深夜1時を回ったオフィスビルの非常階段の踊り場で、私は膝を抱えて泣いていた。3日続けて終電を逃し、伝票の数字が合わず、課長に「容量よくやれないの?」と言われた言葉が胸に刺さったまま、どこにも行きたくなかった。足元が濡れていると声をかけられ、見下ろすと灰色の作業着を着た清掃員の男の人が立っていた。彼はモップをカートにかけ、ポケットから缶のおしるこを取り出して、「これ当たったやつなんで、よかったら」と隣の段に置いて、そのまま下の階へ降りていった。私はその缶を両手で包んだまま、しばらく動けなかった。知らない人に泣き顔を見られたのに、なぜか恥ずかしくなかった。後で知ったが、おしるこに当たりなんて出ない。あの缶は彼が自分のために買ったものだった。この夜に出会った人が、私の人生を丸ごと変えることになるなんて、この時の私はまだ知らなかった。
私の名前は綾瀬しおり、31歳。豊瀬文具という社員180人ほどの会社で経理をしている。月末になると請求書と伝票の山に埋もれ、合わない1円を探して夜中まで残っている。給料は手取り20万円、家賃6万8000円のアパートに住み、服はセールでしか買わない。それでも自分の給料で暮らしが回っていることを、少しだけ誇りに思っていた。父は私が15歳の時に亡くなった。路線バスの運転手だった父は46歳で、真夏の日曜の朝、縁側で新聞を読んだまま急死した。母は台所からお茶を持っていった時、父が新聞を膝に落として少し前に傾いていたという。救急車が来た時にはもう息をしていなかった。私はその時、部活の朝練に行くために自転車の鍵を探していた。玄関で母の声を聞いた。あんな声をそれまで聞いたことがなかった。
父は毎朝3時半に起きて4時前には家を出ていた。始発の便に乗るために、営業所で点呼を受け、アルコール検査をし、バスの周りを一周して点検する。父はその出勤前の時間に必ず玄関で靴を磨いていた。制服の靴だ。誰にも見えない足元を、父は毎朝ピカピカにしていた。私が一度、「その靴誰も見ないよ」と言うと、父は笑ってこう答えた。「お客さんは運転手の顔なんか覚えちゃいないよ。それでいいんだ。無事に降りてくれればそれでいい」。その時の私には、その言葉の意味がよくわからなかった。
父が亡くなった後、母はスーパーのパートを増やし、夜は内職をした。1枚いくらの仕事で、母は毎晩台所の電球の下で背中を丸めていた。私が高校を出る時、母は「大学へ行かせてやれなくてごめんね」と言った。私は「行きたくない」と答えた。本当は行きたかった。専門学校で簿記を取って、今の会社に入った。数字が好きだったわけではない。数字は嘘をつかないから楽だった。人の気持ちは分からないけれど、貸方と借り方が合えばそれは正しい。私にとって経理はそういう仕事だった。
父の残したもので、私が今も持っているものが一つだけある。腕時計だ。灰色の文字盤の安い時計で、ガラスには小さな傷がある。父が22年間ずっと左手にはめていたものだ。母が片付けの時に「これはあんたが持ちなさい」と言った。私はそれを箱に入れて引き出しの奥にしまっている。つけて歩けない。男物で大きいし、もう随分前に止まっている。それでも捨てられない。
27歳の時、一度だけ結婚を考えたことがある。相手は取引先の営業の人で、優しい人だと思っていた。その人は私の給料を聞いて「それでよく生きていけるね」と笑った。悪気はなかったのだと思う。ただ笑ったのだ。私はその日からその人と話すのが辛くなり、半年で終わった。それから私は誰かと一緒になることをあまり考えなくなった。
会社の同期の相川霞は、私と同じ年に入って営業の人と結婚し、今子供が2人いる。霞は時々私を心配して飲みに誘ってくれた。「しおり、結婚するなら安定した人にしなさいよ。優しいだけじゃ生活できないよ。うちの旦那だってさ、優しいだけだったら私やってけてないと思う」。私は笑って頷いた。その通りだと思っていた。母の妹の越子おばさんは、正月に顔を合わせるたびに私の年齢を数えた。「しおりちゃん、もう30過ぎたでしょ?うちの下の子なんてもう2人目よ。贅沢言ってたら決まらないわよ。でもね、お金のない男だけはやめときなさい。苦労するのはあんただからね」。母はその横で黙ってお茶を飲んでいた。私は正月が少し苦手だった。
母は62歳。今も私が中学生の頃から住んでいる家に1人で暮らしている。私のアパートから電車で3駅のところだ。2ヶ月に1度くらい、私は米や洗剤を持って母の様子を見に行く。行くと母は必ず「来なくていいのに」と言う。それでいて台所には私の好きな煮物が用意してある。私が2万円を封筒に入れて置いて行こうとすると、母は本気で怒った。「あんたのお金でしょう。自分のために取っときなさい。私はね、あんたが困らないように働いてきたの。あんたに助けてもらうために育てたんじゃないのよ」。母が「安定した人にしなさい」と言うようになったのは、父が死んでからだ。それまでの母はそんなことを一度も言わなかった。父と母は職場結婚で、母はバス会社の事務をしていた。給料は多くなかったけれど、家の中はよく笑う家だった。
父が死んだ月に、母はまず生命保険の書類を探した。父の勤め先の共済と小さな就寝保険が一つ。ローンが残った家、中学生の娘。母は電卓を持ってそれを何日も見ていた。多分あの時、母の中で何かが変わったのだと思う。好きな人と一緒になるというのは、その人がいなくなった後まで背負うということなのだと。母は身を持って知ってしまった。だから母は言う。「安定した人にしなさい」と。それは呪いではなくて、母なりの祈りだった。だから私は現金でなく物で渡すようになった。米と洗剤と少し高い緑茶。母は物なら文句を言わずに受け取った。
私は自分の家計を1円まで把握している。職業病だと思う。ノートに毎月の支出を書いて、残ったお金は貯金に回す。今の会社に入ってからコツコツ貯めて284万円になった。多くはないけれど、私にとってはお守りみたいなものだった。父が死んだ後、母が通帳の残高を見て黙り込んだ夜のことを私は覚えている。あの時の母の背中を、私は二度と見たくなかった。だから数字を握っていたかった。
父のバスに、私は一度だけ乗ったことがある。小学4年生の夏だった。母に頼み込んで、父の担当する路線の始発の停留所まで連れて行ってもらった。乗ってくる人はみんな父の顔を見なかった。整理券を取って後ろの席へ行き、窓の外を見ていた。降りる時もほとんどの人は何も言わずに料金を入れて降りていった。私はそれが少し悔しかった。家に帰って父にそう言った。「誰もお父さんにありがとうって言わないね」と。父は缶ビールを飲む手を止めて、少し考えてから言った。「言われない方がいいんだよ。運転手が褒められる時っていうのはな、何か変わったことがあった日なんだ。何もなくてみんなが黙って降りていく日が一番いい日なんだ」。その言葉を私は長い間思い出さなかった。思い出したのは、それから20年以上経って、灰色の作業着を着た人と暮らすようになってからだった。
父の葬式の日、営業所の人が何人も来てくれた。その中に父より20歳くらい年上の人がいた。父が新人の頃に指導した人だという。その人は弔問の後に私と母の前で言った。「綾瀬さんは雨の日、マンホールや白線の上では絶対にブレーキを踏まなかった。滑るからだ。乗っている人が座席でつんのめらない運転をしていた。そんなことは誰も気づかない。気づかないからいい運転手なんだ」。私はその時意味がよくわからなかった。ただ、その人が泣いていたのは覚えている。
あの晩私が泣いていた理由は、実は大したことではなかった。仕入れの伝票が1枚二重に起票され、残高が3万2000円合わなかった。それだけだ。翌日の朝までに原因を突き止めなければならなかった。ただ、その前の日に課長から言われた一言がずっと胸に残っていた。「綾瀬さんはさ、真面目なんだけど、もう少し容量よくやれないの?」。悪気のない人だ。それは分かっていた。分かっていても、深夜のビルで1人きりで電卓を叩いていると、自分のやっている仕事に何の意味があるのか分からなくなる。誰も見ていない。誰も褒めない。合って当たり前で、合わなければ責められるだけの仕事だ。そう思って泣いていた私に、あの人は声をかけた。「足元まだ濡れてます」と。私はそれまで、そのビルの床が毎晩誰かの手で拭かれていることを一度も考えたことがなかった。朝出社すると床はいつも乾いていて、ゴミ箱は空になっていて、トイレの洗面台に水滴の一つもない。それが当たり前だと思っていた。当たり前になっているということは、誰かが完璧にやっているということなのに。
父の靴の話を思い出したのは、そのずっと後のことだ。そんな日々の中で、私はあの深夜の非常階段で缶のおしるこをもらった。うちの会社は港第1ビルという都心のビルの9階と10階を借りている。地下2階、地上14階の少し古い建物だ。そのビルの清掃を受け負っているのが、コアビルメンテナンスという会社だった。あの夜の人はそこの清掃員だった。
その次の週から、私はその人を意識するようになった。うちの会社の清掃が入るのは平日の夜の10時過ぎだ。私が残業していると、廊下の方からカートを押す音が聞こえてくる。ゴミ袋を変えて、床を掃いて拭いて、鍵をかけて次のフロアへ行く。音で大体の動きが分かるようになった。ある晩、私が給湯室でお茶を入れていると、その人が入ってきた。作業着の胸に名札がついていた。「コアビルメンテナンス 柏木」と苗字だけだった。「あ、すいません。後にします」「いえ、私が邪魔ですよね。どうぞ」「じゃあ、失礼だけ」。その人はシンクの中に落ちていた茶葉を拾って、水を流して、蛇口をくるりと拭いた。物の20秒だった。それなのにステンレスの曇りが消えて、すごいほど光った。「水垢は乾く前に取ると楽なんですよ。乾いてから落とそうとすると10倍かかります」。その人は少し笑った。笑うと目尻に細かいしわが寄って、それで私はこの人が思っていたより年上なのだと気づいた。
それからは廊下ですれ違うと会釈をするようになった。何日かして、私はおしるこの礼を言った。「この前のおしるこ、ありがとうございました。おいしかったです」「あ、あれ当たったやつなんで」「おしるこ当たりませんよね。調べました」。その人は困った顔をして頭をかいた。「すいません。嘘つきました」「なんで嘘ついたんですか?」「もらってくれないと思ったんで」。そう言ってその人はカートを押していった。その時私は、この人は多分こういうことをしょっちゅうやっているのだろうと思った。
柏木尚弥さんという名前を知ったのは、あの後ろ姿の夜から1ヶ月ほど後だ。夏の終わりの雨の強い日だった。その日は残業で、私が会社を出たのは夜の9時過ぎだった。駅前の横断歩道の手前で信号を待っていた。傘を差していても足元が跳ねて、靴の中まで濡れていた。前の方で悲鳴のような声がした。点字ブロックの上でお年寄りが足を滑らせて尻もちをついていた。買い物袋が倒れて、みかんが2つ車道の方へ転がっていった。みんな傘を傾けてそのお年寄りを避けて渡っていった。1人だけ駆け寄っていった人がいた。灰色の作業着だった。その人はすぐに立たせようとはしなかった。しゃがんでまず足首と膝を見て、それから何か話しかけて、それからゆっくりと歩道の内側へ移した。私はやっと自分の足が動いて駆け寄った。「あの、私、救急車を呼びましょうか?」「あ、綾瀬さん」。その人は私の名前を知っていた。給湯室で名札を見ていたのだと思う。「今は立てそうです。でも後で痛みが出ることがあるので、ご家族に連絡だけ」。お年寄りは息子さんに電話をして、迎えに来てもらうことになった。その人は自分の傘をお年寄りに渡した。「バス停の屋根の下まで一緒に歩いて、そこで待っていてください」。そして自分は傘も差さずに行こうとした。「ちょっと、あなたが濡れちゃいますよ」「俺は走ればいいから」。その人は本当に走っていった。私は自分の傘を持ったまま、その背中を見ていた。
