How Did Humans Create Astronomy?

Astronomy began not with a sudden discovery, but with a simple act of comparison: someone noticed that the sky did not stay the same, and then remembered what it had looked like before. The sun disappeared in one place and returned from another. The moon changed shape, vanished, and came back. Stars that filled the … Read more

14 September 2026

父の葬儀の最中、携帯が鳴った。画面には上司の山田さんの名前。嫌な予感しかなかったけど、出ないと後で何を言われるかわからない。通話ボタンを押した瞬間、耳を疑う言葉が飛び込んできた。「じじいの葬儀ごときで仕事を休むな。首にするぞ」。親父が亡くなったのは、たった昨日のことだった。入社して半年、ベンチャー出身の俺を山田さんはずっと見下してきた。それでも耐えてきた。でも、この一言で、俺の中で何かが完全…

「父の葬儀ごときで会社を休むな。首にするぞ」 その言葉が耳に入った瞬間、俺はスマートフォンを握る手に力を込めていた。ベンチャー企業からこの大手に転職してきた俺は、エリート意識の強い上司の山田に、入社してからずっと馬鹿にされ続けていた。実力もないくせに権力だけは振りかざす、そんな男の暴言に耐えてきた。だが、父の葬儀の最中にまで電話をかけてきて、この仕打ちだ。 「わかりました。それでは、そのように社長にお伝えしますね」 その一言を残して、俺は電話を切った。 俺の名前は小野幸介。この春からこの大手企業でシステムエンジニアとして働き始めた。物づくりが好きだった俺はプログラミングの専門学校に進み、卒業後は地元のベンチャー企業に入社した。そこは人数が少なく、コードを書くだけでなく、ディレクターのアシスタントや採用業務まで、ありとあらゆる仕事を経験させてもらえた。ひたむきに働くうちに、その経験が買われて、今の会社への転職が決まった。 「小野さんのように幅広く業務に携わってきた方が来てくださると、本当に助かります。ぜひ腕を振るってくださいね」 面接の時、社長はそう言って笑ってくれた。俺も期待に応えようと、心から思っていた。 転職先は大規模な事業をいくつも持っているが、これまでシステム業務は外注していた。それを本格的に社内で扱うことになり、中途採用で多くのエンジニアが集められていた。 入社初日、自分のパソコンをセットアップしていると、隣の席の男性が話しかけてきた。 「小野さん、よろしくお願いしますね。僕は松原と言います。何か分からないことがあったら、ひとまず僕に聞いてください」 松原さんはまんまるとした顔をほがらかにほころばせて言った。彼は数年前からこの会社のシステム部門で働いていて、社内のことはほとんど何でも知っているらしい。 「ベンチャー出身ってすごいですよね。ポートフォリオも拝見したんですが、いろんな案件を担当されていたんですね」 「いえいえ、まだまだですよ」 「うちは最近本格的に始まったばかりだから、これから小野さんの意見もぜひ聞かせてもらいたいなあ」 そんなふうに和やかに話していると、背後から硬い靴音が聞こえてきた。 「松原さん、さっきから何をこそこそ話しているんですか?」 振り返ると、開発チームのチーフである山田さんが立っていた。細い目で俺たちを睨みつけている。 「疑問があるならチャットツールで話せばいいでしょう。そんな時間があるなら開発を進めてください」 「ああ、すみません。わかりました」 「小野さんも、担当の案件をメールで送りましたから、セットアップが済んだらメンバーに内容を聞いて進めてください」 「はい、かしこまりました」 山田さんは「君たちもこの会社の生産性を上げていかないとなりませんよ」と付け加えると、くるりと向きを変えて奥の自分のデスクに戻っていった。その周りにいた社員たちは、誰も何も言わなかった。 チャットツールの設定が完了すると、すぐに松原さんからダイレクトメッセージが届いた。 「さっきのことは気にしなくていいですよ。山田さんはいつもああで、すぐに人に当たりますから。周りも知らんぷりしてるんです」 山田さんは大企業の開発職を点々とし、数年前にこの会社の開発部門として採用された。しかし、事業部の事情から別部署に配属されてしまい、長らく開発業務ができなかったのだという。そして最近ようやく開発部に配属されたかと思うと、これまでの苦労を盾に幅を利かせ始めた。自分に従わない人間を敵視したり、若いエンジニアを捕まえては自分の苦労話を延々と聞かせたりする。周りはもううんざりしているらしい。 その午後、トイレの場所を探して廊下を歩いていると、井戸端会議をしている山田さんの姿が見えた。思わず耳をそば立てると、山田さんは松原さんの言った通り、ブツブツと文句を言っていた。 「あの小野ってやつ、本当に大丈夫なのか?ベンチャーなんて、ただ年の近い仲良し小僧の集まりだろ。実力がなかったから、そこしか入れなかったに決まってる」 腹が立った。だが、今ここで飛び出していけば余計な角を立ててしまう。それに、どこにでもこういう人間はいるものだ。下に見られているのは、必要以上に高く見積もられるよりは気が楽だとも思った。 よし、絶対に成功して、あの男を見返してやる。 それから俺は前より一層気を引き締めて、毎日勢力的に働き始めた。 入社してから早くも半年が過ぎた。俺は最近、取引先に常駐してシステム開発を進めている。本社に戻ってきたのは、実に数週間ぶりのことだった。 「山田さん、お疲れ様です。常駐中の交通費の申請は、どのように進めれば良いでしょうか?」 山田さんは嫌な顔をして、棒読みで答えた。 「私がエンジニアになった頃は、交通費なんてなくても仕事ができただけでありがたかったですがね」 「そうでしたか。でも、面接の際に、会社にて負担すると社長からお聞きしました」 「はあ、そうですか。じゃあ、社長に確認しないといけませんね。内線繋ぐので、デスクに戻ってください」 え、社長に内線?こんなことで? 俺が驚いているうちに、山田さんはすぐに内線をかけ、あっさりとつないでしまった。俺は慌てて受話器を取る。 「社長、お忙しいところすみません」 「なんだ、これから大事な用があるというのに。緊急の業務だと聞いたが、手短に頼むぞ」 「いえ、緊急の内容ではございません。交通費の申請を」 「交通費?そんなの山田が聞いてくれればいいだろう。彼が緊急の報告があると言うから、取り次いだのに。人の時間を何だと思ってるんだ?」 「いえ、申し訳ございません」 電話の傍らでちらりと向こうを見ると、山田さんはもういなかった。山田さんが事を大きくしすぎたせいで、思わぬ大目玉を食らってしまった。 「山田さん、小野さんが叱られるように、わざと取り次いだんだなあ」 松原さんに愚痴を聞いてもらって、なんとか気持ちを収めた。しかし、これをきっかけに、山田さんはやたらと俺につっかかってくるようになった。 社長には翌日直接謝罪して事なきを得たが、大事にならなかったことが山田さんには面白くなかったのだろう。挨拶をしても返事はない。仕事中も、休憩に行くふりをしながら、何かと俺の画面を監視されている気がした。ある時は閉まっていた書類がデスクの上に散乱していたり、文房具がなくなったりもした。 「うわ、汚いデスクだなあ。仕事ができないのが丸分かりだ。部屋もさぞ汚いんだろうなあ」 山田さんが毎回、鬼の首を取ったかのように騒ぐので、職場の雰囲気も次第に悪くなっていく。今日も俺の書いたコードのレビューをしながら、彼は捲し立て始めた。 「こんな読めないコードを書いたのは誰だよ。ベンチャーでバリバリやってたんじゃなかったのか?」 「ですが、これはこういう仕様で……」 「証人でも立てるのか?そんなこと聞いてないんだよ。ごちゃごちゃわけのわからないことを言って、自分の行動が説明できないくらいなら、書類の片付けでもやってろよ」 そういった具合で、案件は一向に進まなかった。 そんな時、山田さんの案件でトラブルが発生した。オフィスは朝から騒がしく、現場は状況の確認に追われている。 山田さんが汗を流しながら、チームのメンバーに告げた。 … Read more

14 September 2026

「給料を上げないと全員やめます」——新入社員の佐々木が、十二人分の退職届を俺の前に叩きつけた。俺は宮本、三十歳。高卒で入社して十二年、総務部の主任だ。久しぶりに研修担当を任されたが、初日から彼らの態度は酷かった。スーツの上着を脱ぎ、スマホをいじり、俺を「おっさん」と呼ぶ。「一流大卒の俺たちに掃除させるのか」と悪びれもしない。三日目の夜、田中部長から衝撃の事実を聞かされる。「彼らは全員、俺の大…

