を出さないように枕に顔を押し付けて泣いた。泣き終わってから、私は引き出しを開けてあの封筒をもう一度出した。写真を抜いてしばらく見ていた。色の焦げた作業着、膝の泥、荷台のコンテナ、少しだけ笑っている人。姉が三秒で裏返した写真だ。「終わったわね」と母は言ったけれど、私にはこの人が私の人生を終わらせる人には見えなかった。なぜそう思ったのか、その時は説明ができなかった。 五月の連休が明けて、私は席を入れた。式はあげなかった。「繁忙期に入るので、落ち着いてからにしましょう」と小泉さんが言ったからだ。家を出る朝、母は玄関まで見送りに来た。姉はまだ寝ていて出てこなかった。母は私の鞄を見て言った。「それだけ?」「うん。」「まあ、向こうで買えばいいわね。」それから母は思い出したように付け加えた。「泥だらけの生活には慣れなさいよ。」 私は「行ってきます」と言って家を出た。駅までの道を歩きながら、私は不思議なほど何も感じていなかった。ただ、荷物が軽いなと思った。二十五年住んだ家から持ち出したものは、着替えと陰間と包丁が一本だけだった。包丁は自分で買ったものだ。中学生の頃、はね出しの野菜を毎日切るのに家の包丁が重すぎて、お年玉で買った。それだけが私のものだった。 北の町までは電車を二回乗り換えてバスに乗り、全部で二時間かかった。バスを降りると、目の前に畑が広がっていた。私は立ち止まった。畑というものをテレビでしか見たことがなかったのだ。平らな土地がどこまでも続いていて、その真ん中を細い道が伸びている。手前は耕したばかりの黒い土で、その向こうは緑だった。低くて濃い緑、背の高い薄い緑、白っぽく粉を吹いたような緑。それが畝ごとに島になっている。風が吹くと、白っぽい帯だけが順番に揺れてまた立った。この町は平地より標高が高い。夏でも日が落ちるとひんやりとする。だから、よそが暑さで作れない七月八月に、ここではブロッコリーやキャベツが取れるのだと後になって教わった。 「こっちです。」声の方を見るとトラックが止まっていた。小泉さんが運転席から降りてきた。作業着だった。写真と同じ色の焦げた作業着だ。小泉さんは私の鞄を見て、それから私の顔を見た。「荷物、それだけですか?」「はい。」「そうですか。」それ以上は何も聞かなかった。鞄を荷台に積んで、助手席のドアを開けてくれた。 軽トラックの助手席は思ったより高く、座ると畑がよく見えた。「今、何の畑か分かりますか?」「いえ。」「あの濃いのがブロッコリーです。その隣がキャベツ。奥の白っぽいのがネギです。」「あんなにたくさん。」「あれで全体の一割もありません。」私は思わず横顔を見た。小泉さんは前を向いたまま、自慢する風でもなく事実を言っただけという顔だった。 家に着いた。思っていたより古くて大きい家だった。木造の平屋で、瓦が黒く、玄関の引き戸がガラガラと音を立てた。中に入ると廊下がひやりと冷たかった。掃除は行き届いていたが、人の暮らしの匂いが薄い。「十年一人で住んでいたので、余っている部屋が多いです。好きな部屋を使ってください。母の使っていた部屋が一番日当たりがいいと思います。」「お母様は…」「十二年前に。父は十年前です。」小泉さんはそれ以上言わなかった。私も聞かなかった。 その日の夕飯は私が作った。「台所を借りていいですか」と聞くと、小泉さんは驚いた顔をした。「今日は疲れているでしょう。」「作らせてください。私にはそれしかできなかった。」七年、そうやって自分の居場所を作ってきた。冷蔵庫にはあまり何も入っていなかった。代わりに、手口の外の木の箱に野菜が山になっていた。ネギとほうれん草と大根と、それからニンジンが入っていた。大根を一本取り上げて、私は動きを止めた。重かったのだ。同じ太さの大根でも、水っぽいものと締まったものでは手に来る重さが違う。私はそれをはね出しの大根で覚えた。この大根は重かった。持ち上げた瞬間に「ああ」と思う重さだった。 私は自分の包丁を出して大根を切った。半分入ったところで音が変わった。中がぎっしり詰まっている音だ。その夜の献立は、大根とネギの味噌汁とほうれん草のおひたしとご飯だけだった。おかずと呼べるものは何もなかった。それでも小泉さんは味噌汁を一口飲んで、椀を持ったまましばらく止まっていた。「うまいです。大根がいいんです。」「そうですか。うちの大根です。」私は顔を上げた。小泉さんは椀の中を見ていた。「この箱の大根とニンジンは、秋に取って畑の隅の土に埋けてあったものです。ここは冬に凍るので、外に置くと腐る。土の中なら春まで持つんです。ネギとほうれん草は下の畑です。ただ、どれも店には出せないやつです。」「出せない?」「曲がっていたり、傷が入っていたり、大きさが揃っていなかったり。味は同じなんですが、規格に合わないので値がつきません。」私の手が止まった。「はね出し。」小泉さんが顔を上げた。「その言葉、どこで?」「実家の会社でそう呼んでいました。売れない野菜のことを。うちに回ってきていたのはいつもそれでした。私はそれを毎日切っていました。」しばらく誰も何も言わなかった。外で風が窓を鳴らしていた。やがて小泉さんが箸を置いてこう言った。「俺はその呼び方があまり好きじゃないんです。はね出すというのは、こっちの都合ですから。」 結婚した次の日から、私は畑に出た。出ろと言われたわけではない。むしろ小泉さんは「無理に手伝わなくていい」と言ったけれど、私は家にいてもすることがなかった。家の掃除は二時間で終わってしまう。何もしないで座っているという時間の使い方を、私は知らなかった。朝は四時半に起きた。小泉さんは五時前に家を出る。その前に朝食を作って、握り飯を持たせた。 五月の畑は忙しかった。畝を立てる。マルチという黒いビニールを貼る。苗を植える。草を取る。そのすべてが私には初めてのことだった。広い畑は、トラクターの後ろに人が乗る機械で一気に植えていく。私が任されたのは、機械が入れない畝の列と、抜けてしまったところを一本ずつ植え直す仕事だった。最初の日、私はその一本も植えられなかった。やり方は教わった。穴を開けて苗を入れて、根の周りの土を寄せて軽く抑える。それだけだけれど、私が抑えると苗が倒れた。強く抑えると根が切れ、弱いと風で抜けた。「力じゃないんです。」小泉さんが隣に来てしゃがんだ。「土に入れてやるんじゃなくて、土に返してやる感じで。」そう言って小泉さんは一本植えた。三秒だった。私はもう一度やってみた。今度は倒れなかったが、隣の苗より二センチ深く入ってしまった。「それでいいです。」「でも、深いです。」「気づいたなら大丈夫です。慣れればいい。急がなくていいですから。」その言葉を私はその後何度も思い出した。 … Read more