翌日、私は自分の傘を1本持って出社した。ビニール傘ではない。ちゃんとした折りたたみの方だ。廊下でカートの音がした時、私はそれを渡した。「これ使ってください」「いや、そんな、返さなくていいので」「私、傘を2本持ってるんです」。その人は両手で受け取って頭を下げた。その時初めて、私はその人の手を近くで見た。指の関節が太くて、爪が短く切り揃えてある。手の甲が所々白く粉を吹いて、親指の付け根にはひび割れた跡があった。洗剤とゴム手袋で荒れたのだ。「柏木です。柏木尚弥です。今更ですけど」「綾瀬しおりです」「知ってましたけど」「すいません。名札で覚えちゃって」。私たちはそこで初めてちゃんと名乗り合った。深夜11時の蛍光灯の廊下だった。
それからは廊下で会うと少し話すようになった。柏木さんは自分の仕事のことを聞かれると、意外なほどよく喋る人だった。「床にはワックスを塗る。塗る前に古いワックスを薬品で剥がす。剥がさずに塗り重ねると、だんだん黄色く濁っていく。だからその剥離という作業が一番大変で一番地味なんだそうです。ビルの床がくすんでるのは、掃除してないからじゃないんですよ。剥がしてないからなんです」「へえ」「積み重なったものを取る方が、新しく塗るより難しいんです。どこでもそうでしょうけど」。その言い方が私はなんだか好きだった。逆に自分のことになると、彼は急に口数が減った。どこの出身か、家族はいるのか、休みの日は何をしているのか。どれを聞いても短い答えが返ってくるだけだった。「東京です」「父は何年か前に、母は俺が高校の時に」「休みは寝てます」。そういう答え方をされると、それ以上は聞けない。あの頃の私は、この人はきっと苦労してきたのだろうと思っていた。親を早く亡くして頼れる人もいなくて、それでも人に優しい。そういう人なのだと。半分は当たっていた。残りの半分はまるで違っていた。
その秋、私は会社の健康診断で再検査になった。大したことではなかった。血液の数値が一つだけ基準を外れていて、「もう一度調べましょう」と言われただけだ。それでも予約の日まで私はずっと落ち着かなかった。父が急に死んだ人だからだと思う。再検査の日は有休を取って、朝から市立の総合病院へ行った。結果は問題なしだった。そして廊下のベンチで会計の番号が呼ばれるのを待っていた時、私は柏木さんを見た。私服だった。紺色のジャンパーに灰色のズボン、手には紙袋を下げている。声をかけようとしたところで、廊下の向こうでガシャンと音がした。3歳くらいの男の子が紙パックのジュースを落としていた。ストローが抜けて、オレンジ色の水溜まりが床に大きく広がっていた。男の子は固まって、それから火がついたように泣き出した。お母さんは下の子を抱いていて両手が塞がっていた。「すみません、すみません」と繰り返しながら、鞄からティッシュを出そうとしている。通りかかった人たちは水溜まりを避けて歩いていった。中には露骨に迷惑そうな顔をする人もいた。柏木さんは紙袋を床に置いて、しゃがみ込んだ。ジャンパーのポケットから折りたたんだ布を出して、まず外側から内側へ、ジュースを1箇所に集めていった。それから受付の方へ行って、モップとバケツを借りてきた。男の子は泣きながらそれを見ていた。柏木さんは拭き終わってから、受付にあった黄色い縦札を借りてその場所に置いた。それから男の子の目の高さまでしゃがんだ。「転ばなくてよかったな」「ごめんなさい」「謝らなくていいよ。服が濡れただけなら大丈夫。乾くから。怒られないよ。お母さん、下の子抱っこしてて手が塞がってたんだ。しょうがないよ」。男の子はしゃっくりみたいな泣き方をしながら頷いた。お母さんが何度も頭を下げた。柏木さんは「いえ」と言って、モップを受付へ返しに行った。私はその間ベンチから動けなかった。彼が最初にしたのは、母親を気遣うことでも子供を慰めることでもなかった。床を拭くことだった。誰かが滑って転ぶ前に、まずそれを消したのだ。
会計を済ませてから、私は玄関で柏木さんに追いついた。「柏木さん」「あ、綾瀬さん、どうしたんですか?こんなとこで」「再検査でした。何ともなかったです」。柏木さんは「うちの現場の人がね、腰をやっちゃって」と、紙袋の中身を見せた。みかんと缶のおしるこだった。私はそれを見て思わず笑ってしまった。「またおしるこですか?」「これ当たったやつなんで」「もういいです」。それから私たちはそこで初めて、職場を離れてゆっくり話をした。バス停まで一緒に歩いた。その間に彼は、ビルの床にはワックスを塗る日があるのだと話した。その日は乾くまで歩けない。だから塗る順番を間違えると、自分が中に閉じ込められるのだそうだ。私は電卓の1円が合わない話をした。どちらも大して面白い話ではなかった。それでも私は、バスが来なければいいのにと思っていた。バスは来た。私が乗り込んで振り返ると、柏木さんはまだそこに立っていて、ドアが閉まるまで軽く手を上げていた。その手の甲が荒れて白くなっているのが、窓越しにも見えた。
それから私たちは、月に2度か3度、休みの日に会うようになった。デートと呼べるようなものではなかった。柏木さんの休みは平日で、私の休みは土日だったから、会うのは私が有休を取った日か、彼が夜勤明けの午前中だけだった。行き先はいつも近所だった。川沿いを歩いて、商店街を歩いて、パン屋でパンを買って、公園のベンチで食べる。それだけだ。それでも私はその時間がとても好きだった。柏木さんは歩きながらよく立ち止まる人だった。最初は何をしているのか分からなかった。歩道に落ちている割れた瓶の破片を拾って、コンビニのゴミ箱まで持っていく。浮いていた側溝の鉄の蓋を足で踏んで直す。置き自転車が倒れていると起こして、橋に寄せる。どれも一瞬で終わる。本人は何も言わない。「いつもそんなことしてるんですか?」「そんなことっていうほどのことじゃないですよ。1秒ですし」「でもみんなやらないですよね」「気づかないだけだと思いますよ。俺は仕事柄、目につくだけで」。そういう言い方をする人だった。
商店街のお弁当屋さんで、こういうことがあった。私たちの前に並んでいたおじいさんが、レジで財布を忘れたことに気づいた。上着のポケットを何度も探って、店の人に「ちょっと待ってね」と言ってまた探していた。後ろの列が伸びていた。柏木さんは自分の財布を出して、520円をカウンターに置いた。「すいません。これで」「いや、そんな悪いよ」「後で店に返してあげてください。俺は今日ここ通りかかっただけなんで」「あんた、名前は」「名乗るほどのことじゃないですよ」。そう言って彼はさっさと自分の弁当を買った。帰り道に私は聞いた。「あの520円、戻ってこないですよね」「戻ってこないでしょうね」「そんなことしてたら、自分が損しませんか?」「損かどうかより、見てみぬふりした自分の方が嫌なんですよ」。彼は前を向いたままそう言った。「あのじいさん、あそこで恥をかいたまま帰ってたら、多分もうあの店に行かないでしょう。1つの店に行けなくなるって、年取ってからだと結構でかいんですよ」。そこまで考えて520円を出したのかと思って、私は少し驚いた。
また別の日には、こんなこともあった。夜の9時頃、私たちが駅から歩いていると、遅い時間の路地に子供がしゃがんでいた。小学校の低学年くらいの女の子で、ランドセルではなく塾の鞄を持っていた。柏木さんはその子の3メートルほど手前で足を止めた。そしてしゃがんだ。近づきもせずに、そのまま「お家の人待ってる?」「わかんない」「そうか。おじさんたち、そこの交番まで一緒に行こうか。お姉さんもいるから」。彼は私を指した。私が前に出て手を差し出すと、その子はやっと立ち上がった。交番までは3分もかからなかった。お巡りさんに引き渡して、私たちは外に出た。「なんであんな離れたところでしゃがんだんですか?」「男が近づくと怖いでしょう。あの距離が限界です」「よく知ってますね」「うちの現場に子育て終わった人がいっぱいいるんで、教わったんです」。そういう知恵を彼はたくさん持っていた。歩き方にも癖があった。彼は道の端を歩く時、必ず車道側に立った。私が入れ替わろうとしても、さりげなく戻る。「それ、誰かに教わったんですか?」「教わってはないです。うちの前にいた職場の人がそうしてたんで」。「前にいた職場」という言い方を彼は時々した。
柏木さんの住まいは、駅から歩いて15分の古いアパートだった。木造の2階建てで、階段が外にある。一度だけ、お茶に寄ったことがある。部屋は6畳と台所だけだった。テレビはない。本棚に文庫本と清掃の技能検定の教科書が並んでいた。台所は驚くほど綺麗だった。シンクにも蛇口にも水垢一つない。冷蔵庫を開けたら、卵と納豆と味噌と作り置きの煮物が入っていた。玄関には靴が2足あった。1足は滑り止めの効いた作業靴で、もう1足は黒い革靴だ。革靴の方はかかとが片減りしていて、色が薄くなっていた。その2足とも綺麗に磨いてあった。私はそこで父のことを思い出した。
ご飯の話もその頃に知った。柏木さんは夜勤の休憩に、コンビニのおにぎりを1つしか食べない。しかも一番安いやつだ。「それだけですか?」「動いてる仕事だから、腹に入れすぎると眠くなるんですよ」「本当ですか?」「本当ですよ」。少し間を置いたその返事が、私はずっと気になっていた。私はその頃、この人はお金がないのだと思っていた。それは間違っていなかった。彼は本当に、自分に使うお金を持っていなかった。
仕事のことでも、私は何度か彼を見た。うちの会社が入っているフロアの一番奥に給湯室がある。その裏に配電盤の点検口があって、その前だけは物置きみたいになっていた。ボールと壊れた椅子と、誰かが置きっぱなしにした傘。何年もそのままだった。誰の担当でもなかったからだ。ある朝私が出社したら、そこが空になっていた。床が拭かれて、白いタイルの目まで見えていた。後で私はうちの総務に清掃の作業範囲の表を見せてもらった。あの点検口の前は範囲に入っていなかった。つまり、やらなくていい場所だった。やらなくていい場所を、彼は夜のうちに1人で片付けたのだ。私は次に会った時に聞いた。「あそこ、柏木さんですよね」「何の話ですか?」「9階の奥の点検口の前」「あ、あれ、地震の時危ないんですよ。あそこ非常電源の盤なんで」。彼はそう言って、それ以上は何も言わなかった。誰にも報告していなかった。管理会社にも、うちの総務にも、自分の会社にも。その話を私はしばらく誰にもしなかった。なんだか自分だけが知っている宝物みたいだったからだ。
10月の終わりに、私の方から言った。夜勤明けの彼と朝の公園にいた。地面が朝露で濡れていて、彼はどこからか新聞紙を出して、私の座るところだけ敷いた。それを見て、私はもう我慢できなくなった。「柏木さん、私、柏木さんのことが好きです」「え?」「返事は今じゃなくていいです」。彼は本気で慌てていた。作業着のポケットを意味もなく何度も触っていた。「あれ、金ないですよ」「知ってます」「車もないし、休みも平日だし」「知ってます」「いいんですか?」「良くなかったら言いません」。彼はしばらく黙って、それから新聞紙のもう半分を自分で敷いて、私の隣に座った。「俺の方が先に思ってました。言えなかっただけで」「じゃあなんで言わなかったんですか?」「しおりさんに損させると思ったから」。その頃の私は、この人はいつも損得の話をするなと思っていた。そして、いつも自分の側の損も数えない人だとも思った。
付き合い始めてからも、彼は自分のことをほとんど話さなかった。私は何度かそこを探ろうとした。「柏木さん、兄弟はいるんですか?」「いない」「じゃあ、お正月とかどうしてるんですか?」「普通に寝てる」「親戚の集まりとかはないの?」。嘘ではなかった。ただ全部ではなかった。一度だけ、私は彼の携帯が鳴るところを見た。公園のベンチで、彼の上着のポケットが震えて、彼は画面を見てそのまま切った。「出なくていいの?」「仕事の休みの日は出ないことにしてるから」「そうなんだ」。その時の彼の指の動きが少し早すぎた。私は気づいていたのに、気づかないふりをした。好きな人の隠し事を探るのは怖い。探って出てきたものが自分の手に負えなかったらどうしようと思う。だから私はその糸を掴まなかった。
