雨の音で目が覚めた。スマホの画面には朝の6時。今日は2年に一度の契約更新の日だった。大手自動車メーカーの本社へ向かうため、スーツに着替えて車に乗り込む。傘を差しても横殴りの雨で、鞄の底がじっとりと濡れていく。駐車場に車を止め、受付の女性に名前を告げた。「申し訳ございません。本日のご来館について、担当部署から入館の許可が届いておりません」その言葉で、全身の血が一気に冷たくなるのを感じた。ゲート…
2年に一度の契約更新の日、俺は豪雨の中を大手自動車メーカーへ向かった。傘を差しても横から吹きつける雨が足元と鞄を濡らす。本社の駐車場に車を止め、入館用のゲートへ歩く。受付の女性に名前を告げ、更新の手続きで来たと伝えると、女性は端末を確認し、困ったように顔を上げた。 「申し訳ございません。本日のご来館について、担当部署から入館の許可が届いておりません」 これまで更新の手続きでこんなことは一度もなかった。俺は要件を繰り返し伝え、担当者への確認を頼む。女性が内線をかけ、しばらくするとゲートの向こうから見覚えのない男が歩いてくる。年の頃は四十代半ば。手入れの行き届いたスーツ姿で、俺を見る視線だけが冷えていた。 「新しく資材調達部長になりました平沢です」 名乗りながらも入館証を渡す気配はない。ゲートは開かれないままだ。内側の床は乾いていた。磨かれた革靴に雨の跡は一つもない。俺の足元では傘の先から落ちた水が溜まり始めていた。 「なぜ入館の許可を出さなかったんですか」 俺はゲート越しに尋ねた。更新書類を持ってくる相手をわざわざ足止めする理由が分からなかった。 平沢は面倒そうに息をつく。苛立ちを隠す気もないようだった。 「別に会って断るほどの話でもないと思ったんですよ。元々これで契約を終了する予定でしたし」 終了だと。俺は思わず声を強くした。 「本社の主力車種はうちの部品を積んだ状態で国の認可を受けています。別の会社の品に変えれば、認可を取り直すまであの車は一台も作れませんよ」 「ブレーキの部品なんて、どこの工場でも作れるでしょう。特許だなんだと言われても、正直ピンとこないんですよね」 平沢の口ぶりにはわずかに嘲りが滲んでいる。差し出したままの更新書類が存在を失って、宙に浮いたように感じられた。傘の縁から落ちた雨が書類の端を黒く滲ませていく。 「だから友人の会社に変えたんですよ」 「ちょっと待ってください。そんなことはできません。私の説明を聞いてください」 俺が鞄から資料を取り出そうとする様子を一瞥し、平沢は鼻で笑った。 「結構です。無害者は消えろ」 そう言って背を向ける。怒りで腹の底が冷たくなるのを感じた。父が命を削って通した特許を、この男はただの部品程度のものだと思っているのか。 俺は濡れた更新書類を鞄に戻し、平沢の背中に向かって言った。 「再契約できませんよ。今日更新に来た俺をこのまま入館させなければ、契約は今日限りで終わる。この技術は二度とこのメーカーでは使えなくなります」 その意味を俺は伝えたつもりだった。平沢は片手を振って俺をあしらうと、ゲートの奥へ戻っていく。 俺は受付の女性に向き直り、本日更新書類を持参したことと、受け取ってもらえなかったことを記録に残してもらうよう頼んだ。女性は少し迷ってから端末に何かを打ち込んだ。 工場に戻ったのは日が暮れかけた頃だった。机に更新書類を広げる。追い返したのは向こうだ。契約書の第九条に照らせば、更新が成立しなかった以上、契約は今日限りで終わっている。先月末に納めた分で、向こうの手持ち部品は尽きるはずだった。 俺は立ち上がり、工場の奥で作業を続けている宮森を呼んだ。この工場に三十年前からいる、一番古い作業員だ。今日あったことを順番に話すと、宮森は手にしていた部品を工具箱に戻しながら言った。 「昔からこっちが頭を下げて仕事をもらったことはない。向こうが中身を見ないなら、それまでの話でしょう」 そう言うと、また旋盤に向き直った。俺は壁にかかった父の作業着を見上げる。技術に対し決して妥協しなかった父の顔を、その晩何度も思い出していた。 翌日、雨は上がっていた。昼前に事務所の電話が鳴る。受話器を取ると、聞こえてきたのは佐倉の声だった。以前まで俺の工場との取引を担当していた大手メーカーの資材調達部長だ。よくこの工場へ足を運んでいた男で、仕上がったばかりの部品を手に取っては、「運転士さんがね、前の車は夕方になるとブレーキを深く踏み込まないと止まりづらくなる。この車は一日を走り終える頃でも朝と同じ深さで足りる。本当にすごいことだと感心していたんですよ」と話してくれたものだ。一日の終わりに踏み込みが深くなるのは、ブレーキが熱を抱えたまま利きの落ちる境目に近づいているからだ。