「そこまでになさい」――その一言で、市場の空気が凍りついた。私はただの乾物屋の女将。静かに暮らしたかった。でも、目の前で若い店主が暴力団に殴られ、店の商品を奪われているのを見て、体が勝手に動いた。私の正体を知らない彼らは、私を「綺麗な女将」としか見ていなかった。白川という男が私に掴みかかろうとした瞬間、私は彼の腕をへし折った。そして、彼の耳元で囁いた。「人違いよ、あなたたち」――その日から、…
「いい笑顔だね、女将さん。そんなに笑いかけりゃ、利息の1円でも負けてくれると思ってるのか?」 癇に障る笑い声とともに投げかけられた言葉に、木皿静香は丹物を整理していた手を止めた。彼女の目が声の主へと向けられる。改革の良い男二人が狭い通路に影を落としていた。先頭に立つのは白川。その後ろにいるのはその子分だ。雨横町の「雨横ファイナンス」というもっともらしい看板を掲げ、証人たちの血を吸う昼行灯のような男たちだった。 静香は視線を外し、再び丹物に集中しながら、何事もなかったかのように言い返した。 「笑う門には福来る、と申しますでしょう。白川さん。それに利息は毎月きっちりお支払いしておりますから、ご心配なく」 「心配なんかしちゃいねえよ。女将さんの店がこの市場で一番信用があるってことは、俺が一番よく知ってるさ。ただ、その笑顔がもったいなくてな。他の店の奴らは俺たちが行くと死にそうな顔をするってのに、女将さんだけはまるでお花見にでも来たみたいな顔してやがる」 白川の声には、商人に対する態度とは思えない馴れ馴れしさと、じわりとにじみ出るような圧力が混じっていた。彼は積み上げた単子の山を指でずっと撫でる。最高級の折り物に汚れた指先が触れた瞬間、静香の眉がかすかにきくりと動いた。 「春先で商売が上向きですから、自然と笑えるというものですわ。もうすぐ大型連休ですしね。お二人もお忙しいでしょうから、そろそろ次のお店へ回られてはいかがですか?」 静香は笑みを絶やさぬまま、しかしきっぱりとした口調で話を打ち切った。これ以上この男たちと無駄口を叩きたくないという無言の合図だった。白川も静香の内心を察したのか、にやりと笑って肩をすくめた。 「分かった分かったよ。忙しいところを悪かったな。それじゃまた来月を目にかかろうぜ、美人の女将さん」 彼は「美人」という言葉にわざと力を込め、癇に障る視線で静香の全身をなめ回すように見た。静香はその視線を正面から受け止める。彼女の瞳は深く静かな海のようだった。普通の男ならその目つきに気圧されるところだが、白川はむしろその状況を楽しんでいるかのように口元をさらに歪めて見せた。 彼らが重々しい体を引きずって去っていくと、市場の路地は元の活気を取り戻した。隣の店の鈴木さんが心配そうな顔でひょっこりと顔を出す。 「しずちゃん、大丈夫かい? あのろくでなしどもがまた取り立てに来たのかい?」 「大したことじゃありませんよ、鈴木さん。いつものことです。利息の支払い日を確認しに来ただけですから」 「あいつら、ここ数日、前にも増して殺気だった目つきをしてるよ。何かやらかしそうな雰囲気だ。あんたも気をつけなきゃだめだよ、しずちゃん」 静香は温かく微笑んで鈴木さんを安心させた。 「ご心配なく。私に何かあるわけないじゃないですか。それより鈴木さん、お昼に焼き鳥で一杯どうです? 私が奢りますよ」 木皿静香。彼女がこの雨横に現れたのは、わずか1年前のことだった。生涯この市場で乾物屋を営んでいた両親が突然の事故で亡くなった後、全てを整理してこの場所にやってきた。人々は彼女が両親の業を継ぐために戻ってきた娘だと噂した。