私たちが付き合っていると母に言ったのは、冬の初めだった。その日私は米と洗剤を持って実家へ行った。台所でお茶を飲みながら、できるだけ普通な顔で切り出した。「お母さん、私、付き合ってる人がいるの」。母は湯飲みを置いて私を見た。「そう、良かったじゃない。どういう人?」「37歳で、ビルの清掃の仕事をしてる人」。母の顔からゆっくりと表情が消えた。「清掃って、掃除の?」「うん。コアビルメンテナンスって言う会社の現場の人」「お給料は?」。母がそれを聞いた時、私は少しだけ母を嫌いになりそうだった。「聞いてない」「聞きなさいよ。そういうのは最初に聞くの」「お母さん」「しおり。お母さんはね、意地悪で言ってるんじゃないの」。母は湯飲みを両手で包んだ。「お父さんが死んだ時、うちにいくらあったか、あんた知ってる?」「知らない」「知らなくていいの?知らないままでいてくれてよかった。でもね、お母さんはあの時、あんたを高校に行かせられるかどうか、電卓を叩いて数えたのよ」。母の声は怒っていなかった。それが余計に辛かった。「優しい人はね、いくらでもいるの。優しいだけじゃ、あんたを守れないの」「守ってもらうために結婚するの?」「そうよ。お互いを守るために結婚するの」。その日はそれ以上話にならなかった。
年が開けて、正月に親戚が集まった時にはもっとひどかった。越子おばさんは母から聞いたのだろう。座るなり私に向き合った。「しおりちゃん、清掃の人と付き合ってるんですって」「はい」「本気なの?」「冗談じゃなくて本気です」「あんたね、31でしょ。焦る気持ちは分かるけどね。清掃っていくらもらえるの?生活苦しくなるわよ。大体その人、いくつなの?」「37」「37で現場ってことは、これから上がる見込みもないってことじゃない。優しいだけの男が一番危ないの。しおりちゃん、利用されてるんじゃない?」。「利用されてるんじゃない?」という言葉が一番刺さった。
会社では霞が心配してくれた。心配の形をしていたけれど、中身は同じだった。「しおりさ、それ大丈夫?悪い人じゃないのは分かるよ。でもさ、子供できたらどうするの?うちだって2人で共働きでカツカツだよ。病気したら、家買えないよ。老後は?」。どれも的外れな質問ではなかった。全部私も考えていたことだった。夜、アパートで1人になると、私はノートを開いた。私の手取りが20万円。彼の給料が多分同じくらい。家賃、光熱費、食費、保険。子供が1人できたとして、何歳の時にいくらかかるのか。書けば書くほど数字は厳しかった。数字は嘘をつかない。私はずっとそれを信じてきた。それなのに、その時私はノートを閉じてしまった。
2月の寒い夜に、私はそれを彼に話した。話すつもりはなかった。ただ公園のベンチで缶のおしるこを飲んでいたら、涙が出てきてしまった。私は全部言った。母のこと、おばのこと、霞のこと、それから自分でも同じことを考えてノートに数字を書いて怖くなったこと。柏木さんは黙って聞いていた。それからゆっくり言った。「しおりさんのお母さんもおばさんも、間違ってないと思います」「え?」「本当のことです。俺はしおりさんに豪華な暮らしはさせられないかもしれない」。彼は自分の膝を見ていた。「旅行もそんなに言けないと思う。いい家にも住めないと思う。それはちゃんと言っておかないと、フェアじゃない」。私は何も言えなかった。その後に彼は顔を上げた。「でも1つだけ約束できます。しおりさんを粗末にすることだけは、絶対にしない」。「粗末にしない」という言葉を、私はそれまで人から言われたことがなかった。「大事にする」でも「幸せにする」でもなかった。「粗末にしない」。それは器を扱うみたいな言い方だった。落とさない、欠けさせない。使ったら洗って乾かして棚に戻す。毎日やらないとできないことだった。私はその時決めた。この人となら、裕福でなくても歩いていける。
その翌週、私はもう一度実家へ行った。今度は米も洗剤も持っていかなかった。代わりに2人で撮った写真を1枚持っていった。居間のテーブルにその写真を置いた。「お母さん、私、この人と結婚します」。母は写真を手に取って、長いこと見ていた。「この人、いい顔してるのね」「うん」「でもね、しおり。反対されてもするから」。母はそれきり何も言わなかった。帰り際に、玄関で母がぽつりと言った。「お母さんはね、あんたに苦労をして欲しくないだけなの」「知ってる」「知ってるなら、どうして?」「苦労するかどうかは、お金だけじゃ決まらないと思うから」。母は困ったような顔をして俯いた。その顔を見て、私はやっと母も怖いのだと分かった。反対しているのではなくて、怖いのだ。父が急にいなくなった後、電卓を叩いて数えた夜のことを、母はまだ終わらせられていない。私は靴を履きながら言った。「お母さん、私、あの人の靴を見たの」「靴?」「作業靴と古い革靴の2足だけど、どっちもピカピカに磨いてあった。お父さんと同じだった」。母の顔がその瞬間だけ動いた。何か言いかけて、結局言わなかった。私はそのまま家を出た。
私たちが籍を入れたのは、その翌月の3月だった。出会ってから8ヶ月、付き合い始めてからは5ヶ月しか経っていなかった。母は最後まで賛成しなかった。式はあげなかった。写真だけ駅前の写真館で撮った。夫の側からは誰も来なかった。親戚はいないと彼は言った。私はそれをそのまま信じた。今から思えば、あの時の彼は随分苦しかったと思う。言えば済むのに、言えないことがあった。その日の写真の中で、彼は少しだけ困ったような顔で笑っている。私が綾瀬しおりから柏木しおりになった日、彼は仕事を1日休んで、区役所の帰りに私を回転寿司に連れて行った。その日の彼の一番高い皿は280円だった。私はそれを今でもよく覚えている。
新しい住まいは、彼のアパートでも私のアパートでもなかった。2人で探して、駅から歩いて12分の2階建ての賃貸の1階を借りた。家賃は8万2000円。畳の部屋が1つとフローリングが1つ。ベランダが南向きで、洗濯物がよく乾いた。引っ越しの日、彼は業者を頼まずに会社の同僚に軽トラックを借りてきた。荷物はあっけないほど少なかった。彼の荷物はダンボール6箱と布団と本棚だけだった。その日の夜、まだ何も片付いていない部屋で、私たちは床に座ってカップ麺を食べた。「これからよろしくお願いします」「こちらこそ」「なんで敬語なんですか?」「なんででしょうね」。彼は照れると必ず頭の後ろをかいた。それが私の夫になった人の癖だった。その夜、私はもう1つだけ聞いた。「これから何て呼べばいいですか?柏木さんだと、私も柏木だし」「名前で直さん」「はい」。その返事が少し上ずっていた。その日から、私はこの人を尚弥さんと呼ぶようになった。
結婚してからの暮らしは、想像していた通り質素だった。外食は月に1度あるかないか。服はセールでしか買わない。旅行は行っていない。休みの日は近所を散歩して、スーパーの見切り品を見て回るくらいだ。それでも私は自分が不幸だと思ったことは一度もなかった。夫の現場は夜勤だった。夜の10時に入って朝の5時に上がる。私が寝る前に出て行って、私が起きる前に帰ってくる。私が目を覚まして台所へ行くと、夫はもう風呂から上がっていて、茶箪笥の上に私の分のお茶が置いてあった。魔法瓶に入れて、湯飲みと一緒に置いてある。急須の茶葉は捨ててあって、流しは乾いている。「毎朝やらなくていいよ。私、自分で入れるから」「もう帰ってきちゃってるから。先に寝てていいんだよ」「それもなんかもったいなくて」。そういう言い方をした。私が残業で遅くなった日には、台所に味噌汁が置いてあった。夫は夜の9時半には家を出る。だから私が11時に帰っても12時に帰っても、家には誰もいない。それでも鍋にはいつも味噌汁があって、短いメモが乗っていた。「温めて食べて」。遅くなった理由は聞かれなかった。「大変だったね」とも書いていない。ただその紙が毎回あった。
一度、月末の締めでどうにもならなくなって、私が玄関で泣いてしまったことがある。その日は夫の休みだった。靴も脱がずに玄関の上がり口に座り込んで泣いた。夫は台所から出てきて、私の隣に座った。何も聞かずに、しばらく黙っていた。それから言った。「今日は頑張らなくていい日だ。でも明日も締めが」「明日は明日の日だから。今日はもう終わり」。その時の私は、その言葉に救われたなんて口では言えなかった。ただ涙が止まった。お金はないのかもしれない。それでもこの人といると心が晴れる。私にとってはそれが何より大きかった。
結婚した年の夏に、私は39度の熱を出した。夏風邪だった。木曜の夜に上がり始めて、金曜には起き上がれなくなった。その日、夫は夜勤明けだった。本当なら朝から夕方まで寝ている日だ。彼は寝なかった。その上、次の勤務も代わりを立てて休んだ。私が目を覚ますたびに、氷枕が冷たくなっていた。夜中の2時に1度、4時に1度、6時に1度。私は寝ぼけながらその足音を数えていた。朝になって私が謝ったら、夫は言った。「なんで謝るの?」「寝てないでしょ」「寝たよ。しおりさんが寝てる間に」「嘘」「バレたか」。その時彼が作ってくれたお粥を、私は今でも覚えている。米から炊いた塩だけのお粥だった。梅干しが1つ、箸置きに置いてあった。何の変哲もない味だった。それなのに食べていたら涙が出た。
一度か二度、私が休みを取って夫の休みに合わせた。その日は大抵散歩した。2人でスーパーへ行って、値引きのシールが貼られるのを待って半額の食材を買う。それを持って川辺を歩いて、ベンチで食べる。それが私たちの外食だった。夫は相変わらずよく止まる人だった。私も一緒に拾うようになった。空き缶を拾いながら、私は思った。多分私はこの人と暮らすことで、少しずつ違う人間になっている。それは悪くない変わり方だった。
家計のことは、結婚してすぐに2人で決めた。夫の手取りは22万円だった。そのうち15万円を、彼は毎月そのまま私に渡した。私の手取りが20万円。合わせて35万円の中から、家賃と光熱費と食費と保険と2人分の貯金を賄う。夫の手元に残るのは7万円だ。私はその7万円がどこへ消えているのかを、だんだん気にするようになった。彼は酒を飲まない、タバコも吸わない。趣味らしい趣味もない。それなのに月末になると、財布に1000円札が2枚しか入っていないことがあった。休憩のご飯はおにぎり1つのままだった。靴もあの黒い革靴を履き続けていた。かかとはもうほとんど平で、ある時靴屋で見てもらったら、店の人が微妙な顔をした。その頃、私は彼の7万円の行き先をいくつか知ってしまった。現場の後輩が財布を落として帰りの電車賃がないと言った日。アパートの隣の部屋の子が給食費を持って来られずに学校で泣いたと聞いた日。どれも1000円か2000円か5000円だ。1つ1つは小さい。それが毎月、彼の7万円を削っていた。私は怒らなかった。怒れなかった。それを辞めさせたら、この人はこの人でなくなってしまう。一度だけ、私は聞いたことがある。「尚弥さんって、貯金ないの?」「ないよ」「本当に?」「うん」。嘘だった。今から思えば、あれは彼が私についた一番大きな嘘だった。彼は目を合わせずに、茶箪笥の湯飲みを指で回していた。私はその時、この人はきっと恥ずかしいのだろうと思った。いい年をした男の人が、貯金がないと妻に言うのは確かに辛いだろう。私はそれ以上聞かないことにした。聞かないことが優しさだと、その時の私は思っていた。
それでも夫がご飯も靴もそのままなのは嫌だった。一度、私はこう言ったことがある。「明日からお弁当作るね」「いや、現場は着替える場所と食べる場所が別でさ、片手で食えるものじゃないと歩けないんだ。それにしおりさんが仕事から帰ってきて、そこから30分台所に立つことになるだろう。それは違う」。私は引き下がった。靴も、勝手に買ってきたら多分この人は履かない。だから私はお金という形にするしかなかった。結婚して最初の給料日の夜に、私は封筒を1つ用意した。中には10万円を入れた。私の20万円のうち、家計に入れる分を10万円に減らして、残りをそのまま封筒にした。その分、私は自分の貯金に回す分を止めた。それでも毎月2万円ほど足りなくて、2年目の更新料の時には本気で青くなった。それでもやめようとは思わなかった。夕飯の後に、私は茶箪笥の上にそれを置いた。「これ、尚弥さんの分の生活費。毎月渡すから、ちゃんとご飯食べて、靴も買い換えて」。夫は封筒を見て、それから私を見た。「いや、待って。これ、しおりさんが働いて稼いだ金だろ」「そうだよ」「じゃあ、受け取れない」「なんで?」「なんでって、俺のじゃないから」。私は封筒を彼の方へ押した。「もう夫婦なんだから、私のとか尚弥さんのとかないでしょ」「それはそうだけど」「私ね、直さんに元気でいて欲しいの」「元気だよ」「おにぎり1つで元気なわけないでしょ」。夫は黙った。「尚弥さんが倒れたら、私が困るの。私のためだと思って持ってて」。しばらくして、彼は封筒を両手で取った。そして小さく頭を下げた。「ありがとう」。その「ありがとう」が、なんだか妙に重かった。嬉しそうでも照れ臭そうでもなかった。その時は私は深く考えなかった。この人は人から物をもらうのに慣れていないのだと。それだけだと思った。