新入社員のボス的な存在・佐々木が、全員分の退職届を握りしめて俺の前に立った。一流大学を卒業したばかりの若者たちが、そろいもそろって同じ要求を掲げている。「給料を上げないと全員やめます」。 俺は宮本、三十歳。大手広告会社の総務部で主任を任されている。高卒で入社して十二年目のベテランだ。久しぶりに新入社員の研修担当を任されたのは良いが、たった三日で俺は精神的に擦り切れていた。全員が優秀な大学を出ているというのに、研修中の態度が酷すぎる。そんな中での四日目の朝に、佐々木からあの言葉を投げられたのだ。 俺は一呼吸置いて、全員に一言だけ放った。その瞬間、新入社員たちの表情が一変する。その後、彼らはとんでもない結末を迎えることになる。 俺は幼い頃から絵を描くことが好きだった。小さな広告会社の外回りの仕事をしていた父と、パートで働く母との間に生まれた一人息子。人見知りな性格で、幼稚園の頃から集団生活に馴染めず、いつもクレヨンを持って隅っこで絵を描いていた。小学校に入ってもそれは変わらず、同じく絵が好きなケントというクラスメイトと仲良くなった。家も近く、幼い頃から一緒に遊んでいた。 母がプランターで季節の花を育てていたので、俺はその花の成長を絵に描いて記録した。やがて校庭の花や教室の窓から見える風景を、休み時間になるとノートに書き留めるようになる。他のクラスメートはゲームに夢中だったが、俺はいつも一人で絵を描いていた。父が家で英語を話す仕事をしていた影響で英語に興味を持ち、英会話教室にも通わせてもらっていた。 中学生になってもケントとは変わらず仲が良く、一緒に宿題をしたりした。高校は別々になったが、携帯のメールで絵を交換しながら連絡を取り合っていた。高校生になる頃にはビジネス英語も話せるようになり、父とよく英語で会話をして楽しむほどだった。父は俺の成長を心から喜んでくれていた。 だが高校二年のある日、父が突然交通事故で亡くなった。母からの電話で病院へ駆けつけたが、もう話すことのできない父に母は何度も名前を呼んで号泣していた。俺は現実を受け入れられず、ただ呆然とその場に立っていることしかできなかった。葬儀の後、小さくなってしまった父が祖父の墓に入る時、俺は涙が止まらず、ただ黙って手を合わせた。 母はしばらく落ち込んでいたが、パート先で正社員として働き始めた。母の姿を見て、俺は大学へ行くことを諦めた。ケントも家庭の事情で大学には行かないと言っていた。高校三年の進路選択の時期、ケントと将来のことを話し合い、一緒に求人情報を見た。そこで目に留まったのが今の会社だった。広告会社なら、得意な絵の才能を伸ばせるかもしれない。当時はまだ小さな会社だったが、ケントに話すと彼も面接を受けてみたいと言い、二人で内定をもらった。 入社後、俺とケントは同じ総務部に配属された。上司も良い人ばかりで、パソコンが得意な俺たちは資料整理をコツコツとこなしていた。やがて会社は成長し、五年目にはビルへ移転して大手広告会社へと発展していった。海外との取引も始まり、英語が話せる俺は海外担当となり、三十歳で総務部の主任を社長から任された。俺の絵の才能は特に発揮する機会はなかったが、会社は順調に大きくなっていった。 しばらく新入社員は入っていなかったが、今期から十二名の新卒が入ると人事部から連絡があった。田中部長から声をかけられたのは、その少し後のことだった。 「宮本君、今回の新入社員は一流大卒だ。研修期間は一週間だが、担当を任せたいのだが」 「かしこまりました」 こうして俺は新入社員の研修担当を任されることになった。これがすべての始まりだった。 研修初日。会議室で会社の概要を説明しようとしたその時、佐々木がいきなり声を上げた。 「あー、スーツなんて堅苦しくて着てらんねえ。みんな上着脱げよ」 女子社員たちも「暑い暑い。さっさと脱ごう」と言いながら上着を脱ぎ始める。俺はたまらず注意した。 「君たち、一応会社ではスーツを着ておくのが常識だよ。きちんと着てください」 「はあ。おっさん、学校じゃあるまいし」 おっさん呼ばわりされた。俺はため息を飲み込みながら言い返す。 「君たちから見ればおっさんかもしれないが、せめて苗字で呼んでくれ。俺には宮本という名前がある」 「いいじゃん。おっさんはおっさんなんだから。それに大学時代は学生服さえ着てなかったのに、スーツなんて」 「いや、それが社会人だよ。マナーとしてきちんと上着を着るように。営業に配属されればお客様とも会うことになるかもしれない。夏であってもマナーとして上着を脱ぐわけにはいかない」 「今は研修期間だからいいんじゃねえの?」 「そのための研修期間でもあるんだ」 「はあ。細かいこと言うね」 別の新入社員が鼻で笑う。 「宮本さんとか言ったっけ? 俺たちさ、一流卒だぜ。そんな底辺のバイトなんかしたことないし。バイトは家庭教師、それもネット越しだよ。スーツとか作業服とか着るわけないじゃん」 「……バイトの話をしているんじゃない。社会人としての常識の話だ」 しかし誰も聞く気配がない。結局、全員が上着を脱いだままの状態で研修を続けることになった。会社の概要や歴史を説明しても、全員が雑談を始める。 「この内容は会社の大切な話だ。雑談はやめて真面目に聞くように」 俺がそう言うと、しばらくは静かになったが、ホワイトボードで説明を始めると、ほとんどの新入社員がスマホを取り出し始めた。 「スマホは一旦置いてください。大切なことはノートにメモしていってください」 「え、ノート? どんな時代だよ。スマホに宮本さんの声を録音するだけでいいじゃん」 「そうだよ。なんでノートなんだよ」 「私、そもそもノートなんて持ってきてないし」 「後で全員に復習資料をまとめて提出してもらうから、ノートに書いてください。持ち物の中にメモかノートと書いてあったはずだが」 「うっかり忘れちゃったわ」 そう言う女子社員に、俺は仕方なくコピー用紙を渡した。初日はなんとか終わった。 二日目、俺は新入社員たちに総務部の清掃をしてもらうことにした。 「はあ? なんで俺たちが掃除すんだよ」 「緊急にコーヒーをこぼしたりした時のためだよ。掃除道具がどこにあるか案内するので、全員ついてきてほしい」 俺は掃除道具の部屋へ案内し、モップや雑巾などを配った。 「もうやってらんねえ。俺たちみたいなエリートが掃除だって」 「そうだぜ。俺たちは一流大学なんだぜ」 「どのようなエリートであっても、自分でコーヒーをこぼすこともある。社員食堂で食べ物をこぼしたら自分で片付けるのが常識だ。職場を清潔に保つのは当たり前のことだよ」 「はいはい。やればいいんだろ。やれば」 女子社員は「まさか私が掃除をさせられるなんて」とブツブツ言いながら、適当にモップをかけ始めた。掃除が終わると全員が道具を投げ捨てるように置いた。 「使った掃除道具や雑巾は、きちんと綺麗にしてから片付けること」 「そんなの掃除のおばちゃんがやってくれるでしょ」 「使ったものは自分で綺麗に片付けてください」 「全くめんどくせえな」 常識が通じない新入社員たちに、俺は呆れ果てた。三日目は社員用のパソコンを並べて資料整理をさせた。パソコンは得意なようで、キーボードを叩く音が会議室に響く。だが、また雑談をしながらだ。 … Read more

14 September 2026

Why Do Humans Forget Their Dreams?

You wake with an entire world still inside your head. A person was chasing you through a building that was also your childhood home. Someone you have not seen in 10 years was explaining something important beside an ocean located inside a supermarket. For three seconds, you remember everything. Then you reach for your phone. … Read more

14 September 2026

姑が亡くなり、四十九日の法要もまだなのに、夫が突然「お前、浮気してるだろ」と言い出した。十年間、寝たきりの姑を自宅で介護してきた私に、そんな暇があるはずもない。それなのに夫は「昨日、駅前で若い男と歩いてただろ」と勝ち誇った顔で言い放ち、「浮気する女とは離婚だ。おふくろの世話が終わった途端、堂々とデートか。お前はひどい女だな」と続けた。私はあまりの滑稽さに「あはは」と乾いた笑いしか出なかった。…