その深さが朝と変わらないというのは、まだ余裕が残っているということになる。その余裕を測っていたのは試験の数字ではなく、運転手の足だった。俺は値段よりも重い誇りとして受け取ってきた。 その佐倉が、電話口で言いにくそうに切り出した。 「荒川さん、朝から本社に何度も電話を差し上げようか迷ったんですが、まず私からお詫びをさせてください。私の引き継ぎが甘かったばかりに、こんなことになってしまいました」 そう言って一つ息を継ぐ。 「実は本社、部品を積んでいない車が出荷前の検査で止められたと聞いたんです。詳しい経緯はまだ耳に入ってきていませんが、ラインが動いていないのは間違いないようです。もう調達部の人間ではない私が言うのもおかしな話だとは分かっていますが、黙って見ていられませんでした。上には本社にきちんと事情を説明し、契約を元の条件でお願いすべきだと申し伝えてあります。近いうちに責任のある立場の者がそちらへ伺うはずです」 俺は礼を言って電話を切った。自分の非を認め、頭を下げてきた佐倉の声が耳に残っていた。向こうの部署の誰かが動くのを、ただ待つしかない。 その日の午後、佐倉から再び電話が入った。 「もう一点だけ、お耳に入れておきたいことがあります。実は本社から別会社への切り替えの件、議事の書類には目を通せる立場にまだいますので、少し確認してみたんです」 佐倉は少し声を落とした。 「切り替え先の代表というのが、平沢さんの個人的な知り合いらしいという話が社内で出始めています。まだ噂の域ですが、もしこの先条件を戻すという話になった時に、そちらの事情を知らずに応じてしまうと、本社が損をする形で丸く収められかねません。念のため、頭の片隅に置いておいてください」 俺の中にあった疑いは、そこで初めて輪郭を持った。知らずに謝ったのではなく、知ろうとしなかったのだ。会社の利益のためではなく、自分の知り合いを潤すために、俺の技術を切り捨てた。指先にじわりと力が入るのを感じた。 夕方近く、事務所の電話が鳴った。 「ああ、荒川さんね。急で悪いんですが、部品すぐに納めてもらえませんか。契約は前の条件のままで構いませんので」 昨日とは別人のような腰の低い口調の平沢だった。要件だけ早口で告げると、返事も待たずに切ろうとする気配がある。 「契約書の第九条の定めに従えば、契約はすでに昨日の時点で切れています」 俺がそう答えると、電話の向こうで息を飲む気配がした。 「そこをなんとか……」 「再契約はできないと申し上げたはずです」 俺はそれだけ言って、先に電話を切る。それから何度か平沢から電話が入るが、俺は事務に取り継ぎ不要と言って電話に出なかった。 翌日の朝、事務員が最後の伝言を伝えに来た。近いうちに本社から責任の取れる者が直接伺いたいという申し入れだ。俺は事務所で伝言のメモを見返していた。宮森は変わらず旋盤の前に立ち、止まった発注の穴を埋めるように、別の取引先から回ってきた小口の仕事をこなしている。柱を失った穴はまだ埋まっていない。それでも謝罪の一本すら寄こさない大手メーカーに対し、こちらから頭を下げるつもりはなかった。 昼を過ぎてすぐのことだ。表の駐車場に車の止まる音が届いた。窓越しに目をやると、黒い乗用車から降りてきたのは平沢ともう一人、初めて見る年配の男だった。作業着のまま俺は工場の入口で二人を迎える。旋盤の音がそこで途切れた。宮森が油のついた手を拭い、二人を一度だけ見てから機械に向き直った。 年配の男は名刺を差し出し、「梶谷と申します。常務を務めております」と名乗った。低く落ち着いた声だ。無駄のない物腰からは、何十年も現場と交渉ごとの両方を渡ってきた気配がした。平沢は名刺を出さず、梶谷の一歩後ろに立ったまま視線を伏せていた。昨日まで取り合おうともしなかった男の姿はそこにはない。背中の肩の辺りが、心なしか小さく見えた。 俺は判を押されないままの更新書類を机に置いた。雨に濡れた後が残っている。その跡が、あの日の悔しさをそのまま形にしているようだった。 梶谷は俺に向かって一度深く頭を下げた。 「本日は弊社の不手際でご迷惑をおかけしたことを、まずお詫び申し上げます」 頭を上げると、梶谷は淡々と続けた。 「昨日生産ラインが停止した件は、役員会にまで報告が上がりました。発注の経緯を確認したところ、今回の切り替え先の代表は平沢の学生時代からの知人でした」 梶谷は平沢をちらりと見る。平沢は深く俯き、その顔色は分からない。 「単価は弊社より二割高く、弊社の部品が代替不可能であることは前任者が残した資料にも明記されていました。発注を変える理由は弊社の側に一つもありません」 … Read more