それから3ヶ月経っても、夫の靴は変わらなかった。半年経っても、おにぎり1つのままだった。私はさすがに少しむっとした。「靴買った?」「あ、まだ」「なんで?」「今の靴まだ履けるから。かかと、中敷き変えたら結構いけるんだよ」。私はその時、この人はもらった10万円を全部誰かにあげているのだと思った。言い争いにはしなかった。私は毎月の封筒に一言だけ書いてきた。「ちゃんとご飯食べてね」「靴買ってね」。そうしておけば、渡す時に口で言わずに済む。夫はそれを読んで、毎回少し笑った。その笑い方が、どこか泣きそうに見えることがたまにあった。
結婚した年の12月に、母が転んだ。夜の9時過ぎに、実家の隣の奥さんから電話がかかってきた。母が風呂場で動けなくなって、持っていた携帯で呼んだのだという。私は電話を切って、その場にへたり込んだ。夫は夜勤へ出る支度をしているところだった。私が話している間に、夫はもう会社へ休みの連絡を入れていた。そしてコートを着て、私の鞄と財布を持っていた。「行こう。タクシー拾う」。搬送された病院で、母は左の足の付け根を折っていた。大腿骨の頸部というところだ。ここを折ると一番歩けなくなるのだと医師が言った。手術が要ると言われた。「骨の状態も見たいので、まず全身の検査をしてから決めます」と。説明を聞いている間、私はほとんど何も頭に入らなかった。父が運ばれた朝のことばかり思い出していた。病室に入ると、母は点滴の針を刺されたまま天井を見ていた。「ごめんね。滑っちゃって」「なんで1人で風呂なんか」「1人で暮らしてるんだから、1人で入るしかないでしょ」。その言い方がいつもの母で、私は少し泣いてしまった。母は私の後ろに立っている夫に気づいて、目をそらした。「わざわざすみません」「いえ」。それだけだった。
手術の説明を受けた日、夫は寝ずに病院に来た。説明室に入る時、私は先生と向かい合うのが怖かった。書類が何枚もあって、そこには起こりうることが全部書いてあった。感染、血の塊、外れること、回復の遅れ。私は途中から字が読めなくなった。夫が私の隣で静かに聞いていた。分からないところは、その都度短く質問した。「リハビリはいつから始まりますか?」「歩けるようになるまでの目安はどれくらいですか?」「退院してから家で一番危ないのはどこですか?」。どれも私がその時聞けなかったことだった。説明が終わって廊下に出た時、私はやっと息をした。「よくあんなに聞けるね」「うちの現場、年配の人が多いから、転んだ人を何人か見てる。聞いておかないと、後で『あの時聞いておけばよかった』ってなるんだよ」。その言い方に私は少し引っかかった。「後で『あの時聞いておけばよかった』」。この人は誰かのことで、そう思ったことがあるのだと分かった。
手術は4日後に行われた。人工の骨頭を入れる手術で、2時間ほどで終わった。入院と手術と、私が仕事を休んだ分と、退院してからの当面の暮らしの分まで見て、私のお守りだった貯金は240万円まで減った。会社で何度も他人の分を書いてきた書類を、私は初めて自分の家族のために書いた。母には言わなかった。言えば母は退院を早めようとするに決まっていた。問題はその後だった。寝ている時間が長いと、人は本当に立てなくなる。だから翌日からリハビリが始まる。母はそれを嫌がった。痛いからだ。私は仕事を休めない日が続いた。月末の締めと末の支払いが重なる時期だった。その間、病院に通っていたのは夫だった。夜勤明けの午前中に、彼はほとんど毎日行った。最初、母はそれを露骨に迷惑がった。「しおりに言われてきてるんでしょう。いいから帰って。仕事あるんでしょう」「はい。夜からです」「じゃあ寝なさいよ」「寝てから来てます」。嘘だった。夜勤明けにそのまま来て、帰ってから寝て、また夜に出ていた。昼に持ち帰ってきていたシフトの紙を、私は後で見て知った。彼は病室で何をするわけでもなかった。母がリハビリに行く時に、廊下の端まで一緒に歩く。戻ってきたら水を変える。母がテレビを見ている時は、窓の桟のほこりを指で拭いていた。後で知ったことだけれど、夫は病室でほとんど喋っていなかったらしい。椅子に座って、母がテレビを見ているのを黙って見ている。リモコンを落とすと拾って、水差しが空になると変えて、また座る。1時間くらいいて、「じゃあ」と言って帰る。同じ部屋の人が私にこう言った。「あれはね、奥さん、見張ってるんじゃなくて、そばにいるだけの人ですよ」。
2週間ほど経った頃、母から私に電話がかかってきた。「しおり、あの人、毎日来てるの知ってる?」「知ってるよ」「あんたが行かせてるの?」「行かせてない。私、頼んでない」。電話の向こうで母が黙った。「今日ね、私がリハビリで泣いちゃったのよ。痛くて、情けなくてね」「うん」「そしたらあの人ね、私の靴を揃えてたの」「靴?」「ベッドの下の私の上履き。私が泣いてる間、こっちを見ないで、靴の向きだけ直してたの」。母の声がそこで少し崩れた。「あの人ね、こう言ったの。『お母さん、リハビリの後は足が上がりませんから、履きやすい方がいいです』って。私のこと、お母さんって呼んだのよ。しおりのお母さんじゃなくて、義理の母という意味のお母さんだった」。母がその呼ばれ方をしたのは、それが初めてだった。私は受話器を持ったまま返事ができなかった。「しおり、お母さん、あの人のこと、掃除の人としか見てなかった。ごめんね。ごめんなさい」。母が人を見誤ったと謝るのを、私は初めて聞いた。
その後、母は少しずつ変わった。リハビリの日に、何メートル歩けたかを私に報告するようになった。「今日は手すりなしで4メートル」「すごいじゃない」「あの人に言っといて。お数えててくれたから」。母が電話で「あの人」と言う時の声が、少しずつ変わっていった。その頃の母のバツの悪そうな声を、私は今でも思い出して笑ってしまう。母が退院したのは、年が明けた1月の半ばだった。その退院の前の日曜に、夫は朝から実家へ行った。私も一緒に行った。彼は工具箱と大きな紙袋を2つ持っていた。中身は、廊下とトイレにつける手すりと、風呂場の壁に強力な接着剤で止めるものだった。それと風呂用の椅子と、床に敷く滑り止めのマット。母の年ではまだ介護保険が使えなかった。だから工事は頼めず、店で買えるもので済ませた。家に上がってすぐ、夫は仏壇の前に座って線香をあげた。父の遺影に手を合わせている背中を、私は台所から見ていた。それから彼は、病院で教わった高さに合わせて、1日かけて手すりを全部つけた。壁の下地を叩いて音を確かめて、「ここは入る。ここは入らない」と言いながら位置を決めていった。廊下の電球も明るいものに変えた。玄関の段差にはゴムのスロープを貼った。私が金額を聞いても、夫は答えなかった。後でレシートを見つけた。3万8000円だった。多分、彼が私から受け取っていた10万円ではなく、彼の7万円の方から出たお金だった。
その日、夫が作業をしている間、私は母と居た。母は椅子に座って窓の外を見ていた。「しおり、お母さんね、ずっと考えてたの」「何を?」「あんたがなんであの人を選んだのか。病院にいる間、ずっと見てたの。あの人、私に何もしてくれないのよ。『大丈夫ですか』とも言わない。『頑張ってください』とも言わない。ただコップの水を変えて、靴の向きを直して、帰るの」。母はそこで少し笑った。「でもね、あれが一番楽だった。『大丈夫ですか』って聞かれるとね、『大丈夫です』って答えなきゃいけないのよ。答えるのがしんどいの。あの人はね、答えなくていいことしかしないの」。廊下の向こうで電動ドライバーの音がしていた。「お父さんもね、そういう人だった。私が泣いてても、何も聞かないで、黙って洗い物してるような人だったの」。私は何も言えなかった。「ごめんね、しおり。お母さん、あんたの目を信じてなかった」。
翌日、母が帰ってきて手すりを見た。母は玄関に立ったまましばらく動かなかった。それから風呂場まで杖をついて歩いていって、壁の手すりを握った。「尚弥さん」。母が彼を名前で呼んだのは、その時が初めてだった。「ありがとうね」「いえ。ネジが少し目立つので、後で白いカバーつけます」「そんなのいいのよ。そんなのはどうでもいいの?」。母は手すりを握ったまま泣いた。夫は困った顔をして、いつもの癖が出ていた。その日の帰り道、私は夫と並んで駅まで歩いた。「ありがとう」「何が?」「全部」「俺、何もしてないよ」「してるよ」「あれくらいのことは誰でもやるよ」「誰でもやらない」。私はそう言ってやめた。この人にとっては、本当に誰でもやることなのだ。それを私は結婚してからずっと見てきた。1月の夕方の風は冷たくて、私は夫の腕に自分の腕を絡めた。夫の作業ジャンパーは洗剤の匂いがした。私はその時、心の底から思った。この人と結婚してよかった。このまま2人で静かに年を取っていけばいい。それでいい。
けれど、話はここで終わらなかった。結婚して2年半が過ぎた秋に、港第1ビルの持ち主が変わった。私は経理だから、その手の話は早く耳に入る。テナント各社に「来月から管理会社が変わります」という通知が回ってきた。新しい管理会社は「申請辞書」という名前だった。うちの総務は、家賃が上がらなければどうでもいいという顔をしていた。私もその時はそう思っていた。変化はすぐに出た。まず共用部の照明が半分になった。エレベーターホールの観葉植物が撤去された。トイレのペーパーの銘柄が変わって、薄くなった。そして年が明けた1月に、夫が朝に帰ってくる時間がだんだん遅くなった。夫の現場は夜の10時から朝の5時までだ。それが朝の7時になり、8時になった。本社の人間が朝に来るからだと、後で知った。「どうしたの?」「最近、打ち合わせが増えてて」「打ち合わせ?」「尚弥さんが現場の代表で出ろって言われて」。夫は嘘をつくのが下手な人だった。その頃から、毎月25日の夜に私が封筒を渡すと、彼は前より深く頭を下げるようになった。最初の頃は「ありがとう」と言って受け取った。それが「すみません」になった。「なんで謝るの?」「あ、ごめん。癖で」「私、責めてないよ」「うん。分かってる」。そう言って彼は封筒を鞄にしまった。その顔がどうしても引っかかった。嬉しそうではなかった。かと言って嫌そうでもない。というか、後ろめたそうだった。私は一度だけ思い切って聞いたことがある。「あのお金、ちゃんと使ってる?」「使ってるよ」「何に?」「色々」。「色々」と彼は言った。それきり私は聞かなかった。聞いてはいけない気がしたのだ。夫はきっと、あのお金も誰かに渡しているのだろう。私はそう思っていた。困っている人を見ると放っておけない人だから、きっとそうなのだ。だとしたら、攻めるのは筋違いだ。私は自分にそう言い聞かせた。その時の私は、それで全部の説明がつくと思っていた。
2月の初めの夜に、私は本当のことを知った。夫が出ていった後、私は夫の作業ジャンパーを洗濯しようと思って、ポケットを探った。出てきたのは、四つ折りにした紙が1枚だった。表題に「清掃業務の内容変更のご提案」と書いてあった。申請辞書からコアビルメンテナンスへの書面だった。内容は単純だった。港第1ビルの清掃について、次の契約の更新から作業時間と人員を見直したい。現在の日常清掃7名を4名とし、経費を2割下げたい。7名を4名に、3人減らせということだ。私はその紙を持ったまま、朝まで眠れなかった。夫が帰ってきたのは、その朝も7時過ぎだった。私は紙を茶箪笥に置いた。「ポケットに入ってた。ごめん。読んだ」。夫は靴下のまま立ち尽くして、それからゆっくり座った。「そうか」「どうなるの、これ?」「まだ決まってない。会社が受けるかどうかの話し合いをしてる」「受けたら、3人はどうなるの?」「別の現場に移ってもらうことになる」「移れるの?」「移れる人と、移れない人がいる」。夫はそこで言葉を切った。私は待った。「うちの現場、7人のうち3人が、あそこじゃないと働けない人なんだ」。それから彼はその3人の話をした。戸田滝さん、72歳、夜勤の清掃。あの現場は家から自転車で8分だから、夜中でも自分で帰れる。浅谷佳さん、33歳、小学5年生の息子がいる。夜勤に入れるのは、子供が寝てから出て、朝に帰れるからだ。大久保強さん、58歳、前の会社を辞めてから2年、この現場だけでやってきた。別の現場って、都心の反対側とか、朝5時入りとかだ。「移ってくれって言えば、『はい』っていう人たちだよ。文句なんか言わない。言わないから、やめるんだ」。夫はそう言って、握った手の甲を見ていた。その手が白くなっていた。「尚弥さんが打ち合わせに出てるのは、それを止めるため?」「止められてない。でも申請辞書はビルをいくつも持ってる。ここを断ったら、他もまとめて持ってかれるんだ」。
