葬儀が終わって三日目の朝、親戚が私に言い放った。「もう面倒は見られん。この家も売る。あとは自分で何とかしろ」。母を亡くした十七歳の冬、私は母の位牌と古い鞄一つで家を追い出された。行く当てもなく歩き続け、山道で力尽きて倒れた私に、見知らぬ老夫婦が差し出したのは、たった一切れの傷ついたりんごだった。「まずは食べな。話はそれからだ」。その一言が、凍りついた私の時間を動かした。あれから十五年。恩返し…
「もう面倒は見られん。この家も売ることにした。母親もいないんだ。あとはお前が自分で何とかしろ」 その声には温かさのかけらもなかった。母の葬儀が終わってまだ三日しか経っていない朝のことだった。線香の匂いがまだ残る座敷で、俺は喪服のまま親戚たちに囲まれて立っていた。 父の顔は写真でしか知らない。俺の味方はこの世にたった一人、母だけだった。その母がいなくなった。だから俺には頭を下げてすがれる相手も、帰る場所も、どこにもなくなってしまった。 手に持たされたのは母の位牌と着替えを詰めた古い鞄が一つ。それだけを抱えて、俺は生まれ育った家を追い出された。十七歳の冬の入り口。俺はこの世にたった一人で放り出されたのだ。 あの日、行く当てもなく歩いた山合いの道端で差し出された、たった一切れのりんご。それが凍りついた俺の時間をもう一度動かすことになるなんて、この時の俺はまだ思ってもいなかった。 俺の名前は宮原悠人。三十二歳。ある食品会社で地方の農物を使った商品開発の仕事をしている。世の中に出回らない傷のついた果物。形が不揃いで企画から外れてしまった野菜。普通なら捨てられてしまうものを、もう一度美味しいものに変えて世に送り出す。それが俺の仕事だ。 大きな会社の役員でもないし、成功者と呼ばれるような立派な人間でもない。ただの地味な会社員だ。それでもこの仕事にだけは、人には言えない理由でこだわり続けてきた。 傷物にもちゃんと値打ちがある。捨てられるはずのものにもまだ生きる道は残されている。俺が本気でそう信じているのには、訳がある。 話は今から十五年前に遡る。あれは俺がまだ十七歳の冬になりかけた頃のことだった。 俺は母と二人きりで育った。父は俺が物心つく前に病気で亡くなったと聞かされている。写真でしか顔を知らず、その声もぬくもりも俺は知らない。俺にとっての家族は、最初から母ただ一人だった。 母は昼も夜も働いた。朝はスーパーのレジに立ち、夕方からは小さな居酒屋の厨房を手伝った。それでも暮らしはいつもギリギリで、月末になると母は台所の卓を叩きながら小さくため息をついていた。それでも母は俺の前で弱音を吐いたことが、ただの一度もなかった。 安い果物を一つ買うと、母はそれをきっちり半分に割って、必ず大きい方を俺に差し出した。 「ほら、こっちの方が大きいよ。育ち盛りなんだからいっぱい食べな」 そう言って笑うのだ。今思えば母はいつも自分の分を削っていたのだと分かる。けれどあの頃の俺は、その優しさにただ甘えていた。 母はどんなに疲れて帰ってきても、俺の話を必ず聞いてくれた。学校で会ったこと。友達とくだらないことで喧嘩したこと。母はうんうんと頷きながら、「それでそれで」と身を乗り出して聞いてくれた。 「悠人の話を聞くのが、母さんの一日で一番の楽しみなんだよ」 そう言って目を細めるのだった。あの頃の俺はそのありがたさにまるで気づいていなかった。母のいる温かい暮らしが当たり前にずっと続くものだと思い込んでいた。 母は口癖のようにこんなことも言っていた。 「世の中には辛い思いをしている人がたくさんいる。もしお前がそういう人を見かけたらね、見て見ぬふりだけはしちゃいけないよ。手を差し伸べられる人になりなさい。それが母さんのたった一つの願いだからね」 子供だった俺はその言葉の重さなんてまるで分かっていなかった。ただうんと生返事をするだけだった。 ある日、学校で父親のいないことをからかわれて、俺は泣いて帰ってきたことがあった。母は俺の話を聞くと、俺をぎゅっと抱きしめた。 「うちはお父さんがいなくてお金もない。でもね、悠人には母さんがいる。母さんには悠人がいる。それだけで母さんは世界で一番のお金持ちなんだよ」 その言葉で俺は泣きやんだ。貧しくても母さんさえいれば俺は平気だった。 母が倒れたのは、俺が高校二年の初冬のことだった。台所で夕飯の支度をしている最中に、母は音もなく崩れ落ちた。救急車で運ばれ、俺は病院の廊下で一晩中震えながら待った。 医者から病名を告げられた時、俺は言葉の意味がうまく飲み込めなかった。医者はひどく静かな声で「もう手の施しようがない」のだと言った。 頭の中が真っ白になった。何かの間違いだと思った。だって母はまだ四十を過ぎたばかりだ。俺を置いていなくなるはずがない。 母はそれから半年ほど病院のベッドで、少しずつ痩せていった。俺は毎日学校が終わるとまっすぐ病院へ通った。母は俺の顔を見るたびに、げっそりと痩せた頬でそれでも精一杯笑って見せた。 「あんたはね、優しい子だよ。人の痛みがちゃんと分かる子だ。だからきっと大丈夫。母さんがいなくなっても、お前は一人でちゃんと生きていける」 母はよく俺の手を握ってそう言った。日ごとに細く冷たくなっていく手だった。俺はその度に首を横に振った。 「そんなこと言うなよ。大丈夫だよ。