十二月の金曜日、給与明細を開いた瞬間、私は自分の目を疑った。ボーナス欄に印字されていたのは、たったの五百円。隣の席の同僚の明細には、百万円の文字が並んでいる。私はこの会社で六年間、経理部の仕事をほぼ一人で回してきた。決算も資金繰りも、全部私の手でやってきたのに。 「瀬川さん、また下がってません? おかしいですよ」…
冬のボーナスが振り込まれたのは、十二月の金曜日だった。私は経理部の自分の机で、桁を何度も見直した。金額の欄に表示されたのは五百円。周りの同僚の明細には百万円の文字が並んでいる。私は六年前から大和トレーディングの経理部で働いている。決算も資金繰りも、実質的に私ひとりで回してきた。それなのに私のボーナスは五百円だった。 怒りより先に、乾いた笑いが込み上げてきた。これは私がこの会社を捨てると決めた日の話だ。 大和トレーディングは食品や日用品を扱う中堅商社だ。私は経理部で会社の金の流れをすべて管理している。毎月の支払い、取引先への入金確認、銀行とのやり取り、年に一度の決算。どれも地味な仕事だが、一桁でも数字がずれれば会社は簡単に傾いてしまう。私の机にはいつも古い電卓が置いてある。角が欠けて、ボタンの文字もほとんど消えかけている。亡くなった母が経理事務として使っていたものだ。 母は生前、小さな会社で長年経理を任されていた。派手さはなかったが、誰よりも数字に誠実な人だった。私は気になる数字を見つけるたび、手帳に手書きでメモを残す。「帳簿にはその人の生き方が出る」。それが母の口癖だった。子供の頃は意味がわからなかったけれど、今はその言葉が体に染みついている。 後輩の宮下君がいつも不思議そうに私の手元を見る。 「瀬川さん、今時電卓と手書きって珍しいですよね」 「これがないと落ち着かないの」 私は笑ってまた電卓を叩く。派手な成果は何もない。表彰されたことも昇進したこともないけれど、大和トレーディングのお金はこの六年間、一円も狂ったことがなかった。それを誰が守っているのか、この会社の人たちは考えたこともないようだった。 私の上司は宮原部長だった。経理部の責任者で役員会にも出席する立場の人だ。けれど彼は自分では帳簿の一枚も作らない。彼の仕事は、私たちが仕上げた数字を役員たちの前で発表することだった。「今期の決算も私が主導してまとめました」。役員会のたびに彼はそう胸を張るのだという。徹夜で資料を作ったのは私なのに、私の名前は一度も出てこない。それどころか、資料の隅に書いた私のメモがいつの間にか彼の言葉として使われていた。 その度に私は小さく息を飲んだ。けれど声をあげれば、面倒な人間だと思われるだけだ。そう自分に言い聞かせて、私は黙って仕事を続けた。一度だけ勇気を出して言ったことがある。 「部長、決算資料の作成者に私の名前も残していただけませんか」 すると宮原部長は鼻で笑った。 「瀬川さん、経理なんて誰でもできる仕事だ。名前を出すほどのものじゃないだろう」 その言葉が胸の奥に小さな棘となって刺さった。給料は六年間ほとんど上がっていない。それどころか、私のボーナスだけが毎年少しずつ減っていく。 「瀬川さん、また下がってません? おかしいですよ」 宮下君がこっそり首を傾げた。私は気のせいじゃないと流したけれど、本当は気づいていた。同僚の中には私の頑張りに気づいてくれる人もいた。けれど誰も宮原部長には逆らえなかった。この会社の力関係は、それほどまでに歪んでいた。 何かが静かにおかしくなり始めている。その正体を、この時の私はまだはっきりとは掴めずにいた。 それからの私は、余計なことを言わず、ただ静かに数字を見るようになった。宮原部長が役員に何を報告しているのか。私の作った資料がどこで誰の手柄に変わっているのか。気づいたことはすべて手帳に書き留めた。