つい先日、義母が亡くなった。四十九日はまだ先だが、葬式の後片付けもようやく済んだところだ。新婚早々から始まった義母の介護の日々。義母は本当にいい人だったけれど、大変だったのも確かだ。長年背負ってきた荷物が下りてほっとしたのに、張り詰めていた日々が終わると、今さらのように寂しさや切なさが込み上げてくる。そんなある日のことだった。 夫が突然、お前浮気してるだろう、と言い出した。 は? 浮気なんてしてないよ。 私は義母を十年間、在宅で介護してきた。出張や残業と何かと理由をつけて家に帰らなかった夫とは違う。そんな暇があるはずがない。義母とは実の母以上に仲が良かったから苦ではなかったけれど、夫は私の言葉を一切信じようとしなかった。 嘘つけ。俺は見たぞ。昨日駅前で若い男と二人で歩いてただろう。随分ひょろひょろしたやつだったな。 ああ、あの人か。私はすぐに思い当たった。しかし夫は私が答えるのを待たずに、ほら、言った通りじゃないかと勝ち誇った。 浮気するような女とは離婚だ。おふくろの世話が終わった途端、堂々と浮気相手とデートか。お前はひどい女だな。 浮気をしているのはあなたでしょうとか、そんな暇なかったわよとか、言いたいことは山ほどあった。けれど私の口から出てきたのは、あはは、という乾いた笑いだった。 なんだ、笑うなんて頭おかしいんじゃないか。夫が険しい目で見てくる。まさか離婚したくないとか言い出さないよな。もうお互い愛情なんてないだろ。大体お前はさ、夫をつなぎ止める努力を全くしてこなかったんだ。化粧もしないし、おしゃれもしない。 夫が私の悪口を流れるように並べ立てる。私はそれを聞きながら、彼が自分のことを棚に上げているのが滑稽で仕方なかった。腹は立つが、聞く気にもならない。 分かったわ。離婚しましょう。 夫は目をぱちくりさせた。 だから、了解って言ってるの。離婚でいいわ。 確かに私は化粧もしてこなかったし、おしゃれもできなかった。でも、それは夫のせいだ。夫は給料を自分で管理し、生活費をほとんど入れようとしなかった。義母の介護があったから、私は働きに出ることもできなかった。夫に何度も給料を家に入れてほしいと訴え、もっと家に帰ってきてほしいと頼んだ。せっかく結婚したのだから、私は家庭を維持する努力をしてきたつもりだった。それでも十年という歳月は、私に夫を見限る理由として十分すぎるほどだった。 それでも離婚しなかったのには、二つの理由がある。 一つ目は義母だった。義母が本当にいい人で、かわいそうだったから。それだけと言えばそれだけかもしれない。でも、ここで私が義母を見捨てたら、義母は満足な介護もされずにどこかの施設に追いやられ、寂しく一生を終えることになっただろう。それはどうしてもできなかった。 ねえ、私に浮気かどうか聞く前に、あなたが浮気してるわよね。それともう一つの理由、分かってる? あ、なんだ。知ってたのか? それなら話が早いな。 夫は悪びれる様子もなく言った。 お前も浮気してるならお互い様だろ。どうせ十年もレスなんだし。俺には愛人と子供がいるからな。子供にお金がかかるし、慰謝料はなしでいいな。この家に愛人を呼び寄せるから、お前は今週中に荷物をまとめて出ていけよ。 話が決まったとばかりに夫は上機嫌だ。 ちょっと待って。勝手に話を決めないで。きちんと弁護士を入れて話したいの。 ああ、そんなの大げさだし面倒じゃないか。別に、お互い離婚届に判を押すだけでいいだろう。 へえ。そもそも私は浮気なんてしてないし。あなたが勝手に誤解してるだけよ。 は? だって俺が見たんだぞ。動かぬ証拠だろうが。 あの人は弁護士さんよ。お母さんが遺言を残してたの。 夫は初めてぎょっとした顔をした。その表情を見て、私は少し胸がすいた。でも、これはほんの序章にすぎない。夫には、しっかり地獄を見てもらう。 遺言ってどういうことだ? お袋の遺産は俺のものだろう。俺が一人息子なんだ。 夫は義母の遺産を当てにしている。まあ、本来なら夫が当然相続できるお金だ。義母から聞いた話では、十数年前に亡くなった義父は交通事故だった。義父に過失がなかったため、かなりの保険金が出たらしい。保険金の受け取り人は義母だったが、義母は遺産を含めて半額を夫に渡した。ところが夫は、人が亡くなると結構金がもらえるんだな、と笑ったらしい。義母は、自分の子ながらぞっとしたと教えてくれた。 義母が危なくなってから、夫はそれとなく私に、お袋はどのくらい金を持ってるんだ、と探りを入れてきた。全く世話をしないくせに、遺産だけはもらうつもりなのだ。 さあ、普段使う通帳以外は見たことないし。 私は分からないふりをしておいた。 親父の遺産もまだあるはずだよな。お袋は大して使ってないだろうし。 実際は、脳卒中になった時の手術代、長期入院の費用、その後の生活費などで結構使ってしまったのだが、夫は都合よく忘れている。 とにかく、土曜日に弁護士さんが来ることになってるから。離婚の話もしたいし、ちゃんと家にいてね。 私はそう言って、言い返そうとする夫を無視した。 夫に私は騙されていた。夫とは婚活パーティーで知り合ったものの、きちんと恋愛して結婚したつもりだった。だが夫は、母親の介護と自分の世話をしてくれる無償の家政婦を探していただけだった。 私たちが知り合う半年前、義母は脳卒中になり、命こそ助かったものの左半身に麻痺が残り、寝たきりに近い状態だった。長期入院とリハビリを経て、担当医からは自宅療養でもいいと言われたが、介護は必要だった。義父はすでに亡くなっていたし、夫は一人っ子で他に頼れる身内もいない。介護施設は順番待ちだった。 最初は専門のヘルパーを雇っていた。しかしヘルパーは義母の食事は準備しても、夫の食事の準備まではしてくれない。夫はそこで初めて結婚しようと思ったようだ。つまり、私のことを愛しているわけではなく、自分の世話と母親の介護をしてくれる便利な人間が欲しかっただけ。私はそれを見抜けなかった。 私は美人ではないし、もてるタイプでもない。婚活パーティーで自分が選ばれたことが嬉しくて、舞い上がってしまったのだ。 夫から義母の介護を頼まれた時、そんな事情があったのかとがっかりした。しかし幸いにして、義母は本当にいい人だった。年こそ親子ほど離れているけれど、私たちは親友のような関係になった。お世話自体は、大変ではなかった。仕事を辞めて介護に専念したことも、後悔していない。許せないのは、夫のことだけだ。 夫は私が義母の世話を安心して任せられると分かると、家庭を一切顧みなくなった。義母が元気な時と同じように遊び歩き、愛人を作った。夫は出張の多い仕事だからなかなか家に帰れなくてごめんなと言っていたが、それは真っ赤な嘘。実際は愛人のところに入り浸るようになり、私と義母は二人だけで生活するようになった。 義母は自分の息子に呆れ果て、家族で幸せに暮らすことをずっと望んでいた。だが、それはもう無理だと、十年という年月を経て私も義母も諦めた。 そして迎えた土曜日。弁護士の福田と申します。以後、お見知りおきを。 夫が私の浮気相手と誤解した年下の弁護士が、うちにやってきた。 とはいえ、お前はあくまで嫁なんだからな。嫁は相続できないんだよ。 夫が得意げに言い出す。そんなことは分かっている。 私は逆に、特別清量って知ってる? と夫に聞いた。 え? 特別って何だって? … Read more

14 September 2026

手術室の扉が閉まる瞬間、二十年前に長野で救った患者の娘が、震える手で一通の古い封筒を差し出してきた。「父が、手術の前に先生へ渡してほしいと」。角のすり切れたその封筒には、鉛筆の掠れた文字で俺の名前が書かれていた。それを見た瞬間、指先が止まった。俺はこの二十年、「失敗をしない男」と呼ばれながら、誰よりも失敗を恐れて手術台に立っていた。なのに、その日はどうしても集中できなかった。滅多に崩れない手…

手術が終わり、手袋を外した。廊下に出ると外はもう昼を過ぎていた。窓の向こうで桜の枝が揺れている。今年も咲いたのかと思った。そういえばここ何年か桜を見上げた覚えがない。 俺の名前は田所正雄。五十歳。中央医療センターの心臓外科部長だ。院内では「失敗をしない男」と呼ばれているらしい。本人としてはありがたくもなく、迷惑な呼び名だと思っている。失敗をしないのではない。失敗を許されないだけだ。 医局に戻るとデスクの上に書類が山になっていた。学会の招待状、新人指導の予定表、手術記録。椅子に腰を下ろした瞬間、扉が静かに開いた。 「お疲れ様です」 神谷だった。心臓外科の若手で三十二歳。無駄口を一切叩かない。それでいて手術中の判断は速い。俺は彼の腕を密かに買っていた。ただ一つ気になることがある。こいつは俺をじっと見ることが多い。仕事として観察しているのとは少し違う。何かを確かめるような、そんな目つきをすることがある。 「部長、午後の症例検討会、お時間大丈夫ですか」 「ああ、行く。資料は揃っているか」 「こちらに用意してあります。それと、委員長から伝言です。検討会の後、来てほしいと」 「分かった。ご苦労」 神谷は軽く頭を下げて出ていった。扉が閉まった後、俺は資料を手に取りながらぼんやりと考えた。委員長からの呼び出しは、いつもろくな話じゃない。 会議室には十人ほどの医師が集まっていた。スクリーンに映し出されたのは一枚の心臓のCT画像。俺はそれを見た瞬間、軽く前のめりになった。冠動脈の状態がひどい。弁膜にも問題がある。おまけに心筋の一部が薄くなっていた。教科書通りの手術ではまず助からない。 「患者は野村光一さんです。心不全症状が進行しており、現在は内科的治療でなんとか維持している状態です。手術の判断を田所部長にお願いしたいと」 会議室の視線が一斉に俺に集まる。俺は画像をもう一度見た。この症例の成功例はほとんどない。 「検査データをもう一度全部出してくれ。それと、家族には病状の重さをきちんと伝えているのか」 「はい、娘さんには何度か説明してあります。本人も覚悟はできているようです」 覚悟か。その言葉が少し胸に引っかかった。覚悟というのは患者がするものじゃない。患者はただ生きたいと願うものだ。覚悟をするのは医者の方だ。 「手術は引き受ける。準備に入ってくれ」 会議室がわずかに緊張した。 検討会の後、俺は委員長室に向かった。扉をノックすると低い声が返ってきた。 「入ってくれ」 委員長の山本精一はデスクの向こうで茶を飲んでいた。五十八歳、現実主義の塊のような男だ。経営と実績。その二つが彼の言葉のすべてを支配している。 「野村さんの症例、引き受けてくれたそうだな」 「ええ、他にできる者もいませんから」 「君ならやれる。私は信じている」 「信じる、ですか」 「ああ。今回の手術が成功すれば、うちの病院は全国に名が通る。心臓外科の実績で上位に食い込めるんだ」 俺は黙って茶を見つめた。 「君にプレッシャーをかけるつもりはない。ただ、君の腕を信じているということだ」 「承知しました」 それだけ言って俺は委員長室を出た。廊下を歩きながら、胸の奥に重いものが残っていた。「信じている」という言葉ほど医者を縛るものはない。失敗は許されないと言われているのと同じだ。 その日の夕方、俺は野村光一の病室を訪ねた。ベッドの上で白髪の男が穏やかに笑った。 「田所先生ですか。お噂は伺っております」 「明日からは私が担当します。少しお話を伺ってもよろしいですか」 「もちろんです。こんな年寄りに付き合ってくださってありがとうございます」 野村光一は思っていたよりも穏やかな人だった。顔色は悪い。息も浅い。それでも目だけはしっかりしている。ベッドの横には娘らしい女性が座っていた。野村秋。三十五歳。父親の手を両手で包むようにして握っていた。 「先生、私はね、もう十分生きました。だから、もしダメでも恨んだりしませんから」 「そういうお話はまだ早いですよ。手術はこれからです」 「ええ。ただ、娘にね、心配をかけたくないんです」 秋がゆっくりと顔を上げた。俺の目をまっすぐに見る。 「田所先生、父をお願いします。父は私のたった一人の家族なんです」 「全力を尽くします。お約束します」 「先生、一つだけ伺ってもいいですか」 「どうぞ」 「先生は昔、長野の小さな病院にいらっしゃいましたか」 その言葉に俺の手が一瞬止まった。長野。二十年以上前、俺がまだ駆け出しだった頃の話だ。無償で手術をしていた時期があった。誰にも話していない過去の自分。 「ええ、確かにいました。なぜですか」 「父が昔、よく話していたんです。長野で、どういう若い先生に命を救われたって。先生はもう覚えていらっしゃらないかもしれませんが」 野村がベッドの上で小さく頷いた。俺はその顔をじっと見た。記憶の中の、誰かの顔と重なるような気がした。だがはっきりとは思い出せない。 「先生、あの頃の先生にもう一度会えるとは思いませんでした。お元気そうで何よりです」 声が自分でも驚くほど低かった。 病室を出る時、俺は廊下で一度立ち止まった。長野の冬をふと思い出した。雪に埋もれた小さな診療所。何のために医者になったのか、まだ自分の中でしっかりしていたあの頃。廊下の向こうから看護師の栗原が歩いてきた。彼女は俺の顔を見て少しだけ立ち止まった。 「先生、お顔の色がいつもと違いますよ」 「そうか。気のせいだろう。少し疲れただけだ」 「無理はなさらないでくださいね」 俺は軽く頷いて医局へ戻った。二十年前の自分が今の自分を見ていたら、何と言うだろう。そんなことを、らしくもなく考えてしまった。 … Read more

