夜の11時、いつものようにドアをノックする音が聞こえた。23歳の息子が、汗でびっしょり濡れた顔で立っていた。震える手で「母さん、ごめん」とだけ言って、壁にうずくまる。朝になると、彼は何事もなかったかのように笑って大学へ行く。毎晩繰り返されるその夜の訪問に、近所の噂は広がり、私は息子を疑い始めていた。もしかして、これは普通のことじゃない?…
夜の11時を過ぎた頃、しず子はベッドに横になっていたが、眠れずにいた。天井を見つめながら、今日一日の出来事を振り返る。夕食の片付け、洗濯物を畳み、明日の朝食の準備。48歳になっても変わらない日常だった。夫は地方へ出張中で、一週間ほど帰ってこない。息子の健太は自分の部屋で勉強でもしているのだろうと思っていた。 目を閉じようとしたその瞬間だった。 トントントントン。 ドアをノックする音が聞こえた。控えめながらもはっきりとした音。しず子は一瞬体を強張らせた。こんな時間に誰が? もしかして健太に何かあったのかと胸が騒いだ。 「誰?」 しず子の声は震えていた。返事はない。しかし、ドアの向こうから荒い息遣いが聞こえてくる。まるで長い間走ってきたかのように、激しく不規則な呼吸。しず子はゆっくりとベッドから起き上がり、心臓が早鐘を打つ中、ドアへ向かった。ドアの取っ手に手を触れた時、一瞬ためらった。嫌な予感がしたのだ。 ドアを開けると、そこには健太が立っていた。 「健太!」 驚きの声が漏れた。しかし、何かがおかしい。健太の顔は汗でびっしょりと濡れ、髪が額に張り付いている。Tシャツも汗で色が濃くなっていた。息を荒く吐き、両目は焦点を失ったように揺れている。 「健太、どうしたの? どこか具合でも悪いの?」 しず子は慌てて尋ね、手を伸ばして息子のおでこに触れようとした。しかし、健太は答えない。ただ母親を見つめるだけだった。その眼差しには不安と恐怖、そして言葉にできない何かが宿っていた。健太の手が震えている。拳を握ったり開いたりを繰り返し、その場に立ち尽くしていた。 しず子は息子のこんな姿を初めて見た。いや、正確には久しぶりに見る姿だった。幼い頃、悪夢を見て泣きながら母親の部屋へ駆け込んできた時以来だった。あの時も健太はこうして全身を震わせ、言葉を失っていた。 「入っていいよ」 しず子が優しく言うと、健太は頷き、無言のままゆっくりと部屋の中に入ってきた。足取りは重く、まるで足に力が入っていないかのようにふらついていた。しず子は戸惑ったが、息子を追い出すことはできなかった。何か深刻なことが起きているのは明らかだった。母親としての本能が、今この子には自分が必要だと告げていた。 健太は部屋の真ん中に立つと、辺りを見回し、壁の方へ歩いていって背中を預けた。そして膝を折り、その場に座り込むと、うずくまった。肩が小さく震え、背中が丸まり、体全体が小さく見える。23歳の青年ではなく、まるで幼い子供のようだった。 「健太、お母さんに話してご覧。何があったの?」 しず子は息子のそばに寄り添い、尋ねた。声には心配が満ちている。しかし、健太は依然として口を開かない。ただ両手で顔を覆うだけだった。指の間から涙が流れるのが見える。肩の震えがさらに激しくなった。 しず子は息子の隣にそっと座った。冷たい床がお尻に触れたが、気にならなかった。背中をさすってあげたかったが、手が震えて簡単には動かせなかった。この状況は見慣れない恐ろしいものだった。23歳にもなった息子が真夜中に母親を尋ねてきて、こんなにも崩れ落ちているなんて信じられなかった。 「大丈夫よ。ゆっくり話していいからね」 しず子は優しく語りかけた。健太は顔を上げて母親を見た。目には涙が溜まり、赤く充血した瞳が揺れていた。唇を震わせ、何かを言おうとしたが、結局何の言葉も出てこない。口を開けたり閉じたりを繰り返すだけだった。 二人はしばらくの間、無言で座っていた。夜は更けていき、家の中は静まり返っている。ただ健太の荒い息遣いだけが部屋の中に響いていた。時計の秒針の音が夜更けに大きく聞こえる。カチカチカチという規則的な音が緊張感を高めていた。 しず子の頭の中は混乱していた。