研修医が患者の手を握り「一緒に頑張りましょう」と声をかけたあの日から四年、俺はオペ室に立つ資格を失っていた。「慎重と臆病は違う」。そう言い放った部長の一言で、俺の執刀は奪われた。後輩の助手として無影灯の下に立つだけの日々。看護師の美生だけが、俺の言葉にならない判断を拾ってくれた。彼女のロッカーに「白川」と書かれた古い名札があることを知った夜、すべてが繋がった。俺は自分が誰かを救っていたことす…
朝の会議室の空気は重かった。長机の上に並んだカルテと白く光るモニター。俺は一番奥の席で配られた資料に目を落としていた。正面に座る黒崎外科部長がゆっくりとページをめくる音だけが響く。 「先週の症例だが」 名前を呼ばれて、俺は背筋を伸ばした。 「術中判断に二度迷ったな。出血の処置、それと剥離の手順。なぜすぐに動かなかった?」 「薄い部分の血管走行が術前画像と少し違っていたので、慎重を期したつもりです」 「慎重と臆病は違う」 短い言葉だった。だが、その一言で会議室の全員が黙った。俺は資料を握る指に無意識に力を込めていた。 「次の症例だが、これは神谷で行く。高代は第二助手だ」 「了解しました」 短く返事をする。それ以外にできることがなかった。斜め向かいの席に座る神谷が申し訳なさそうに俺をちらりと見た。こいつは悪い男じゃない。だが、その目に浮かぶ哀れみが、俺には何より堪えた。 俺の名前は高代誠。四十三歳。地方総合病院の外科医だ。医師になって十六年。この病院に来てからは八年になる。かつてはそれなりに手術を任されていた。ところが二年ほど前から、俺は手術中に判断を迷うことが増えた。ほんの数秒の迷いが、ベテラン医師には致命的だった。気づけば、俺は「決断が遅い男」と呼ばれていた。 カンファレンスが終わり、医師たちが立ち上がる。俺はノートを閉じ、最後に部屋を出た。廊下に出ると、神谷が後ろから追いかけてきた。 「高先生、すみません。次の症例、俺が」 「気にするな。お前の腕なら問題ない」 「いや、でも前回の手術は先生が」 俺は足を止めて、できるだけ穏やかに笑った。 「お前はもう一人前だ。胸を張れ」 神谷は何か言いかけて、結局口を閉じた。俺は先に廊下を歩き出した。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。振り返れば、自分の弱さが顔に出そうだった。 午後、神谷の執刀での手術が始まった。俺は第二助手。要するに術野を広げ、邪魔にならないように立っているだけの役割だ。無影灯の下、神谷の手は確かだった。若いが、迷いがない。俺はその手元を見ながら、自分の指先が動かないことに気づいていた。 神谷が剥離の手順で一瞬迷った。 「ここ、もう少し奥でいいですか?」 「いや、その手前で止めた方が」 言いかけて、俺は口を噤んだ。意見を言える立場ではない。そう思った瞬間、隣の器械出しがすっと別の鉗子を差し出した。朝倉美生。この病院で一番優秀と言われる看護師だ。彼女は俺の言いかけた言葉を察したのか、神谷の手元にちょうどいい位置で器具を置いた。 「先生、こちらの方が動きやすいかと」 「ああ、助かる」 神谷は気づいていない。だが、彼女が今、俺の判断を拾ってくれたのが、俺には分かった。手術は無事に終わった。患者がストレッチャーで運ばれていく時、麻酔が浅くなった患者がうっすら目を開けた。不安そうな目だった。俺は思わずその手に軽く触れた。 「もう終わりましたよ。大丈夫です」 患者が小さく頷く。その横で美生が患者の肩にそっと手を添えた。 「高代先生がついていてくださいましたから、安心してくださいね」 患者はほっとしたように目を閉じた。俺は何も言えなかった。俺がついていたと彼女は言った。本当はただ立っていただけなのに。 手術室を出て休憩室に向かった。缶コーヒーを買い、ソファに腰を下ろす。脱いだ上着を膝に置いた時、ふと隣の棚に置かれた小さな布袋が目に入った。美生のものだ。口が少し開いている。中から古びた札のようなものが覗いていた。「白川」と書かれた変色した札。誰のものだろうか。俺はそれをぼんやりと眺めていた。 ドアが開いて、美生が入ってきた。俺の視線に気づいた彼女は、一瞬だけ表情を固くして、すぐに袋の口を閉じた。 「あ、見るつもりじゃ」 「いえ、古いものなので」 それだけ言って、彼女は袋を引き出しの奥にしまった。 「先生、お疲れ様でした」 「ああ、お前もな」 彼女は短く頭を下げて出ていった。 その日の夜、俺は当直明けの神谷と入れ替わりで病棟の見回りをしていた。廊下は静かで、ナースステーションの蛍光灯だけが白く光っていた。午後、手術した患者の病室を覗く。患者は目を開けて天井を見つめていた。俺に気づくと、小さく手を上げた。 「先生、あの、明日からもよろしくお願いします」 「ええ、しっかり見させていただきます」 「先生に見てもらえると安心します」 その言葉が胸に刺さった。安心。俺にその資格があるのか? 迷い続け、手術すら任されない。 俺は病室を出て、廊下の窓際に立った。外は雨が降り始めていた。ガラスに自分の顔が映っている。疲れた中年の男の顔だ。 医師をやめようか。そんな考えが、最近よく頭をよぎる。やめて何か別の道を探した方が、患者のためかもしれない。俺の迷いが、いつか誰かを死なせるかもしれない。そう思うと、メスを握る手が震えそうになる。 足音が近づいてきた。振り返ると、白い制服の上にカーディガンを羽織った美生が立っていた。 「先生、まだお帰りじゃなかったんですね」 「ああ、少し見回りを」 美生は俺の隣に並んで、同じように窓の外を見た。しばらく二人とも黙っていた。雨音だけが廊下に届いていた。 「先生、今日の手術中、本当はおっしゃりたいことがあったんじゃないですか?」 「いや、特にはない」 「私、見ていて分かりました。先生の判断、合ってましたよ」 俺は窓ガラスを見たまま答えなかった。俺は決断が遅い。黒崎先生にも言われている通りだ。 「決断が遅いんじゃありません。先生は優しすぎるだけです」 … Read more