14 September 2026

義理の妹が私に喧嘩を売ってきたのは、本当に何気ない午後のことだった。私は和波と結婚して三年、三十五歳の主婦で、夫の亮一は義父が立ち上げた岐阜の会社を任されている。義両親とは同居して良好な関係を築いていたし、家事全般を引き受ける私に義母はいつも感謝してくれていた。だから、義弟の拓巳が二十七歳の美沙を連れてきたときも、最初は祝福するつもりでいた。ところが美沙は妊娠中にもかかわらず、私の前でこう言…

姑のいう“お芝居ごっこ”が始まったのは、義理の妹が私に喧嘩を売ってきたときからだ。それまでは、何の問題もない平和な生活を送っていた。私は和波と結婚して三年になる三十五歳の主婦だ。夫の亮一は一つ年上で、現在岐阜の会社を任されている。義父が立ち上げた会社で、地元で愛される優良企業だ。私は会社の仕事には一切タッチせず、将来を見据えて法律の勉強をしている。 私と義両親の関係は良好だった。結婚後すぐに同居を始めたが、義父は今ではほとんど会社に行かず、友人や知人との交流を楽しんでいる。義母は一日中会社で経理を担当しているから、私が家事全般を引き受けることに非常に感謝してくれていた。亮一には三歳上の姉と二歳下の弟がいるが、義姉は結婚して夫と共に義父の会社の子会社で働いており、義弟は友人の会社に就職して実家を出ている。私とは接点がなかったから、何の問題も起きなかった。 そんな平和な生活が脅かされるようになったのは、義弟の拓巳が二十七歳の美沙と結婚してからだ。彼女は結婚するときにはすでにお腹が大きくなっていて、結婚から二か月後に男の子と女の子の双子を出産した。私と亮一には子供がいない。義両親も義姉夫婦も知っているが、夫の方に問題があるのだ。 それを知らない美沙が、自分たちの方がずっと会社の後継ぎとしてふさわしいと言い出した。最初に美沙は私にこう質問してきた。 「お姉さん、もう三十過ぎなのに子供いないんですよね。なんでですか」 正直、これまでにも周りから「お子さんはまだ?」とか「会社の後継を生むのが長男嫁としての役目でしょ」と言われ続けてきたから、その手の話にはうんざりしていた。もちろん私は夫との間に子供が望めないことを承知の上で結婚したから、外野の言葉は笑ってやり過ごしてきた。 だから、いつも通りに私は美沙に「まあ、こればかりは神様にお任せだから」と曖昧に答えた。すると美沙が突然、直球でこう言ってきた。 「お姉さんって、女としても妻としても欠陥品ってことですよね。それに比べて私は男の子も女の子も産んだんですから、私たち夫婦の方が後継ぎになるべきだと思いませんか」 夫の拓巳も「亮一さんが会社を継ぐのは納得できない」と言っているらしい。 「お姉さんから亮一さんに、今の立場を夫に譲るよう話してもらえませんか」 美沙に詰め寄られて、私は驚いた。そんなこと、私が口出ししていい話ではない。どうしても次期社長になりたいというのなら、自分たちで義父に直接談判すべきだと思った。義父は会社の代表取締役のままだから、義父に話せば状況が変わるかもしれない。そう伝えると、美沙は「それが無理だから頼んでるんでしょ」と言った。 どうやら拓巳は若い頃かなりやんちゃをしていて、地元での評判が非常に悪いらしい。義両親もそれを知っているから、彼らの意思で拓巳を後継にするとは考えにくい。だからこうやって私に頼んでいるのだという。 「亮一さんが会社を継いでも、その次の代はいないわけでしょ。それなら最初から拓巳が社長になればいいじゃないですか」 「だから私に言わないでちょうだい。拓巳さんが若い頃やんちゃしていたっていうなら、その汚名を挽回するよう努力するしかないでしょ」 だんだん腹が立ってきて、私は美沙にきつく意見した。彼女はむっとした表情で「わかりましたよ。見てらっしゃい」と捨て台詞を吐いて、何かを始めたようだった。 週末、美沙と拓巳が双子を連れて突然現れた。二人は出産後、ほとんど実家に来ていなかったので、義両親は大喜びだった。 「まあ、なんて可愛いんだ。私に似てるんじゃないか。ほら、この目元なんか」 正直、義父には似ていないけれど、義両親は目を細めて双子を抱っこした。拓巳はヘラヘラしながら「だろ。親父に似て、将来有望な子に育つと思うんだよな。やっぱ親父の血はすげえよな」と持ち上げている。美沙も双子に「ほら、おじいちゃんとおばあちゃんよ。これからいっぱい可愛がってくれるって」と話しかけている。 なるほど、そういう手で来たか。確かに一度信用を失った拓巳の汚名を挽回するより、孫という手で攻めた方が手っ取り早いのかもしれない。でも、多分いや絶対その努力は無駄だと思うけどな。 そう思っていると、美沙が私を見てニヤリと笑った。 「お父さん、私この子たちをお父さんのような立派な人に育てたいと思ってるんです。これからちょくちょくこの子たちを連れて、お父さんの立派な姿を見させてあげたいんですけど、いいですか?」 生後数か月の赤ちゃんに見せてわかるわけないでしょう。そう思ったが、義父は思いのほか喜んで快諾した。調子に乗った拓巳が、今度は猫撫で声でおねだりを始めた。 「親父、俺たち子供がいきなり二人もできて、生活がかなり苦しいんだよな。今の会社は薄給でさ。可愛い孫のために、これから少し援助してくれないかな」 孫にデレデレの義父から、ちゃっかり毎月十万円の援助を約束させてしまったのだ。義母と夫は複雑な表情でその様子を見ていた。 後で義母に聞くと、昔は拓巳のやんちゃの後始末で義母や義姉が謝罪に走り回ったそうだ。真面目で努力家の義姉は、自分と正反対の性格の美沙と拓巳の結婚に大反対したらしく、義母はその意見を聞かなかったことを少し後悔しているようだった。 「お姉ちゃんもこの前言ってたけど、どう考えてもあの夫婦が子供をまともに育てられるとは思わないわね。それに、双子の世話を押し付けられるんじゃないかってぞっとしちゃったのよ」 「確かにそうですね」 「お姉さん、のんきなこと言ってる場合じゃないわ。あの双子を平日に連れてこられたら、面倒を見るのはあなたなのよ」 そうだった。子供を育てたことがない私が、まだ生まれて数か月の赤ちゃんの世話をきちんとできるわけがない。でも、いくらなんでも美沙がそんな私に双子を預けることはないだろう。そう思ったのだが、その予想は見事に裏切られた。 「お姉さん、多分もう子供産めないでしょ。せっかくだから疑似体験させてあげますよ」 数日後の午後、美沙はまだ生まれて半年程度の赤ん坊二人を実家に連れてくると、なんと自分だけ外出しようとしたのだ。 「あんたね、非常識にも程があるわ。この子たちに何かあったらどうする気なの?」 思わず怒ると、美沙は嬉しそうに言った。 「その時には全部お姉さんが悪いって言いますよ。『長男の嫁がこれじゃお母さんがかわいそう』ですってね」 その言葉を聞いて、私は完全に切れた。 「自分の子を、あなたたち夫婦の悪巧みのために利用するっていうの? いい加減にしなさいよ」 「はあ? 物の言い方に気をつけてくれます? 本当にお母さんやお父さんかわいそうじゃないですか? あなたみたいな不妊が長男の嫁で、次の代で会社がなくなるなんてね」 「なんでなくなるって決めつけるのよ」 「そっちこそ何もわからないこと言ってるんです。長男の亮一さんに子供がいないんだから、亮一さんが社長になったら次の代はないでしょ」 「他の人が社長になるわよ」 「絶対させませんから、そんなこと」 美沙はそう言うと、本当に赤ちゃん二人を置いて出て行ってしまった。 どうしよう。確か義母は今会社の決算で超忙しいと言っていた。夫に連絡しようか。でも亮一だって子育て経験はゼロだ。彼は自分のせいで私が妊娠できないことを、これまで何度も謝ってきた。そんな彼に赤ちゃんのことを相談していいんだろうか。悩んでいると、赤ちゃん二人がほぼ同時に泣き出した。 驚いた義父が二人をあやそうとしたけれど、どうにもならない。そうだ。義姉は子育て経験がある。そう思い出し、私が急いで義姉に連絡を取ると、彼女は飛んできてくれた。 夜の十時過ぎ、酔っ払って帰ってきた美沙を待っていたのは、私と夫、義両親、義姉だった。義姉は別室で双子が起きないように見ていてくれている。 「ど、どうしたんですか、皆さん? お揃いで」 ビビる美沙に、義母がなぜ子供を置いて七時間も外出していたのか聞いた。 「ああ、そのことですか。お姉さんがどうしても預かりたいって、私を追い出したんです。最低ですよね」 スラスラと嘘をつく美沙に、亮一が言った。 「昼間のお前と妻の会話、全部聞かせてもらったよ。俺の嫁を随分こき下ろしてくれてたな」 … Read more