若くて美しい娘が荒っぽい市場の片隅でやっていけるのかと心配する者も多かった。 しかし静香は見た目よりずっと強かった。夜明けと共に店を開け、何百キロにもなる乾物の束を男の手を借りずとも軽々と運んだ。気難しい客の機嫌も上手に取り、複雑な市場の組合の仕事にも積極的に参加して、瞬く間に自分の居場所を築き上げた。さっぱりとした性格で誰にでも親切な彼女を、市場の仲間たちは「しずちゃん、しずちゃん」とまるで本物の娘か妹のように可愛がった。 誰も知らなかった。彼女が日本の精鋭、海上自衛隊特別警備隊SBU出身であり、その歴史上初の女性チームリーダーを務め、三等海佐として退役した鋼のメスライオンであることなど。地獄のような訓練と血なまぐさい戦場を離れ、この市場に戻ってきたことは、彼女にとって新しい人生の始まりだった。朝迎える市場の喧騒、香ばしい油の匂い、人々の生活の匂いが好きだった。乾物の滑らかな手触り、客との心温まる駆け引き、汗水流して稼いだ金での一杯の酒の幸福を、彼女は知っていった。彼女は過去を完全に葬り去り、ごく普通の乾物屋の女将として生きることに満足していた。 だが、世間は彼女を放っておかなかった。「雨横ファイナンス」の社長、黒岩。その手足である白川。当初、彼らも銀行の審査が厳しい証人たちに金を貸す、ごく普通の町金のように見えた。証人たちにとっては一筋の光のような存在だった。しかし、時が経つにつれて彼らの本性が現れ始める。法定金利を下回っていたはずの利息は、いつの間にか「火災保険料」「手数料」「管理費」などという不可解な名目がつけられ、雪だるま式に膨れ上がった。最初は丁寧だった白川の笑顔は消え、その拳が店の商品を脅やかすようになった。 静香も店を継ぐ際に生じた借金のため、彼らから金を借りていた。しかし彼女は自衛隊で培った徹底的な分析力で契約書の全条項を読み解き、毎月1日とも遅れることなくきっちりと利息を返済し続けた。それが白川が彼女に手荒な真似をできない理由の一つでもあった。付け入る隙がなかったのだ。 だが、他の証人たちの事情は違った。そのほとんどが市場で、少しでも商売がうまくいかない日があれば、利息の支払い日を守るのは難しくなる。その度に白川一味は亡霊のように現れ、嫌がらせを働いた。彼らの悪業は日ごとに大胆かつ残忍になっていった。 その日の午後、静香は昼食の約束通り鈴木さんの店に立ち寄った。店の一角に設けられた小さなテーブルで酒を酌み交わしていると、向かいの八百屋の若旦那、健二が暗い顔で店の前をうろついているのが見えた。25歳という若さで病気の母親を抱え、父親の店を継いだ真面目な青年だった。 「健二のやつ、また何か心配事かね。ここ何日も顔に影が差したままだよ」と鈴木さんがぼそりと言った。 「おっ母さんの薬代で黒岩のところに世話になったらしいんだ。かわいそうに」 静香の目つきが鋭くなる。彼女は健二の不安げな視線がある一点に注がれていることに気づいた。市場の入り口で、白川とその手下たちがまた別の商人を囲んで金を取立てている。その光景はまるで、飢えたハイエナの群れが弱った草食動物を襲うかのようだった。 「鈴木さん、あの人たち、最初からあんなに悪だったんですか?」 静香の問いに、鈴木さんは杯を置き、深いため息をついた。 「いや、そんなことはなかったよ。最初は黒岩のやつもこの市場で乾物屋をやってたんだ。それが金貸しに味を占めて、いつの間にかあんな化け物になっちまったのさ。最初の数年はみんな感謝してたんだ。銀行から金を借りられない私たちみたいな人間には、あの時の銃だったからね。