その週、私は現場責任者の前田さんという人と初めて話をした。うちのフロアの給湯室でたまたま一緒になったのだ。「柏木の妻です」と名乗ると、前田さんはひどく恐縮した。「柏木さんには頭が上がらないんですよ」「そうなんですか」「私、責任者なんですけどね。数字のことは全部本社から降りてくるんです。受けると言われたら、受けるしかない。断ったら、この現場ごとよそに取られますから」。前田さんは湯飲みを両手で持って俯いた。「柏木さんはね、ずっと本社と話してくれてるんです。私が言っても通らない話を、なぜかあの人が言うと少しだけ通る。不思議なんですよ。ただの作業員なのに」。前田さんはその後で、少しだけ自分の話をした。高校生の娘さんが2人いて、上の子が来年受験なのだという。「私はね、この現場を守れなかったら、責任者失格なんですよ。でも3人減らせと言われて『はい』というのも、責任者失格でしょう。どっちにしても失格なんです。それが一番きつい」。前田さんは湯飲みの底を見ていた。「柏木さんはね、この前の打ち合わせで、本社の事務に行ったんですよ。『その3人の名前を、事務は言えますか』って。事務は言えませんでした。そしたら事務が『名前なんか関係ないだろう』って言って、柏木さんが『関係あります』って」。前田さんはそこで少し笑った。「あの人、あんな顔をするんだなと思いました」。その言葉を私は家に帰ってからも考えていた。ただの作業員なのに、役員と話ができる人。本社の事務に「その3人の名前を言えますか」と聞ける人。妻が合わないのに、私はまた糸を掴まなかった。掴みたくなかったのだと思う。夫が何かを隠していると認めるのが怖かったのだ。
その夜、夫は味噌汁を作らなかった。私が作った。彼はそれを黙って全部飲んだ。出かける支度をしながら、彼が小さい声で言った。「しおりさん」「うん」「俺、ずるいことしてる」「何が?」「いや、なんでもない。行ってくる」。私はその背中に手を置いた。彼は何も言わなかった。その週から、夫は夜勤から帰ってきてもすぐには眠らなくなった。台所で水を飲んで、そのまま茶箪笥の前に長いこと座っている。私が気づいていることに、彼は気づいていなかったと思う。ある朝、私は休みで布団の中で寝返りを打ったまま、台所の様子を伺った。夫は電気をつけずに茶箪笥の前に座っていた。カーテンの隙間から入る朝の光で、手元だけがぼんやり見えた。彼が広げていたのはコピー用紙だった。何枚もある。そこに鉛筆で何かを書き込んでいた。数字だった。何度も消して、また書いていた。それを1時間近くやって、彼は紙をまとめて鞄にしまって、それから布団に入った。
一度、夫が玄関先で電話をしているのを聞いたことがある。相手は本社の人らしかった。「事務、数字は落とします。人は落としません。はい、分かっています。それでも順番が逆です。先に人を減らしてから物を減らすんじゃなくて、先に物から減らすんです」。そこで電話は切れたようだった。夫は玄関でしばらく立っていた。戻ってきた時には、いつもの顔に戻っていた。私はその時、それが人員削減の書類だと思っていた。違った。あれは人を減らさずにコストを下げるための計算だった。彼は1ヶ月半、毎朝それをやっていた。
2月の終わりに、私の会社でも似た話が持ち上がった。申請辞書から、掃除や電気の分として払う共益費を上げたいという通知が来たのだ。うちの総務課長が経理に来て、「うちも移転を考えるかもしれない」と言った。私は自分の席でその通知を読んだ。数字の話だった。1平方メートルあたりいくらという話だ。そこには人の顔が1つも出てこなかった。私はふと思った。私が毎日作っている資料にも、人の顔は出てこない。経費の削減と私が書いた1行の裏に、誰かの夜勤があるのかもしれない。そんなことを、私は経理をやってきて初めて考えた。
その週の土曜に、私は港第1ビルへ行った。仕事ではない。夫が土曜も現場に出ていると聞いて、忘れていった防寒着を届けるという口実を作った。本当は、結婚してから一度も夫の仕事仲間に会いに行ったことがないと気づいたからだ。3年一緒に暮らしていて、私が知っているのは夫が話した名前だけだった。地下1階の裏手に、清掃員の控え室があった。と言っても部屋ではない。廊下の突き当たりのへこんだところに、パイプ椅子が5脚と折りたたみのテーブルが1つ置いてあるだけだ。7人いる現場なのに、ロッカーは5つしかなくて、後の人は紙袋を床に置いていた。天井の蛍光灯が1本切れていて、そこだけ暗かった。私が立っていると、白髪の小柄な女の人が、絞りのついたカートを押して戻ってきた。「あら、どちら様?」「あの、柏木の妻です」「え、柏木さんの?」。その人は目を丸くして、それからすごい勢いで笑った。「あんた、柏木の奥さんかい?まあまあまあ。滝です。戸田滝。ここの夜勤やってます」。滝さんは私をパイプ椅子に座らせて、水筒からお茶を注いでくれた。紙コップは自前だった。「柏木さんはね、今14階。土曜は人が少ないから、まとめて拭いてくれてんの」「土曜は昼なんですか?」「土曜だけはね。入る人は昼のシフトなの。テナントさんが休みだから、普段できないところをまとめてやれるのよ。柏木さんは自分から多めに入ってるけどね」。私はそれを知らなかった。滝さんは椅子に座る時、右手で膝を抑えた。「膝、悪いんですか?」「ああ、これ、年寄りはみんなそうよ。でもね、私、ここ好きなの。夜中に自転車で帰っても、ちっとも怖くないの」。滝さんは大学2年の孫がいるという。息子さん夫婦が亡くなった後、滝さんが育てた。「あの子が卒業するまでは働くって決めてんの。あと2年。柏木さんにはね、私、階段のことを教わったの。年寄りは階段の拭き方で腰をやるからって。手すり持ってこう拭けって。そんなこと教えてくれる人いないよ」。
そこへ若い女の人が入ってきた。髪をひっつめて、化粧がなくて、目の下にクマがあった。「さやかちゃん、柏木さんの奥さんだって」「え、すみません。私、こんな格好で」「いえ、こちらこそ急に」。さやかさんは私に何度も頭を下げた。さやかさんは夜10時から朝5時まで働いている。息子さんが寝てから出て、起きる前に帰るのだという。「母子家庭なので、昼間の仕事だと子供が学校から帰った時、誰もいなくて。柏木さんにはお世話になってて。去年、うちの子が熱を出した時、私、代わりがいなくて休めなくて。そしたら柏木さんが前田さんに掛け合ってくれて、うちの子が治るまで3日、私の受け持ちの階まで1人で回ってくれたんです」。さやかさんはそこで言葉を詰まらせた。「あの人、その間、昼もほとんど寝てなかったと思います」。私は俯いた。後で思い返せば、さやかさんの代わりに入っていたその間も、夫は出かける前に私の分の味噌汁を作っていた。何も言わずに。さやかさんの息子さんは、ゆうと君という小学5年生だ。「この前、学校の作文で、お母さんの仕事のことを書いたんです。読んでいいって言われて、読んだら、こう書いてあって。『僕のお母さんは、ビルを綺麗にする仕事をしています。夜だから、僕が寝ている間に、みんなの会社を綺麗にしています。僕はそれをかっこいいと思います』。私、そんな風に思ってなかったんですよ。恥ずかしい仕事だと思ってた」。
そこへ背の高い男の人が入ってきた。50代の後半くらいの、背筋の真っすぐな人だった。「おい、そこ、何油売って?」「あ、失礼しました」「大久保さん、柏木さんの奥さんよ」「あ、これはどうも。大久保です」。大久保強さんは私に名刺を出しかけて、途中でやめた。「すいません。癖でもう。名刺なんかないのに」。大久保さんは前の会社で28年、営業をやっていた。会社がなくなって、56歳で仕事を探したけれど、どこにも入れなかった。「最初はね、こんな仕事と思ってたんですよ。正直に言いますけどね。トイレ掃除なんて、俺のやる仕事じゃないと思ってた。そしたら柏木さんが、便器の縁の裏側の話を始めるんですよ。そこは絶対誰も見ない。見ないけど、そこが匂いの元だと。それを毎日やってる人がいるから、みんな平気な顔でビルに入ってこられるんだって。28年、俺は物を売ってた。売れた日は褒められた。売れない日は責められた。今の仕事はね、誰にも褒められないけど、誰にも責められないんですよ、俺。この年になって初めて、ぐっすり寝られるようになりました」。
その時、廊下の向こうからスーツの男の人が2人歩いてきた。1人は50歳くらいの、髪をきちんと分けた人だった。もう1人は若い。控え室の前で、髪を分けた年上の方が立ち止まった。そして、ちょうどエレベーターから出てきた作業着の夫を見つけて、深く頭を下げた。「柏木さん、お時間よろしいですか?」。その頭の下げ方が、私はずっと忘れられなかった。部下が調子に下げる下げ方ではなかった。もっと丁寧で、もっと硬い、何かを預けている人の下げ方だった。夫は一瞬私の方を見た。それからその人たちを連れて、階段の方へ行った。「あれ、コアの本社の杉浦さんだよ。本社の部長が、現場によく来るのよ。柏木さんに用があるみたいでね。おかしな話なんですよ。柏木さんって、うちの現場のただの作業員でしょ。なのに本社の人がやたら来る。柏木なんて苗字、うちの会社に何人もいますからね。誰も気にしないんですよ」。
帰り際に、私は14階まで上がってみた。夫はそこにいた。私に気づかずに、非常階段の手すりを拭いていた。上面からではなく、手すりの裏側から先に拭いていた。後で聞いたら、上を先にやると、裏のほこりを上に引きずってしまうのだそうだ。1段ずつかがんで拭いて、また1段。14階から下まで、彼はそれを1人でやっていた。土曜だから、そのビルには人がほとんどいない。誰も見ていない。それでも彼は同じ速さで拭き続けていた。私はその姿を階段の踊り場からしばらく見ていた。あの夜、私が座り込んで泣いていたのも、このビルの非常階段だった。あの時、彼は私が座っていた段だけを後回しにした。私が帰ってから、戻ってきて拭いたはずだ。そういう人なのだと、その時初めて分かった。控え室に戻って、私が帰ろうとすると、滝さんが廊下まで送ってくれた。そして少し声を落としていった。「奥さん、ちょっとだけいい?」「はい」「柏木さんね、うちらのこと、なんとかしようとしてるの。私らはね、もうこの年だから、どうにでもなるのよ。さやかちゃんと大久保さんが残ればいいの。でもね、柏木さんはそう思ってないの。3人とも残したいの。あの人ね、無理してるよ」。私は返す言葉がなかった。「奥さん、あの人、家でご飯食べてる?」「食べてます」「そう。ならいい」。滝さんはそれだけ言って、また控え室へ戻っていった。私はその日、夫に渡せなかった防寒着を滝さんに預けて帰った。帰りの電車で、私はずっと考えていた。考えて、答えが出なくて、やめた。