14 September 2026

駅前のファミレスで、見知らぬ若い女が私の前にスマホを突きつけてきた。「幸さんが私のために二億円もする豪邸を建ててくれるんです。あなたの時は賃貸でしたよね」。画面には建築途中の巨大な家。私は息が止まった。あの博幸さんが、そんなことができるはずがない。でも彼女は私がショックを受けたと勘違いしたのか、さらに畳みかけてきた。「こんなおばさんより若くて可愛い私の方が愛されて当然ですよね」。夫に豪邸なん…

「幸さんが私のために二億円もする豪邸を建ててくれるんです。あなたの時は賃貸でしたよね」 元夫・博幸さんの再婚相手だという南さんに呼び出され、駅前のファミレスに行くと、彼女はそう言ってスマホの画面を見せてきた。そこには広い土地に建築途中の豪邸が写っていた。私は思わず息を呑んだ。あの博幸さんがそんなことをできるはずがない。けれど南さんは、私がショックを受けたのだと勘違いしたらしかった。 「これは私と博幸さんが一緒に住む家なんですよ。あなたの時はこんなことしてくれませんでしたもんね。ショックを受けて当然ですよ。でも、こんなおばさんより若くて可愛い私の方が愛されて当然ですよね」 夫にそんな豪邸が建てられるはずがない。だって夫は…… 私の名前は恵美子、専業主婦だ。夫の博幸さんはこの地域では名の知れた開業医で、自分で言うのも何だが裕福な生活をさせてもらっている。博幸さんとは婚活パーティーで知り合った。私の両親は自分たちが貧しい生活を送っていたからか、私の結婚相手は高収入の人しか認めないと言っていた。そのせいで自由な恋愛ができず、二十五歳を過ぎた頃、私は半ば諦め気味でそのパーティーに参加していた。そこで博幸さんから熱烈なアプローチを受け、付き合うことになった。最初は本当に優しくて真摯で、まさに理想の男性だった。博幸さんは私より十三歳も年上だったが、両親は娘の私が玉の輿に乗ったと心底喜んでいた。私もそんな両親を見て、親孝行ができたと嬉しくなった。結婚式も盛大に行い、これが世間で言う女の幸せかと、当時は本気で思っていた。 しかし結婚前は優しかった博幸さんは、月日が経つごとに徐々に高圧的になっていった。博幸さんは仕事の不満をぶちまけるように、何かと家事に文句をつけてくる。この前は夕食が食べたいメニューではなかったというだけの理由で、目の前でゴミ箱に捨てられた。お風呂は三色以上彩りよく栄養バランスも整っていないと怒られる。掃除においても、埃がほんのちょっと棚に乗っていただけで大激怒。数十分以上怒鳴られることも珍しくなかった。 そんな博幸さんの態度に、私は日に日にストレスを溜めていった。それが原因なのか、最近私は不眠に悩まされている。ベッドに横になってもなかなか寝つけず、気づいたら朝を迎えていることもしばしばだ。安眠グッズや音楽など試せるものは全て試したが、全く効果がない。その横で博幸さんはいびきをかいてぐっすり眠っているから、余計に腹が立つ。博幸さんがそばにいるから緊張して眠れないのだと思い、私は博幸さんのいない昼や夕方に寝るようにしてみた。しばらくはそれでうまくいっていたのだが、うっかり寝すぎてしまい、私が起きるより先に博幸さんが帰ってきてしまったことがあった。その時の博幸さんの剣幕が忘れられず、以来私は昼や夕方に寝ることをやめた。 さすがに我慢の限界だと思い、両親に電話をしたこともある。しかし両親は私のことより、博幸さんからの仕送りが途絶えることの方が問題だったようで「うまくやっていきなさい。少しくらい目をつぶってやれ」と、私を心配するそぶりもなかった。味方だと思っていた両親にも見放され、ストレスが限界まで溜まっていた私は、ついに体調を崩してしまった。夕飯の買い物に行く途中、急に頭がクラクラして、私はしゃがみ込んでしまったのだ。さらに人通りの多い場所で動けなくなってしまったことでパニックになり、涙が止めどなく溢れてくる。助けを呼びたくても、うまく呼吸ができない。 「大丈夫ですか? よかったらこれ使ってください」 みんなが私を避けて素通りしていく中、声をかけてくれた男性がいた。男性はスーツをピシッと着こなした好青年で、綺麗にアイロンがかけられたハンカチを渡してくれた。その上、過呼吸になっている私の背中をさすり、落ち着くまで一時間近くそばにいてくれたのだ。 「助けていただきありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 「当然のことをしたまでですよ。落ち着いたようで安心しました」 「もしよければ、今度お礼をさせていただけませんか?」 「お礼だなんて、そんなお気になさらず」 そう言って男性は優しく微笑んだが、私が食い下がると後日食事をすることになった。翔太さんと言い、私より二歳年上だった。その日は連絡先を交換して別れた。博幸さんには買い物をしてこなかったことを怒鳴られたが、その日は機嫌が良かったおかげで、出前を取ることを許可してくれた。私たちの間に子供がいれば何かが変わったのかもしれないが、博幸さんは子供嫌いのため、子供を作る気持ちは到底ない。私も博幸さんと子作りをすることなど考えたくもないし、こんな家庭環境で育つことを考えると、子供がいなくて良かったと思う。この奴隷のような生活から、私はいつ解放されるのだろうか。 数日後、私は翔太さんと待ち合わせたイタリアンレストランに向かった。 「恵美子さん、お久しぶりです。今日はありがとうございます」 「こちらこそ、お時間を作っていただきありがとうございます」 「ここ前から気になってたんですけど、男一人で入るのは勇気が必要で」 そう言って翔太さんは少し照れたように笑っていた。その姿が結婚前の博幸さんと重なり、私は少し懐かしくなった。私は結婚前、商品開発部で働いていた。自分の開発したもので周りの人が笑顔になっていくことが嬉しくて、休みの日にも仕事のことを考えるほど仕事が大好きだった。最初は博幸さんも、仕事を頑張っている恵美子が好きだと言って応援してくれていた。しかし医者の嫁なのに働いているのは世間体が良くないらしく、結婚して早々に仕事を辞めることになってしまった。 そんなことを思い出しているうちに、次々と料理が運ばれてきた。料理はどれもおしゃれで美味しくて、翔太さんにすっかり心を許した私は、気がつけば自分のことをぽつぽつと話し始めていた。仕事を続けたかったこと、不眠のこと、博幸さんとの生活から抜け出したいこと。どれも暗い話ばかりだったが、翔太さんは何も言わずに最後まで話を聞いてくれた。話をしたことで、私の心はすっと軽くなった。また助けてもらってしまったな。 食事が終わり、お会計をしようとすると、いつの間にか翔太さんが済ませてくれていた。 「お礼のために来ていただいたのに、おご馳していただいては困ります」 「この店についてきてくださっただけで私は満足です。それと旦那さんの件ですが、あなたがそこまで我慢する必要はないと思います。もっと自分に正直に生きてみてもいいと思いますよ。また何かあったらいつでも連絡してください。待ってますから」 「自分に正直に」という言葉に、私は心臓を掴まれたような感覚になった。そうだ。私はずっと両親や博幸さんの顔色を伺い、自分の気持ちに蓋をして向き合おうとしていなかった。できないと、やる前から諦めていたのだ。私は本当はどうしたい? このままあの人の言いなりになって自分を殺して生き続けるの? それはごめんだ。翔太さんの言葉で、私は博幸さんと離婚することを決意した。 その日の夜。 「おい恵美子、今日の飯はまだか?」 「今日は作っていないわ。そんなことより、これにサインして」 そう言って離婚届を突きつけると、案の定博幸さんは大激怒した。 「俺と離婚するつもりか? 今まで誰のおかげで生活できてきたと思ってるんだ。俺の経歴に傷をつけるつもりか」 「何を言われても私の気持ちは変わらないわ。今までお世話になりました」 「お前の両親はどうするんだ? 俺の仕送りがなくなれば、また貧乏に逆戻りだぞ」 「そもそも私の両親があなたに仕送りしてもらってることがおかしいのよ。お金なら働いて稼げばいいわ」 「もういい。勝手にしろ。仕事のないお前がどうやって生活していくのか見物だがな」 そう言って怒りに任せて、博幸さんは離婚届にサインをしてくれた。これでやっと解放される。私はこれからの生活の不安よりも、この生活から自由になれる安堵を感じていた。 両親には会って話したいことがあると電話をし、翌日会うことになった。翌日、私は荷物をまとめて離婚届を提出し、両親の待つカフェに向かった。 「二人ともお待たせ。あのね、私、離婚したの」 「え、ちょっとどういうこと?」 「何よ、馬鹿なことを。博幸さんは医者なんだぞ。離婚したら俺たちの生活が成り立たなくなるじゃないか。どうしてくれるんだ」 「だから何? 私が前に相談した時も、私の心配なんて全然してくれなかった。口を開ければお金、お金って。そんなにお金が必要なら、働いて稼げばいいじゃない。私は二人にとって何なの? 金づるとしか思われていないのなら、もう私に二人は必要ない。二度と連絡してこないで」 そう言って私は席を立った。親不幸だと思われたっていい。後ろで何か言っているのは見えているが、もう気にしない。あの人たちはもう他人なんだから。 新居に戻ると、私はそのまま床に倒れ込んだ。博幸さんと離婚してすぐは、緊張の糸が溶けたのか何もする気にはならなかった。少し落ち着くと、今までできなかった自分のための買い物やヘアカットを楽しんだ。一日中何もしなかったり、映画を見続けたりしたこともある。以前の私なら考えられないほど堕落した生活を送っていた。しかしそうやって自分に正直に、ゆっくり体と心を休めたことで、私は少しずつ元気を取り戻した。 しばらく経ったある日、知らない番号から何度も着信があった。あまりにもしつこかったため出てみると、なんと相手は博幸さんの再婚相手だった。 「ああ、やっと出た。博幸さんの元奥さんですよね。私、南って言います。博幸さんのこと色々教えて欲しくって、今度会いましょうよ」 妻にそんな連絡をしてくるなんて、どういう神経をしているのかと頭に来た私は、そのまま無言で電話を切り、すぐに翔太さんに相談した。私は会うつもりなどさらさらなかったのだが、なぜか翔太さんが一緒に行きたいから会ってほしいと私に頼んできたのだ。乗り気にはなれなかったが、恩人である翔太さんの頼みを断れるはずもなく、私は翔太さんと一緒に南という女に会うことにした。待ち合わせは明後日の昼、駅前のファミレスとのことだった。 私たちが到着して数分後、南さんがやってきた。 「え、思ったよりおばさんじゃん。受けるんですけど」 初対面で最初の言葉がそれかと呆然としていると、翔太さんが淡々と自己紹介を始めた。 … Read more