でも、人間、金が絡むと変わっちまうもんだね」 鈴木さんの言葉尻が濁った。市場の平和な風景の裏に潜む黒い影。静香はその影が思ったよりもずっと深く、確実に市場の人々の生活を蝕んでいることを直感した。 その時だった。白川一味が標的を変えた。彼らの巨体が向かう先は、まさしく健二の八百屋だった。健二の顔が真っ青に変わる。彼は後ずさろうとしたが、すでに男たちに囲まれてしまっていた。 「おい、健二。今日が何の日か分かってんだろうな」 白川の声が市場の路地に響き渡った。周りの証人たちは皆、作業の手を止め、不安げな目つきで彼らを見ていたが、誰一人として進み出る者はいなかった。 静香は手にしていた杯を静かにテーブルに置いた。彼女の内に広がる静かな海が、ゆっくりと荒れ狂い始めていた。平凡な市場の商人として生きていきたかった。しかし、彼女の心臓に刻まれた軍人としての誇りと、骨の髄まで染み込んだ戦士の本能が、目の前で虐げられる弱者と、それを見逃す悪を見過ごすことを許さなかった。 「鈴木さん、少し席を外します」 静香が立ち上がった。彼女の目つきは、もはやお花見に来た女将のものではなかった。闇の中で獲物を捉えたメスライオンの目つき。優しく穏やかだった市場の平和に、亀裂が入り始める。そして、その亀裂の中心に、静香が立っていた。 「白川さん。今月だけは、本当にあと数日だけ待ってもらえませんか? 母の入院費でまとまった金が出てしまって、本当に申し訳ありません」 健二の声はか細く、今にも泣き出しそうな顔で深々と頭を下げている。白川は鼻で笑った。彼は綺麗に陳列された野菜の山から瑞々しい白菜を一掴み取り上げると、まるで野球のバットのように肩に担いで見せる。 「時間だと思ってるのか? 俺が慈善事業家だとでも思ってんのか? お前の事情が大変なのは分かるが、こっちの事情も考えてもらわねえとな。俺だって黒岩社長に実績を報告しなきゃならねえんだ。遅れれば遅れた分だけ利息が膨らむってこと。契約書にサインする時、見なかったのか?」 「それはそうですが、利息があまりにも…」 「何が『あまりにも』だ」 白川の怒号と共に、彼が手にしていた白菜が健二の顔面を殴りつけた。バシャッという鈍い音を立てて、白菜の葉が四方八方に飛び散る。健二は悲鳴を上げることもできず、その場に崩れ落ちた。彼の口元から細い血の筋が流れる。 市場の全ての騒音が一瞬にして止まった。証人たちは息を殺し、驚愕に満ちた目でその光景を見守っていた。白川の暴力は日に日にエスカレートしていたが、このように白昼堂々、人前で直接手を下したのは初めてだった。それは単なる暴力ではなかった。市場全体に向けた警告であり、恐怖を植えつけるための儀式だった。 「この親孝行のガキが、事情がどうだこうだとうるせえんだよ。おい、お前ら、店にあるもん全部袋に詰めろ。利息の代わりにもらっていくぞ」 白川の言葉が終わるや、連れの男たちがビニール袋を手に野菜を無造作に掻き集め始めた。それは健二の全財産であり、彼の母親を救う唯一の希望だった。 「やめてください。お願いします。それだけは持っていかないでください」 健二は倒れたまま、這うようにして白川のズボンの裾を掴んだ。悲痛な絶叫だった。しかし、白川は虫けらを振り払うように足蹴りで健二を突き飛ばした。 まさしくその瞬間だった。 「そこまでになさい」 氷のように冷たく、鋼のように硬い声が彼らの行動を止めた。全ての視線が声の方へと注がれる。木皿静香だった。彼女は腕を組み、普段とは全く異なる雰囲気を纏ってそこに立っていた。穏やかな微笑みは消え、その場所には刃のような殺気が漂っている。 … Read more