指輪を拾い上げた瞬間、目の前に見覚えのある男が立っていた。磨かれた黒い靴、整えられたスーツ。初めて見るはずなのに、記憶の奥がざわつく。私は思わず言葉を漏らした。「あなた、もしかして」その男は私を見て、分かりやすく動揺し始めた。なんでお前がここにいるんだ、と低く漏らした。10年以上前、私はモデルとして活動していた。その頃、ストーカーに悩まされていた。その男が、今の勤務先の豪邸の住人だった。しか…
指輪を拾い上げた瞬間、目の前に見覚えのある男が立っていた。磨かれた黒い靴、整えられたスーツ。初めて見るはずなのに、記憶の奥がざわつく。私は思わず言葉を漏らした。 「あなた、もしかして」 私の名前は黒部ニコ。39歳。結婚を機に仕事を辞め、9年間専業主婦として穏やかな日々を送ってきた。夫のイクトは技術職で、細かな調整や改良を繰り返す仕事をしていた。私たちは子供を持たず、2人だけの時間を大切にしながら、理想の家を建て、静かで満ち足りた生活を築いてきた。 あの日もいつもと同じようにキッチンに立っていた。野菜を刻み、鍋の様子を見ながら、イクトの帰宅時間を思い浮かべる。その時、携帯電話が鳴った。見慣れない番号。出てみると、警察からだった。 「ご主人が交通事故に遭われました」 手から皿が滑り落ちた。乾いた音が床に響く。意味を理解しようとしても、言葉が繋がらない。病院に駆けつけた時には、イクトはもう帰らぬ人になっていた。相手の車が信号無視で衝突したという。私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。 葬儀の後、家に戻ると、空気の違いに気づいた。人の気配が消えた空間は、こんなにも広く感じるものなのか。イクトの部屋に入り、そのまま座り込んで動けなくなった。涙は何度も溢れた。 ある日、ベッドの下の引き出しに手を伸ばした。中には小さな紙袋が入っていた。開けると、私が好きだと言っていた作家のアクセサリー。袋の底にはカードがあり、「いつもありがとう」と書かれていた。イクトは、何気ない会話を覚えていてくれたのだ。 「私、頑張るね」 声に出した瞬間、少しだけ空気が動いた気がした。まずはできることから。久しぶりに台所に立ち、簡単な食事を作った。一口食べた瞬間、涙が溢れた。それでも、ゆっくりと食べ終えた。 イクトの葬儀から2ヶ月後、私は働くことを決めた。清掃会社に採用され、半年間の研修を受けた。目の前の汚れが落ちていく様子に、気持ちが軽くなる。研修を終えた頃、社長に声をかけられた。 「期待していますよ」 私は新人ながら、大手企業の創設者一族が暮らす豪邸の現場に派遣されることになった。見上げるほど大きな屋敷。門をくぐった瞬間、空気の質が変わるような場所だった。 初日は緊張したが、やることはきちんと学んできた。黙々と作業を続けるうちに、周囲の人たちから声をかけられるようになった。 「動きが早いね。もう覚えたの?」 特別なことをしているつもりはなかった。ただ、丁寧に積み重ねていくだけ。それが評価されていくのは嬉しかった。昼休憩には、たいしたことのない話をして、お菓子を分け合う。そんな時間が増えていった。 けれど、その変化を歓迎しない人もいた。新入りの私が周囲と打ち解けていくのが面白くなかったのだろう。使う予定だった道具が見当たらなかったり、清掃済みの場所にわざと汚れが残されていたりする。最初は偶然かと思ったが、何度も続くうちに意図的だと分かった。 私は騒ぎ立てなかった。見つからない道具は別ので代用し、汚れが増えていればその分だけ手をかけた。悪意をぶつけられても受け取らず、必要以上に関わらない。そうやって対処していけばいいと考えていた。 ある日の午後、庭の奥にある古い倉庫の掃除を任された。重たい木の扉を開けると、中はひんやりとしていた。一通り確認して外に出ようとした時、扉が閉まる音がした。振り返ると、外側から鍵がかかっていた。 「やることなくなっちゃったな」 ため息が出た。ここまで来ると、驚きよりも呆れの方が大きい。私はほうきを手に取り、せっかく中にいるのだからできることをやってしまおうと決めた。埃を払い、棚の上を拭く。時間の感覚は曖昧だったが、手を動かしている間は余計なことを考えずに済んだ。 やがて扉の外から声が聞こえた。 「ニコさん、いる?」 「います」 鍵が外され、扉が開いた。仲のいいメンバーが心配そうな様子で立っていた。 「ずっと見かけないから探してたんだよ」 「大丈夫です。時間はあったので、中を綺麗にしておきました」 その言葉に、何人かが苦笑する。