その週の日曜に、霞から連絡が来た。久しぶりにランチをしようという誘いだった。断ればよかったと、後で思った。「しおり、まだあの清掃員の旦那さんと暮らしてるの?」「暮らしてるよ。夫だもん」「毎月10万円渡してるって前に言ってたじゃん。まだやってんの?」「やってる」「それ、完全に見ついでるじゃん。だめだよ、そういうの。悪いこと言わないから、貯金だけは別にしときな」。その次の週には、越子おばさんから電話が来た。母の様子を聞くという名目だったけれど、話は5分で私の生活のことになった。「しおりちゃん、正直に言うけどね、あんた、人生失敗したね。旦那に食いつぶされるわよ。今のうちよ」。私は傷ついた。傷ついたし、少し不安にもなった。不安になった自分が一番嫌だった。その夜、私は布団の中でこの3年のことを1つずつ思い出した。雨の日に傘を渡して走っていった背中。病院の廊下で子供の目の高さまでしゃがんだ横顔。母の上履きの向きを直していた手。私が熱を出した時、氷枕を変えるために夜中に3回起きた足音。9階の奥の、誰の担当でもない場所。私はこの人の人柄を選んだ。それだけは間違っていない。そう自分に言い聞かせながら、心のどこかで別の声もした。それでもこの先20年、30年と、この暮らしが続くのだろうか。夫が体を壊したら、私が働けなくなったら。霞の言うことも、おばの言うことも、全部その一定もついてきた。私はその晩、久しぶりに家計のノートを開いた。そしてまた閉じた。数字は嘘をつかない。けれど数字は、この3年で私が受け取ったものを一行も書けない。毎朝の魔法瓶のお茶、夜中の氷枕、母の上履きの向き。そういうものを載せる欄が、私のノートにはなかった。だから私はノートを閉じたのだ。
3月の終わりが、私たちの結婚記念日だった。3年目のその日は平日で、夫は前の晩から休みを取っていた。そして珍しく朝から落ち着かなかった。掃除をして、洗濯を2回して、買い物でいつもは絶対に買わない刺身を買ってきたらしい。夜、私が仕事から帰ると、茶箪笥の上にそれが並んでいた。刺身と鶏の煮物と菜の花のおひたし。全部彼が用意したものだ。「どうしたの、これ?」「結婚記念日だから」「覚えててくれたんだ」「覚えてるよ」。私たちは向かい合って食べた。夫はほとんど箸を動かさなかった。食べ終わって、私がお茶を入れて戻ってくると、夫は正座をしていた。私は思わず吹き出してしまった。「何その座り方?」「しおりさん、大事な話がある」。その時の彼の顔で、私の笑いは止まった。心臓が嫌な音を立てた。離婚の話だろうか。借金だろうか。仕事を失ったのだろうか。私は箸を置いて、彼の前に座った。彼は紙袋から何かを取り出した。通帳だった。まだ新しい、薄い青の通帳だ。彼はそれを両手で私の方へ差し出した。「このお金、1円も使えなかった」。私は意味が分からなかった。「何の話?」「開けてみて」。私は通帳を受け取った。表紙をめくると、口座名義に「柏木尚弥」と印字されていた。開設した日は3年前の4月26日になっている。私が最初の封筒を渡した日の、次の日だった。この人は、私が渡すお金を入れるためだけに、わざわざ口座を1つ作ったのだ。そしてページの中身を見た。私はその場で息が止まった。日付が並んでいた。3年前の4月26日から始まって、5月26日、6月26日と、1ヶ月ずつ。金額の欄は全部同じだった。10万円。その下も、その下も、10万円。それがずっと続いていた。私が毎月渡してきた10万円だった。そして出金の欄が空だった。1件もなかった。表紙をめくってもめくっても、そこには何もされていない。残高の欄は、最後の行で360万円になっていた。一度も引き出されていなかった。「尚弥さん、これ」「うん」「使ってないの?」「使えなかった」「どうして?」。夫は俯いたまま言った。「しおりさんが俺を信じて渡してくれた金だったから。生活費として使うには、あまりにも大事すぎた」。私は言葉が出なかった。毎月毎月、私は封筒を渡してきた。「ちゃんと食べて」と言って、「靴を買い換えて」と言って渡してきた。彼はその全部を、1円も使わずにここに入れていた。休憩のご飯はおにぎり1つのまま、靴は3年前と同じまま。
その時、彼は紙袋からもう1つ、輪ゴムで束ねたものを出した。封筒だった。茶色い給料袋みたいな、どこの家にもある封筒。それが分厚く束ねられていた。私が使っていた封筒だった。「これも全部取ってある」。私は震える手で輪ゴムを外した。1枚目の裏に、私の字があった。「ちゃんとご飯食べてね」。2枚目、「靴買ってね」。3枚目、「今月お疲れ様」。私はそんなことを書いたのを、すっかり忘れていた。書いたそばから忘れていた。彼は全部取っていた。1枚も捨てていなかった。私は封筒を数えた。数えなくても分かるのに、数えずにいられなかった。36枚あった。3年分だった。涙が落ちて、封筒の紙に小さなしわを作った。私が泣き止むのを待って、夫は紙袋からもう1冊、通帳を出した。今度は古いものだった。表紙がすり切れていて、角が丸くなっている。「もう1つ話がある」。私はそれを開いた。右の数字の列だ。数字が長かった。私は最初、桁を読み違えたのだと思った。この位置を指でなぞった。1、10、100、1000、1万、10万、100万、1000万、1億、10億。12億円あった。「え、待って。尚弥さん、これ」「うん」「12億って書いてあるんだけど」「うん」。私は通帳を落としそうになった。頭が真っ白になって、変な笑いが出た。「何これ?尚弥さん、何かに巻き込まれてない?」「巻き込まれてない」「じゃあ、何?」「俺の金だ」。夫は正座のまま、私に向かって深く頭を下げた。額が畳につくくらい深く。「黙っていてごめん」。
それから夫は全部話した。夫の祖父、柏木という人が60年前に小さな清掃の会社を作った。従業員3人のビル掃除屋だった。それが今、全国でビルの清掃と管理をやっているコアグループになっている。働いている人は8000人を超えるのだという。夫の父、柏木安男はその2代目だった。そして夫はその創業家の3代目だ。10年前に夫の父親が急に亡くなって、夫はその会社の株の7割を相続した。その後のことを、夫はゆっくり順番に話した。「相続税は原則現金で10ヶ月以内に収めるんだ。でもうちの株は上場してないから、売って現金にできない。だから親父が個人で持って会社に貸してた土地を売った。都心の一等地で、まとめてしか売れない土地だった。株の一部も会社に買い取ってもらった。それで今は6割だ。税金を払っても、大きく余った。それがこの金だ。10年、1円も引き出してない。銀行の人にも、税理士にも、杉浦さんにも、『負けろ』とか『運用しろ』とか、何度も言われた。断ってきた。なんで触りたくなかった」。夫は自分の手を見ていた。「これ、親父の金だから。じいちゃんの代から、うちの現場の人たちが60年かけて作った会社の金だから。俺が何かして稼いだ金じゃない。相続しただけの金だ。だから俺は、これで飯を食っちゃいけないと思ってた」。「使い道は考えなかったの?」「考えたよ。何度も現場のみんなに配ろうかとも思った。でも、俺が1人で決めて配ったら、それはただの施しになる。配られた方は断れないだろう。だから決められなかったんだ。1人じゃ決められなかった」。「じゃあ、今のあの3人は、あの3人の給料なら、そのお金で出せるんじゃないの?」「出せる。1年でも5年でも出せる。でも、俺が出したら、来年も再来年も俺が出すことになる。俺が死んだら、あの3人は切られる。金で守ったものは、金がなくなったら消えるんだ」。夫はそこで、少しだけ子供の頃の話をした。夫が小学生の時、父親は帰りが遅かった。顔を合わせるのは月に1度あるかないかだった。その代わり、祖父の柏木さんによく連れて回されたという。祖父は現場が好きな人で、孫を助手席に乗せて、あちこちのビルを回った。「じいちゃんがいつも同じことを言うんだ。『人が見る場所は誰でも磨く。人が見ない場所を磨くのがうちの仕事だ』って。コアって社名も、それが由来なんだよ。光らせる、磨く」。私はその時初めて、彼が子供の頃の話をするのを聞いた。3年一緒に暮らして、初めてだった。
会社の社長は、夫の父の代からいる人が務めている。夫は名前だけの役員だ。もらっているのは現場に出た分の給料だけで、それ以外は受け取っていない。配当も役員報酬も出していない。全部会社に残してあるのだという。ただし株の半分は夫が持っている。だから実際には、会社のことを最後に決めるのは夫だった。杉浦部長が現場に来ていたのは、その指示をもらうためだった。私はそこまで聞いて、やっと1つのことを聞けた。「なんで清掃員をやってるの?」。夫は少し黙ってから答えた。「大学出た時に、親父に言われたんだ。『現場をやってから本社に来い』って。それで現場に入った。3年経った時、俺は行かなかった」「どうして?」「その話は、もう少し後でいいかな」。私は畳の一点を見たまま、頭の中で1つずつ、この3年をつなぎ直していた。私が更新料でヒーヒー言っていた時、夫が「そうか」とだけ言ったこと。私が半額の食材を選んでいる間、夫が横で黙って買い物かごを持っていたこと。私が「この人は貯金がないのだ」と思ったこと。全部違っていた。違っていたのに、この人は一度も私の家計のやり方に口を出さなかった。「尚弥さん」「うん」「うちの家賃、8万2000円だよね」「うん」「私、2年目に更新料でヒーヒー言ってたよね」「言ってた」「12億あったのに」「あった」「尚弥さん、付き合ってた時、言ったよね。『いい家にも住めないと思う。それをちゃんと言っておかないとフェアじゃない』って。あれが一番フェアじゃなかったよ」「うん」「お母さんの手術の時も」「うん」「あの時、私、毎晩貯金の残高を見てたよ」。夫はしばらく畳を見ていた。それから顔を上げずに言った。「金のことは謝らない。俺の金の話だから。でも、お母さんの手術の時だけは、俺が間違えた。ごめん」「なんで溜めてたの?」「使ったら、この暮らしじゃなくなるから」。夫はそう言って、少し笑った。「しおりさんが半額の食材を買って、川で食べようっていうのが、俺は好きだったんだ。あれ、金があったら、思いつかないだろう」。私はそれを聞いて、泣きそうになってこらえた。
そして夫は、なぜ私に黙っていたのかを話した。20代の終わりに、結婚も考えた人がいたという。その人は夫の家のことを知った日から変わった。話す内容が、家のことと会社のことと、将来もらえるものの話ばかりになった。夫が現場を続けると言ったら、その人は本気で怒ったそうだ。もう1つ、大学の親友だった男が、夫の家を知って金を借りに来た。断ったら「金持ちのくせに」と言われて、それきり連絡が途えた。そして10年前の父の葬式で集まった親族が話していたのは、株のことだけだった。「俺はしおりさんを試してたんじゃない。ただ怖かったんだ。本当のことを言ったら、今の暮らしが壊れる気がして」。会社や税理士からの郵便も、株主総会の通知も、全部本社の総務部に宛ててもらっていたのだと、後で知った。3年の間、あの家に届いた夫の郵便は、水道局と年金の案内と選挙の葉書くらいだった。私はしばらく何も言えなかった。頭の中で色々な感情が順番を争っていた。驚き、混乱、それからうっすらとした光。3年だ。3年もの間、この人は私に嘘をついていた。そう思った瞬間に、別の思いがそれを追い越した。3年もの間、この人は1人でこれを抱えていた。毎朝私のお茶を入れながら、毎晩私の分の味噌汁を置いていきながら、私が渡した封筒を「すみません」と言って受け取りながら、ずっと1人で。気がついたら、私は泣いていた。夫が慌てた。「ごめん。怒っていいよ。俺が全部悪い」「怒ってない」「いや、怒っていいって」「怒ってないの?」。私は自分でも驚くくらい大きな声を出した。「お金持ちだったことなんて、どうでもいいの。そんな大事なことを、尚弥さんが3年間ずっと1人で抱えてたのが、悲しいの」。夫は何も言わなかった。ただ畳を見ていた。「ごめん」。私は青い通帳を握りしめた。表紙が手の中でぐにゃりと曲がった。でも分かった。私が渡したお金を直さんが1円も使わなかった理由は分かった。「これ、尚弥さんにとっては、お金じゃなかったんだね」。夫の方がそこで初めて動いた。顔を上げた彼の目が赤かった。「うん。俺にはさ」。そこで声が途切れた。夫は何度か息を吸って、それから言った。「俺には、これがあの家に生まれてから初めて、肩書きじゃなくて、俺自身に向けられた優しさだったんだ。柏木の家の人間じゃなくて、株を持ってる人間でもなくて、おにぎり1つで済ませてる痩せた清掃員の男に、『ちゃんと食べて』って言ってくれた人がいたんだ」。彼は手の甲で目を拭った。その手は、あのひび割れたままの手だった。「使えるわけないだろう、もん」。私はその時、この人が3年間、毎月25日にどんな気持ちで頭を下げていたのかが、やっと分かった。「すみません」ではなかった。「ありがとう」でもなかった。あれは「預かります」だったのだ。私は封筒の束をもう一度手に取った。1枚ずつ順番に見ていった。最初の封筒の字は少し硬かった。真面目な字だ。それが10枚目くらいから崩れてくる。急いで書いたのが分かる。まだ字が硬かった頃の1枚に、私が書いた覚えのない一言があった。「お粥、美味しかったです」。私が熱を出した夏の、翌月の封筒だった。その1枚だけ、封筒の角が丸くなっていた。書いた本人は忘れて、受け取った人が3年取っておく。そういうことが、この世にはあるのだ。