日付、金額、誰が承認したか。手が勝手にそれを記録していく。母がそうしていたように、数字の裏側にある真実を私は見逃したくなかった。 ある日、経費の伝票を整理していて、私はふと手を止めた。接待費の一部に、どうにも辻褄の合わない数字があった。金額も日付も、どこか不自然だった。私は何も言わず、その伝票の控えをそっと手帳に書き写した。 「瀬川さん、それ何のメモですか?」 宮下君に聞かれても、私はただ微笑むだけだった。 「昔からの癖なの。気になったことは書いておくと安心するから」 本当の理由は口にしなかった。うまく説明できる自信がなかったからだ。けれど宮下君の視線には、単なる好奇心以上の何かがあるように感じた。まるで私の異変を心配しているようだった。 その夜、宮原部長が帰り際に私の席を通りかかった。 「瀬川さん、伝票は余計なところまで見なくていい。言われたことだけやってればいいんだ」 私は「はい」とだけ答えた。帰宅の電車の窓に、疲れた自分の顔が映っていた。六年間ずっとこの顔を見ないふりをしてきた気がした。何かが静かに動き出そうとしていた。 決算期になると、宮原部長の態度はさらに激しくなっていった。残業は当たり前。終電を逃してタクシーで帰る日も増えた。それでも私は会社のお金を止めるわけにはいかなかった。誰かが数字を見続けなければ、この会社はすぐに立ち行かなくなる。そう思うと、どんなに疲れていても手を止められなかった。 そんな時期に、母の三回忌が近づいてきた。私は宮原部長に、一日だけ休みが欲しいと願い出た。 「母の法要があるんです。どうしてもその日は」 すると宮原部長は渋い顔をした。 「今は決算で一番忙しい時期だぞ。親の法事くらいで休むのか」 私が黙っていると、彼はさらに続けた。 「大体、お前の母親も大したことない経理事務のおばさんだったんだろう。血は争えないな。所詮その程度の家の人間だ」 母を侮辱された。握った指先が震えた。それでも私は何も言わなかった。言い返せばもっとひどい言葉が返ってくるとわかっていたからだ。結局、法要の日はもらえず、私は仕事の合間にこっそり母の写真に手を合わせた。 「ごめんね、お母さん」 心の中でそう呟いた。決算が終わった後、代休を願い出ると、宮原部長は掌を返した。 「たかが法事で大げさなんだよ。もっと仕事に責任を持て」 その瞬間、私の中で何かが静かに音を立てて冷えていった。悲しみより先に、乾いた諦めのようなものが胸に広がった。この人には何を言っても届かない。そう確信した瞬間だった。それでも私は翌朝もいつも通り出社し、静かに電卓を叩き続けた。 私の異変に最初に気づいたのは宮下君だった。 「瀬川さん、大丈夫ですか? 最近顔色が悪いですよ」 「平気。ちょっと寝不足なだけ」 宮下君は悔しそうに唇を噛んだ。 「おかしいですよ、この会社。一番働いてる瀬川さんが一番報われてないなんて」 彼の声は思ったより大きく、周りの何人かが顔を上げた。けれど味方ばかりではなかった。宮原部長に取り入るのがうまい先輩の坂神さんが鼻で笑って口を挟む。 「報われないのは実力がないからじゃないの? 電卓なんか叩いてる暇があったら、もっと効率よくやればいいのに」 クスクスといくつかの笑い声が起きた。私は何も言い返さなかった。反論する気力すらもう残っていなかった。ただ母の電卓をそっと引き出しにしまった。それでも心の中では、静かな怒りが積み重なっていくのを感じていた。 「瀬川さん、なんで言い返さないんですか?」 帰り道、宮下君が悔しそうに聞いてきた。 「言い返して何か変わるかな?」 「変わらないかもしれないけど」 「でもありがとう。私のために怒ってくれて」 宮下君は驚いたように私を見た。まるでそんな言葉を期待していなかったかのようだった。 … Read more