14 September 2026

「派遣は黙れ。女に科学プラントの何が分かる。今日で終わりだ」…

「派遣は黙れ。女に科学プラントの何が分かる。資格が二百あっても所詮は現場を知らない外の人間だ。今日で終わりだ」 坂木原室長の声が制御室に響き渡った。藤沢彩佳は静かに帽子を脱いだ。反論はしなかった。ただ一度だけ、稼働中の反応炉のモニターに目をやり、小さく息を吐いた。 「第三系統の冷却の早朝手動補正だけは、もういい。出ていけ」 彩佳は言いかけていた言葉を飲み込み、制御室を出た。その背中を坂木原は鼻で笑って見送った。 翌朝、事業所の全プラントが一斉に停止した。非常ベルが赤く点滅する制御室に駆けつけた技術者たちは、すぐに気づいた。このプラントを法的に動かせる資格を持つ者が、もう一人もいないことに。そして、誰も暴走し始めた第三系統の止め方を知らないことに。 張間事業所の朝は午前六時に始まる。彩佳はいつも始業の一時間前に事業所へ入った。誰もいない制御室で、前夜の運転記録に目を通す。第三反応炉の温度、第一系統の圧力、排水槽のpH。数十の数値を、彩佳は胸ポケットの黒い手帳と静かに見比べていく。 数値のわずかな傾きに気づくと、彼女は現場へ降りて自分の手でバルブを数ミリだけ回した。それは誰に指示されたことでもない。彩佳が三年間、毎朝続けてきた習慣だった。派遣社員の彩佳に、席らしい席はなかった。制御室の隅、点検表を挟んだクリップボードが置かれた折りたたみ机が彼女の場所だった。会議に呼ばれることはない。正社員たちが交わす報告の輪に彼女が加わることもない。朝礼で名前を呼ばれることさえ、ほとんどなかった。 それでも、現場の保安係員たちだけは知っていた。彩佳が現場を回った日は、なぜか一日中警報が鳴らないということを。 「藤沢さん、第二系統の排ガス、ちょっと数字が変で」 若い運転員が困った顔で近づいてくる。彩佳は手帳を閉じ、静かに立ち上がった。 「触媒の劣化が始まってる。今のうちに切り替えれば、止めずに済むよ」 彼女は工具も持たず、モニターの前に立っただけで原因の見当をつけた。運転員がほっとした表情を浮かべる。こういう場面がこの工場では一日に何度もあった。けれど、その一つ一つを彩佳が支えていることを、上層部の誰も知らなかった。彼らにとって彩佳は、制御室にいる派遣の子でしかなかった。名前も、資格も、この三年で防いだ事故の数も、誰も数えようとはしなかった。 その男が着任したのは、桜が散り始めた四月のことだった。坂木原誠。経営効率化推進室長。本社直属で、張間事業所のコスト削減を任された男だ。着任初日の全体会議で、坂木原はいきなり資料を掲げた。 「この事業所は保安コストが同業他社の一・八倍。はっきり言って金の使い方が古い。点検の頻度も保安要員の数も、全部見直します。特に外部委託と派遣。ここは真っ先に切れる」 現場の空気が一瞬で凍りついた。彩佳は制御室の隅で、その言葉を静かに聞いていた。会議の後、彩佳は課長に一枚の資料を差し出した。 「室長、第三系統の冷却系統だけは点検頻度を下げないでください。ここは」 坂木原は資料を受け取りもせず、彩佳の顔を見た。 「君、派遣だよね」 「名前は藤沢です」 「藤沢さん。派遣の人が経営判断に口を出すのは、契約の範囲外じゃないかな」 周囲の正社員が気まずそうに目をそらした。彩佳は資料を静かに引っ込め、頭を下げて下がった。 その夜、彩佳は運転記録を確認しながら、ある数字に手を止めた。先月の排水pHの記録が、あるべき値よりわずかに整いすぎていた。現場の数字はいつも少し暴れる。母の口癖通り、プラントは正直だからだ。なのに、この一週間の記録はまるで定規で引いたように滑らかだった。彩佳は手帳に、その日付だけを小さく書き留めた。 理由はまだ分からなかった。ただ、数字が綺麗すぎる時、現場では決まって何かが隠されている。母からそう教えられていた。彩佳は動かなかった。坂木原に逆らうこともなく、かといって手帳を閉じることもなかった。ただ、観察をいつもより深くしただけだ。 彼女は毎晩、第三系統の冷却データを追い続けた。この系統は反応体向けの特殊樹脂を二百度を超える高温で反応させる。冷却がわずかでも遅れれば、内部の圧力が一気に跳ね上がる構造だった。三十年前に造られた古い系統に、十年前の自動制御が継ぎ足され、三年前には海外製のクラウド監視が載せられている。三つの世代の異なる制御が一つの系統の上で複雑に絡み合っていた。そのつなぎ目にずれが生まれ始めていることを、彩佳は数字で知っていた。冷却ポンプの応答が、コンマ数秒ずつ日に遅れている。自動制御はまだその遅れを検知できない。だから彩佳は毎朝始業前に手動で補正していた。昼にもう一度、バルブをほんの少し回すだけ。たったそれだけで、装置は静かに回っていた。けれど、そのたったそれだけを彼女以外の誰も知らなかった。 彩佳は一度、正式な報告書を書いたことがある。冷却系統の更新を求める八枚の文書だ。だが提出先の生産課長は、坂木原の顔色をうかがって引き出しにしまい込んだ。 「藤沢さん、これは今は出せない。課長がコスト削減で神経を尖らせてるから」 彩佳はそれ以上食い下がらなかった。代わりに、手帳の一番新しいページに一行だけ書いた。第三冷却ポンプの遅延、限界まであと数ヶ月。母が残したこの手帳には、二十年分の予兆が記されている。そのどれもが、現場が牙をむく前の静かな前触れだった。 六月に入り、坂木原の改革は加速した。第三系統の月次点検が、コスト削減を理由に隔月へと減らされた。保安要員の夜勤も二人から一人に削られた。現場から不安の声が上がるたび、坂木原は同じ言葉で押し切った。 「数字で語ってくれ。事故が起きた実績データはあるのか」 事故が起きていないのは、彩佳が毎朝止めているからだ。だが、その事実はどこにも記録されていなかった。 ある朝の朝礼で、彩佳はついに口を開いた。 「第三の冷却系統は、このままでは秋までに危険領域に入ります。せめて点検だけは戻してください」 坂木原は社員全員の前で笑った。 「また君か。派遣の子が毎朝何をそんなに心配してるのか知らないけどね」 彼は少し声を落として続けた。 「聞いたよ。君の母親も昔ここで保安係をしていて、事故を起こして辞めたそうじゃないか。血筋かな」 制御室の空気がピンと張り詰めた。彩佳の指先が手帳の上でわずかに白くなった。それでも彼女は顔色一つ変えなかった。 「母は事故を起こしていません。記録には残ってます」 「まあ、派遣の身分でそこまで会社を心配しなくていいよ」 その場にいた係員の谷口が拳を握りしめて一歩踏み出した。だが彩佳は目でそれを静かに制した。朝礼が終わり、人がばらけた後、谷口が押し殺した声で言った。 「藤沢さん、あの事故はな、直子さんが起こしたんじゃない。その人は」 「谷口さん」 彩佳は静かに遮った。 「今はいいんです。口を塞がないことの方が先だから」 谷口は言葉を飲み込んだ。その横顔に、二十年前の直子と同じ静かな覚悟を見た気がした。 若手運転員の名は西野航太といった。二十四歳、入社二年目。有名大学の理工学部を出て、期待されて配属されたエリート正社員だ。西野は最初、彩佳のことをただ制御室にいる派遣の人だと思っていた。だがある夜勤で、考えが変わった。第二系統の圧力系が深夜に不気味な揺れ方をした。マニュアルを開いても、原因の項目がどこにもない。パニックになりかけた西野に、彩佳は静かに一言だけ告げた。 「それ、計器の故障じゃないよ。上流の配管が詰まりかけてる。今のうちに手を打てば止めずに済む」 言われた通りに動くと、警報が鳴る寸前で系は元に戻った。その夜から、西野は彩佳を見る目が変わった。彼はやがて気づいてしまう。この工場がなんとなく無事に回っているのではない。一人の派遣社員が、誰にも気づかれず毎日その無事を作り出していることを。 「藤沢さん、なんで言い返さないんですか」 ある休憩時間、西野は思わず口にした。 「あんなに資格を持ってて、あんなに現場が分かってて、なんで課長にあそこまで言われて我慢してるんですか」 彩佳は自販機の缶コーヒーを両手で包んだまま、少し笑った。 「言い返して設備が止まるなら、いくらでも言い返すよ。でも西野君、私が声を上げて誰かと揉めてる間に現場で警報が鳴ったら、頭を下げるのは客先に納品してるあなたたちだよ」 西野は言葉を失った。この人は自分のためには一度も怒らない。現場のため、現場の仲間のためにだけ静かに立っている。その横顔を見て西野は思った。いつかこの人の本当の姿をみんなが知る日が来ればいい、と。 彩佳がこの張間事業所を選んだのは、偶然ではなかった。三年前、派遣会社から複数の勤務先を提示された時、彼女は迷わずここを選んだ。母、藤沢直子が二十年前まで保安係として働いていた工場。母は彩佳が六歳の時、工場を辞めたとだけ言って、二度とその理由を語らなかった。母は昼はスーパーのレジに立ち、夜は彩佳が寝た後もあの黒い手帳を開いていた。 … Read more

