病室で息子からの手紙を読んだ瞬間、私の人生は音を立てて崩れ落ちた。心臓の手術を終えたばかりの私に、淳は「母さんが帰る場所はもうない。退院したら施設を探してください」と書いてよこした。38年間、この子のために全てを捧げてきたのに。そして親友が教えてくれたのは、息子夫婦が私の貯金500万円を引き出し、家を乗っ取り、私を認知症と偽って生命保険金まで狙っているという事実。さらに「母さんが死んだら保険…
病室の静寂を破るように、私は息子の手紙を声に出して読み上げた。信じられない。これが本当に私の息子、淳が書いた言葉なのか。手が震えて、便箋がカサカサと音を立てる。入院してまだ2週間。心臓の手術を終えたばかりの私に、看護師さんが優しく手渡してくれた封筒。差出人の名前を見て安心していた自分が愚かだった。 手紙の続きを読む。 「妻の両親を家に住ませる。私の部屋は回送して2人の寝室にする。お父さんが認知症だから仕方ない」 淡々と書かれた文字が、ナイフのように私の心を切り裂いていく。 30年前に夫をなくしてから、この子のためだけに生きてきた。朝5時に起きて弁当を作り、夜遅くまでパートを掛け持ちして学費を稼いだ。その息子が、私が一番弱っている時を狙ったかのように、こんな通知をしてくるなんて。 心電図の規則正しい音が、私の乱れた心をあざ笑うかのように響いた。涙は出なかった。代わりに胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。それは深い悲しみを超えた、激しい怒りだった。 窓の外を見つめながら、私は遠い記憶を辿っていた。夫が交通事故で亡くなったのは30年前。まだ小学生だった淳を抱きしめて、「この子だけは立派に育てる」と誓った日のことを、今でも鮮明に覚えている。仕事を続けながら、深夜のコンビニでもあるバイトをした。 淳の大学進学が決まった時、学費の総額は800万円。でも迷いはなかった。「母さん、ありがとう」と言ってくれた息子の笑顔が、全ての疲れを吹き飛ばしてくれたから。 就職活動ではスーツから交通費まで、全て負担した。結婚が決まった時も、「妻を幸せにしてあげて」と300万円の結婚資金を渡した。孫が生まれてからの3年間は、毎日朝から晩まで無償で子守りをした。「おばあちゃん、大好き」と小さな手で私の頬を撫でてくれた温もりが、今も手に残っている。公園で一緒に遊び、絵本を読み聞かせ、お昼寝の時は子守唄を歌った。「お母さんがいてくれて本当に助かります」と言われるたびに、家族の役に立てることが嬉しかった。 それなのに、今は邪魔者扱い。38年間の献身は、一体何だったのだろう。病室の冷たい空気が、私の心をさらに凍らせていく。 翌日の午後、親友の佐藤洋子が見舞いに来た。彼女の表情がいつもと違うことに、私はすぐに気づいた。 「美智子、あなたに伝えなきゃいけないことがあるの」 洋子は私の手を握りながら、重い口を開いた。 「実は昨日、スーパーで妻さんに会ったのよ。近所の奥さんたちと話していて」 洋子の顔が曇る。私は覚悟を決めて先を促した。 「妻さん、こう言ってたの。『お母さんがいなくなって本当に清々した。あんな口うるさい人、もう2度と家に入れたくない』って」 胸が締め付けられた。口うるさい。私が孫の世話で疲れている妻を気遣って、いつも遠慮がちに接していたのに。 「それだけじゃないの。『認知症も始まってるみたいだし、施設に入ってもらうのが一番。財産だけはしっかりもらうけどね』って笑ってたのよ」 認知症。そんな診断は受けていない。ただの心臓疾患で入院しているだけなのに。 洋子はさらに衝撃的な事実を告げた。 「美智子の家、もう回送始まってるわよ。妻さんの両親、先週から住み始めてる。淳さんが毎月20万円も生活費を渡してるって」 20万円。私が必死に節約して貯めた老後資金を思うと、怒りで体が震えた。しかも妻さんは「義理の親には月5000円の小遣いで十分よね」って言ってたわ。 5000円。犬や猫の餌代にもならない金額だ。 「美智子、実はもっと大変なことが」 洋子はバッグから通帳のコピーを取り出した。それは私の貯金通帳の写しだった。 「銀行で働いている知り合いから聞いたんだけど、先月500万円が引き出されてるの。淳さんの委任状があったって」 500万円。老後のために必死で貯めたお金が、勝手に引き出されていた。 「委任状なんて書いた覚えはないわ」 「でも銀行には確かに提出されてるの。筆跡鑑定したら偽造かもしれないけど」 病室に重い沈黙が流れた。息子が実の母親の金を盗んだ。しかも病気で入院している間に。 その時、ナースステーションから看護師が慌てた様子で入ってきた。 「松井さん、息子さんから病院に電話があって、医療費の支払いについて相談したいそうです」 医療費。手術費用は私の保険でカバーされるはずだ。嫌な予感がした。 「何でもお母様の生命保険の受け取り人を変更する手続きをしているとか。病院への支払いが心配だからって」 生命保険は1000万円。受け取り人は淳にしていたが、それは私が死んだ後の話。なぜ今変更する必要があるのか。 「受け取り人を誰に変更するって言ってました?」 「奥様の妻さんだそうです。息子さんは『母も高齢だからいつ何があるかわからない。今のうちに整理しておきたい』と」 洋子が小さく息を呑んだ。 「美智子、これは計画的よ。あなたの財産を全部奪うつもりなのよ」 そこへ隣に住む山下さんが顔を出した。 「美智子さん、大変なことを聞いちゃったの。昨夜、淳さんと妻さんの会話が聞こえてきて。『母さんの心臓、もう長くないかもしれない。保険金が入れば借金も返せる』って」 借金?息子夫婦に借金があったなんて初めて聞いた。 「事業に失敗したらしくて、5000万円の負債を抱えてるみたい」 洋子がスマートフォンを取り出した。 「美智子、これを聞いて」 再生されたのは息子の声だった。 「母さんが死んだら保険金も家も全部もらえる。あの人ももう68だし、心臓も悪いし、そう長くはないだろう」 決定的な証拠だった。涙が溢れそうになったが、私は歯を食い縛った。息子はもう息子ではなかった。私から金を奪い、家を奪い、命の価値まで計算する敵だった。 洋子が私の手を強く握った。 「美智子、戦うのよ。こんな理不尽、許しちゃだめ」 その時、夫の顔が脳裏に浮かんだ。「美智子、何があっても強く生きるんだよ」という最後の言葉が蘇る。私は深呼吸をして洋子を見つめた。 「洋子、お願いがあるの。信頼できる弁護士を紹介してくれる?」 息子が私を裏切ったなら、私も容赦はしない。38年間尽くしてきた母親の本当の強さを、これから見せてやる。 3日後の朝、病院の事務が重い足取りで私の病室を訪れた。 「松井様、少しお話があります。息子さんから医療費の件で連絡があったのですが」 … Read more