息子に何が起きたのだろう。大学で何か問題があったのだろうか? それとも友達と喧嘩したのだろうか? 彼女と別れたのだろうか? 様々な考えが頭をよぎったが、どれも確信には至らない。健太は普段、本心をあまり表に出さない子だった。高校生の頃からだんだん口数が減り、大学に入ってからはさらに物静かになった。 「お水、飲む?」 しず子が尋ねると、健太は首を横に振った。相変わらず言葉はない。しず子はため息をついた。どうすればいいのか分からなかった。息子を助けてあげたいけれど、その方法が分からない。何が息子をこんな状態にしたのか分からず、どう慰めればいいのかも分からなかった。 時間が経った。どれくらい経っただろうか。30分ほど経った頃、健太の息遣いが少しずつ落ち着き始めた。震えも次第に収まっていく。しず子はそっと息子の肩に手を置いた。温かい体温が手のひらに伝わる。 「もう大丈夫?」 健太がゆっくりと頷いた。そして立ち上がろうとする。足に力が入らないのか、壁に手をついてゆっくりと体を起こした。しず子も一緒に立ち上がる。膝が痛んだが、おくびにも出さない。 「部屋に戻る?」 しず子が尋ねると、健太は再び頷いた。そしてゆっくりとドアの方へ歩いていく。ドアを開ける前に一度立ち止まり、振り返った。青白い顔には申し訳なさが満ちている。 「母さん、ごめん」 健太の声はか細く震えていた。それが今夜初めて口にした言葉だった。しず子の胸が詰まった。喉が締め付けられ、うまく返事ができない。 「ううん。大丈夫よ。いつでもおいで」 しず子は無理に笑顔を作って言った。涙が出そうだったが、こらえた。健太は俯いて部屋を出て行った。ドアがゆっくりと閉まる。 しず子はしばらくの間、ドアを見つめて立っていた。今、何が起きたのだろう。理解できなかった。しかし、一つだけ確かなことがあった。息子に何か深刻な問題があるということ。そして、その問題は単純なものではないという予感がした。 しず子は再びベッドに横になった。しかし、眠気は訪れない。天井を見つめながら考え続けた。明日の朝、息子と話をしなければ。いや、夫に電話して相談すべきだろうか。病院に連れて行くべきではないだろうか。頭の中がごちゃごちゃだった。 窓の外から街灯の明かりが差し込んでいる。静かな夜だったが、しず子の心は全く穏やかではなかった。不安が胸を押しつぶす。その夜、しず子は夜明けまで眠ることができなかった。目を閉じると、健太の震える瞳が浮かび上がる。その瞳に宿る苦しみが、母親の胸を痛めつけた。 朝7時。しず子は台所で朝食の準備をしていた。一晩中まともに眠れなかったが、日常は続けなければならない。フライパンで卵焼きを作り、味噌汁を温めた。炊飯器からは温かいご飯の匂いが立ちのぼる。ごく普通の朝の光景だった。 健太が部屋から出てきた。 「母さん、おはよう」 健太の声は明るいものだった。昨夜のあの姿はどこにもない。きちんと髪を整え、いつも通りの小ざっぱりとした服装。顔には微笑みさえ浮かべていた。しず子は一瞬戸惑った。本当に昨夜の出来事は現実にあったことなのか、疑わしくなるほどだった。 「ええ、よく眠れた?」 しず子は慎重に尋ねた。健太は頷きながら食卓に着く。 「うん。ぐっすりだよ」 健太は答えた。平然とした表情だった。昨夜のことについては一言も触れない。しず子は何と言えばいいのか分からなかった。昨夜のことを切り出すべきか、それともこのまま触れないでおくべきか。心が揺れ動いた。 「さあ、ご飯よ」 しず子はご飯茶碗を健太の前に置いた。健太は「ありがとう」と言うと箸を手に取り、いつも通り静かにご飯を食べ始めた。しず子は息子の顔を観察した。本当に何ともないようだ。昨夜、汗に濡れて震えていた姿が嘘のように感じられた。 食事は静かに進んだ。健太は味噌汁をおかわりし、ご飯も全て食べきった。食欲も普通だ。しず子は安心すると同時に、一方ではさらに混乱した。昨夜のあれは何だったのだろうか。 「ご馳走様。学校に行ってきます」 健太が席を立ちながら言った。鞄を背負い、玄関へ向かう。しず子は後を追った。 「健太」 … Read more