14 September 2026

定時直前、部長が俺を呼び出した。「まさかお前、残業代稼ぎが目的か」。その一言で、八年間黙って工場を支えてきた時間が、音を立てて崩れた。機械のトラブルを誰も直せず、メーカーすら匙を投げた時も、俺は図面と音だけで原因を突き止めた。人手不足の中、限られた人間でラインを回し続けてきた。同席した工場長は俺を庇ってくれたが、部長は聞く耳を持たず、挙げ句「金目当ての無能は消えろ」と言い放った。事務所を出た…

まさかお前、残業代稼ぎが目的か。視察にやってきた部長が俺に言い放った。思いがけない言葉に驚きつつ、俺は必死に反論した。同席してくれていた工場長も味方になってくれたが、部長は聞く耳を持たない。ついには生き過ぎた発言にまで発展し、俺の長年蓄積してきたものが一気に破裂した。 俺の名前は風、五十歳だ。機械系の製造会社で技術者として働いてきたが、八年前にある工場に移動した。技術主任として、部品を製造するための専用機械の調整やトラブル対応をしている。人手不足で専門的な知識のある人間に行ってほしいと頼まれたことと、個人的な事情が重なって移動を承知したのだ。 以前、こんなことがあった。専用の製造機械が原因不明の停止を繰り返し、若い技術者たちが何日調べても解決できなかった時期がある。俺は図面と実際の稼働音を突き合わせ、制御プログラムのわずかなタイミングのずれが原因だと突き止めた。メーカーの担当者ですら首をひねっていた不具合だ。以来、工場長は「風さんがいれば大抵のことはなんとかなる」と冗談混じりによく言うようになった。自分で言うのもおこがましいが、この工場の生産ラインは俺の経験と勘に支えられている部分が少なからずあるのだと思う。 うちの工場ではここ数年、地元の大手自動車メーカーから依頼された自動車部品の製造が増えていた。どうやらうちの会社を気に入ったようで、取引回数が増えているらしい。働く身としてはいい話に聞こえるが、現場からすればそれは単純に仕事量が増えるということだった。俺が工場にやってきてから八年間、今でも工場は慢性的な人手不足だ。俺は技術者として今でも何かと残業を余儀なくされることも多い。実際には帰ってもいいのだろうが、対応できる人間が限られているとなると、放り出して帰るわけにはいかない。 工場長が本社に何度も人員増強を掛け合ってくれたが、その度に「検討します」とか「予算が」とか言うて、うやむやにされてきたと聞いている。工場長自身も自分の仕事の合間を縫って残業する俺や同僚を率先して手伝ってくれているため、文句を言う気にはなれなかった。専門的な調整などはさすがに任せられないが、工場長なりに俺たちの負担を減らそうと行動してくれているのだろう。ここ数ヶ月はある事情のせいで特に残業時間が跳ね上がっていたが、そんな事情もあり、俺は不満の声をあげることができなかった。忙しいのは今だけだ。そう言い聞かせて仕事をしてきたのだ。 そんなある日、休憩中に工場長とこんな話になった。近いうちに本社から視察が来るらしいんだ。いつもと違う工場長らしくない、晴れない顔つきだ。詳しく聞いてみると、その人物は黒田といい、最近若くして生産管理部の部長になった男性だという。優秀な人なんですね。俺が言うと、工場長がため息をつく。なあ、そうらしいんだが、ちょっといい噂を聞かなくてな。黒田は典型的な数字しか見ないタイプで、とにかく無駄を嫌う。人のミスを許さず、黒田の目の敵にされた人間は徹底的に排除する傾向があるらしい。あくまで噂だけどな。でも本社から離れた工場にまで噂が回るなんて、相当だと思わないか。黒田部長に目をつけられてやめさせられた社員もいるって話だ。以前も同じような手口で若手を追い詰めて自主退職に追い込んだことがあるらしくてな。それでも止められないのは、本社の上層部に相当な後ろ盾があるからだなんて話も聞いたことがある。 工場長に言われて俺は息を飲んだ。確かにあくまで噂だが、工場長の言う通り、遠く離れた土地の工場にまで噂が回っているのは異常と言っていいだろう。それに、と不安がよぎる。慢性的な人手不足により俺を含め工場員の多くは残業を余儀なくされている状態だ。理由を知らない人間からすれば、問題視される可能性もあるだろう。俺の不安が顔に出ていたのか、工場長が苦笑した。すまない、不安になったよな。もしも何か言われても、俺が工場長として言うべきことを言うから。工場長の言葉に首を横に振る。いえ、大丈夫です。その時はこの際ですから、工場の実態を知ってもらいましょうよ。そんなに優秀な人なら、直接上層部に掛け合ってくれるかもしれませんよ。俺が少し茶化して言うと、工場長は苦笑したままそうだな、と頷いた。なるようになるさ。この時の俺はそう考えていた。その考えが甘かったと思い知るとも知らずに。 工場長との会話から半月が経過した。本社から来た黒田です。全体朝礼でスーツ姿の男性がそう挨拶する。そうか、今日が視察の日だったっけ。毎日忙しかったので日付を把握できていなかった。四十代前半くらいに見えるあたり、やはり部長としては若いのだろう。工場長の話の通り、どこか冷たそうであり、神経質そうに見える。いや、見た目で判断したら失礼だよな。俺は心の中で苦笑する。何であれ、俺は俺のやるべきことをやればいい。そう考え、俺はいつも通り作業を開始した。 全員が作業着で仕事をしている中、黒田の姿はとても目立つ。仕立ての良さそうなスーツに、高そうな腕時計がかなり浮いて見えた。工場長と何か話しているようだったが、何かと足を止めては顎を触っている。作業をしていた俺はふと視線をあげた。少し離れたところから黒田がこっちを見ていた。明らかに目があった感覚がして、俺は軽く頭を下げ、すぐに作業に戻る。視界の端で黒田が俺を指さして何か工場長に言っているように見えた。目があった時、かなり険しい表情に見えたのは気のせいだろうか。その答えはそこからおよそ一時間後に分かった。 君、悪いんだが、事務所まで来てくれないか。工場長に言われて俺は振り向いた。壁にかけられた時計がちょうど四時に入るところだ。時刻は間もなく定時を迎えようとしていた。何かありましたか。わざわざ事務所に、というところが気になり、俺は訳を尋ねた。いや、それが。工場長は晴れない、心苦しいと言った表情だ。ややあって工場長は口を開いた。実は黒田部長が風君を呼んでいてね、言いたいことがあると言って聞かなくてね。何やら険しい表情をしていた。私も同席するから来てほしい。わざわざ俺を指名。わけがわからないが、そこまで言うからには重要な話なのだろう。一瞬、さっき目があった時のことを思い出して不安になる。いや、工場長も同席してくれるのだ。そう心配する必要はないだろう。俺はそう自分に言い聞かせる。わかりました。行きましょう。俺は快く承諾し、工場長と共に事務所へと向かった。 事務所では事務系の仕事をする人たちが作業しており、奥の方に相談用の小さなスペースがある。仕事中の同僚たちの脇を通り抜け、パーテーションで区切られた場所に向かうと、不機嫌そうな黒田と目があった。全く、もう少しまともな場所はなかったのか。俺たちがやってくるなり、黒田は工場に向かって不満をもらす。足を組んで膝を揺らしていた。申し訳ございません。来客用の部屋はこの時間、清掃中でして。工場長が事情を説明すると、黒田は鼻を鳴らす。ふん。まあいい。おい、そっちのお前が風だな。はい、そうです。俺が返事をすると、黒田は資料らしき紙を取り出した。単刀直入に言う。これはこの工場の残業時間を表したものだ。全体的に残業が多いのも問題だが、か、お前のこの残業時間は何だ。ここ数ヶ月なんて残業時間が百時間を超えているじゃないか。 工場の主任クラスの人間程度が。まさかお前、残業代稼ぎが目的か。思いもよらない質問に、俺は間抜けな声を漏らした。八年間、機械の面倒を見続け、工場の生産を支えてきたという自負がある。それを金目当てだと決めつけられ、腹の底が一気に冷えていくのを感じた。じろりと黒田に睨まれ、俺は慌てて説明する。機械の調整や検品対応など、とにかく人手が足りないこと。工場長がずっと本社に増員を掛け合っていてくれたこと。それから実は特に最近は、と続けようとした時、黒田は俺の言葉を遮った。もういい。言い訳はうんざりだ。しかし君の言っていることは事実です。この工場はもう何年間も人手不足で。工場長が俺の味方をしようとしてくれたが、黒田は机を乱暴に叩いた。さっきまでキーボードのタイピング音など事務作業の音がかすかに聞こえていたが、ぴたりと音が止んだ。言い訳は結構。数字が全てを語っている。人手不足だと。きちんと工場が回っている以上、そんな言葉は通用しない。なんだその理屈は。俺はさすがに声を潜めた。ですから、それは我々が残業していたからで。