私はその後、寝室の引き出しの奥から小さな箱を出してきた。「私にも、1つ使えなかったものがあるの」。中身は、私の父の腕時計だった。灰色の文字盤で、ガラスに小さな傷があって、針はもう何年も動いていない。「父がバスの運転手だったことは、結婚の時に話したよね」「聞いた」「でも、この時計のことだけは、一度も見せてなかった。父はね、毎朝、誰にも見えない制服の靴を磨いてから出ていく人だった。『お客さんは運転手の顔なんか覚えちゃいない。それでいい。無事に降りてくれればそれでいい』って」。夫は時計を両手で受け取って、長いこと見ていた。「いい人だな」「うん」「これ、電池が切れてるだけだと思う」「知ってる」「知ってて、置いてあるの」。その夜、私たちは眠らなかった。夜中の2時に、夫が押入れから小さな段ボール箱を出してきた。中に入っていたのは、黒い手帳だった。表紙が硬くなって、ゴムのバンドが伸び切っている。「親父のだ。死んだ後、会社の机の引き出しから出てきた」。手帳の中で、親父が「じいさん」と書いているのは、夫の祖父のことだ。夫はそれを開いて、後ろの方のページを私に見せた。細かい字がびっしり並んでいた。数字と現場の名前と日付。その1つを夫が指した。「3月14日、北浦の現場、9人を6人にした。決裁の決断をしたのは俺だ。やめた3人のうち2人は、他に行くところのない人だった。爺さんが生きていたら、俺を殴っただろう」。そこでその日の記録は終わっていた。「俺が現場に残った理由が、これ」。夫は静かに言った。「本社に来いと言われた。その3年目に、親父は北浦の現場を切ったんだ。俺はその現場にいた。現場を外れた人のロッカーを、俺が片付けた。その時決めた。俺は本社に行かない」。それから夫は最後のページを開いた。夫の父が亡くなる2週間前の日付だった。「尚弥は本社に来ない。来なくていい。あれは俺が捨てたものを拾って歩いている。じいさんの言った通りだ。現場を見ない社長は、一番先に人を切る」。私はその字を何度も読んだ。「親父とは6年、口を聞かなかった。これを読んだのは、葬式の1週間後だ。『遅いんだよ』って思った」。夫はそう言って、笑おうとして失敗した。「今度、うちの会社が7人を4人にしようとしてる。同じことなんだ。親父がやったことと。俺、あの会社の役員なんだ。名前だけ置いて、10年、一度も口を開かなかった。止められる立場にいたのに、現場の人間だからって言い訳にしてた。しおりさんに言えなかったのも、それもある。俺は、ずるいんだよ」。私は夫の手を取った。荒れて、割れて、爪の短い手だった。「じゃあ、明日から、辛いのやめればいいよ」。
その翌日から、夫は現場の仲間を地下の控え室に集めた。私も一度だけ、差し入れを持って顔を出した。折りたたみのテーブルの上に、清掃の使用書とコピー用紙と鉛筆が広がっていた。5人が頭を付き合わせて、どこにいくら使っているかを、1つずつ書き出していた。「ペーパーね。前の厚いのに戻した方が安いと思うのよ」「なんでですか?」「今の薄いの、みんな2回引くから、減りが早いの」「それ、両で出せますか?」「出せるわよ。私、何個変えたか、毎日つけてるもの」。夫は鉛筆を止めて、しばらく滝さんを見ていた。それからその数字を紙の一番上に書いた。私はそれを見ていて、思わず口を挟んだ。「うちに来た共益費の通知、去年と今年で、上がり方が変です」「奥さん、それ、出せますか?」「調べられます。経理なので」。夫は長いこと私を見ていた。それから小さく息を吐いて、頷いた。その時になって、私はやっと分かった。この人は決められなかったのではない。1人で決めるのが怖かっただけなのだ。この人には、ずっと「明日から」と言ってくれる相手がいなかった。
その4日後の夜だった。申請辞書の現地の確認は、夜の清掃が始まる時間に合わせて行われた。夫はその日、そのために早く現場に出ていた。私が残業を終えて9階から降りようとしたら、エレベーターホールに人が固まっていた。スーツの人が3人と、作業着が2人。申請辞書の桑野という担当者と、コアの黒沢事務。そしてコア本社の杉浦部長。作業着の方は、現場責任者の前田さんと、私の夫だった。現場の確認をしていたらしい。私はエレベーターを見送って、柱の影に入った。「率直に申し上げて、このビルの清掃はコストがかかりすぎです。7人は多い。4人でもいいんじゃないですか?掃除なんて、極端な話、誰でもできますから」「おっしゃる通りで、うちも見直します」。その時、廊下の奥から滝さんが出てきた。箒を持って、スーツの人たちに気づくと、端に寄って深く頭を下げた。そしてそのまま壁際を通っていった。桑野はその背中を見て、声を潜めた。「ああいう年配の方は、正直、こちらとしてはリスクなんですよ。転ばれても困りますし。若い人を4人入れた方が、うちとしては安心です」。黒沢事務が曖昧に笑った。その時だった。夫が口を開いた。「桑野さん、誰をどこに置くかは、うちが決めることです。転んだ時に責任を負うのは、うちです。その上で、1つだけよろしいでしょうか?」「え?あ、はい。何でしょう?」「今の方は、戸田滝さんと言います。この現場の一番古手で、ずっと夜勤です。このビルの階段は14階まであります。手すりの裏側のほこりを毎晩拭いているのは、戸田さんです。引き継ぎの時、本社の方がこのビルを一通り見て回られましたよね。あの時、『階段が綺麗だ』と言われたのを覚えておられますか?いや、私はあれは、滝さんの手です」。桑野は言葉に詰まった。黒沢事務が慌てて割って入ろうとした。「柏木君、いいから、君は」。すると杉浦部長がそれを止めた。「事務」。そして夫の方へ向き直って、深く頭を下げた。「柏木様、お話になりますか?」。「様」と、部長は言った。桑野の顔がそこで止まった。黒沢事務の顔から血の気が引いていくのが分かった。後で聞いた。黒沢事務は2年前に外から来た人だった。「名簿の柏木は、創業家の身内が名前だけ置いているのだ」と聞かされていたのだそうだ。「柏木という苗字は、うちに何人もいる」とも言われていた。取締役の決議も、書面で回るだけだった。夫は作業着のまま、少しだけ姿勢を正した。「申し上げます。コアビルメンテナンスの柏木です。この会社の株の6割を持っています。株主総会を開けば、社長も事務も変えられます。ですから、この話は私が止めます」。エレベーターホールが静寂した。前田さんが持っていた書類を取り落とした。「あの、失礼ですが」「はい」「なぜ、その作業着で?」「この仕事に入って19年になります」。夫はそう言って、書類を1枚出した。折り目のついた、手書きの表だった。「人を4人にする案は受けません。その代わり、金額は下げます。この表の通りです」。桑野がそれを覗き込んだ。「まず、床の剥離を1年に2回から1回にします。間は洗浄とワックスの重ね塗りで持たせます。痛むのは人がよく通るところだけですから、そこだけ部分で入ります。3年、光沢を測って記録を取りました。艶は落ちていません。次にゴミです。今はフロアごとに台車をいちいちエレベーターで往復させています。これを各階のゴミ置き場にまとめておいて、最後に荷物用エレベーターで地下2階のゴミ置き場に一度に下ろします。1日あたり50分浮きます。それから消耗品です。本社はトイレのペーパーを薄いものに変えられました。あれ、交換の回数が増えて、総額では上がっています。うちが直接仕入れれば、元の厚さに戻してなお下がります。ここは毎月出ていく金です。最後に、今はよそに出しておられる植え込みの手入れと、建物の周りの草刈りと、玄関マットの手配。あれをうちでまとめてお引き受けします。今の委託費より下がります。日常清掃の回数は、事務室の拭き掃除と掃き掃除だけ1日置きでお受けします。トイレと給湯室は毎日残します。ここは譲れません。この50分と、剥離を1回にして浮く分を、今の植え込みと草刈りに回します。人を増やさずにお引き受けできるのは、そのためです。それから、本社が払っておられるのは、うちへの委託金額だけじゃありません。この建物にかかる総額で見てください。合計しても、本社の固定額より1割だけ高いままです。その1割は、来年度の間、うちが持ちます。理由は、取締役会で私が説明します。そして、人は1人も減りません」。桑野はしばらく黙って表を見ていた。それから顔を上げた。「これ、どなたが作られたんですか?」「私です。前田さんと、滝さんと、大久保さんと、浅谷さんの5人で作りました。どこに無駄があるかは、床を拭いている人が一番知ってるので」。桑野は深く息を吐いた。「持ち帰らせてください」「お願いします」。桑野さんが帰った後、黒沢が夫の前に立った。「柏木君。いや、柏木さん。なぜ今まで黙っておられたんですか?」「事務が悪いんじゃないです。うちの会社が、間違ってました。それを放っておいたのは、私です」。夫はそこで一度頭を下げた。「事務、父のやり方を、私はもうしません。人を減らして数字を合わせるのは、一番簡単で、一番最後にやることです」。黒沢事務は何も言わなかった。ただ、しばらくしてから、小さく頷いた。私は柱の影で、それを全部見ていた。夫は最後まで声を荒げなかった。見ていたとは、私は言わなかった。
申請辞書が夫の案を受け入れたのは、4月の半ばだった。契約は継続になり、人は1人も減らなかった。書類を届けた夜、桑野さんは地下1階の控え室まで降りたそうだ。まだ薄暗いままの、あの突き当たりだ。桑野さんは滝さんの前で足を止めて、頭を下げた。「階段、ありがとうございました」「あら」「あと、この前は失礼なことを申し上げました」。滝さんは何のことか分からない顔をして、それでも「いいですよ」と言って笑った。桑野さんはそれだけ言って、帰って行った。夫はその背中に、こう言ったそうだ。「滝さん、この現場で9年、無事故です」。その頃には、夫のことがビル中に知れ渡っていた。うちの会社の総務の人が、私のところへわざわざ聞きに来たくらいだ。「綾瀬さん、いえ、今は柏木さんですよね。9階のあの清掃の方、ご主人なんですか?」と。私は正直に「夫です」と答えた。
そこから先は、あっという間だった。最初に連絡してきたのは、霞だった。「しおり、ちょっと聞いてないんだけど。なんで言わないの?」「そういうこと、言うことでもないから」「ねえ、今度、旦那さん紹介してよ。うちの旦那の会社がさ、支店のビルの管理会社を探しててさ。しおりから一言、言ってくれるだけでいいからね」。私は返事に困った。その週末、家でその話を夫にした。言うつもりはなかったのに、顔に出ていたらしい。夫は少し考えてから、こう言った。「しおりさん、俺が断るよ」「私が断る?」「いや、俺が断った方がいい。しおりさんが断ると、しおりさんが悪者になる」。翌日、会社の近くの喫茶店で会った時、夫は本社での打ち合わせの合間に来てくれた。作業着のままだった。霞は明らかに戸惑っていた。「柏木です。妻がお世話になっています」「あ、いえ、こちらこそ」「ご主人の会社の件は、伺いました。お断りします」「え?」「妻を馬鹿にしていた方に、妻を使って近づいて欲しくありません」。夫の声は少しも大きくならなかった。むしろ丁寧すぎるくらい丁寧だった。「うちの見積もりが欲しいだけでしたら、正規の窓口があります。そちらへどうぞ。ただし、営業に行くのはうちの社員です。その時に、清掃の会社だからと断るのは、やめてください」。霞は真っ赤になって俯いた。帰り際に、私は1つだけ言った。「霞、私が渡してた10万円ね。あの人、3年間、1円も使ってなかったよ。全部そのまま取ってあった。見ついでたんじゃないの。あの人が預かってくれてただけだったの」。霞は何も言えずに、私に小さい声で「ごめん」と言った。私は「いいよ」と答えた。本当にそう思っていた。霞は悪い人ではない。ただ、私と同じように、値段で物を測る癖がついていただけだ。