その後、事情はすぐに上に伝わり、嫌がらせをしていたメンバーは現場から外されることになった。空気が変わったのをはっきりと感じた。 しかし、その状態は長くは続かなかった。ある日の朝、現場に緊張感が走る。 「今日、奥様が戻られるらしいわ」 彼女の名前は御崎風子。長い間海外に滞在していたらしい。専業主婦だが、家のことをやっているところを見た人はいないという。 「特に女性は気をつけた方がいいよ。かなり気性が荒い方だから」 風子は想像以上に分かりやすい形で現れた。廊下での作業中、前方から強い存在感が近づいてくる。派手な色合いの服、装飾品も多く、一目で目立つ。その人物が私の前で立ち止まった。 「ちょっと、そこのあなた」 呼び止められて振り返った瞬間、頭の上から水が降ってきた。花瓶が傾けられ、水がそのままかけられたのだと理解するまでに少し時間がかかった。風子は口元を緩めたままこちらを見ていた。 「あら、私のいない間に知らない清掃員が増えてるから、屋敷に忍び込んだ不審者かと思ったわ」 私は何も言わず、目の前の女性を観察した。風子の袖の辺りに小さな動きが見えた。細い足が布の上を進んでいる。毛虫だった。どこかの花についていたのだろう。 「あの、奥様」 声をかけようとしたが、その瞬間、風子は満足したのか背を向けた。廊下を進み、角を曲がる。直後、鋭い叫び声が響いた。何が起きたのかは想像するまでもなかった。私はその場に立ったまま、濡れた床に雑巾を落とす。仕事が増えたなと思った。 それ以降、風子は頻繁に私を呼び止めるようになった。通りすがりに強い口調で用事を言いつけられ、作業の手を止めさせられる。意味のない指示を出されることもしょっちゅうだった。 「床、もう1回拭いて。ついたばかりの場所を指さされる。こんなの全然綺麗じゃないわよ」 そう言って、わざとらしく靴の裏で擦って跡を残す。私は何も言わずに道具を取り、再び床に向き合う。別の日には、棚の上に置いてあった装飾品をわざと落とされ、その片付けを任されたこともあった。 私は基本無反応を貫いた。言い返したところで状況が好転するとは思えなかったからだ。そうしているうちに、ふと考えることがあった。私たち清掃員をこの屋敷に派遣する手配をしたのは、風子ではないはずだ。仕事の流れを思い返す。会社からの指示、現場への配属。どれを辿っても彼女の関与は見えてこない。 休憩時間、同じ現場の人たちと話していると、自然と情報が集まってくる。 「実際、奥様ってほとんど家にいないよね。海外とか国内とか、ずっと動いてるみたいでさ」 「旦那様の稼ぎで好きにやってるって聞いたよ」 旦那の名前は御崎高一郎。私は姿を見たことはない。現在は会社の会長職についているが、本来の会長は高一郎の父である御崎正。現在は入院しており、息子が代理として会長の立場にあるらしい。 「でもさ、会長代理って言っても、あんまり会社にいないらしい」 確かに彼は今海外中。それは表向きの名目で、実際は夫子とは別の場所に海外旅行に行っているだけだと、屋敷の誰もが知っている。高一郎は自分が会社の後取りだとおり、普段から遊び放題の様子。周囲がフォローしているのか、表向きは真面目な人格者に見られていた。 私は仲間に混ざりながら黙って聞いていた。断片的な情報が少しずつ形になっていく。積極的に踏み込むつもりは一切なかった。ここは職場だ。与えられた役割をこなす場所であって、それ以上でも以下でもないと思っていた。 今日は普段とは少し違う担当箇所だった。高一郎の部屋と正の部屋。屋敷の中でも限られた人しか入らない場所だと説明を受ける。作業前に注意事項が念入りに伝えられた。配置を変えない。触れた場所は元に戻す。余計なものに触れないこと。私は頷き、いつも以上に意識を集中させた。 まずは高一郎の部屋から入る。広い空間だった。家具や調度品は高価なものばかりで、統一感のある内装に整えられている。なぜかどこか落ち着かない印象を受けた。机の上には書類が積まれていた。細かい文字が並ぶ紙の束。中身に目を通すことはないが、重要なものだということは分かる。私は手元の作業に集中した。 次に正の部屋へ向かう。こちらはまた違った雰囲気だった。長く使われてきたことが伝わる落ち着きがある。余計な装飾はなく、必要なものだけが置かれている。空間全体に静かな緊張感があった。掃除を終え、元の状態を確認する。問題がないことを確かめて、私は部屋を後にした。 数時間後、1日の作業を終え、道具を片付ける。あとは帰るだけだ。その時だった。 「ちょっと、あなた」 … Read more