母さんはすぐに良くなる。良くなって、また二人で暮らすんだ」 心にもないことを俺は言い続けた。良くならないことは本当は自分が一番よく分かっていた。分かっていて、それでも認めたくなかった。 母の入院費はわずかな蓄えをみるみるうちに食いつぶしていった。俺は学校が終わるとまっすぐ病院へ行き、母が眠りについたのを見届けてから、深夜まで近くのコンビニでアルバイトをした。同級生たちが部活や恋の話に明け暮れている間、俺は母の病気のことも家の貧しさのことも誰にも打ち明けられずに、ただ一人で抱え込んでいた。 大変だとは思わなかった。母のためならどんなことでもできると思っていた。ただ、眠る時間を削って働いても母の命が一日でも伸びるわけではない。そのどうにもならない現実だけが、俺をじわじわと追い詰めていった。 母が息を引き取ったのは、冬の初めの雪の散らつく夜だった。最後に母は俺の名前を一度だけか細い声で呼んだ。それきり二度と目を覚まさなかった。 俺は冷たくなっていく母の手を握ったまま、朝まで動くことができなかった。悲しいという言葉ではまるで足りなかった。世界から色が消えて、音が消えて、俺だけが暗い水の底に一人取り残されたような気がした。 葬儀は遠い親戚たちが集まって仕切ってくれた。俺はそれを心の底からありがたいと思っていた。母が亡くなって身寄りのいなくなった十七歳の俺を、この人たちがきっと引き取ってくれるのだろう。これからはこの親戚を頼って生きていくのだろう。そんな風にぼんやり思っていた。 だが通夜の晩から、親戚たちの態度は少しずつ変わっていった。俺のいないところで大人たちがひそひそと何かを話し合っている。障子の向こうから漏れ聞こえてくるのは金の話ばかりだった。母がわずかに残したお金のこと。この古い家を売ればいくらになるか。俺を引き取ればこれから何年、いくらかかることになるか。 俺は縁の影で息を殺してその声を聞いていた。体の芯がじわじわと冷えていった。生きていた頃、あの親戚たちは母にも俺にもそれなりに優しかった。正月にはお年玉をくれた。困ったことがあったらいつでも言いなさいと、そう言ってくれる人もいた。 俺はその言葉を本気で信じていた。けれど母という繋がりが消えた途端、その優しさはまるで潮が引くように綺麗に消えてなくなった。母の残した数少ない着物や、俺と母が写った古いアルバムまでも「もういらないだろう」とまとめてゴミ袋に詰められていくのを、俺はただ見ていることしかできなかった。 人の優しさというものがこんなにもあっけなく裏返るものだということを、俺はその時初めて知った。 そして葬儀が終わって三日目の朝、あの言葉が俺に投げつけられた。 「もう面倒は見られん」 「この家も売ることにした」 「うちにもうちの生活があるのよ。悪く思わないでちょうだいね」 「母親もいないんだから。これからは自分でなんとかするんだな。それが世の中ってもんだ。甘えるんじゃないぞ」 俺は何も言い返せなかった。ただ俯いて、拳を握りしめることしかできなかった。 俺はいらない子なんだ。誰も俺を必要としてなんかいない。母がいなくなった今、俺の居場所はもうこの世のどこにもないのだ。 俺は母の位牌を胸に抱え、着替えの詰まった鞄を持って生まれ育った家の玄関を出た。誰一人引き止めなかった。振り返ると家の窓はもう俺の方を見てはいなかった。 その日から俺は行く当てもなくただ歩き続けた。財布の中には母の枕元に残されていたかわいらしい小銭にしか入っていなかった。それを握りしめて電車に乗り、バスを乗り継いだ。どこへ向かうという当てもなかった。ただ、俺のことを誰も知らない場所へ行きたかった。 気がつくと俺は名前も知らない山合いの町にたどり着いていた。十一月の終わりの風は刺すように冷たかった。喪服のジャケット一枚では体の熱がどんどん奪われていく。それでも俺は当てもない道をひたすら歩いた。 どれくらい歩いたのか、もう時間の感覚さえなくしていた。俺は朝から何も食べていなかった。いや、思い返せば母が倒れてからこの半年、まともに食事を取った記憶がほとんどなかった。腹の減りと寒さと、それ以上に深い心の疲れとで、俺の足はもう棒のように重くなっていた。 ふと遠くの民家に、温かそうなオレンジ色の明かりがともっているのが見えた。その家の中ではきっと家族が食卓を囲んでいるのだろう。湯気の立つ温かい夕飯を囲んで。俺にはもう二度と手に入らない当たり前の風景だった。その明かりを見ていたら、なぜだか涙が滲んできた。 どのくらい歩いただろう。西の空に日が傾き始め、山の稜線が燃えるように赤く染まり出した頃だった。不意に俺の視界がぐらりと大きく揺れた。足に全く力が入らない。 あ、と思った時にはもう遅かった。膝から崩れ落ちるように、俺はその場に倒れ込んだ。冷たいアスファルトがひやりと頬に触れた。体は鉛のように重かった。もう指一本動かせなかった。 誰も俺を探してなんかいない。俺がここで消えても悲しむ人は一人もいない。そう思うと不思議と心は静かだった。ああ、ここで終わるのか。薄れゆく意識の中で俺はぼんやりとそう思った。不思議と怖くはなかった。むしろ少しほっとしていた。ここで力尽きれば、母のところへ行ける。もう寒さも孤独もあの冷たい言葉も感じなくて済む。 … Read more