帰り道に、私は夫に聞いた。「あんな風に断って、会社は困らないの?」「困らないよ。うちは営業に困ってない」「そうなの?」「困ってても、同じだよ。値段で選ばれた仕事は、値段で捨てられるから」。私はその言葉をしばらく考えていた。経理をやっていると、いつも安い方を選ぶのが正しいと思ってしまう。私はずっと、その基準だけで判断をしてきた。越子おばさんからは、母に話した次の週に電話が来た。「しおりちゃん、私ね、最初から言ってたじゃない。あんたは見る目があるって。言ってないよ。言ったわよ。人柄で選びなさいって。それでね、相談なんだけど、うちの下の子の会社がちょっと厳しくてね。旦那さんに、少し援助してもらえないかしら?」。私は受話器を持ったまま、しばらく黙っていた。横で聞いていた夫が手を出した。代わるという意味だった。「もしもし。柏木です」「あら、旦那さん、初めまして。私、しおりちゃんの」「はい、伺っています。清掃員だからやめた方がいいと、妻に言ってくださった方ですよね。あの時、妻を守ってくださったのだと思っています。ありがとうございました。ですので、これで十分です。援助はしません」「いえ、あの、そういう意味では」「その仕事を見下す方とは、私は仕事をしません。身内でも同じです」。そう言って、夫は受話器を置いた。それから私の方を向いて、頭の後ろをかいた。「言いすぎた」「うん」「怒ってない?」「怒ってない。全然」。私は笑った。声を出して笑ったのは、通帳を見せられたあの夜以来だった。
母だけは、何も変わらなかった。正体を知らせた時、母は電話の向こうで少し黙って、それから言った。「そう、すごいのね。でもね、私が手すりつけてもらったのは、社長さんじゃないから。あの人には、次に来た時、ぬか漬けを持って帰ってもらってちょうだい」。それだけだった。私は電話を切ってから泣いた。母はその後も、夫のことを「社長さん」とは一度も呼ばなかった。何度か私の方が言ってしまったことがある。「お母さん、尚弥さんね、会社の株の6割持ってて」「はいはい。聞いてる。聞いてるわよ。それであの人は、うちの風呂場を直してくれるんでしょう」。母にとっては、それで全部だった。母のそういうところに、私は救われた。夫も多分、同じだったと思う。夫は実家へ行くと、いつも少しだけ肩の力が抜けているように見えた。
5月の連休に、夫が通帳を持ってきた。「このお金、しおりさんに返す」「返さなくていい」「いや、返す。これはしおりさんの金だ。3年分、360万ある」「返さなくていいって」。私は首を振った。「2人で使おう」。夫が驚いた顔をした。「あのね、私、ずっと考えてたの。この3年、私はこのお金を尚弥さんに使って欲しくて渡してたと思ってた。でも違った。私は尚弥さんが誰かのために自分をすり減らすのを見ていたくなかっただけ。だったら、最初から誰かのために使えばよかったんだよ」。夫は何も言わずに私を見ていた。「困ってる清掃員さんとか、その家族のために使いたい。尚弥さんがいつも助けてきた人たちのために」。夫は口を開いて、何も言わずに閉じた。それから両手で顔を覆った。私は夫が声を出して泣くのを、その時初めて見た。私はその間、ずっと夫の背中に手を置いていた。落ち着いてから、私はもう1つだけ言った。「それとね、お金より先に作って欲しいものがあるの。地下の突き当たり。パイプ椅子が5つ置いてあるところ。蛍光灯が1本切れてて、そこだけ暗いの。あの人たちが座る場所を、先に作って」。夫は少し戸惑って、それから嬉しそうに頷いた。
現場に残った理由は、もう聞いていた。それでも私は確かめたかった。「尚弥さん、これからも現場にいるの?もう隠す必要ないんだよ。会社に行ってもいいんだよ」。夫は少し考えて、それからこう言った。「床ってさ、人が一番見ない場所だろ?」「うん」「でも、そこが汚れてると、誰かが転ぶんだ。誰にも気づかれない場所を綺麗にする仕事が、俺は好きなんだよ」。私はその時、父の言葉を思い出した。「お客さんは運転手の顔なんか覚えちゃいない。それでいい。無事に降りてくれればそれでいい」。20年以上前に父が言ったことと、目の前のこの人が言っていることは、同じだった。私はきっと、最初からこの人を知っていたのだ。
それから2年が過ぎた。私たちが作った制度は、「コア暮らしの備え」という、あまりかっこよくない名前になった。中身は単純だ。急に医療費や学費がいる時に、無利子で借りられる。資格を取る時の費用が出る。子供が高校や大学に入る時に、いくらか補助が出る。対象はコアで働く人とその家族。パートも夜勤の人も、入って3ヶ月の人も、同じ扱いにした。元手は、あの360万円だった。足りない分は夫が出した。会社も同じだけ出した。けれど、最初の1円は、あの封筒だった。夫は規定の前文に、こう書かせた。「本制度は、ある1人が3年間、毎月10万円を届け続けたことから始まった」。杉浦部長が「これは規定に書くことではない」と言ったらしい。夫は「書いてください」と言って、譲らなかったそうだ。この制度は、会社とは別に作った「コア暮らしの備え会」という組織が持っている。会社が出す分は取締役会にかけ、夫は席を外したのだと、後で杉浦さんが教えてくれた。残りは今も夫の口座に置いたままだ。「急ぐ必要はない」と夫は言う。「使い道を2人で決めるのに、まだ何十年かある」。2億を動かす時、夫は1人で判断しなかった。私が「いいと思う」と言ってから、押した。
夫と一緒に、もう1つできたものがある。港第1ビルの地下1階。あの薄暗い突き当たりが、部屋になった。壁を立てて、天井の蛍光灯を全部変えて、8人が座れるテーブルと椅子を入れた。ロッカーを人数分置いて、小さな流しと電子レンジと電気ポットも用意した。壁は白ではなく、少し黄色みのある色にした。夜勤の人が明け方に戻ってきた時、真っ白い壁は目に刺さるからだ。名前は「明かり」と言った。夜の仕事の人が帰ってくる場所だからだ。入口に木の札が下がっている。前田さんが作った。今は、コアが清掃を受け負っている建物のうち、11箇所に同じ部屋がある。
「明かり」の部屋ができた日のことを、私は忘れない。夫が私を連れて行って、扉を開けた。中には、滝さんと、さやかさんと、大久保さんと、前田さんがいた。テーブルの上に、湯気の立った紙コップが並んでいた。「奥さん、座って座って」「いえ、私は」「いいから座ってください。ここ、奥さんのおかげでできたんだから」。私は座った。壁の色があの黄色みを帯びていた。天井の照明は、明るさを落とせるものを選んだそうだ。私はあのパイプ椅子の日と同じ場所に、もう一度座った。何を話したのかは覚えていない。ただ、みんなよく笑った。帰り際に、滝さんが私の手を握った。「柏木さんね、この部屋の壁紙、自分で張ったのよ」「え?」「業者に頼んだら早いのにね。休みの日にね、1人で。あの人、本当にバカよね」。滝さんはそう言って、涙を拭った。
滝さんは、今年の春まで働いた。お孫さんが大学を卒業して働き始めた月に、滝さんはやめた。最後の日に、滝さんは自分のロッカーを空にして、中を拭いて、それから床を拭いて帰ったそうだ。今も月に1度くらい、「明かり」の部屋に顔を出しては、みんなにお茶を配っているらしい。大久保強さんは、去年から現場責任者の補佐になった。名刺を作り直したと言って、夫に1枚くれたそうだ。前田さんの上のお嬢さんは、去年大学に入った。学費の補助を使った最初の1人だ。前田さんは夫に何も言わなかったけれど、その月から「明かり」の入口の木の札を、毎朝拭くようになったらしい。さやかさんは、去年から昼の勤務に移った。制度でビルクリーニング技能を取って、指導する側になったからだ。さやかさんの息子のゆうと君は、中学2年になった。去年の学校の文集に、また作文を書いたという。さやかさんがコピーをくれた。「僕のお母さんは、ビルを綺麗にする仕事をしています。今年から、お母さんは夜じゃなくて、昼に働いています。僕は、夜のお母さんも、昼のお母さんも、どっちもかっこいいと思います。お母さんの会社には、『明かり』という部屋があります。僕は1回だけ行きました。あそこには、全部の人のロッカーがありました。全部の人の名前が書いてありました」。私はそれを読んで、電車の中で泣いてしまった。ゆうと君は、去年の夏休みに一度だけ、母親の職場を見に来たそうだ。夫が案内して、14階の窓から下を見せた。ゆうと君はこう言ったという。「このビル、全部、お母さんが綺麗にしてるんですか?」と。夫は「そうだよ」と答えた。その後、ゆうと君はしばらく黙って、窓の外を見ていたそうだ。
私も、1つだけ自分の仕事のやり方を変えた。共益費の見直しの資料に、私は1行だけ書き出した。「この金額には、このビルを毎晩拭いている人たちの手が入っています」と。課長は何も言わなかった。ただ、赤字を入れずに、判を押した。「容量よくやれないの」と言われて泣いたあの晩の自分に、今なら1つだけ言える。容量のいい仕事は、大抵、誰かの夜勤の上に乗っている。
母は今も、1人であの家に住んでいる。手すりは全部そのままだ。夫がつけそびれたネジの頭は、いつの間にか母が自分でシールを貼って隠していた。月に1度、私たちは実家に行く。夫は毎回、何かしら直して帰る。蛇口のパッキンだったり、玄関の鍵だったり、換気扇のフィルターだったりする。帰り際に、母は必ずぬか漬けの入ったタッパーを夫に持たせる。「尚弥さん、これね。キュウリは、朝に食べてちょうだい」「はい」「しおりにはやらなくていいから。あの子、すぐ冷蔵庫で忘れるから」。夫は毎回「はい」と言って受け取る。子供のことは、2人でまだ話している最中だ。答えは出ていない。ただ、前のように怖くはない。
先週の土曜、私は港第1ビルへ行った。用があったわけではない。ただ、夫が土曜出勤だったから、行ってみたくなっただけだ。14階の廊下で、夫は床を磨いていた。ポリッシャーという丸い機械だ。重くて、ハンドルが少し傾くだけで勝手に走る。白いパッドで薬剤を薄く拭きながら、艶を出すのだと後で聞いた。夫は膝を少し曲げて、腰を落として、ゆっくりと機械を左右に振っていた。機械の跡が少しずつ重なるように、後ろへ下がっていく。少し離れたところに、あの黄色い縦札が置いてあった。夫が下がるたびに、その前の床が順番に光っていった。私が見ているのに気づくと、夫は手を上げて私を止めてから、機械を止めた。「何?どうしたの?」「何も。見に来ただけ」「暇だな」。夫はそう言って、タオルで額を拭いた。それから、少し照れたように笑った。「なあ、やっぱり清掃員の旦那ってのは、嫌か?」。3年前なら、私は慌てて否定しただろう。今は違う。私はゆっくり答えた。「うん。私が結婚したのは、12億円の通帳じゃないよ。その作業着を着て、人を助けてるあなたです」。それから、私はもう1つ言った。「あの時計ね、そろそろ動かしてもいいかな」。夫はしばらく何も言わなかった。それから頭の後ろをかいて、また機械のスイッチを入れた。機械の下から、床がまた艶を取り戻していった。私はその後ろ姿を、廊下の端でずっと見ていた。ポリッシャーの音が、静かな廊下に響いていた。
その日の夜、夫は玄関で私の父の腕時計の電池を変えた。小さなドライバーで裏蓋を開けると、古い電池が液を吹いて白く固まっていた。夫はそれを綿棒でこすって、端子を綺麗に磨いてから、新しい電池を入れた。針は、当たり前みたいに動き出した。私たちはそれを、下駄箱の上に置いた。夫の古い革靴をしまってある下駄箱の、すぐ上だ。夫の作業着の背中に、「コアビルメンテナンス」と白い字で入っている。それだけだ。役職はどこにも入っていない。あの春の騒ぎを覚えている人も、もうほとんどいない。このビルで働く人も、訪れる人も、今も作業着の背中の話をする人は、ほんの数人だ。その数人も、本人の前では言わない。それでいいのだと、私は思う。
この人は、1つだけ物を買った。靴だ。黒い革靴を、やっと買い換えた。古い方は捨てなかった。玄関の下駄箱に、磨いたまま入っている。「捨てないのか」と聞いたら、夫はこう言った。「これ履いてる俺と結婚してくれたんだから」。父が言った通りだ。何もなくて、みんなが黙って降りていく日が、一番いい日なのだ。私が毎月渡した10万円は、生活費ではなかった。あれは、この人を信じた3年分の証だった。そして、夫が1円も使えなかったそのお金は、私たちが一番大切にしたかったものの形だった。