なんだ、今度は恩を売るのか。自分たちのおかげで工場が成立しているとでも。馬鹿らしい。吐き捨てるような言い方で黒田は笑う。俺と工場長の顔を順に見て、黒田は足を組み直した。やれやれ。厳重注意で済まそうと思ったが、まさか言い返してくるとはな。気が変わった。金目当ての無能は消えろ。お前は首だ。上にはお前が不当に残業代を稼いでいたと報告するからな。黒田自身に首にする権限はなくとも、その報告が受理されれば自然と俺が首になる。黒田としてはそう考えているらしい。 八年間、ずっと我慢してきた。これまで何度も工場長が本社に掛け合ってくれたのを知っている。それでも結局うやむやにされて終わるのを何度も目撃してきた。だからこそ、自分が訴えたところで何も変わらないだろうとも思っていたのだ。そもそも毎日残業続きで心も体もどろどろに疲れていた。訴えるべきだと人は言うかもしれないが、それだけの余裕も気力もなかった。本気で風君が残業代目当てに残業時間を申請したと。工場長が静かに口を開く。いつも穏やかな工場長だが、表情は険しく張り詰めていた。さっきも言ったが、数字が証明しているんだ。もしや風を庇うのか。お前も残業時間が多いが、まさかグルじゃないだろうな。黒田の発言に、俺と工場長は揃って大きくため息をつく。全く話にならない。八年間蓄積し続けたものが、音を立てて破裂したような気がした。怒りが湧き上がるというよりは、むしろすっと感情が覚めたような感覚だった。この八年間、不満だけがあったわけではない。だが確実に飲み込んできたものがある。それをこの男は数字だけを見て一笑し、いたずらに俺に「首だ、消えろ」と言い放ったのだ。 工場長も同じ気持ちだったのだろう。ちらりと様子を伺うと、目を大きく見開いたまま肩を震わせている。再び黒田に視線をやると、まるで「どうだ」と言わんばかりに薄笑いを浮かべていた。ああ、この人には何を言っても伝わらないのだ。わかりました。では失礼します。今までこらえていたのが嘘のように、俺はそう言って軽く一礼する。風君。工場長が驚いたように俺を見た。俺は言葉で答える代わりに苦笑する。はあ。ちょっと言われたくらいであっさりやめるのか。情けないな。まあ残業代に頼るような人間なんていない方が会社のためだ。俺はもう何も返す気になれず、事務所を出る。事務仕事をしていた同僚たちが複雑そうな目でこっちを見ているのが分かったが、俺は足を止めなかった。 君。事務所を出てすぐ肩を掴まれる。振り向くと、工場長が息を切らせて立っている。私も決心がついたよ。工場長がそう言った時、俺は静かに頷いた。 翌日、俺はいつも通り出勤していた。やめるとは言ったものの、私物の整理や引き継ぎ業務、退職届の提出などをする必要がある。出勤早々、俺は工場長に声をかけられた。いつになく真剣な表情だった。風君、来てくれないか。工場長に連れられ、俺はある部屋の前までやってくる。そこは来客用の個室だった。中に入ると、スーツ姿の二人の男性が視界に入る。風さん、この度は本当に申し訳ない。男性のうち一人が立ち上がり、深く頭を下げた。その男性とは、うちの本社社長である。もう一人は黒田だ。 今日は確か、増産初日でしたね。謝罪に対する返答ではなく、そうぽつりと言うと、社長は勢いよく顔をあげる。今日、大手取引先である自動車メーカーの依頼の品の増産を開始するはずだった。社長の慌てようからして、何か問題が起きているのは間違いない。であれば、と俺の頭に一つの筋道が見えてくる。昨日、俺が首を宣告されたことと何か関係があるのではないか。そう考えると、社長がわざわざここに来ている理由にも納得がいく気がした。そ、そうだ。だが。社長がちらりと工場長を見る。工場長は静かに口を開いた。黒田部長とのお話の後、私はすぐに行動した。工場長の言う行動とは二つ。一つは社長への直訴だ。黒田の言動と、長年放置された人手不足について包み隠さずぶつけたという。もうやめる覚悟で言うしかない。そう思ったんだよ。もう一つは、取引先への連絡だった。担当の方に電話をすると、風さんがいなくなるなら品質保証の前提が崩れると、かなり強い口調で言われてね。 ここで、俺の残業時間が長かった理由が繋がる。今日からの増産の中核を、俺が担っていたのだ。俺は、いや、私はそんなことは知らなかった。俯いて黙っていた黒田が、動揺を隠しきれない様子で俺を睨みつける。俺はやれやれと首を横に振った。知らぬ存ぜぬは通用しませんよ。私たちは説明しようとした。なのに聞かなかったのはあなたです。私が取引先から問い合わせの報告を聞いた時には、黒田君に話を聞いていた。黒田君は「何も知らない。風君は自分から勝手にやめたんだ」と言っていたが、そこに取引先から連絡も来て、黒田はことの大きさに言い逃れができないと判断したのだろう。ついには、俺についての言いがかりを認めたという。工場長が捨て身で訴えてくれたからこそだと、俺は工場長に頭を下げる。工場長である私がしっかりしていないばかりに、風君にもみんなに負担をかけてきた。当然のことだよ。ちなみに、工場長は事務所に設置されている防犯カメラの映像を証拠として提出しておいたらしい。後半のカメラの映像には音声は入っていないが、室内では複数の人間が事務作業をしていた。ただ、この映像は補強材料に過ぎず、決め手になったのは取引先からの直接の苦情だったようだ。おそらく取引先がよほど強く本社に迫ったのだろう。たった一晩でここまで話が動くとは思わなかった。 改めて、申し訳なかった。社長は再び俺たちに向かって頭を下げる。社長が言うには、取引先からの連絡を受けて増産は一時的に中止となったようだ。先方としては、今まで信頼していた技術者の俺がいなくなることで、何か問題が発生した時のリスクなど多くの懸念点が浮かび上がったのだろう。俺と同じレベルの技術者があと何人もいれば、もしかしたら中止にまではならなかったかもしれないが、俺個人への信頼もある。結局、俺がいなければ取引先は増産を進めることを不安視していただろう。風君たちがずっとこの工場を支えていてくれたか、私は把握が甘かったと痛感している。人手不足についてもずっと放置していた。全て私の責任だ。黒田は唇を噛みしめたまま俯いている。膝を揺らし、空調が効いているにも関わらず、汗を流していた。黒田君、何をしている。君が謝罪しなくてどうするんだ。社長がそう言い放つと、黒田は弾かれるように立ち上がる。俺と工場長を交互に見て、くっと声を漏らした。明らかにプライドが高そうな人物だ。見下し、暴言を吐いた相手に謝罪をするなど、黒田にとっては耐え難いに違いない。黒田君。社長に急かされ、黒田はゆっくりと俺たちに向かって頭を下げた。とぎれとぎれに、少しずつ謝罪の言葉を口にする。この度は事情があるということも知らず、決めつけで発言してしまい申し訳ございませんでした。俺と工場長は顔を見合わせ、俺は続けた。それだけではないですよね。その場で不当に私に首だと宣告しました。この工場での八年間を、あなたは簡単に踏みにじったんです。俺が言うと、黒田は俺を睨みつける。やはり黒田は本心から謝罪しているわけではないようだ。次の瞬間、沈黙にそぐわない明るい調子の言葉が響いた。よし、これで分かったな。では互いに水に流すということにして、今度は取引先に説明を。声の主は社長だった。どうやら社長としては、俺たちが和解したと認識したようだ。きっとこの人は、いや、この会社の体制は変わることがない。俺は黙って胸元からあるものを取り出した。私はやめます。私も風君と同じ気持ちです。工場長もまた、あるものを取り出す。それは退職届だった。社長は本当に驚いたように、退職届と俺たちを交互に見る。なぜ、このまま俺たちが変わらず働き続けると思ったのか。では、失礼いたします。俺たちは揃って一礼し、部屋を出た。 その後、知り合いから聞いた話だが、黒田は左遷と田舎の工場への移動を告げられたという。プライドの高い黒田は納得できず、人事の担当者に対して暴れ、懲戒解雇になったそうだ。身から出た錆とはいえ、少しも同情する気にはなれなかった。会社そのものも、長年の人手不足を放置してきた体質が取引先や業界内に知れ渡り、信頼を落としていった。一方、俺と工場長は工場を辞めた。戻ってきてほしいと言われたが、長年変わらなかったものが急に変わるとは思えない。弁護士に労働環境について相談すると、社長からの連絡はぴたりと止んだ。そしていいこともあった。あの自動車メーカーから、二人とも是非うちに来てほしいと声がかかったのだ。待遇もよく、断る理由は見当たらなかった。忙しさは変わらないが、新しい職場の日々は充実感に満ちている。八年間、誰にも評価されなかったものが、ようやく報われた気がした。

14 September 2026